シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

女経

オムニバス映画では「時間の使い方」が勝負の決め手や!

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1960年。増村保造、市川崑、吉村公三郎監督。若尾文子、京マチ子、山本富士子。

 

三つの物語が順繰りに、みんなの心に届くよ。

 

や、 おはようございます。

過日、友人と居酒屋に行ったのですが、その店が悪辣極まる極悪店舗で、注文した品(ただのビール一杯でさえ)が30分経っても出てこない、一度注文したものを「ない」と言ったり「ある」と言ったり「やはりない」と言ってみたり「やはりある」と言ってみたりする、みんなでシェアーする喜びの料理なのに取り皿すら持ってこない、注文を受けるときも料理を持ってくるときも店員が口を利かない…などなど目に余るサァビスの堕落ぶりで、半ギレになってしまいました。

私は不快感を抱くと顔や態度にぜんぶ出てしまうので、友人には何かと気を遣わせて申し訳なかったと思います。なお、その店舗には強めに呪いをかけておいたので半年後には潰れるでしょう。

ビール一杯持ってくるのに30分もかかる飲食店など潰れてしまえ。

 

未だに腹の虫が収まらないけど、本日は『女経』を取り上げたいなーって思っている。むかついてるので「じょけい」と読むのか「じょきょう」と読むのかは教えてあげません!

さぁさぁ。昭和キネマ特集も大詰めですよ。ここからは少しずつ文体が変わっていくかも。なお、第三章はちょっぴり面倒臭い話をしているので別に読まなくていいです。なんなら第二章も読まなくていいし、そんなことを言い出したら第一章も読まなくていいということになってしまいます。

結論、読むな。

読まれてたまるか。

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大映・シネマティック・ユニバース

増村保造市川崑吉村公三郎によるオムニバス映画である。大映三大監督がそれぞれに京マチ子山本富士子若尾文子の大映三人娘を使って三者三様の「女」を描き上げた珠玉のアンソロジー。

脇を固めるは船越英二菅原謙二川口浩川崎敬三叶順子野添ひとみ左幸子そして二代目中村鴈治郎ら豪華大映勢。

シャレでも何でもなく大映・シネマティック・ユニバースの様相を呈しているので、大映を知るならまずこの一本。知りたくなくてもこの一本。これさえ見れば大映の社風・作風がザッと概観できる…という意味においても好いとこ取りの決定版なのであーる。

どうよ。まさに大映版『アベンジャーズ』(12年)とは言えまいか。京マチ子、山本富士子、若尾文子の三人は、それぞれにアイアンマン、キャプテンアメリカ、ソーに当たる。すなわちアイアンマチ子キャプテン富士子ソー文子となるわけだ。世界救える。

あるいは大映版『エクスペンダブルズ』(10年)という向きもあろう。これならシルベスターマチ子アーノルド富士子ツェネッガー文子ラングレンという具合だ。世界救える。

よし、そろそろやめておこう。

 

そも、オムニバス映画というのは独立した物語の単なる寄せ集めではなく、特定のテーマが通底したコンセプチュアルなフィルム体系である。本作の場合、三篇すべてに共通するものは金と女。

三人のアラサー女は世間の荒波に揉まれるうちに邪悪な商才を身につけた守銭奴であり、そのために本物の愛を手にできずにいる。哀れアラサーの悲劇。

すなわち本作は、ばかみたいに景気のよかった戦後日本経済の発展が象った「精神的幸福と物質的幸福の対比」を女の人生の中に描きあげた三篇なのである。個人の物語を通して社会批評となす…。まさに大映のお家芸が炸裂してらっしゃる。

詳しくはのちに譲るが、私はオムニバス映画とは本来的に自己満足なものと考えていて、また、これまでに満足のいくオムニバス映画と出会った試しもない。古くで言えば『黄色いロールス・ロイス』(64年)、近年だと日韓合作の『カメリア』(11年)といったオムニバス作品にブチギレ通しなのだ。

だもんで、ぶっちゃけ『女経』も大いにナメながら観始めたのであるが……ムムッ、風流やないの! じつに心嬉しい作品であったなぁー。私の中の「ベストオムニバス映画十選」に名を連ねました。

ほな、ちょいと見ていこか。

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左からアイアンマチ子、キャプテン富士子、ソー文子。

 

◆各話寸評 ~サックリいくで~◆

「耳を噛みたがる女」

監督:増村保造

出演:若尾文子、川口浩、左幸子

粗筋:銀座のキャバレーに勤める若尾は、貧しい家族を養うために男をたぶらかしては金を巻き上げる強かなホステス。じつは財閥御曹司の川口浩探検隊に惚れているが、探検隊の方は「どうせ財産目当てだろ?」と言って相手にしない。そればかりか彼女の純情につけ込んでタダで寝れるかどうかを兄と賭けるような遊び人だったのだ。その上、若尾と寝た翌日に他の女との結婚式を控えていた…。

どうなっちゃうの、若尾!?


