シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

響 -HIBIKI-

人間賛歌をスッパリ諦めた天才論的作品!

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2018年。月川翔監督。平手友梨奈、北川景子、アヤカ・ウィルソン、柳楽優弥、小栗旬。

 

突如として文学界に現れた、鮎喰響という15歳の少女。彼女から作品を送られた出版社の文芸編集部の編集者・花井ふみは、彼女の名を知らしめようと奔走する。やがて響の作品や言動が、有名作家を父に持ち自身も小説家を目指す高校生の祖父江凛夏、栄光にすがる作家、スクープ獲得に固執する記者に、自身を見つめ直すきっかけを与えていくようになる。 (シネマトゥデイより)

 

うーん、令和もいいけどさぁ…。

私が提案した「続 昭和」は棄却されたわけぇ?なんでそんなことするん。絶対「続 昭和」の方がクールなのに。まぁ、まだワンチャンあるからね。私が長生きすれば今度こそ「続 昭和」に…。

 

ていうか、おはようございます! 挨拶はきっちりする私であります。

本日は小説とか文壇をモチーフにした 『響 -HIBIKI-』という作品を評論していくので読書好きな方を喜ばせる内容になっているかも。なっていないかも。それは知らん。

かく言う私も学生時代は本の虫で、太宰、川端、井伏、三島といった純文学をこよなく愛しておりました。逆に苦手な本は、ただストーリーが書いてあるだけの通俗小説と、妙ちくりんな翻訳ゆえに何度読んでも頭に入ってこない海外文学全般。

近年はすっかり小説を読まなくなり、もっぱら映画とか謎の専門書ばかりになっているけれど、それすらあまり読まなくなっています。あかんことだ。堕落の身振りだ。

本を読まないとバカになる、といった言説はとかく極論として一笑に付されがちだけど…たぶん本当ですよアレ。

正確を期すならば、別に本を読まないとバカになるわけでもなければ、本を読むと賢くなるわけでもなく、読書は思考の方法論に裨益するということだと思うんだよな。

言うなれば、読書を通してモノの考え方や捉え方が身につく、ってこった。例えりゃあ脳みそが翼を持ってどこへでも飛んで行ける…そんなイメージだろうか。違いますか。

やっぱり本は読めるうちに読んでおきたいな。そんなことを、この映画を観て反省した次第であります。

ほな、始まりまっせ。

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◆天才論的作品◆

この映画を観るきっかけを与えてくれたのは、付かず離れずの距離(いちばん気持ちいい距離だわー)で交流させて頂いているとんぬらさんの記事。

本作の感想を綴るなかで「ふかづめさんってこの主人公のような人なのではないかとちょっと想像してひとり楽しんでました」とおっしゃっていて興味が湧いた次第。

私みたいな主人公ってどんな子なんだ?


主人公は「響」という名前の15歳の女子高生。月に本を30冊読むほどの読書家で、自ら手掛けた小説が出版社の目に留まり、あれよあれよという間に天才JK作家となる。

傑出した文才と豊かな感性の持ち主だがコミュニケーションは苦手で、たとえ親友の書いた小説であってもつまらないものはつまらないと唾棄する。いつも無表情で必要なことしか話さず、名誉欲や自尊心もない。出版社に小説を投稿したのもデビューを狙ってのことではなく、ただプロの感想を聞いて自分の価値観を確認したかっただけ。

やたらと好戦的な人物でもあり不愉快な人間は暴力でもって排除する。「殺すぞ!」と言って胸倉を掴んできた不良生徒の指をへし折って「私は『殺す』と言われたから殺されないようにしただけ」と言ったり、セクハラ発言をした有名作家の頭を蹴り上げたりするような暴力少女。ひたすら本の世界に没入しており、社会や他人にはまったくの無関心。低血圧みたいな話し方をする。

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 響ちゃん。

 

おいおい、待ってくれよ。

響ちゃんと私の共通点は「つまらないものはつまらないと唾棄する」ってところと「やたらと好戦的な人物」ってところぐらいだよ。

あと「いつも無表情で必要なことしか話さない」ことと「社会や他人に無関心」ってとこと「低血圧みたいな話し方」ぐらいかな。

…ほぼ全部じゃねえか!

