シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

エンジェル、見えない恋人

愛も映画も見えているようで見えていない。

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2016年。ハリー・クレフェン監督。フルール・ジフリエ、エリナ・レーヴェンソン。

 

目に見えない存在として生まれたエンジェルは、母親のルイーズに、自分の存在を誰にも明かしてはいけないと言われていた。ある日、エンジェルは目の見えない少女マドレーヌと出会い、恋に落ちる。エンジェルの秘密を知らないまま成長したマドレーヌは、視力を取り戻す手術を受けることになる。(Yahoo!映画より)

 

 おはようございます。

今日はおもしろい前置きを書いて皆さんから愛されポイントを稼ぐといったことが出来そうにありません。

そもそも愛されポイントなんて稼いで何になるのでしょうか。どこで使えるのでしょうか。そのポイントは。

愛されポイントを稼ぐのが上手い女子っているよね。いわゆる小悪魔というか。私はそういう打算を看破することにかけてはちょっとした権威なんですよ。母親の影響が大きいですね。幼少期からずっとそうなんですけど、たとえばテレビを見ていて媚びたアイドルとか頭の悪そうなタレントが出てくると、ウチの母親なんかは間髪入れずに「バカ女だな、こりゃ!」と糾弾するわけです。「よくお聞き、ふかづめ。将来こんなバカ女に引っかかってはいけないよ」と。

そんなわけで、小悪魔に対しては人一倍厳しくなってしまったのです。

「分かってんねんぞ!」っていう。

わかりますか? 小悪魔がしてくる魔性の身振りに対して「分かってんねんぞ!」っていう。おまえの魂胆なんて全部見通しだ!

「あー、このダンボール重くて持てないですぅ~」だ?

台車使えっ!!

「か弱いワタシ」を演出して遠回しに持ってもらおうとすなっ。分かってんねんぞ!!!

そんなわけで本日は『エンジェル、見えない恋人』を静かにレビュー。騒ぐだけ騒いだので静かにレビューします。

見て下さいよ、↓の画像。あーん超ステキ!!!

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◆「透明人間映画ランキング」のどこかには入ってくる映画◆

ベルギーからピュアなラブストーリーが届いております。届けるよね~。ベルギーは。ピュアなラブストーリーを。

少年少女のピュアな恋というのは実に微笑ましいものだ。人は大人になるにつれて恋愛など性欲の詩的表現に過ぎないことを知っていくが、性欲が芽生える遥か以前の恋心というやつはなかなかどうして黄金に光っていやがるのである。

少年エンジェルと少女マドレーヌも瞬く間に恋に落ちた。だが「一目惚れ」ではない。

一目惚れしようにもマドレーヌは全盲なのだ。よしんば目が見えたとしてもエンジェルは透明人間なのである。そんな話ってあるか? あるである。

友達がいない二人はたちどころに仲良くなり、やがて10代を迎える。誰にも見えないエンジェルはもともと目が見えないマドレーヌの前でだけ透明コンプレックスを忘れて本来の自分を曝け出すことができる。一方のマドレーヌは視力がない代わりに心の目がばかに発達していてエンジェルからの視線を感じ取ることができる。見えない二人が互いの心に愛を見出す…とでも言えばいいというのか!

なんと爆裂キューティ。なんたるステキ味。こゝろが浄化される。

私のなかで「ガキ同士の恋愛映画ランキング」といえば『スウェーディッシュ・ラブ・ストーリー』(70年)『リトル・ロマンス』(79年)がランク上位を占めていたが、そこに加えあげてもいいかなと思えるような作品だった。いや、やっぱ嘘。さすがにナメんな。ガキ同士の恋愛映画にはいい作品が沢山あるのだ。おいそれとランクインさせてたまるか。オレの神殿に土足で上がり込むのはやめろ!


代わりと言っちゃあなんだが「透明人間映画ランキング」になら突っ込んでやってもいい。

私のなかで透明人間を扱った映画といえばジョン・カーペンターの『透明人間』(92年)よりもH・G・ウェルズの原作小説を基にした古典映画『透明人間』(33年)。警察隊が雪につく足跡を見て主人公を撃っちゃうシーンが印象的である。

次いでポール・バーホーベンの『インビジブル』(00年)。「もし透明人間になれたら?」という問いに対して地球上の全男性が提出するであろう「女風呂を覗く」という回答をそのまんま実践したケビン・ベーコンが終始フリチンで歩き回って窃視や痴漢に興じる…といった人類史上最高の映画である。論は俟たない。

だが、そんなスケベ丸出しのバーホニズムに与するような人間があまりのピュアさに己を恥じる映画が『エンジェル、見えない恋人』なのだ。薄汚い大人たちに捧げられた無っ垢無垢のラブストーリー。そりゃあもうムックムクである。

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日々ムクムクと成長するマドレーヌ(三種盛り)。


◆信頼関係を信頼しすぎ◆

エンジェルの誕生に始まるファーストシーン。ここではマジシャンの夫が失踪したことで女手一つでエンジェルを育てる母親の苦労が描かれる(夫はマジシャンなので消えることが得意なのだ)。

エンジェルは生まれたときからスケルトンベイビーだったので、たとえば授乳シーンでは母親の乳首が宙に引っ張られるといった斬新な映像表現が楽しめる。

輪をかけて斬新なのはエンジェルの一人称視点で描かれている点であろう。

エンジェルは透明。まじ透明。つまり役者がいない。不可視の被写体なのである。よってエンジェルにカメラを向けることは物理的に不可能なのでカメラ自体がエンジェルの目となる。そうしないと映画が成立しない。

