シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

濡れ髪牡丹

万能雷さま大活躍。怒涛のメタ、ギャグ、パロディ!

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1961年。田中徳三監督。市川雷蔵、京マチ子、大辻伺郎。

 

三千人の子分を引き連れる女親分・おもんの婿選びが大々的に行なわれた。噂を聞きつけた男たちが全国からやって来たが、次々と出される難題に退散するものばかり。その中に、算術、歌詠み、剣術、なんでも来いの瓢太郎が現れた。いよいよ最後、おもんとの手合わせ。さてこの勝負、どちらに軍配は上がるのか?(Amazonより)

 

個人的にときめくワード、「間接キス」。

どうもおはよう、ステキなおまえたち。

長らく私は、真夏に汗をかきながらバーベキューをしたり熱いラーメンを食べる奴らのことをバカだと思っていたが、我が身を顧みて愕然、かくいう私も暑苦しいハードロックやヘヴィメタルを汗だくなって聴き狂っていたのである!

バカは私であった。なんたる自己矛盾であろうか。

自己矛盾といえば、かつてエレファントカシマシの歌係・宮本浩次先生は、文明の利器を否定するあまり冬場でも暖房器具を使わずに火鉢を用いて一酸化炭素中毒になった。

また、文明の利器を完全否定するために自動車免許を持たずクーラーも取り外していたが、暑さを凌ぐためにシャワーを浴びる行為が利器を利用していることに他ならないという矛盾に気付き、すぐさま車の免許を取得したという。

宮本語録の中にこんな名言がある。

「俺は日本語オンリーの男である」

言った端から英語を使う男。彼もまた自己矛盾の男であった。

私は自己矛盾に関しては寛容なタイプである(意味が分からないね)。

たとえば人に「これはこうこうこうで…」とロジカルな話をしていて、途中でロジックが破綻、どうにもこうにもならない時は「あ、ごめん。自己矛盾してしまいました」と言って論理が総崩れになったことを正直に発表するのである。あるいは「喋ってる間にわけがわからなくなりました」とか「着地点を見失いました」と言って己の失態を逐一報告。

もちろん相手からは「どないやねん」と呆れられてしまうのだけど、私は私で自己矛盾を楽しんでいるっていうか。どうにかその場を取り繕うために無理矢理にでもそれっぽい論理をこじつけて活路を見出すようなプライドが、そもそも希薄なのですね。

矛盾が好き。矛盾したものが好き。矛と盾をぶつけ合うなんてステキじゃん。祭りじゃん。

矛盾はしてはいけないもの、という先入観ほどくだらないものはない。

だけど人から褒められたい。賢いと思われたい。グレートな奴と思われたい。だから矛盾的発言は慎まねばならぬ。…あ、ここにも矛盾が。

そんなわけで本日は『濡れ髪牡丹』です。よろしくどうぞ。

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◆時代劇なのに俗語連発◆

市川雷蔵の「濡れ髪シリーズ」を初めて観た。

一般に市川雷蔵といえば三隅研次の『剣三部作』『眠狂四郎』シリーズで知られるニヒルな貴公子、現代劇でも『陸軍中野学校』(66年)『ある殺し屋』(67年)などクールな役ばかりだが、どうやら「濡れ髪シリーズ」は大映京都が生んだ髷物喜劇であるらしい。

だが私、髷物喜劇で笑うような庶民的感覚など持ち合わせてはいない。なんなんだ、そもそも髷物喜劇って。ふざけるな。『超高速! 参勤交代』(14年)もくそつまらなかったしな。だから「濡れ髪シリーズ」にもハッキリと偏見を持つ。こんなもの見て喜ぶのはジジイかババアだけだろ!

90分後…

反省をした。

『濡れ髪牡丹』おもしろかった。

本作は「濡れ髪シリーズ」の第五弾にして完結編。なぜ一作目をすっ飛ばして五作目を観たのかといえばシリーズで最も名高い傑作だから。…ではなく、市川雷蔵と京マチ子のW主演作だからであーる。この二人が一度に見れるということはネ、例えるならシャネルの服着て頭ヴィダルサスーンみたいな贅沢なのですヨ。わかりましたね。

 


さぁさぁ『濡れ髪牡丹』。これはパロディ時代劇なのであるが、ただ単に洒落のめしただけの面白さではござらん。たしかに全編ギャグ調だが、ともすればハイブローで都会的、洗練された笑いが満載なのである。