チッキショー!

さてはとんぬらさん、遠回しに私をディスってますね?

 

でも私自身は自分に似ているとは思ってなくて、むしろ彼女と似てるなぁと思ったのはエレファントカシマシの宮本浩次である。鑑賞中、何度も「原作者ってエレカシのファンなの?」と思ったぐらいソックリなのだ。

響と同じく表現の世界だけに生きる宮本もまた、生放送のラジオで失礼な発言をしたインタビュアーに食って掛かったり、演奏がずれたメンバーに向かってコンサート中にマイクを投げつけるといった過激な人物。活動初期のコンサートでは「ノリだけで聴かれたくない」という理由から拍手禁止令を施行したり、リスナーに向かって「おまえは豚だから死ねや」と歌った曲まで存在する。


私は天才ではないが、天才を理解することにかけては天才的だという自負がある。

本作を観た一部の観客は響のことを「サイコパス」と形容するし、エレカシ宮本もネットの掲示板で「アスペ」とよく言われているが、まぁ、その程度の連中には一生かかっても彼らを理解できないだろう。

「凡人」は「天才」を理解できないから「変人」扱いする。それが凡人の限界。

本作はそんな天才論的作品である。

あなたの目に映った響は天才か変人か? その見方が、あなた自身が凡人かそうでないかのリトマス試験紙になるでしょう。試されてまっせ!


◆才能のムゴさ◆

まず、この映画がおもしろいのは「響」と「社会」がまったく交差しないストーリーラインである。

響が何気なく出版社に送った小説『お伽の庭』をめぐって、その傑作性に度肝を抜いた北川景子演じる担当編集、あるいは有名作家の娘として小説家デビューした響の親友アヤカ・ウィルソン、情念をほとばしらせて新人賞を狙う柳楽優弥小栗旬…。果ては文壇、メディア、世の中全体が天才JK作家の出現に大騒ぎするが、当の響はどこ吹く風。いつもと変わらず学業に励み、読書に耽り、『お伽の庭』が芥川賞・直木賞で史上初の最年少ダブルノミネートを飾ったと知っても「ふーん…」

親友のアヤカに「私たちの作品が受賞を懸けて争うことになるね…(複雑な思い)」と言われても「ふーん…」

ンーフ~ン!!!

興味ナシ。ぬかに釘。打てども響かず!

おまえはアカデミー賞で作品賞&監督賞を取ったにも関わらず授賞式すっぽかして趣味のクラリネットをプープー吹き散らかしていたウディ・アレンか?

響の小説で世の中がひっくり返っているというのに当の本人は一切関知せず興味もない…という温度差がとても痛快で、周囲の大人たちがメディア戦略やマーケティングの駆け引きに興ずるほどに響の純粋性…ひいては天才性が際立っていく。

(1)作品を生み出す表現者

(2)それを商品に変える周囲の大人

(3)商品を享受する消費者

この3つの位相のうえに『お伽の庭』という作品=商品は成り立つわけだが、本作では(2)作品を商品に変える大人…つまり凡人の視点に立脚することで響がいかに異形の存在であるかということとその才能に困惑する大人たちがいかに滑稽かということを悪意全開で描きだしております。

要するに天才をめぐる俗物どものお話になっていて、響は主人公だけど主人公ではない。真に描かれているのは凡人=俗物なのだから。

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「あなたは世に出るべきよ!」と熱弁する担当編集の北川景子と、心底どうでもよさそうに「うるさい」と返す響。この温度差。


そして天才と凡人の差。

「表現者は周囲の意見にどこまで耳を傾けるべきか?」とか「作家を担当する編集者はモノづくりにどこまで関わっているのか?」といった答えなき問題が北川景子やアヤカ・ウィルソン(凡人たち)を通して提起されていく。

この映画、一見すると気軽に楽しめるエンターテイメントとして良くまとまっているが、注意深く観るとかなりシビアな表現論に肉薄した作品で。

たとえば、芥川賞を逃し続けて自殺を図ろうとする小栗旬に、響は「あなたの小説を読んで面白いと思った人がどこかにいる。それは私かもしれないし」と言って自殺を思い留まらせる…という感動“風”なクライマックス。