まぁ、この発想自体は理に適っているが、いざ映像として見せられると少々退屈なのが玉に瑕。幼児期のエンジェルはいつも母親が抱きかかえているため必然的に母親の顔の接写ばかりになるわけだ。マドレーヌと出会った中盤も然り。彼女の目が見えないことをいいことに、エンジェルは馬鹿みたいに彼女に近づいてまじまじと顔を見続けるのでクローズアップの連打となる。

本作はわずか79分の小品だが、その半分近くはエンジェルから見た女優陣の顔のクローズアップ。

約40分も接写で押し切られるのはさすがにウザい。

ちなみに、乳首をギュンギュン引っ張られた母親役はエリナ・レーヴェンソン。ハル・ハートリーの『シンプルメン』92年)『愛・アマチュア』94年)でコケティッシュなオカッパ少女を演じた女優である。もう50代かぁー。

反面、不意に「エンジェルの目」でいることをやめたカメラが客体性を取り戻すシーンにはイマジネーションが溢れかえっている。赤い傘をさしてマドレーヌと口づけを交わすショットや雨の街角に蹲ってさめざめ泣くショットは滅法すばらしく、スケルトン体質ならではのロマンチシズムや悲哀を真空パックした情感豊かな見せ場になっている。マドレーヌの赤毛やカーテンの揺れもいい。

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髪やカーテンの「揺れ」を楽しんで頂きたい作品。


そこから更にエンジェルとマドレーヌはムクムク成長し、二十歳前後まで時が進む。

手術で視力を取り戻したマドレーヌは「やったやった! やっとあなたの顔が見えるわ!」と入院先から喜びの手紙を書くが、エンジェルにとっては少々具合が悪い。とてもじゃないが「いや、ぼく実は透明なんやわ…」とは言い出せず、マドレーヌとの再会も「目を閉じ続けること」を条件とし、初めて試みるセックスも目隠しプレイがデフォルトと化す。

それにしても律儀に目を閉じ続けるマドレーヌには好奇心というものがないのだろうか。セックスのとき以外は目隠しをしていないので目を開けようと思えばいつでも開けられる状況なのに、エンジェルとの約束を守って決して開けようとはしない。エンジェルの方も彼女を信用しており、「もしマドレーヌがズルをして薄目でもしようものなら絶対パニクるぞ」とは毫も思わない。

ちょっとは思えよ。

信頼関係を信頼しすぎ。

…なんて思ってしまう私はやはり薄汚い心の持ち主なのだろうか。下水溝のごときヌメッた魂の宿主なのだろうか。

もし私がエンジェルの立場だったら念には念をいれてマドレーヌを三重で目隠しするし、もしマドレーヌの立場だったら「約束がなんぼのもんじゃい」とばかりにバッコリ目を開けてエンジェルの顔を見ようとするだろう(そしてパニクる)

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エンジェルとマドレーヌ。完全に『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』(17年)


◆再び「心の目」を発動させるマドレーヌ◆

さて。この終盤では、今までほとんどエンジェルの一人称視点だったカメラが完全に自律して三人称を謳歌していることに気付く。つまり画面上ではマドレーヌが一人芝居に興じて「存在しない主人公」に語りかける…といった画が続くわけだ。

ついにエンジェルは「見えない」という正体を見せ、それに驚いたマドレーヌは失意に暮れてさめざめ泣く。そして翌朝、エンジェルは「僕のことは忘れて丁髷」という置き手紙を残してマドレーヌのもとから姿を消す(もともと消えてるわけだが)

なまじヒロインの視力が回復したばかりに両者の関係が綻び始める…という意味では『かごの中の瞳』(16年)とまったく一緒。

ところがマドレーヌ、「たとえ透明人間でもあなたを愛してる!」と結論してエンジェルの捜索に乗り出すのだが、一体どうやって透明人間を捜すというのか…というあたりがクライマックスになっていて。詳しくは言わないが、これがなかなか感動的なんである。ボーイ・ミーツ・ガールならぬガール・ミーツ・ボーイなんである。

初めての出会いはエンジェルがマドレーヌを見つけた。だがラストシーンではマドレーヌがエンジェルを見つける。彼女は決して目を使ってエンジェルを見つけるわけではない。使ったのは「心の目」だ。

そういえば映画中盤、視力を取り戻した彼女は「あなたが見えなくなった…」と呟いた。全盲だった頃は「心の目」でエンジェルを見ていたが、なまじ視力を取り戻したことで「心の目」が退化してエンジェルを見ることができなくなったのだ。しかしラストシーンでマドレーヌは再び目を閉じる。肉眼では決して見つけられないエンジェルを心で見つけようとするのである。超えもーい。


『エンジェル、見えない恋人』は肉体の愛と精神の愛について考えさせられる作品であった。

自分が「見ている」と思っているものは本当に見えているのだろうか。

もしあなたに大事な人がいるとして、あなたは本当の意味でその人のことを見ているだろうか。表面だけ見て見た気になってはいないだろうか。余計なお世話だろうか。

愛も映画も見えているようで見えていない!

我々の眼は、きっと我々が思っている以上にいかがわしい。見えてるフリをするな。

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そして子が生まれる。涙ちょちょ切れる家族写真。

 

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