その一例が時代考証のドン無視。

江戸時代の話にも関わらず、なぜか劇中にスリー・キャッツが出てきたり、撮影当時の俗語、流行語がガンガン使われるのである。「イカす」とか「アイラブユー」といった具合に。

これを受けた私、真っ先に連想したるは町田康という小説家(元パンクロッカー)である。ことに『パンク侍、斬られて候』という時代小説では、やはり江戸時代の話なのに、合戦のさなかに野に立てられたスピーカーから「イマジン」が流れるようなシュールな世界観を持ち、武士や藩主が「まじ?」などと現代の若者言葉を口にするのである。

このように時代考証が自壊した作品には『戦国自衛隊』(79年)とか『信長協奏曲』(16年)のような戦国時代タイムスリップものがあるわけだが、タイムスリップという「設定」に頼っている時点で生ぬるい。本作や町田康の小説のそれは時代考証の齟齬を「不条理な現象」として、その説明責任の一切を放棄すればこその魅力なのだ。

なぜ江戸時代の人間が現代語を使っているのか? 理由などない。ないから面白いんぢゃないか。

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市川雷蔵&京マチ子。チャーミーな二人。

 

ご都合主義パロディ

本作は三千人の子分を持つ女親分・京マチ子の婚活物語である。

文武両道のマチ子は「自分以上の男としか結婚しない」と言い張って恋人を募集するが、寄ってきた男は色目的や出世欲ばかりの半可通。マチ子のテストに次々と落第していく。果たしてそのテストとは、そろばん、剣術、礼儀作法、最終試験はマチ子との決闘といった具合である。

この最終試験に残ったものは風来坊の雷蔵のみ。数々の試験を難なくパスした大人物である。そんな雷蔵も最終試験でマチ子に敗れたが、どうも彼女の顔を立てるために手加減して負けた様子。これを察したマチ子は徐々に雷蔵のことが気になり始めるが、「男に頼らない」をモットーに強い女を演じている手前、なかなか素直になれない…。そんな二人のロマンチック・コメデーなのである!

 

兎にも角にも雷蔵がチートキャラだった。

剣術、柔術、忍術、砲術、催眠術を自在に操る豪勇無双で、おまけに算盤、料理、華道、書道、俳諧までたしなむオールラウンダー。困難をいとも容易く解決したあとに「○○は○○流免許皆伝の腕前じゃ。ウム!」と言って得意げに頷く。

これはご都合主義のパロディである。どんな問題もサラッと解決して「解決する術はもともと身につけていた」ということを後付けで説明してしまうのだから。

だが、そんな雷蔵も女心だけは分からない。二人をくっつけようとするマチ子の子分・大辻伺郎から恋のアドバイスを受け、言われるがままに恋愛術を身につける雷蔵。

大辻「私が思うに、どうも親分はアニキにホの字にレの字にタの字ですよ。だからアニキも愛し恋しのアイラブユーと仄めせばいいんでさぁ」

雷蔵「でもどうすりゃいいんだい」

大辻「やっぱりこれに限りますよ」

ぎゅっ。

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雷蔵「ふむ…。これか!」

パチッ。

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「これか!」やあらへん。

江戸時代にウインクて。


しかしマチ子、ただでさえ自分の心にウソをついて雷蔵への想いを否定しているというのに、雷蔵がその本心を見透かしたかのようにウインクを飛ばしてくるものだから「からかわれた」と勘違い、ますます強情を張って「なんだい、あんな奴!」とつっけんどんな態度に…。

されど視界の端に雷蔵を捉えてチラチラ見ちゃう。

嗚呼、微妙なりき乙女心。雷蔵に話しかけられたマチ子は一瞬パァッと明るくなって微笑みかけるが、途端、我に返ってしかめっ面を浮かべるのである。無論、このしかめっ面はポーズ。惚れた腫れたの駆け引きに負けまいとする精一杯の強がりなのだ。

そんなマチ子、大勢の酔っ払いにナンパされれば、わざと弱い女を演じて雷蔵の方をチラリと見やる。しかし雷蔵はニヤニヤするばかりで一向に助けてくれない。しょうがないから自分でぶちのめした。

そんな乙女心の内なるファイトなど一顧だにしない雷蔵、知ってか知らずか無神経なアプローチをかけ続け、ついにマチ子からビンタのお見舞い!