だがその遥か手前のシーンで、彼女は小栗が書いたものとは知らずに彼の小説をたまたま自宅で読んでいて、母からおつかいを頼まれたことで読みかけの本をテーブルに置いて家を出る…というショットが紛れ込んでいる(そのあと土木作業のアルバイトに汗する小栗とすれ違うという絶品の長回し!)。

言うてることわかるけ。

おつかいに行こうとした響は読みかけの小栗の小説を部屋に置いてきた。

彼女は片時たりとも本を離さない病的な読書家だ。そんな彼女が、たかがおつかいごときで本を家に置いてきたのは小栗の小説が駄作だったからに他ならない。

これこそが天才と凡人を隔てる あまりに残酷な差。

映画終盤で小栗の自殺を思い留まらせた響は、過去に小栗の小説を読んで軽く失望しているのだ。

もっと言いましょうか。

小栗が人生を賭して敗れた芥川賞の受賞者こそが響なのである。

圧倒的才能を持った勝者が凡人たる敗者を慰める。しかも二人が知らないところで響(勝者)は小栗(敗者)の作品を退屈だと感じてしまった。

一見すると感動“風”なクライマックスだが、先ほどのおつかいシーンを思い出した途端に残酷映画としての馬脚を現す。決して映像の表面では描かれない才能のムゴさに戦慄するのみザッツオールである。

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響の言葉で自殺を思い留まった小栗だったが、おそらく響が小説を書き続けるかぎり彼は日の目を見ない。自殺を思い留まったのは小栗にとってはハッピーエンドではなく、むしろバッドエンドだったのかもしれない。


◆私好みの「消化不良なドラマ」

小説を題材にした映画だからか、緑と茶色でシックに固めた色彩設計が印象的だった。イーストウッドの『チェンジリング』(08年)を彷彿させる…と言うのはさすがに褒め過ぎなのだが。

響がオトシマエをつけるために柳楽優弥や雑誌記者を追跡する幽鬼のような足取り。死のイメージを携えた電車は二度反復される。そして屋上からの飛び降り。

そこかしこに染みついた不穏なモチーフは、小説という「空想の世界」に対応した「苛烈な現実」として実社会を映しているようでもある。この映画、半分ホラーだよ。

しかし響はもちまえの強運で死の危機を二度も回避するし、アヤカ・ウィルソンとのビンタの応酬やカバンの投げ合いは「友情ゆえの暴力」に反転してしまう。その辺の演出がなかなか洒落ている。


物語の面では、喧嘩と和解、後悔と反省といった人間模様を単純化しないのが面白い。

和解した直後にまた険悪なムードになったり、改心したかに見えた人物がいくらか毒っ気を残していたり…といった消化不良なドラマが満載で、「人ってそんな簡単には変わらんよねー」という諦念に貫かれているあたりも私好みだった。

気持ちいいほど人間賛歌をスッパリ諦めておられる。

よく考えると、もともと楽観的な北川景子を除いて誰ひとり幸せにならない結末だし。実際、ラストシーンなんて響がパトカーに乗せられて署に連行されていくところで終わっちゃうからね。何その着地!? っていう。


いくつか欠点もあるが、まあいい、かったるいので指摘せずにおく。

ただ、個人的な不満をひとつだけ言わせてもらうと、小説のハナシなのに純文学にはノータッチというところ。かろうじて太宰の名前が挙がるだけで、基本的には大衆小説オンリーの世界。

響を演じた平手友梨奈は欅坂46というアイドルグループの構成員らしい(まったく知りません)。本作が映画初出演となるペーペーだが、コロッとした風貌に反して寡黙な佇まいがよく似合う。ヘタに感情表現に取り組む役者よりもよっぽどスクリーンに映える。

逆に、観てて心配になるほどヤバい芝居をしていたのが北川景子だった。わかりやすく下手だった。

よく考えると私が北川景子を観たのは『間宮兄弟』(06年)だけである。こんなヤバい女優だったとは。ウィッシュ!

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ウィッシュの嫁。美人美人と言われてるけど、どうも私にはわからない…。

 
©2018映画「響 -HIBIKI-」製作委員会 ©柳本光晴/ 小学館