暗澹たる家庭崩壊劇 ~寛容は時として悪魔を生む~
1960年。ルキノ・ビスコンティ監督。アラン・ドロン、レナート・サルヴァトーリ、アニー・ジラルド、クラウディア・カルディナーレ。
ミラノに住む長男を頼りに、南部から移住してきたパロンディ家。次男のシモーネはボクサーとして成功への糸口を見つけるが、娼婦ナディアに溺れ落ちぶれていく。ある時、三男のロッコも偶然にナディアと知り合い、ロッコとナディアは惹かれあっていくが、2人の関係に嫉妬したシモーネによって悲劇が引き起こされる。(映画.comより)
みんな、おはぴょん。
最近イヤホンを買い換えたのだけどテキトーに選んだせいで失敗しちゃった。低音が全然鳴ってない。なめんな。どの曲を聴いてもベースがまったく聴こえないし、音が全体的にシャリシャリしてるし。私が世間一般の音楽好きよりもベースに耳を傾けるタイプだと知っての狼藉か!
しかもそのイヤホン、だいぶイキった形をしていて、長時間つけていると耳が痛くなってくるのである。私が一風変わった耳の形の持ち主だと知っての狼藉か!
商品開発部の人たちはもっと私のきもちを考えながら商品を開発するべきだと思う。
そもそも、なぜこんな商品を世に出そうと思ったのか。そこが知りたいです。誰がゴーサインを出したのか。なぜ「いける」と思ったのか。電話で問い合わせて製造元のきもちを聞こうと思ったけど、やめておきました。なんで私のきもちを考えてくれないのに製造元のきもちを聞かなきゃいけないんだ、と思ったからです。
とはいえ腹の虫が収まらなかったので、買ったばかりのイヤホンを壊さない程度に空中でピュンピュン振り回しました。その際「全軍突撃」とも言いました。意味はないです。それで腹の虫はどうにか収まった。
そんなわけで本日は『若者のすべて』をたっぷり語っていくといった、そんな一日にしたいと思っております。よろしくどーうぞ♡
◆貴族監督 ヴィスコンティ◆
ルキノ・ヴィスコンティ。必ずしも観ておかねばならない作家ではなくとも「知っておかねばならない作家」ではあるので少し説明させて頂きたい。
ヴィスコンティはイタリアを代表する映画作家でありながら、ローマ教皇グレゴリウス10世をはじめミラノ公や大司教を輩出したヴィスコンティ家の傍流にあたるガチ貴族である。中世イタリアにおけるミラノ公国を統治していたような高貴な家系に生まれたミスター支配階級にしてミスター気障。
要するに家ではなく城に住み、監督ではなく伯爵と呼ばれるような世界観を持つ作家なのだ。
幼い頃から芸術に触れていたヴィスコンティは、マルキシズムの洗礼を受けたりドストエフスキーに傾倒しているうちにココ・シャネルの紹介でジャン・ルノワールと出会い「映画撮れへんけ?」と誘われたことから映画界に飛び込んでルノワールの助手となった。
登場人物がすごすぎて頭がクラクラする。
グレゴリウス10世? あぁ? ココ・シャネルにジャン・ルノワール…?
ジャン・ルノワール…『大いなる幻影』(37年)や『ゲームの規則』(39年)を代表作に持つフランスの大巨匠。印象派の画家ピエール=オーギュスト・ルノワールのせがれ。
ココ・シャネル…服つくったひと。
ヴィスコンティといえばやはりこの映画!
なるべくして貴族になったヴィスコンティ。その代表作は言うまでもなく『ベニスに死す』(71年)。成金ジジイが美少年に恋してストーカーする…といったどうしようもない話を抒情的に描いたショタコン&ゲイ映画の金字塔(ヴィスコンティはバイセクシャルであることを公言している)。
貴族趣味、デカダンス、オペラ的、同性愛、耽美主義といった目くるめく頽廃芸術の世界…。ヴィスコンティを観ることはハイソサエティの嗜みである。この世界観に共鳴する芸術家は多く、たとえば生前の三島由紀夫は自身の作家性にも大いに重なる『地獄に堕ちた勇者ども』(69年)を絶賛した。黒澤明も隠れヴィスコニストで、良家に生まれアナキストになりドストエフスキーに傾倒したという経歴も同じなら、マルチカメラの導入、演劇の摂取、リアリズムの骨法といった映画術まで同じ。
そんなヴィスコンティがキャリア中期に撮ったのが『若者のすべて』。ドラマや音楽でたびたび使われる邦題だよな~(この頃のヨーロッパ映画って未だに名前だけ生き続けて色んなコンテンツでパロディにされてるよね。『勝手にしやがれ』とか『灰とダイヤモンド』とか)。
黒澤がドストエフスキーの『白痴』を映画化したように、本作もまた『白痴』をベースにした作品である。
主演はアラン・ドロン!
