爆泣き必至につきポカリスエット必携。
2017年。月川翔監督。浜辺美波、北村匠海、小栗旬、北川景子。
高校の同級生・山内桜良がひそかにつづる闘病日記「共病文庫」を偶然見つけた「僕」は、彼女が膵臓の病気で余命わずかなことを知り、一緒に過ごすようになる。彼女の言葉をきっかけに母校の教師となった「僕」は、桜良が亡くなってから12年後、教え子と会話をしていた際に、桜良と過ごした数か月を思い出す。一方、結婚を控えた桜良の親友・恭子も、桜良との日々を思い返し…。(Yahoo!映画より)
グンモニン、みんな。
隣人がよく騒ぐので映画評が書けません。昨夜は耳栓をして書いたけど、それでも爆笑音が聞こえてきます。もしまた同じようなことがあれば、その時はついに動き出しますね、私。部屋に押しかけて相撲で決着をつけたいと思います。ふんどしになるのが恥ずかしいけど、そうも言ってられないのでね。私のこゝろは殺意に満ちています。
さて、本日取り上げる映画は、以前レンタル店で阿呆みたいな顔したアベックが『君の腎臓をたべたい』とタイトルを言い間違えていたことでお馴染みの『君の膵臓をたべたい』 です! 貶すと思ってるでしょ? この手の日本映画はどうせ貶すと思ってるでしょ?
どっこい、貶さないんだ! これが!
それどころか…どっこい!
◆涙は巨大なマーケット◆
先に告白しておかねばならない。
完全に号泣しました。
私が映画評のなかで「泣いた」と書くときは大体ウソなのだが、今回ばかりはごめんなさい。完全に泣いております。
もう洗いざらい白状しましょう。以下は号泣の内訳。
泣いた回数…3回
流した涙の数…6粒
垂らした鼻水の量…1.1cc
ティッシュ使用枚数…3枚
くしゃみ…1回
いやー、参ったねえ。
この映画の存在は公開当時から知っていたし、「号泣」、「感動」、「やばい」といった浮世の下馬評も耳にしていたが、どうも食指が伸びなかったのは難病モノという地雷案件ゆえ。
いちいち細かく例を出していくつもりもないが、『恋空』(07年)あたりから始まった難病モノの日本映画はほぼ例外なくゴミということぐらいは今や共通認識になっている。そういうモノにまんまと釣られて感動するのは「泣ける」という可能動詞をこよなく愛する女子高生、またはそれに準ずるバカだけなのだ、と。
かくいう私も、安易に「感動」を押し売りする涙エクスプロイテーションの類を罵詈雑言の限りを尽くしてぶった斬ってきたシネマの辻斬りなのであるが…本作は少し違った。単なる涙エクスプロイテーションではなく、あれよあれよという間に人を映画に惹きこむだけの技術と度胸があった。ゆえに号泣なのである。
評に入るまえに少し脱線するが、私は本作に関して「泣いた」ということを強調したいのではなく「涙に値するほどいい映画だった」ということを伝えたいのだ。つまり涙は結果であって目的ではない。この映画は人を泣かせることだけを目的に作られた作品ではないし、べつに私だって泣くためにこの映画を観たわけではない。
だが、昨今の日本カルチャーにとって「泣ける」という可能動詞は金のなる木。泣ける映画が動員数を伸ばし、泣けるバラードが気軽にダウンロードされ、ネットには「1分で泣ける話」が氾濫する。今や「涙」は巨大なマーケットなのだ。
本当に流されたものは涙ではなく金。だから共感という語に姿を変えた資本主義が手軽に泣ける難病映画を提供し、5分こっきりで手軽に泣ける産業廃棄物のようなバラードが作られる。愚かな人民はそれを有難がり、金を払って涙を買う。クレイジージャパン。令和です。
そもそも「泣く」という行為はきわめて本能的な快楽であって、それが金銭でやり取りされるのだから、これはもうポルノと同義である。
泣ける映画はポルノ!
いつから人間の三大欲求に「泣く」という四つめの欲望が追加されたんですか。アップデートは必要ですか。
だが本来、涙というのは流そうとして――あるいは流させようとして流れるものではない。
意思や欲求や目的の意図せぬところで心の琴線に触れて思いもよらぬ一瞬を契機に流されるべき「この世で最も美しい液体」ではないのかァ――ッ!
だから私は「泣ける○○」というのは産業廃棄物だと思っているし、そんなもので流した涙はやがて薄汚い沼となって卑怯なヒルとか繁殖するようになると思う。
逆にいえば、本作のように好むと好まざるとに関わらず流れてしまった涙はパールとなりて心の宝石箱に仕舞われることになるだろう!
どういうことなんだ!
