シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

男と女、モントーク岬で

「分かってない」ということすら分かってない男のイタい熟年恋愛譚。

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2017年。フォルカー・シュレンドルフ監督。ステラン・スカルスガルド、ニーナ・ホス、スザンネ・ウォルフ。

 

実らなかった恋の思い出を新作の小説としてつづり、その小説のプロモーションのためニューヨークを訪れた作家のマックスは、そこでかつての恋人レベッカと再会する。しかし、レベッカは別れた後に何があったのかを一切語ろうとはしない。やがてマックスがニューヨークを去る日が近づくが、出立の3日前、レベッカからモントーク岬への旅に誘われる。そこは恋人だった2人が訪れた思い出の場所だったが…。(映画.comより)

 

いらっしゃい。

鴨川を漫ろ歩けば犬を散歩させたる人民あり。犬を触らせて頂きたく、飼い主にヌッと近寄って「名はなんと申すのか」と問わば「シェリーです」と云うので「シェリーかぁ。よ~しよしよし。かしこいな、かしこいな」と云い乍ら犬の頭をしこたま撫でる…といった事をごくたまにする。

犬と触れ合いたくば鴨川に行けばいいと思う。犬カフェなど行かずとも無賃で触れ合えるし、鴨川近辺には犬自慢のセレブリティが多いので「私のワンちゃんの可愛さ、判ってくれますぅ?」てな具合に彼らの自尊心を満たすこともできるという寸法だ。

てなこって過日。犬を求めて鴨川に繰り出したところ、運悪く犬を散歩させたる人民がほとんどいない。トイプードルを連れた怖そうなマダムと、謎の老犬を従えたババア(ニコニコしている)しかいなかったのである。少し考えたあと「こっちでいいか」と思ってニコニコしたババアに近寄った私、「本日はお日柄も大変よく、ババアに於かれましては益々ご清栄のこととお喜び申し上げます」などとわけのわからぬ前置きをしたあとに「犬の名はなんと申すのか」と問うたらば「え?」と聞き返されたので、いま一度名を問うてみたが、またぞろ「え?」と返ってくる。名前を訊くのは一旦諦めて「触ってもよいですか?」と訊ねると、これには即答で「ええで」と答えてくれた。

そんなわけで暫く謎の老犬を触っていたのだが、その犬は私がどんな触り方をしても頑として動かない。まるで電源の切れた冷蔵庫みたいだ。よく見るとババアの方もまったく動いてなかった。美しいほどの直立不動だった。

変な心持ちになった私は「ありがとうございました。以上をもちまして私が犬と触れ合うコーナーを終了させて頂きます」と言ってその場から去ったのだが、しばらく歩いてからババアの方を振り返ると、あんなに動かなかった老犬がリードを引っ張るようにして前のめりに散歩を続行していた。大はしゃぎである。

恐らくその犬は私を嫌って死んだふりをしていたのだ。しかもババアまで。悲しかった。

 

わぁ、やべえ。喋りすぎた! そんなこって『男と女、モントーク岬で』

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Oh ニーナ 忘れられない

フォルカー・シュレンドルフといえば『ブリキの太鼓』(79年)である。言わずと知れた太鼓である。身体の成長が3歳で止まった奇妙な少年の目線からドイツ、ソ連、ポーランドの間で翻弄される人々をシニカルに描いた悪趣味映画の金字塔。私はこの映画に相当夢中になり、過去に勢いで作った「生涯ベスト映画30」の第30位にぶち込みもした(現在はランク圏外へと吹き飛ばされております)。

このシュレンドルフという男は、ルイ・マルやアラン・レネのもとで助監督を務めた後にニュー・ジャーマン・シネマの代表的作家になったドイツの監督である。要するにベテランってこった。

そんなシュレンドルフの最新作『男と女、モントーク岬で』は、かつて恋人同士だった男女の苦いラブストーリーである。

 主演はステラン・スカルスガルドニーナ・ホス

さすがはシュレンドルフ、商業性をドン無視したキャスティング。売る気がねえ。誰がステラン・スカルスガルドを見るためにチケットを買うんだ? 好きな役者だけどさぁ。

 

