田舎ホラーとメンヘラ恋愛劇。そして若尾はクッタリする。
1965年。増村保造監督。若尾文子、田村高廣、潮万太郎。
やっとつかんだこの愛!もう放さない、誰にも渡さない!激しく、いたましい女の叫びが、あなたの胸に鋭く迫る!日露戦争当時、貧しい農村の娘が村の模範青年と結ばれるが戦争に奪われる夫との別離の辛さに耐えかね発作的に夫の両目を刺し潰すという激しくも哀しい純粋な女の姿を描く感動的問題作。(Amazonより)
おはようございます。
183センチ55キロの私にとって最も苦手な話題はダイエット。BMI測定不能なほど病的にガリガリなので、体型とか体重について何かコメントをすると意味内容の如何を問わず「嫌味」に直結してしまうのだ。
過日、ある男性から「最近太ってきたのでダイエット始めたんです」と言われた。さっそく言葉に詰まった。見たところ、その男性、体つきはいいが太っているようには見えない。むしろマッチョ体型なので羨ましい限りだ。
しかしここで「そうは見えないけれど…」なんて言おうものなら「そりゃ、まぁ、あなたにとってはね…」と思われてしまう。何しろ私は枯れ木みたいな貧相ボディ。シルエットなんてほぼ『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』(93年)。
そんな私が「太ってないですよ」ということを遠回しに言うのは、なるほど、嫌味と取られても仕方ないのかもしれない。しかし事実は事実。その男性はべつに太ってなんかいないのである。
事実を言うだけで嫌味になるなら もう何も言えねえ。「た、た、た…大変ですね…」とだけ吃音みたいに言って、あとは容疑者のように押し黙った。
ガリガリにはガリガリなりに色んなコンプレックスがあるのだけど、これを言うとまた嫌味になってしまうんでしょう? めんどくせ。人間めんどくせ。
そんなわけで本日は『清作の妻』です。加速度的に興味を引かない作品&読みづらい文章でお送りしている昭和キネマ特集も残すところあと3回と相成りました。すでに全ての評は書き終えているので、今現在の私は日本映画ロス。虚脱症状を引き起こして毎日ボーっと暮らしております。
◆清作って誰やねん◆
これまでに扱った12本の監督作はすべてそうだが、増村保造はヨーロッパ映画である。
無欲で抑制的で社会制約のなかに自己を押し殺す昭和の日本人の美徳(メロドラマ)に反抗する増村は、徹底して剥き出しの意志や欲望をぶつけ合う人間の姿を撮り続けることで日本映画の自然主義的な風土の爆破を試みた。
こうした増村の反自然主義思想はイタリア留学でフェリーニやヴィスコンティに師事した経験の照り返しであるが、帰国後に溝口健二と市川崑の助監督を務めたことでさらに加速していく。溝口は透過的であり市川は誇張的であるから、いわゆるメロドラマに満ちた風俗劇と一線を画しているという点において三者の思想は合流するのである。
このあと、増村がチーフ助監督を務めた溝口の遺作『赤線地帯』(56年)で若尾文子と出会ったことから監督としてのキャリアが始まっていくわけだが、今回取り上げる『清作の妻』は増村×若尾の集大成になりうる傑作だ。これをもって「昭和キネマ特集」の名目でおこなってきた増村研究にひとまずの終止符を打ちたいと思う(でも特集自体はもう少し続くという裏ぎり)。
この映画はずいぶん後回しになってしまい、最近になってようやく観たのであるが、長らく私の食指が動かなかった理由は『清作の妻』というタイトルにある。
清作って誰や。
さも「皆さんご存じ、あの清作です。その妻の話ですよ」と言わんばかりの思い上がりも甚だしいタイトルである。ふざけるな。清作を普遍化すな。
こちらは清作が誰なのかも知らないのに、そんな奴の妻の話ですなんて言われても余計に知らんわ。いわば「知らない」と「知らない」のダブルチーズバーガーだわ。要するに何か言ってるようで何も言ってないタイトルなのだ。
百歩譲って、もしポスターに清作なる人物が映っていたなら顔と名前がガチーンと合致、「あ、こいつが清作ね」と得心のひとつもするだろうが、とても悲しいことに本作のポスターには若尾文子しか映っていない。
ほな清作って誰や。
もはや本編を観るまで顔すらわからないのか。そんなレベルなのか清作って。謎のベールに包まれすぎやしないだろうか。清作の分際で生意気だ。しね。清作しね!!!
なんだかムカッ腹が立ってきて、逆に鑑賞意欲を掻き立てられました。
『清作の妻』の始まり始まりである。
日露戦争開戦前夜。東京で隠居老人の妾をしていた若尾文子は、ご隠居の死により遺産千円(現在の数千万円にあたるビッグマネィ)を手にして故郷の村へ帰ってきた。
村人たちに淫売と罵られながら物憂い気分で暮らしていた若尾は、除隊して村に帰還した模範兵の田村高廣(清作役)と出会う。おまえが清作か!
たちまち愛し合った二人は村人たちの反対を押し切って結婚。日がな一日、ぺっちょりとしたセックスを楽しんだ。だが、わるい噂が絶えない若尾と一緒になったことで村一番の人気者である田村(清作とは呼ばない)までもが村八分の餌食になってしまう。
そんな折、戦争が始まって田村が招集されたが、半年後にいい感じに負傷して再び村に帰ってきた。「いい感じ」というのはつまり、それなりに重症だが生命の危険はなく、身体に障害も残らず、かつセックスが楽しめるほどには運動能力が残余したダメージを喰らった、ということである。
若尾「いい感じに怪我したね」
田村「うふ。どうもありがとう」
二人は半年ぶりに甘くぺっちょりとした一時を過ごしたが、田村は傷の完治を待って戦線復帰するつもりでいた。どうしても戦場に行かせたくない若尾は思いつめた表情で五寸釘を握りしめる…。
ど、どうするつもりだ、その五寸釘を…?