◆秘密の共有者◆
映画は、膵臓の病で余命1年と宣告された浜辺美波と、彼女の病気を知ってしまった北村匠海の奇妙な交流を描く。北村は他人に一切関心がなく友達もいない読書好きのニヒリスト。中学時代の私を彷彿させるキャラクターである。
そんな彼が、浜辺がつけている闘病日記…その名も「共病文庫」を偶然拾ったことから病気のことを知ってしまい、その日から浜辺につきまとわれてしまう。
彼女は北村と同じ図書委員になり、棚番通りに整理された本をメチャクチャにシャッフルするような図書の破壊者であった。
北村「メチャクチャな場所に仕舞うと探せなくなるだろ…」
浜辺「苦労して見つけた方が楽しいじゃない。きっと本もその方が喜ぶよ!」
図書委員などやめてしまえ。
だが北村はベリークールな奴なのでそれ以上反論しなかった。病気のことを知ったときも表情ひとつ変えず、「悲しんでくれないんだ?」と言う浜辺に「病気の本人が悲しい顔を見せないのに他人が泣いたりするのはお門違いでしょ」と真顔で返したぐらいベリークールなのだ。
北村とは対照的に元気もりもりの浜辺は「死ぬ前にやりたいことリスト」に北村を付き合わせるのだが、両者のあいだには恋に発展しうるような感情のさざめきはなく、かといって男女の友情のごときサッパリとした交歓もない。浜辺は、病気のことを周囲の友人に告げると悲しませたり気遣われたりすることで残り少ない余命が感傷的なものになることを良しとしないからこそ、自らの余命を知った北村がまったく動じないばかりか心配や配慮すらしないことに日常の安らぎを覚えるのである。
そして皮肉屋の北村も「残り少ない人生なんだから僕なんかよりもっと大事な人と過ごした方がいいんじゃないの?」などと言いながらも流されるままに彼女に振り回される。
事実、あくまで浜辺は北村のことを「仲良しくん」と呼称するように、二人の関係性は恋愛や友情といった単純なものでは量れない。たしかに浜辺は北村を追って図書委員になるし、一泊二日の横浜旅行では同じホテルのベッドで寝たりもするし、そうした蜜月関係がもとで浜辺の親友の大友花恋(のちの北川景子)をはじめ、クラス中から「付き合ってるんじゃねーの!」と勘繰られもするのだが、いわば当人たちは膵臓の秘密で結ばれたソウルメイトとして残りわずかな時間を共有するのである。せつねぇ~~。
そしてこの映画は二人の高校生活が過去の出来事として回想され、現在を生きる小栗旬(北村と同役)によって紐解かれていく。
教師となって母校で教鞭を振るう小栗は、図書館の蔵書の整理作業中に知り合った教え子に自らの過去を語り始めるのだ。かつて自分がこの学校の図書委員だったこと、そこには膵臓に病を抱えた少女がいたこと、その少女と最後の1年間を過ごしたこと…。
おもしろいことに、小栗ヒストリーを聞かされた図書委員の教え子は、かつての小栗=北村とそっくりな文系根暗ぼっちなのである。だが、そんな彼を興味ありげに物陰から見つめる女子がいる。まるで浜辺のように快活な少女だ。
く…繰り返されているゥーッ。
浜辺&北村の「奇妙な関係」が世代をこえてアカの他人に受け継がれているうううう。
ここにグッときてしまったのは誰? オレ。なぜ? 本作が陽の当たる場所で生きている連中には決して分からない世界を描いた物語だからだ。
クラスメートたちは浜辺が膵臓の病気で余命1年だということも知らなければ、北村がどれだけ優しいかということも知らない。そればかりか二人が付き合っていると思い込んで北村に嫌がらせをしてみたりもする。くだらねえ有象無象どもがっ!