大スター市川雷蔵を叩けるのは京マチ子だけ!

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いきなり頬をぶっ叩かれて「ぶるしゅあ!」と叫ぶ雷蔵。マチ子の表情変化がかわいい。

 

そこへ人斬り三人組「流れ三つ星」が現れ、マチ子の跡目を狙う部下と結託したからサァ大変。天下無双のマチ子と言えど、腕利き三人が相手ではチィとばかり分が悪い。もちろん雷蔵の出番である。冗談みたいにあっさり二人を斬り倒し、残り一人が逃げ出せばその背に鉄砲を撃ち込んでこれを殺害。

「種子島砲術は免許皆伝の腕前じゃ。ウム!」

強すぎて活劇が成立してない。

映画がまったく盛り上がらないほど雷蔵が強い。これもまたメタ的なパロディである。ちょうど『ラッキーマン』とか『ワンパンマン』というマンガがそうでしたな。しかも「背後から撃つ」というヒーローにあるまじき卑劣な身振りも何のその。

極めつけは戦闘中に腕をケガしたマチ子に白衣を着た雷蔵が手術を施すラストシーン。

「オランダ医学は免許皆伝の腕前じゃ。ウム!」

なんでもあり、ここに極まれりである。ウム!

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もはや全能の神、雷さま。

 

◆雷蔵が雷蔵を演じる◆

『濡れ髪牡丹』はとてつもなくノンキな作風なので、見る者にあってはアホの子みたいに口を半開きにしたままボーッと楽しむべき作品であるが、一ヶ所だけ目を見張っていただきたいショットがある。それはマチ子が傘一本でナンパ集団を撃退するシーンに紛れ込んでいる。

マチ子のヘニャヘニャとした殺陣がなんとも脱力、おまけにセットもチープとくればヘソが茶を沸かすというものだが、本作を観た者は異口同音にこのシーンを褒めるのだ。

なんとなれば真上から捉えた長回しが印象鮮烈だからである。

マチ子がパッと傘を開いた途端に真上の構図を取るカメラ。人も傘もくるくると弧を描きながら斬り合いが続く運動美。そして次のカットでは池庭の手前からマチ子を捉える…という風に、本作の殺陣シーンには被写体とのあいだにやや不自然な距離がある。だもんで、当然アクションの迫力は摩滅しております。剣戟映画を冷めた目で見つめるようなパロディ精神だけがダラッと横たわっているのだ。

その冷めた目こそが「真上の構図」。古典ミュージカル『四十二番街』(33年)が発明したバークレー・ショットを時代劇に移植したという意味でも、やはり本作は時代劇という枠を自己解体したパロディ映画なのである。

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さて、行きすぎたパロディ精神は雷蔵とも黙契する。

映画俳優に転身するまえは歌舞伎役者だった市川雷蔵が劇中で歌舞伎を披露しちゃうのである(超レア!)。

これを見て「河原乞食」とディスったマチ子に歌舞伎の歴史を滔々と説く雷蔵は、かつて「市川雷門」の芸名で歌舞伎修行を積んだと豪語する。もちろん免許皆伝の腕前。

すなわち市川雷蔵が市川雷蔵を演じている、ちゅうわけだ。

こうなってくると、もうほとんどダーレン・アロノフスキーである。

『レスラー』(08年)

『ブラック・スワン』(10年)

『濡れ髪牡丹』(61年)

こういう話になってくるわけです。

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歌舞伎を披露する雷蔵(セルフパロディ)。

 

事程左様にメタ、ギャグ、パロディのつるべ打ち。多重構造化されたユーモアが四方八方から押し寄せるイカレムービーの決定版なのである。

公開当時とは文化的位相の異なる現代は笑いも映画も複雑多岐を極める。だが現代人はすでにメタ思考を手にしているので、たとえば『デッドプール』(16年)のようなメタ映画を観てもすんなり理解できるわけだ。テレビをつければ楽屋ネタや業界用語が当たり前に飛び交う。内側と外側で区切られていたものが混然一体となった反制度的文化様相がぼくたちをとりまく! それが21世紀だ!!

したがって、当時の観客より現代のわれわれの方が何倍も深く自由に楽しめる作品、それが『濡れ髪牡丹』だというわけじゃ。ウム!

 

~本日のハイライト~

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ぶるしゅあ!

 

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