ステラン・スカルスガルドは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(00年)で知られるラース・フォン・トリアーの常連俳優で、『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズ、『アベンジャーズ』シリーズ、それに『マンマ・ミーア!』シリーズにも顔を覗かせるバイプレーヤーだ。御年67歳。

相手役のニーナ・ホスは『東ベルリンから来た女』(12年)『あの日のように抱きしめて』(14年)といったドイツ映画で注目を浴びたハイパー遅咲き女優(現在43歳)。

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ステラン・スカルスガルドニーナ・ホスのお二方が薄っすらとした笑みを湛えております(映画の中ではあまり笑わない)。


映画は、作家のステランが自伝小説の朗読会をおこなうシーンに始まる。

彼はスザンネ・ウォルフ演じる編集者と事実婚の関係にあったが、若かりし頃に短期間だけ交際したニーナ・ホスのことが今でも忘れらない。まるで沢田研二の「追憶」である。「Oh ニーナ 忘れられない。許して! 尽くして! そばにいて!」と絶唱する昭和歌謡屈指のパワーバラードである。

ニーナが忘れられないステランは、その想いを赤裸々に綴った自伝小説をスザンネもいる朗読会で滔々と読み上げるのだ。どういう神経をしているのか。

いまでも過去の恋人に執着しているステランの朗読(恋の自白)を聞いたスザンネは当然いい気持ちはしない。これをきっかけにスザンネの心は離れてしまうのだが、それさえ意に介さないステランは、かつての恩人ニエル・アレストリュプと再会してニーナの仕事先を教えてもらい、さっそくオフィスに突撃をかます。

数十年ぶりに彼女と顔を合わせたステランは「旧交を温め合おうよ」とか「もう一度愛を取り戻そうよ」としつこく言い寄るが、暖簾に腕押し。ニーナは「もう来ないで」と言ってステランを追い返した。

翌日。今度はニーナの住所をニエルから聞きだしたステランは彼女の自宅に突撃をかます。しつこ。

一日ぶりに彼女と顔を合わせたステランは「旧交を温め合おうよ」とか「もう一度愛を取り戻そうよ」としつこく言い寄るが、暖簾に腕押し。ニーナは「もう来ないでって言ったのになんで来るん」と言ってまたぞろステランを追い返した。まぁ、そうなるよね。

ていうか「もう来ないで」と言われた翌日に直接自宅に押し掛けるステランの蛮勇ぶりがすげえ。

恋の突撃兵か、おまえは。

 

二度も追い返されたステランは癇癪を起こしてバーとクラブをハシゴ、しこたま痛飲して「うわー」とか「りゃおぷー」などと意味不明な言語を発することで何かを発散し、家に帰って静かに寝た。

すると後日、ニーナの方から「ロングアイランドに行くけど一緒に来るけ?」と誘いが来たので、大喜びしたステランはスザンネを放ったらかしてノコノコとニーナに付いて行った。その島の先端、モントーク岬はふたりにとって思い出の場所だったのだ。

かくしてモントーク岬での秘密の生活が始まる…。りゃおぷー。

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モントーク岬で2~3泊する、かつての恋人同士。


◆男と女の無理解性◆

『男と女、モントーク岬で』は、昔の女に執着する主人公の愚かな身振りを楽しむ映画といえよう。

真夜中にも関わらずニーナの自宅を突撃したステランがモニターホン越しに笑顔を誇示する、その穢れなき愚かさ。有名作家にも関わらずその知性はニーナを前にした途端にサルのように退化する、その穢れなきバカさ。ニーナのことを考えるだけでニヤけが止まらなくなってしまう中肉中背の65歳。端的にイタい。

ところが、ステランが仕事や家庭をかなぐり捨ててまで追い求めたニーナは別人のように変わり果てており、モントーク岬の小さな別荘で共に枕を交わすことはあってもそこに彼への愛情は一片もない。

愚かなステランはそのことに気づかず何度も求愛するのだが、これをスッパリと断ったニーナは「幽霊を追うのはやめなさい」と言ったあとに身の上話を始める。

そんなわけで、映画後半はニーナの心境が少しずつ明かされていく。なぜ復縁する気がないのにステランをこの地に誘ったのか? なぜ自らを幽霊に喩えたのか?