この世には、自分が知らない世界があることすら知らず、目に見えているものをあっさり信じ込むような想像力が欠如した人間ばかりだ。当たり前のように存在する世界を当たり前に信じて享受する凡愚たち。
本作はそんな「当たり前の日常」に背を向けて孤独に生きる北村と「当たり前の日常」を取り上げられた浜辺が出会って「当たり前ではない日常」を築く、やさしい物語。
だからこの映画は想像力が欠如した人間をいくらか救いもするだろう。たとえば、いつもと変わらずニコニコ笑っている友人が(自分が知らないだけで)じつは大変な目に遭っているかもしれない…と想像させる力を与えてくれる。実にワンダフルである。実にビューティフルである。
当たり前は当たり前ではない。
これを念頭に置いて、今日を生きろ。
◆あたりまえ体操を踊ってしまった◆
この章では技術論を少し。
そうした二人の日常がスフマートやバウンスライト(柔らかい照明のことです)を主とした水彩画のような映像に落とし込まれる。白を基調とした逆光ショットが多く、画面も全体的に明度が高いが、被写体は潰れるどころか力強い輪郭を帯びている。
この白昼夢のように紗のかかったイメージは浜辺の余命の儚さを表象すると同時に「膵臓の秘密」が現出させた二人の精神世界の表現でもあるのだろう。『響 -HIBIKI-』(18年)でビビッドな色彩設計をやってのけた監督、月川翔の映像表現の幅の広さに驚く。
また、演出面で特筆すべきは同一画面での時制の変化。
図書室で亡き浜辺の声を聴いた小栗が「そこにいるのか!? どこにいるのか!?」などとブツブツ言いながら本棚から本棚へ彼女の姿を捜しているうちに北村と入れ替わる。あるいは目の前を走り去っていこうとする野球部が北村の姿を一瞬だけ隠し、それが通り過ぎたころには小栗と入れ替わっている…という具合に、トランジション(場面転換)を用いることなく同一画面のなかで過去と現在をシームレスに往還してみせるという…月川の手つき?
これはディゾルブを濫用して時制をコロコロ入れ替える回想演出を憎んでいる者特有の手つきだ。本棚と下駄箱のマッチカットや、背後から呼ばれた大友花恋が北川景子として振り返る(この二人は同一キャラの過去と現在)といったスマートな演出もいい。
同一画面のなかで北村と小栗が瞬時に入れ替わることで時間軸をスムーズに操作。
※ここから先はネタバレするで。
何より魅力的なのは「動的な浜辺美波」と「静的な北村匠海」が陰と陽の対比になっていることザッツオールである。
浜辺は余命宣告を受けた人間とは思えないほど明るく、逆に未来ある北村がぐずぐずに暗くて屍同然…というキャラクター造形はいささかマンガ的に過ぎるものの、劇中にもあるように「一日の価値は全員平等」。病気の人間より健康な人間のほうが先に死ぬかもしれない…という意味だ。
現に浜辺は病死を迎えるまえに、以前からこの地域を脅かしていた通り魔によって刺し殺されてしまうのだ。
ええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ
絶句&ショック……。
この終盤が絶句&ショックなのはヒロインがあまりに惨い最期を遂げたからではない。北村だけでなく観る者もまた彼女が余命を全うするものだとばかり思い込んでいたからだ。
あれほど「当たり前は当たり前ではない」ということを共有したにも関わらず、われわれと北村は病死による別れを当たり前と思い込んでしまった。あたりまえ体操を踊ってしまった。難病映画なのだから最後は病死して終わるはずだ…と。
ボクと北村は固定観念という名のお立ち台の上であたりまえ体操を踊ってしまったのです。
あひゃーん。なんという絶望感。ていうか、もう映画も終盤に差し掛かっているのに…急にヒロイン殺害って…この後どうやって収拾つけるんだ? つけないのか?
どっこい、つける!
実はここからがこの映画の本領なのである。
「私が死んだら共病文庫を読んでもいいよ」と言われていた北村は、浜辺のマミーから本を受け取って一気に乱読、そこではじめて彼女の本心を知った北村はマミーの前でガタガタガタガタと震える。
「お門違いなのは分かってるんですが…もう泣いてもいいですか?」
ゆるす!!!
なぜならこっちも泣いてるから。おあいこだよ。
「他人が泣くのはお門違い」と言って浜辺の前では薄情なほど感情を見せなかったポーカーフェイス北村が初めて見せた涙なのだ。「タメ」があるぶん派手に爆発した北村的感情は連鎖的にわれわれをも巻き込み、画面内外に地鳴りのような嗚咽を生じさせた。
わたしは折に触れて「泣いてる人物を映して貰い泣きを誘うのはひきょい」という持論をぶちまけているが…今回は例外!
北村の涙は「貰い泣きを誘うため」ではなく「心的変化を表す道具」として使われているので例外、セーフ、むしろアリとは言えまいか。…言えまいの?