オムニバス映画では「時間の使い方」が勝負の決め手。

つまりショットよりも編集優位の作品構成が肝要だということだ。

さて増村だが、さすがに慣れたものである。本作は『青空娘』(57年)『最高殊勲夫人』(59年の変奏とも言え、若尾文子の悪女路線が本格化する前の小悪魔ロマコメだ。前二作のように「一点を描き込む丁寧さ」などクソの役にも立ちゃしないのである。

わずか30分の作品なので外形的に組み立てられている(人物の心情描写や行動原理は省略されている)ように、引き算で構成させると増村は本当にうまい。よくぞ最小限の手数だけでこれほど劇的かつ開放的な恋物語をやりきりました。褒めてつかわす。


若尾のプロポーズをにべもなく断った探検隊が翌日の結婚式をドタキャンし、今度は自分の方からプロポーズするラストシーン。誰もが「あぁ、よかった」と胸を撫でおろして心の中のクラッカーをバンバン鳴らそうとした矢先、あろうことか若尾は「夕べ言ったことは全部ウソなのよ。んふー!」と言ってケラケラ笑いだす。ぷりぷりに怒った探検隊は結婚式に戻って財閥令嬢とくっ付いてしまいました…。

なんと切ない一篇であろうか。

おそらく若尾は、場末の貧乏ホステスと財閥御曹司との分不相応な恋にかりそめの夢を見ており、その夢のなかで生きられただけで十分に幸福だったのだろう。

ただでさえ、かつて彼女は初恋の男から挙式直前に捨てられて、そのショックから男を騙すホステスになった…というチョベリバな過去がある。だからこそ、探検隊の婚約者に同じ苦しみを味わわせないためにも、自ら道化を演じ、恋を捨てたのだ。

若尾ぉぉぉぉぉぉぉぉ。

水商売に生きる女のなんと悲しき分別よ。ようやく成就せし恋を棄権する、ザリガニのごとき後ろ向き精神。こんないじらしいザリガニ女はまたといまい。

探検隊をフッたあと、ホステス仲間の左幸子は「勿体ないことしちゃったわねー」と呆れ返ったが、若尾は髪をセットしながら笑顔でこう答えた。

「失恋なんてヘッチャラ。風邪ひいたようなもんよ。さぁ、今夜からまたモリモリ稼ぎます!」

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「物を高く売りつける女」

監督:市川崑

出演:山本富士子、船越英二、野添ひとみ

粗筋:人気小説家の船越英二が湘南の海岸でひっそりと佇む白い顔の女と出会う。山本富士子であった。死んだ夫に似ているという理由であばら家に招かれた男は、彼女に誘惑されるまま目くるめく官能世界へと身を落とす。やがて男は売りに出されたあばら家を買って女と一緒になろうとした。だが女の正体は美貌を使ってモノを売りつける住宅ブローカー。見事600万円でボロ小屋を売りつけたが、後日、彼女のアパルトマンに男がやってきた…。

どうなっちゃうん、お富士!?


大事なことなのでもっぺん言うど。

オムニバス映画では「時間の使い方」が勝負の決め手。

増村の時間活用術が即物的なものだとすれば、市川崑のそれはきわめてムード的

1人30分の持ち時間しかない本作において、スピードとテクニックで畳み掛けた増村にキャッチコピーを付けるとすれば「ランボルギーニ爆走中」という文句こそ適当であるが、それに比して市川の場合はレース自体を放棄している。

スタートの合図と同時に車から降り、コースの脇でいかにも優雅に立ちションをしてみせる。

女の家で性的交歓に耽るシーケンスに至って、映画は無時間化され、物語からは「展開」という概念が取り上げられる。そして『私は二歳』(62年)のように、ある種の霊的空気の瀰漫によって空間さえもが無方向化されてしまう。30分の上映時間が3分にも感じるし3時間にも感じる、という摩訶不思議玄妙空間がボクたちを惑乱するぞー。


