蛮骨のペキンパー作。死が囁くときに窓は失効する。
1974年。サム・ペキンパー監督。ウォーレン・オーツ、イゼラ・ヴェガ、ギグ・ヤング。
メキシコの大地主が愛娘を妊娠させた男、ガルシアの首に賞金を懸けた。酒場のしがないピアノ弾きベニーは、情婦のエリータからガルシアが既にこの世にない事を聞かされ、エリータと共にガルシアが葬られた彼の故郷を目指す。だが、同じく懸賞金を狙う男たちがベニーの後を追っていた。やがて、墓場に到着したベニーはガルシアの墓を暴こうとするが…。(Yahoo!映画より)
おはようございます。
前回の『マイ・プレシャス・リスト』(16年)では体調不調の私に代わってキャサリン・キャサリン・ランデブーがピンチヒッターになってくれました。
感謝はしてますが…それにしても読むに耐えないレビューでしたね。にも関わらず最近の記事のなかでいちばん好感触だったから腹たつ。まじめにえいがとむきあっている僕がバカみたいだ。
あ、でも『おとなの恋は、まわり道』(18年)なんかは結構にんきを集めたよね。
celica3さんなんて1人で50個もスターをくれたし。狂っていやがる。 どうもアリスね!
はい、ちゅうこって本日取り上げる映画は…
ガルシアの首持ってこい!
そうです、このフレーズでお馴染みの『ガルシアの首』です。前回のキャサリン回とは打って変わって、ちょっぴり本意気で書いてるで。当ブログの読者の中には「まじめ路線の方が好き」という人民がごく少数ですがいらっしゃるようです。そんな奴らに捧げるラブレター、みたいなところかなっ。
◆首を届ける宅配映画◆
先月取り上げた『キラー・エリート』(76年)が無念千万、残念至極の作だったので口直しに『ガルシアの首』を観た。
100万ドルの賞金が懸けられたガルシアの首をめぐってピアノ弾きの男と大勢の賞金稼ぎが争奪戦を繰り広げるピカレスクロマンである。
言わずと知れた名作。とはいえ商業主義に背を向けた作品ゆえにポピュラーな作品とは言い難い。とりわけサム・ペキンパーのなかでも最も暑苦しくて男臭い作品なので今のヤング民にはまったくハマらないだろう。
私の感ずるところ、現代のヤングたちは「過度に男臭い映画」や「過度に女っぽい映画」に対して拒否反応を示すほど男女問わず中性的になりつつある。まぁ、平たくいえば日本一億総オカマ化といったところだ。くそったれめが。
すでにクラーク・ゲーブルやバート・ランカスターといったアメリカン・タフガイが憧憬の対象から外されているように…、あるいは30年前には女性ファンも多かったスタローンやシュワルツェネッガーの現在がまるで刑務所慰問のごとく野郎どもの懐古趣味を満たすためだけの男臭い映画で粛々と筋肉営業に励んでいるように…ペキンパーの作品が50年後も残っているのか? といえば甚だ疑わしいのである。
ただでさえペキンパー作品は女性を拒絶する(女性がペキンパーを拒絶するのではない。その逆だ)。
血と汗、土と油、泥と砂埃による暴力の応酬はいわずもがな、たとえばキャストに目を向けても『わらの犬』(71年)のダスティン・ホフマンと『ゲッタウェイ』(72年)のスティーブ・マックイーンを除けば、チャールトン・ヘストン、ジェームズ・コバーン、ウォーレン・オーツといったどう考えても女性支持率0%でしょというような男優がドロドロの顔を厚かましくスクリーンに晒すのだから。
そうした男臭さの極点が『ガルシアの首』。
メキシコの渇いた砂埃、照りつける太陽、生首の腐臭、銃声と阿鼻叫喚。五感にこびりつくマットなペキンパー絵巻に酔い痴れろ! !