恐るべき涙のテロリスト・北村匠海である。
ヒーヒー言いながら爆泣きする北村に観る者も爆泣き。
◆涙のテロルが止まらない◆
一度泣いた人間というのは涙腺がバカになっている。そこにつけ込んで猛ラッシュをかけてくる月川の手つきが小憎らしい。月川は一体なんぼほど涙を搾り取ろうとするのか。
浜辺が死んだことで過去パートは終わり、この物語を教え子に語って聞かせていた小栗ヒストリーもシュン…とした雰囲気のまま締め括られる。小栗旬だけにね。
そのあと、生前の浜辺が図書室の本のなかに忍ばせていた友人宛の手紙を見つけ、これが涙のテロル第二波を呼ぶ。その友人とは浜辺のベストフレンドだった大友花恋。現在パートでは北川景子が演じている。アホの恋人がスマホを落としたせいでどえらい目に遭った女だ。
小栗は北川宛の手紙を届けるために韋駄天のごとく駆ける。足をシュンシュン動かしながら駆ける。小栗旬だけにね。
このシーンが感動的なのは、青春映画に付き物の「全力疾走」という記号が、とうに青春を終えた十数年後の主人公によって反記号化されていることにほかならない。
このシーンにあって、キラキラとした青春映画的全力疾走はいささかの疲労と緩慢さによって色褪せている。その褪色した全力疾走は、しかし浜辺の想いを届けるために北川のいる結婚式場へと向かわせ、ついに小栗から手紙を受け取った北川はとうに死んだ大親友からのメッセージに嗚咽する。涙のテロル第三波だ。
このシーンは共病文庫を読んだ北村が爆泣きしたシーンの反復。「文面で初めて知る浜辺の気持ち」という反復である。そしてその文面がほとんど接点のなかった小栗と北川を繋ぎ、両者の気持ちを大きく変えていくのだ。
天晴れ、死して影響力絶大の浜辺!
個人的な評価基準ではあるのだが、私はキャラクターを見るときは不在の存在性を重視してるで。たとえその場にいなくても場に作用して物語なり他のキャラクターに影響を及ぼす映画的磁場…、そんな肉体を離れたキャラクターが映画を奥深くしているのではないかと思うのです。
その点、女優・浜辺美波はピカイチであるよなー。生前のシーケンスと死後のシーケンスとでは映画自体の空気や肌触りがまったく違うものに変化していて、その変化を計算したうえで生前のシーケンスをどう演じるかというプランを組み立てている。
おまえは『ローラ殺人事件』(44年)のジーン・ティアニーか!(伝わらんか。だめか。そうか)
若手筆頭株の浜辺美波。どないしょ…『センセイ君主』(18年)も観たくなってきた(こっちも月川が監督)。
もっとも「本や手紙を使って感動を誘う」という小説的な手口は短所にもなっているのだが。
それを読む人物の泣き顔に凭れ掛かったショットも非常に多い。このあたりは日本映画の悪しき側面がモロに露呈してしまっているように思うが、それを重々承知している月川翔は泣き顔のアップショットをやたらに使わず、被写体から距離をとった構図によって涙の不可視化に努めている(人物は泣いてるが、なるべく涙を映さない)。これがせめてもの救いだった。
当然、映画はヒロインの浜辺美波によって牽引されていく。本人曰く、自らのチャームポイントは「顔にあまり特徴がないこと」らしいが、むしろ特徴のなさゆえに死の恐怖を悟られまいと明るく振る舞う相貌の曖昧性がよく出ているし、さらには顔の印象なんてどうでもよくなるような派手な身体表現が「運動の快活さ」と「内面の虚勢」として彼女の二面性をよく表していて、ドラマをより繊細なものにしていると思うよなー。
浜辺と北村の心地よいケミストリーと、二人を引き立てるためにあえて一歩引いた小栗&北川の配慮によるアンサンブルが高い次元で開花した作品だと思います(特に『響 -HIBIKI-』でも完全にオーラを消していた小栗旬の慎ましさが光る)。
そして物語を通して二人が互いに憧れ合っていたことに思いを馳せる最終局。これが涙のテロル、最後の第四波じゃあ。
北村は、人や世界を愛する浜辺に憧れて「キミになりたい」とメールに綴ったあと我に返って文面を削除し、浜辺は誰とも関わらないで一人で生きている強い北村に憧れていたことを手紙に綴る。
過去の浜辺と現在の小栗が同一画面におさまるキラーショットが観る者から涙をむしり取り、その直後に画面が暗転して浜辺が囁いた一言でようやく意味がわかる「君の膵臓を食べたい」に尚も涙をむしり取られていく。
最後の第四波と言ったのにまだテロルが続くぅー。五波、六波とな!
なるほど、浜辺美波だけに波を操ることができるというわけか。そういうわけか。
本作を観終えた私がほうほうの体で冷蔵庫を開けてポカリスエットを一気飲みしたのは言うまでもない。水分を補給せねば死ぬ、と思ったのだ。映画ごときに殺されてたまるか!
なお、ポスターにも使われている橋は、私の故郷である京都・伏見に実在するナイスな橋である(名称わからん)。中書島から徒歩9分で到着することが可能。ぜひ聖地巡礼した際には私の家に寄って頂きたい。水道水ぐらいは出す。
過去のヒロインと現在の主人公が視線を結んで同一画面におさまるラストシーン。ポカリを飲まねば。
(c)2017「君の膵臓をたべたい」製作委員会 (c)住野よる/双葉社