前半・後半で同じハナシが二回繰り返されるよ。たまったもんじゃねぇ!
2015年。ホン・サンス監督。キム・ミニ、チョン・ジェヨン。
予定より1日早く水原(スウォン)に到着してしまった映画監督チュンスは、時間を潰すために立ち寄った観光名所で魅力的な女性ヒジョンに出会う。一緒にコーヒーを飲んで人生を語り合い、お酒も入っていい雰囲気になるチュンスとヒジョンだったが…。(映画.comより)
おはようございます。
ある方からツイッターで410字に渡って褒めて頂きました。いえーい、ツイッター最高。ある方最高。410字のきらめきをどうもアリス。
私を褒めた人間は来世で翼の生えた何かになれますよ。つまりその方は翼確定です。どうもおめでとうございます。何に生まれ変わるのかは分からないけど、翼だけはしっかり生えてると思いますよ。それだけは自信をもって言えますね。
ちなみに私自身は翼の折れた何かに生まれ変わることが確定してしまっているんだ。そうなるともうエンジェルに全賭けしたいところです。
そんなこって「ダラッとホン・サンス週間」第二弾は『正しい日 間違えた日』。大部分の読者の無関心もどこ吹く風でホン・サンスをねっとりと語って参ります。
◆ホン・サンスは小津は似ている?◆
運命的な出会いをした男女がタイミングの違いによって異なるエンディングを迎えるまでを前半・後半の2通りの展開で描いた異色のラブストーリーである。
「あの時は正しく 今は間違い」と題された前半部は、一目惚れした女と仲良くなった男が不用意な言葉を発してしまったことで嫌われてしまう。
次に「今は正しく あの時は間違い」と題された後半部が始まり、ここでもまったく同じエピソードやシチュエーションが繰り返されるのだが、二人の言動は微妙に異なっている。
恋のパラレルワールドとも言えるユニークな設定だが、これをひたすら淡々と撮っているのがホン・サンス。
韓国映画といえば激辛ビビンバみたいな過激で即物的な作品が多いなか、サンスは極めてマイルドな小品を手掛ける作家であり、ヨーロッパでは「ロメールの再来」と謳われるほど評価が高い(主にマニア層や業界人から)。この男がいかに信頼されているかについては『3人のアンヌ』(12年)ではイザベル・ユペールが、そして『自由が丘で』(14年)では加瀬亮が二つ返事で出演オファーを受けたことが如実に物語っている。
ひとたびホン・サンスを観てしまうと他の韓国映画が観られなくなるくらい、限りなく透明な映画を撮る男だと思う。それに作風こそ違えど、その風貌からもどことなく小津を彷彿させはしまいか。するよね。小津もまた日本映画の形に逆らい、恐ろしいほど淡々とした映画を撮った男である。
そして小津とホン・サンスの映画では何も起こらないという点も類似している。
大恋愛を成就させた男女が夜景をバックに熱いキッスを交わすこともなければ、主要人物がなにか気の利いたことを言ったあとに劇的な死を迎えることもない。湿りも渇きもしないショットが淡々と織り込まれ、そこで平凡な顔をした人物たちが取り留めのないことをブツブツと呟き、ときたま酒を飲んだり煙草を吸ったりする。そんな映画である。そんな映画ってどんな映画だ。
まぁ、これからゆっくり語るから慌てなさんな。
ホン・サンスの公私に渡るパートナー、キム・ミニがまたもや主演。ええ加減にせえ。
◆景色は遮断され、人は瞬間移動する◆
大学で特別講義をおこなうために一日早く水原(スウォン)へやってきた映画監督(チョン・ジェヨン)が寺の境内で一心不乱にバナナ牛乳を飲んでいる女(キム・ミニ)に話しかけ、ぎこちなく世間話をしたあとに喫茶店に誘う。ここはワンシーン・ワンショットで撮られており、カメラはほとんど動かない。
次のカットでは喫茶店で向かい合って座る二人をフィックス(固定画面)で捉え、我々はひたすら話し続ける二人の横顔を5分近く眺めることになる。
まともな監督なら窓越しに外の風景を捉えて通行人や小鳥が横切るさまを見せるわけだが、ホン・サンスの場合は窓の近くに停められたバカでかい車によって景色そのものを遮断してしまう。
なんでそんなことするの。
それがミニマリズムの美徳だとでも言うんけ?