神はこの男の美貌を造形するために他の人々の造形をサボったのではないか…と思うほどの二枚目である。
はっきり言ってこの世界がブサイクで溢れてるのはアラン・ドロンのせい。もしアラン・ドロンが生まれなければ僕たちの顔面偏差値はもうちょっと上がっていたはずなんだ。美の分配法則なんだ。
神が作った男、アラン・ドロンさんであられる。
◆暗澹たる家庭崩壊劇◆
人がヴィスコンティに抱いているイメージはおよそ次の三つである。
高尚な芸術映画。取っつきにくい。退屈そう。
たしかにその通りなので前章ではあえて読者を身構えさせるような書き方をしたのだが、この『若者のすべて』だけは例外なのでどうか安心されたい。
実のところ私はヴィスコンティがとびきり苦手で、まったくいいと思わないアンチ・ヴィスコンティの一派なのである。貴族趣味が鼻につくし、色使いも割と汚かったりするからだ。何より上映時間が長い。一口に長いと言っても色々あるが、「映画が要請した長さ」ではなく「引き延ばされた長さ」なのだ。本作は177分だが、晩年の『ルートヴィヒ』(76年)なんて237分もある。完全になめていやがる。膀胱ぶっ潰す気か!
そんな中『若者のすべて』だけは何度観返しても素晴らしい作品なので、たとえば映画好きとヴィスコンティの話をするときは「とりあえず『ベニスに死す』と『若者のすべて』だけ観てれば大体押さえたことになるよね?」なんて乱暴なことを口走ってしまうのだ。まずはこの2本を観て、もし『ベニスに死す』にハマったら他の作品を観ていけばいいし、ハマらなければもう観なくていい、という考え方である。
いい加減映画の話をしましょうね。
本作は、イタリア南部のくそ田舎からミラノに越してきた貧しい一家が都会の欲望に翻弄されて家族がバラバラに崩壊していく…といった暗澹たるホームドラマである。
パロンディ家はシングルマザーと五人兄弟からなる6人家族で、物語は長男から順に章分けされて一人ずつ描かれていく…といった疑似オムニバス形式を採っている。『ワンダーくんは太陽』(17年)のように。
家族紹介をしておく。
母親…不憫のロザリア
【人柄】よくヒステリーを起こす。だいたい大泣きしてるか大喜びしている。感情の振り幅では一頭地を抜くヒステリック家長。
【特技】オーバーリアクション
長男…無責任のヴィンチェンツォ
【人柄】勝手に婚約して家を飛び出したひょうろく玉。事なかれ主義で家族のゴタゴタにはノータッチ。存在感のなさには定評がある。
【特技】早婚
次男…堕落のシモーネ
【人柄】気のいい剽軽者だったが、ボクシングで才能を開花させて天狗になり、娼婦と関係を持ったことで堕落してしまう。色々あって最終的には人間のクズと化す。
【特技】闇落ち
三男…寛容のロッコ(アラン・ドロンです!)
【人柄】堕落したシモーネを最後まで救おうとした大らかなイケメン。心の優しさでは人後に落ちない。シモーネに続いてボクサーになった。
【特技】ゆるす
四男…堅実のチーロ
【人柄】兄弟でただひとりの勤め人にして誰よりもまともな感覚を持った良識人。ヒトとしての安定力と仲裁能力の高さでは他の追随をゆるさない。恋人あり。石原良純に似ている。
【特技】天気予報
末っ子…希望のルーカ
【人柄】兄たちを慕う幼い坊や。ただそこに居るだけでギスギスした空気を良くしてしまうという人間加湿器として重宝される。自らのかわいさを誇って憚らない。
【特技】萌え殺し
ミラノに越してきたパロンディ家(極貧)。
映画は6人家族がミラノ中央駅に降り立つシーンに始まる。
閑散とした駅構内の不気味さがすでに凶兆を孕んでいて、文字通り暗雲立ち込める列車の蒸気が黒い霧のように6人を覆う。そこへ輪をかけるように次男のシモーネが「いけねぇ、カバンを忘れた」と言って列車のなかまで取りに戻る。のちにシモーネは家族を捨てて悪の道に染まってしまう離脱者。「カバンを取りに戻る」という身体性がそれを暗示している。
安アパートを借りた一家は、わざと家賃を滞納して立ち退き処分を受け、役所が提供する無償の立ち退き宿舎に入る…というコスい方法で住む場所を確保した。雪かきや新聞配達で日銭を稼ぎ、貧乏ではあっても幸福に暮らしていた一家だったが、シモーネとロッコがボクシングジムからスカウトされたことで幾らか暮らしがよくなり、母のロザリアは「ワォ! ワォ!」と言って大喜びした。