場末のバーでピアノ弾きをするウォーレン・オーツは、ガルシアという男を捜している二人組の男から「4日以内にガルシアの首を持って来れば100万ドルの報酬をやる」と言われ、負け犬人生から脱するためにこの依頼を引き受ける。気合いを入れるために「えいえい、オーツ!」とも言う。意外と茶目っ気たっぷりな奴なのだ。
どうやらガルシアは大地主の一人娘を妊娠させたことで怒りを買って命を狙われているようなのだが、かつてガルシアと肉体関係を持っていたウォーレンの情婦イゼラ・ヴェガは「ガルシア? 彼ならとうに死んでるわ!」と言った。まじか。なんやそれ。
そんなわけで、この物語は一攫千金を夢見る食い詰め者のウォーレンが命懸けでガルシアを仕留めるといった抹殺劇ではなく、すでに死んだガルシアの墓を暴いてその生首を地主の館に届ける…といったヤマト運輸のごとき宅配映画なのである。かなりトリッキーなプロットであるよなぁー。
ちなみに、わたくし、幼少期にはじめてこの映画を観たときはひどく吃驚すると同時につまらなさを覚えたものだ。
なにしろキーマンのガルシアがすでに死人なのだ。いわば「ガルシアの首」はマクガフィン。おまけに前半1時間は派手なシーンもなく、銃撃戦も一度しかおこなわれない。当時キッズだった私を退屈させるには十分な大らかさで、血も汗も流すことなく淡々とウォーレンとイゼラの同棲生活を撮り続けるペキンパーに「こんな地味な映画…楽しむことなどデキンパー」つって(あかん。今回は真面目に語るんだった)。
しかし、分別知りそむる二十歳のころに改めて再見したとき、あんなに退屈だった本作がごく自然に呑み込めたというか…「あ、分かってきた、分かってきた!」という感じで大いに満喫したのである。他のペキンパー作品同様、本作もまた単なるバイオレンス映画ではなく「男の美学」を無骨に描いた作品なんだよな、と。
さぁ、このショット。注目して頂きたいのは赤い車がそれと分からないほど砂埃にまみれている点。ウォーレン・オーツの白いスーツも背景に同化するほど汚れている。これはもちろん悪手です(色彩が埋没しちゃうので)。まともな監督ならこんなことは絶対にしない。つまりサム・ペキンパーはくるっているのです。
◆フィルムによる暴力◆
墓の場所を知るイゼラを案内人としてガルシアが埋葬された墓地を目指すウォーレンは、ホテルを転々とする旅程でイゼラとピクニックを満喫する。
期限は4日しかないのにそんなことをしている場合だろうか。
もっとも、このカップルが美男美女であれば辛うじて画になりえたピクニックシーンではあるが、残念ながらウォーレンは天然パーマの脂ぎったおっさんで、イゼラもまた乳房ばかりがデカい中年女である。そんな二人がピクニックで乳繰り合うさまを見せられるのだから堪ったものではないが、そこでウォーレンはやおら夢を語り出す。賞金を手にしたら安酒場のピアノ弾きなどやめてお前と一緒に豪勢な暮らしを送るのだと。人生の一発逆転に妄執する中年オヤジの哀愁が迸った、なんともブルージーなピクニックシーンではないか。
その夜、二人組のバイカーに襲われてイゼラをレイプされそうになったウォーレンがコルト・コマンダーを撃ちまくって二人をぶち殺すのだが、ここでバイカーの一人を演じているのがクリス・クリストファーソン。『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(73年)と『コンボイ』(78年)で主演を務めたペキンパー常連俳優である。
クリストファーソンのキャラクターが少しおもしろいのは、イゼラを茂みに連れ込んだものの覚悟を決めた彼女を見てあえて手を出さなかった…という不思議な身振り。当初はレイプしようとしていたが結局思い留まったのだ。この場合、われわれはクリストファーソンを「善の男」として記憶するべきなのか、いやいや「悪の男」なのだと唾棄すべきなのか?
どちらでもない。
とかくペキンパー作品に出てくる男は「善悪の彼岸」を超えた環境において肉体的な生死だけが許されるからだ。
したがってペキンパー作品には「正義漢」も「悪漢」も出てこない。その世界に存在するのは「殺す男」と「殺された男」だけだ。まさに蛮骨の原始的戦闘が、それゆえにスローモーションの寵愛を受けながらある種の美を湛えるのである。
中年ピクニック。
サムなどという、およそ映画監督には似つかわしくない名前を持ったこの作家は、だから「映画的な美しさ」とは最も遠いところに佇むシネアストなのだ。
『昼下りの決斗』(62年)の川も、『ゲッタウェイ』のテキサスの街並みも、『戦争のはらわた』(77年)のタマン半島の森も、とにかくペキンパーがカメラを向ける自然風景はことごとく汚い。ウォーレンとイゼラがピクニックに興じる草原の木陰など自堕落なまでに映画=美からその身を引き離しているし、キャラクターの肌や服装はシーンが進むごとに薄汚れてゆく。