さて、映画は山本富士子の全き独壇場である。

海岸で船越と出会うファーストシーンでは意思も感情もない亡霊のごとき佇まいで、抑揚を欠いた高い声で「ハイ」とか「イイエ…」しか呟かない不思議な女なのだ。どこか魔的な感じがする。

ところが、どうだろう! ブローカーとしての正体を現した途端、チャキチャキの江戸っ娘みたいに元気闊達。自分もブローカーをやりたいと言いだした友人・野添ひとみに「この商売はね、私みたいにズバ抜けて美人じゃないと成り立たないんだよ!」と吐き捨てる(説得力ぅー)。前半と後半で一変する映像のトーンも相まって吃驚仰天の二面性が剥き出しになるのだ。

ボロ屋を売りつけられた船越がお富士のアパルトマンにやってくると、動揺した彼女はアイロンで指を火傷、「アチチ、アチ。燃えてるんだろうか」と郷ひろみ染みたことを言った。

すると、どうだろう! やおらその指をくわえてチュッパチャプスみたいに舐めだした船越は、グイッと彼女に迫って壁際に追い詰める。エロチシズムだ! よく崖に追い詰める息子・英一郎とはえらい違いだあ!

キスする寸前、お富士は上目遣いで「あなた…高い買い物するわよ?」と呟き、船越が「今度は何を売るつもりだい?」と耳元で囁く。

「婚姻届けよ。あなたと私の…♡」

まぁぁぁぁぁぁぁぁい。

じつは船越は初めからお富士の陰謀を見透かしていた。そのカラクリを言い当てられたお富士は、ニッコリ笑って船越に抱きついたのであった。

「よかったわ、しくじって!」

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「恋を忘れていた女」

監督:吉村公三郎

出演:京マチ子、叶順子、川崎敬三

粗筋:京マチ子は京都の宿屋を切り盛りする女主人。ヘンコな彼女は、義妹が結婚したがっている彼氏を財産狙いと勘繰って猛反対し、親戚一同大騒ぎ。ある日、修学旅行生の団体が宿泊したが、生徒の一人がオートバイにはねられて瀕死の重体、宿は大騒ぎ。そんな折、バーで昔の恋人と再会した京がポッと頬を赤らめていると刑事が御用御用と踏み込んできた。元恋人は詐欺で指名手配中のアカンタレであった。バーは大騒ぎ。

どないすんねん、マチ子!?


明らかにしつこいのは重々承知だが、もっぺんだけ言うとくぞ。ええな。

オムニバス映画では「時間の使い方」が勝負の決め手。

増村が即物的、市川がムード的であるならば、吉村公三郎の時間活用はことのほか抒情的である。最年長の吉村は他二人よりも遥かに「日本映画の様式美」に即した撮り方をするんであるん。カメラは人物でもムードでもなく「感情」を追う、ちゅうわけだ。

増村はランボルギーニ爆走中。市川はコース脇で立ちション中。一方の吉村は記録に残るレースよりも記憶に残るレースを心がけており、誰よりもドラマチックな運転で観衆を魅了した。某レビューサイトに「旧世代風の演出と新世代風の演出のテンポの違いがはっきり見て取れておもしろい」という所感があったが、まさに本作の趣は三者三様の性格的差異にある。


このエピソードのおもしろさは元恋人とのロォマンスではなく、「碇家」という宿屋を切り盛りする京マチ子の意地汚いビジネス絵巻にある。

修学旅行生の一人が碇家の前で交通事故に遭うと、京は事故に遭った生徒を心配するどころか、番頭に向かって「ほんまにえらい迷惑やわ。なるべく早よ帰ってもらいや。今晩来る組も予定通り回せんねやろな!?」と愚痴をこぼす。児童の生命よりも宿の営業や世間体ばかり気にする冷酷女だった。

かと思えば、学校団体が(ケガした生徒と付き添いの教師一名を残して)予定よりも早くチェックアウトすると知った途端に、掌を返したような営業スマイルで一同を見送るのである。