なお、すべてが明らかになったあとも依然ステランはポカーンとしていた。


女の複雑な感情とそれを理解できない愚者としての男。

この映画を一言でまとめるとおよそこんな感じだろうか。ステランは最後まで分かっていない奴として描かれ、それゆえにニーナは復縁を拒否する。彼女は自分の気持ちをざっくばらんに打ち明けたし、なぜ復縁する気になれないのかということも筋道立てて懇々と説いた。

それでもステランは理解できない。物書きなのに人の気持ちが理解できない。「それが理解できない以上は復縁できない」とニーナがはっきり言ったにも関わらず、それすら理解できないのだ。

これって痴情のもつれあるあるだと思うんだよねぇ。「分かっていない」ということすら分かっていない男と、それゆえに嫌気が差して出ていく女…。

なんだか男と女の無理解性というか、その基底に横たわる原因を垣間見たような映画体験だった。

 

面白いのはステランの人格的欠点が彼の動作に現れていること。この男はいつも落ち着きがなく、人と話しているあいだも常にウロチョロと動き回っているのだ。

「私は木ではない。大地に根を生やすのではなく動物のように他動的でありたい」byステラン

現にこの男は仕事で世界中を飛び回り、行く先々で数多の女に手を出してきた与太郎である。それが原因でいくつもの恋を自ら潰し回ってきたが、当の本人は自覚症状なし。

さらにタチが悪いのは、小説家ゆえに自らの知識と教養を過信して「オレはすべて分かっている」という錯覚に陥っていることだ。

小説家は高い見識を持っているから世界を知り尽くしている…というのは間違いで、むしろ自らの見識の高さを過信するあまり世界が見えなくなっている視野狭窄の人種であるという、なかなか面白い試論を打ち出した恋愛劇なんですよ。

あとから知ったのだが、本作はシュレンドルフが自身の体験を基にして作った半自伝映画とのこと。

おまえの話かよ!!

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ステランは監督の分身だった。

 

◆平民へのエール ~過去を蹴り飛ばせ!~◆

シュレンドルフは一流か二流かという議論は措くとして、『男と女、モントーク岬で』は良い意味で若い。

「その日は音楽会があるから行けない」と断ったニーナがなぜかステランの朗読会に出席している…という不思議なショットがあるのだが、じつは音楽会の座席についたニーナを朗読会を開くステランのショットと切り返すことであたかも彼女が朗読会に出席しているかのような視覚のトリックが使われていたのである。随分しゃらくさい真似をする。

ニューヨークの喧騒や肥溜めみたいな路地裏も妙に生々しいし、絶えず動き回るステラン・スカルスガルドの身体性もよく捉えている。何よりシュレンドルフ特有の触覚性(まるでネズミの死骸のようにぬめったフィルムの肌触り)がステラン・スカルスガルドの奇怪な風貌と妙に調和していて、幽霊を追う男の狂気と哀れが作品を貫くトーンになっておりますね。

 

なにより白眉なのはニーナ・ホス。撮られるにしたがって心のうちに秘めた数々の思いがひとつずつ表情に乗っていくという…ちょっと信じられない芝居でこの単調きわまりない作品に奥行きを与えてらっしゃる。

これまでノーマークだったが、まさかこんなにいい女優だったとは。

 

そんなわけでこの映画。特に観る必要はないし勧めもしないが、かつて誰かと運命的な出会いをして悔いの残る別れ方をした平民たちが慰めをもとめて観るぶんにはなかなかの効果を発揮する作品ではある。

特に男性諸君よ。未だに初恋の同級生とか蒸発した嫁のことが忘れられず、山崎まさよしの「ワンモアタイム ワンモアポン」みたいに向かいのホームとか路地裏の窓を捜し回っては「こんな所にいるはずもないのに」と分かりきった事を呟いておめおめと帰路につく、みたいな辛気臭い生活に身をやつしている日本男児は四の五の言わずにコレを観ればよい。

幽霊を追うな。今すぐ過去にケリをつけろ。

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でもこんな美人だったら追ってしまうよねぇ。

 

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