さらに汚い話をしよう。墓を荒らした末、イゼラの死と引き換えにガルシアの首を獲得したウォーレンは瀕死状態で車を飛ばして大地主の館を目指すが、その助手席の麻袋(生首入り)には瞬く間にハエがたかり始める。ハエと腐臭を払うために車の窓を全開にすれば砂埃が舞い込んでくる。
開けるも地獄、開けぬも地獄。
映画における「窓」とは状況変化の契機、もしくは内的変化の儀式として用いられる道具だが、先述したようにペキンパーは映画から身を引き離す作家なので、車の窓を開けようが開けまいが事態は何ひとつ好転しないのである。朦朧としながら運転を続けるウォーレンは、次第にハエと腐臭と砂埃が充満する車内で正気を失っていく。思わずこちらも眩暈や吐き気に襲われるほど強烈なシーンだ。
ペキンパーが「バイオレンス映画の巨匠」たりうる理由はここにある。行為としての暴力ではなくフィルムによる暴力を行使するからバイオレンスの巨匠なのだ。やたら流血するとか人が大勢死ぬとか…そういう次元の話ではない。ペキンパーは「暴力を描く」のではなく「暴力で描く」。つまり暴力を受けているのは撃たれて死んでいく劇中のキャラクターではなく我々自身なのだ。
この車中のシーンが身体的な不調をきたしうるほど生々しい感覚性を持つことそれ自体がペキンパー的暴力にほかならないわけだ。
ガルシアの首を助手席に乗せて車を走らせるウォーレン・オーツ。
また、ペキンパーといえば銃撃戦で見られるスローモーションの美しさだが、やはりこれもペキンパー流の暴力といえる。
流麗なスローモーションとドラマチックなモンタージュによって飾られた死は、なるほど、逆説的に「映画的な美しさ」を保証するように見えるが、実はただ単に死をことさら身体化しているだけに過ぎない。実際、スローモーションによって引き延ばされた死がメロドラマを召喚しないのは自明(誰もスローで倒れていく人物に涙を流したりはしない)。ペキンパー作品にあっては、もっぱら映画を盛り立てる為だけに人が死んでいき、「撃たれて倒れる」という重力運動がスローによって美しく飾られているだけに過ぎないのだ。
これは紛れもなく美しくないものを美しく飾るという自傷的暴力である。
ある意味、ブスがオシャレをすることは自身に暴力を加える行為に等しいわけだ。オシャレをすればするほどブスが際立つという逆説(ひどい例えだな、こりゃ)。
余談だが、こうしたペキンパーの本質を受け継いだのが北野武という男。やくざ映画を多く手掛けることから「暴力映画の名手」とされているが、これが誤りであることぐらいはここまで読んで頂いた読者なら既にお分かりだろう。北野武は暴力を美しく描く。その「美しさ」こそが暴力にほかならないから「暴力映画の名手」たりうるのだ。
◆死が囁くときに窓は失効する◆
さぁ、いよいよ映画も最終盤。
大地主の館に辿り着いてガルシアの首を差し出したウォーレンは、報酬の100万ドルを受け取ったあとに「金を持ってさっさと消えろ!」と言った大地主に「そうはいかねぇ」と吐き捨てて銃を向ける。この男の私怨のためにイゼラを失ったウォーレンはやり場のない怒りに打ち震えていたのだ。
とはいえウォーレンの感情は逆ギレに近いのでトリガーを引くことを躊躇してしまうのだが、途端、傍に立っていた娘の「殺して!」という叫びがウォーレンにトリガーを引かせた。この娘はお腹の子の父親であるガルシアに懸賞金を出した父を憎んでおり、その父に拳銃を向けるウォーレンと一瞬のうちに視線を結ぶことで無言の連帯を築いたのである。この鮮やかな視線劇が起爆剤となり、大地主を一撃必殺したウォーレンはその銃声を聞いて駆けつけた警備隊と壮絶な撃ち合いを演じる。
この終局で見逃さずにおきたいのは相変わらず美しいスローモーションではなく、大地主の家族がウォーレンの流れ弾が貫いた館の窓に群がるショットである。
「映画から身を引き離すペキンパーは状況変化/内的変化としての“窓”を失効させる」というのは先ほど述べた通りだが、この終局に至ってはついに流れ弾が窓を破ることで「映画的窓」は物理的に失効してしまうのである。
当ブログでも「映画における窓」がいかに重要であるかということは折に触れて論じてきたが、ペキンパーほど窓=映画を愚弄する作家もまたといまい。窓を演出できない三流作家は掃いて捨てるほどいるが「窓を失効させた作家」はペキンパーぐらいだろう。
館から逃げ出したウォーレンが車に乗り込んで大地主の敷地を脱した瞬間に警備隊の一斉掃射を浴びて絶命するラストシーン。やはりその銃弾は車の窓ガラスを貫いてウォーレンの肉体に突き刺さる。死が囁くときに窓は失効する。
愛するイゼラを失ったとはいえ、素直に賞金をもらってオサラバしていればウォーレンの未来はいくらか明るかったはずだが、それを許さない男の意地が彼を死に追いやった。そしてこの美学が美とは程遠い筆致で描かれていることにこそ、人はこの映画にサム・ペキンパーの本質を見る。
映画自体はこの上なく汚いが、そう見せかける為のこの上ない創意が注ぎ込まれた二重汚損。汚いものは美しく、美しいものほど汚い。「映画的な美しさ」が辿り着いたこの諦念の果てにこそペキンパー映画は屹立する。