窓の景色を隠して奥行きを殺し、背景を遮断する。いかにもホン・サンスらしい意地の悪いショット。
女が絵描きだと知った男は図々しくも「アトリエが見たい」などと言った。そんなわけで次の舞台はアトリエに移るのだが、やはりカットがかかれば既にアトリエに到着しており、絵を描く女を近くの椅子に座った男が見守り続ける…というショットに繋げている。
次第にわれわれは、寺の境内→喫茶店→アトリエといったように「場所」だけが合目的的に示され、場所から場所に「移動」する過程がスッポリと抜け落ちていることに気づく。
このあとも物語の舞台はアトリエの屋上、寿司屋、大学構内…というふうにコロコロ変わっていくが、そこへ向かう「道中」は決して描かれない。まるで「どこでもドア」を使って瞬時に目的地へ移動しているように見えるというわけだ。
これはジャンプ・カットと呼ばれるテクニックで、時間経過をすっ飛ばして二つのショットを繋ぎ合わせる編集技法なのだが、これが実に小津的なのである。小津作品でも人物はいつも座っていて、あまり外を出歩かない。ノーモーションでA地点からB地点と舞台が変わっていく。
気がついたら寿司屋に瞬間移動している二人。そこまでして寿司が食いたいのか。
では、瞬時に目的地へ移動できる男女はそこで何を話し合っているのか。取るに足らない雑談である。
女はコーヒーが飲めない体質であることや映画はあまり観ないといった話を理由付きで説明し続ける。男の方は相槌を打ちながら酒をすすめたり「かわいいですね」と藪から棒に女のルックスを高く評価する。まるで中身のない会話。
だがホン・サンスは「恋なんてそんなもんサンス」とばかりに二人の親密な時間を引き伸ばす。長回しのフィックスで撮られた10分超えのワンショットが午睡感覚を惹起する、とてつもなく緩慢な映画である。
しかも前半・後半で同じハナシが二度も繰り返されるのだ。
たまったもんじゃないでしょう?
これを退屈と感じるか心地よいと感じるかは観る者次第。ちなみに私は前半部を楽しんで後半部で居眠りを遂げたが、押し並べて「刺激的な映画だった」という所感。カメラ動かなさすぎ、時間飛びすぎ、ロングテイク長すぎ、無駄話多すぎ、といった珍妙な映画術が馬鹿みたいにドカ詰めされていて、却って何らかの趣きがあった。これぞホン・サンス。
◆批評に対する批評◆
おもしろいのは、アトリエに招かれた男が女の絵に感想を寄せるシーンだ。
前半部ではテキトーな美辞麗句を並べて女を喜ばせたあとに、その男をよく知る第三者から「キミっていつも同じ褒め言葉を使うよね」と指摘されてしまい、それを知った女が腹を立てたことで儚くも恋は散ってしまう。一方、後半部では率直な感想を口にした男だったが少々手厳しく批判してしまい、女を激昂させてしまう。
ほな、どないせえゆうね。
嘘の賛辞もダメ。本音の批判もダメ。どちらも女(表現者)にとっては不愉快らしい。
そんな彼が、有名映画監督として特別講義に呼ばれたあとで司会者の男にキレまくっていたのが面白かった。
「あの司会者! 評論家気取りでオレの映画を語りやがって!」
おまえも怒っとるやないか。
この主人公はホン・サンス自身である。
ヒロインを演じたキム・ミニとの不倫関係は『夜の浜辺でひとり』(17年)で語った通りだが、例によって本作もホン・サンスとキム・ミニのリアル恋愛関係をフィクションに落とし込んだ半自伝的な要素に彩られている(もっとも、自身の分身にしてはチョン・ジェヨンはあまりにハンサムすぎるのだが)。
本作はささやかな恋愛劇としても楽しめるが、表現者に軸を置いた「批評に対する批評」にもなっているあたりをこそ堪能したい。
絵を批判されて怒る女と、自分の映画を語られて怒る男。個人的には批判に耳を傾けない表現活動などナルシスティックな自慰と同義だと思っているので、私から見ればこの男女はまだまだ甘ちゃんだな!
ちなみに、ここで言う「批判」とは否定とかダメ出しというニュアンスではなく物事を冷静に検討して判断する態度のことです。
本日はここまで。私の大好きな俳優、チョン・ジェヨン様の画像でお別れです。
チョン・ジェヨン…『シルミド』(03年)や『トンマッコルへようこそ』(05年)で知られる円熟の俳優。かなり器用な役者です。
(C)2015 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.