「いっやー、皆さん。もうお立ちどすか? お名残惜しどすなぁ~。ま、これに懲りんと、またどうぞお越しやしておくれやっしゃ。おおきに! おおきに!」

京都人のエヴィル(悪魔)な部分がむき出しである。

しかし、そんなエヴィル京が義妹と衝突したり元恋人の逮捕を目の当たりにするうちに自分の生き方を見つめ直し、人並みの真心を取り戻していくといった筋立てなのである。

朝靄の三条大橋に佇む京の晴れやかな顔をラストシーンとする、すばらしい一篇であった。

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◆オムニバス映画論考◆

さて。今しがたの前章末文をもって評を終えてしまうのが人情というものだが、ここで終われぬのが『シネ刀』の強情。最後にどうしてもオムニバス映画論考を開陳せぬことには気が済まないのである。ちょっと面倒臭い話をしているので、ここらで読むのを止めるが花。

なお、ここに述べることは本作への批判というよりオムニバス映画全般に対する批判である。


そも、オムニバス映画とは本質的に自己満足なものだと思う。

それは映画に許された唯一の祭典、換言するなら身内によるコラボレーションだ。普段あまり顔を合わせることのない監督たちが、ひとつの世界観を作ろうとして和気藹々と打ち合わせを重ねている光景を想像すると反吐が出る。

まず大前提として理解してもらいたいのは映画は1であるということ。

普段われわれが、ひとつの映画を観終えたあとに別の映画を観る行為には「時間と選択の自由」が約束されている。立て続けに2本目の映画を観始めてもいいし、1日なり1週間なり1年なり随意に時間をあけて2本目の映画を観てもいい。しかも何を観るかは好き好きに選べる。

だが、1本目、2本目…と映画を数える行為は論理的にナンセンス。映画は「1」でしかないからだ。われわれはよく「先週は○本観た」などと言うが、厳密にはこれは誤りで、どれだけ映画を観ようが「映画を観た経験回数」が蓄積されるだけであって、「映画の本数」それ自体は蓄積しない。どれだけ「1」を重ねても「2」にはならないのである。


しかしオムニバス映画は、ひとつの作品の中におさめられた短いエピソード群を「数として蓄積させる」ことで、あたかも前走者の想いを継受するバトンリレーのように、その前後のエピソードとの関係性=無関係性のサークルが生起せしむる連帯意識を観る者に強いる。

ちょっとややこしいか。よし、音楽に喩えよう。

たとえば今回の『女経』だと、三人の監督が手掛けた三篇の映画が、それぞれにギター、ベース、ドラムとしてひとつのアンサンブルを形成している……という錯覚を起こさせる。それがオムニバス映画である。

だがこれは誤り。実際は『女経』というひとつの作品の中にギター、ベース、ドラムのアンサンブルが生起している。当たり前だ。それを「撮影・編集・音楽」に置き換えてもいいし「主題・芝居・物語」に置き換えてもいい。

この3篇を集めてひとつの映画としてパッケージするオムニバス映画は、いわば3種類の異なるアンサンブルを聴かせること、あるいは3曲立て続けに音楽を聴かせて「いま聴いて頂いたのは1曲です」とのたまうかのような修辞的なおかしさが漂っているのでございます。映画が「1」でしかないことはオムニバス「映画」という形式それ自体によって自供されているにも関わらず。

だのに我々は、3人がそれぞれに撮った1篇の映画を『女経』というひとつの映画を観るために規則的に鑑賞せねばならない。順序を入れ替えることは許されず、特定の1篇だけ観ないという選択肢も与えられない。

すなわち「1」としての映画を人質に取ることでしか、このバトンリレーは成立しないのである。なんて不自然なのだろう。

もっとカンタンな話をすると、オムニバス映画が表現媒体としてあまりに不自由なのは、これまでオムニバスに参加した多くの映画作家たちがほぼ例外なくオムニバスの制度によって本来の表現力が削がれた、そんなもどかしい歴史を振り返れば一目瞭然だ(実際、「あの監督の最高傑作はオムニバス映画で撮ったあの1篇だ」なんて話はついぞ聞いたことがない)。

 

なぜ私がオムニバス映画を根本的に否定するのかと言うと「他はよかったのに、この1篇が足を引っ張ったせいで全部台無しになってもうとる」と感じることが非常に多いからである。

以上、「1」としての映画を細分化する行為はきわめて危険ザッツオールという話でした。『女経』は見事な作品だったが、オムニバス映画という形態には依然疑問が残る。

七面倒臭い話をしてしまったので、麗しの三人娘でも見てリフレッシュして頂きたいと思います。御免。

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