だがシモーネが娼婦ナディアと関係を持ったことから運命の歯車が狂い出す。色を知ったシモーネはナディアに貢ぐために盗みを働き、そんなシモーネの野蛮さに嫌気が差した彼女はロッコに近づいて恋仲に。それを知って憤激したシモーネは大勢の仲間を従えてロッコをリンチした挙げ句にナディアをレイプする。目を覆いたくなるほど凄惨なシーンである。
そしてついに愛の狂人と化したシモーネはナディアの命を奪ってしまう。
鑑賞後に口を突いて出た感想は「なんでこんな事になるん…」というものだった。
ナディアがシモーネに与えた欲望の時限爆弾は家庭内にて起爆。母と兄弟たちは爆風に巻き込まれて家族の絆は粉微塵と化し、ナディアは愛の自爆を遂げ、シモーネは狂愛の殺人者となった…。
どう? この例え。
とにかく雪だるま式に悲惨なことが起きていく映画である。50年代前後のイタリア映画には鬱々とした作品が多いが、本作に比べれば『青春群像』(53年)や『鉄道員』(56年)など可愛いものではないかしら。
シモーネを堕落させるナディア。
◆寛容は時として悪魔を生む◆
誰も救われない暗澹たる映画だ。ヴィスコンティの貴族趣味や耽美主義は鳴りを潜め、もっぱら下層階級の悲惨さがネオレアリズモの刃先に乗ってフィルムへと切りつけられる。
最も悲惨なのはどのキャラクターにも同情できないことで、そうした感情移入を拒否することで観る者を絶えず宙吊りにする…というネオレアリズモ独特の悪意に満ち溢れている本作は善性を一身に引き受けていたロッコをすら厳しく批判する。
天使のように優しいロッコはレイプ事件を機にナディアに別れを告げるばかりか、「兄はキミを必要としてるから傍にいてやってくれ」と言ってヨリを戻させようとする。
レイプした男のもとに帰れ、と言っているわけだ。
正気を疑うような発言だが、ロッコはそこまでしてでも堕落したシモーネをどうにか救ってやりたいと考え、懊悩の果てに「愛した女をレイプした兄に差し出せばすべて丸く収まる」という結論に達した。
ロッコの狂的な優しさは、ナディアを殺害してしまったシモーネを庇い、「今すぐ警察に行って自首すべきだ!」と訴える四男チーロに「お前、あたま異常か! 家族を見捨てていいわけないだろ!」と叫ぶシーンで臨界を迎える。
人殺しの兄を庇おうとするロッコの方がよっぽど異常だよ!
結句、ロッコの罪は「優しすぎること」だった。寛容は時として悪魔を生む(ハイこれ今日の格言ね!)。
かかる状況にあっても、母ロザリアはあひゃーん、あひゃーんと慟哭するばかりで、長男ヴィンチェンツォは我関せずといった顔で黙々とアスパラガスなど食っている。ナディア殺しを知ったロッコとそれを打ち明けたシモーネは一緒にベッドにダイブして号泣しているし、事情が呑み込めない末っ子ルーカはどこかに走っていってしまった…。
結局、唯一の常識人たるチーロがスクーターをぷりぷり走らせて警察署に向かったことで後日シモーネが逮捕されたのだが、恐らくロッコから何かを吹き込まれたであろうルーカは「裏切り者!」と言ってチーロを蔑視する。「大人になればわかるさ…」と言ってルーカの頭をくしゃくしゃと撫でたチーロの真っ当な感覚を唯一の救いとして映画は終わる。
ロッコに鞍替えするナディア。
ここには甘美で崇高なヴィスコンティ作品の夢想性は一片もない。地べた的なモノクロ映像と冷ややかなフィックス・ショットが露悪的なまでにそれぞれの愚かさを抉り出している。誰よりも悲惨な目に遭ったのはナディアだろうが、それすらもヴィスコンティは「愚かな女」として断罪してしまうので不思議とまったく不憫に思わない。
映像面では、拳闘試合をしているロッコとシモーネが湖畔でナディアを刺殺するクロスカッティングが滅法すばらしい。虫も殺せないほど優しいロッコがリングのうえで獣になり、そのころ湖畔ではシモーネも獣と化してナディアを襲う。パロンディ家の天使と悪魔が「暴力の儀式」によって同化したことを告げる見事なモンタージュだ。
およそヴィスコンティには似つかわしくない、ある種の野蛮さがみなぎった暗黒青春群像。
ヴィンチェンツォの婚約者役にクラウディア・カルディナーレが出演していることも付け加えておく(本作のあと『鞄を持った女』と『8 1/2』で大スターに)。
シモーネに殺されるナディア。粋がって十字架のイメージを象ってみせるがナイフで一突きされると「死にたくない…死にたくない…」と叫びながら地面を這いずり回る。ヴィスコンティの性格の悪さが如実に出たシーンであろう(褒めてるよ)。