…まぁ、そんなお話である。このあとの結末部は評の後半で触れております。
◆田舎ホラー◆
貧しい農村を舞台に繰り広げられる峻烈な人間模様。日露戦争下の物語なので大枠としては戦争映画の括りになるが、戦場でのてんやわんやとは直接関係しない銃後の人々、それもうらぶれた農村の人々を描いた作品なので、あくまで「人間」が中心化されている。
さらに本作、大まかにわけて二つの性格を持つ。
田舎ホラーとメンヘラ恋愛劇である。
どっちにしたって怖い。増村作品には「人間」と「環境」を描いた複合主題の映画が多いが、そう、どのみち怖いのだ。
この章では、まず「田舎ホラー」について論じていく。よろしくネ。
村人たちの間では若尾が隠居老人の妾をしていたことが知れ渡っており、女たちは尾ひれのついた噂話を流布、男たちはあわよくば枕を交わしたいと甘き夢想に浸っている。この、周囲からのジロジロとした奇異の目、軽蔑の眼差し、スケベ熱視線が実にヤな感じで、他人事ながら胃がキリキリしてきます。
そして誰もが口を揃えて言うことは「あいつはアバズレ」。ただでさえ無愛想で近所付き合いも悪いので若尾の評判は下がる一方だ(まさに実生活での俺。胃がキリキリしてきます)。
しかし、若尾が妾になったのは病気の両親の面倒をご隠居に見てもらうためであり、決してナチュラル・ボーン・アバズレではない。映画は彼女のバックグラウンドを通して本当はアバズレたくはないがアバズレざるを得ない…という「環境」を提示する。
余談だが、ご隠居の家から逃げ出すアヴァンのタイトルバックがすばらしいので画像を張っ付けておきます。
だが、若尾がどのような環境から妾になったにせよ、そこには一切感知しないのが田舎の因循姑息たる所以。それが村社会というものだ。つまり「若尾の環境」は「村の環境」によってチャラにされてしまうのである。
では、なぜ若尾はわざわざ故郷の村に帰ってきたのか? 莫大な遺産をゲットしたのだから、もっと住みよい場所でスローライフとか送ればいいじゃん。だがそうではない。彼女が迫害を受けてまでこの地に腰を落ち着けたのは徹底抗戦の狼煙。たとえよそへ逃げても、逃げた先でまた同じ隘路に立たされることを若尾は知っていた。
そして観る者だけが、本人すら知らないもう一つの理由に気付く。
無知で孤独な彼女はこの地でしか生きられないのだ。
よくテレビのコメンテーターがいじめを苦に自殺した小中高生に「苦しかったら逃げ出せばいいじゃん」とか「学校だけが世界じゃないじゃん」と言ってキマったみたいな顔をしているが、これはあまり現実的なアドバイスとは思えない。若尾のように逃げようにも逃げられない人民は多いので、まずは囲われた環境の中で最善の立ち回りをする術こそが目下肝要なのだ。いじめの例えでいうと親や教師にSOSを発信するための方法論である。
そして若尾が導き出した最善の立ち回りはひっそりすることだった。
この映画の若尾文子は史上類を見ないほどひっそりしている。自分のことを忘れてもらうために息を殺し、気配を消し、村の「環境」にその身を馴染ませてゆく。
するとえらいもんで、あれほど若尾の陰口を叩いていた村人たちは、少しずつ彼女に対して無関心になっていく。それどころか田村が除隊して村に帰ってくるとおかえりパーティーを盛大に開き、なかなか気のいい一面を見せたりもする(ゆえに怖い)。
この映画では明治時代の百姓の姿が生々しく活写されていた。
社会規範が統制された環境のなかで他人の顔色を窺ったり、長い物に巻かれたり、いわゆる「顔で笑って心で泣く」といった昭和の島国根性(ちょうど増村の『氾濫』のごとき小狡い駆け引き)とは対照的に明治の農村で暮らす半未開人の活力と野蛮さがブンブンに狂奔しているのだ。虐めるときはウンと虐めるが、思いやるときは人一倍思いやる…といった具合だ。
われわれ現代人にとっての「田舎」とは少しく解釈を異にした、きわめてビザールな環境が横たわっているのでござーる。
◆メンヘラ恋愛劇◆
最後の章では「メンヘラ恋愛劇」について論じるという約束でしたね。私は約束を守る男であるからどうか安心されたい。
若尾は極度のさびしんぼうで、田村が戦場に行った半年間を虚無僧のように物悲しいムードで過ごしている。愛する田村が戦死するんじゃないかと四六時中ソワソワしており、わけもなく森の中をフラフラしているような精神不安定ガールなのだ。
本作の若尾文子はとびきり凄艶で、「この女に関わるとイタイメ見るぜ」と全世界男児が本能的に危機するほどのエロティシズムを発散している。この只事ではない色香は演技指導の賜物ザッツオール。普段の張りのある声は低く渇いており、ちょっぴり猫背で、挙措も気だるげ。他の映画に比べてまばたきの回数も少ない。
なにより芝居が予測不能であること。
増村は1センチのズレも許さないほど役者の動きに細かく注文をつける鬼畜1センチおじさんであるが、どうも本作の若尾には「誤差5センチまでなら許すよ」とストライクゾーンを広げているような印象を受けた。若尾の動態がやや恣意的なのである。
最も感動したのは被写体の美しさだ。
若尾文子は撮り方や撮る人間次第で顔がコロコロ変わるタイプの女優で、作品ごとに(もしくは各シーンごとに)役が表情に乗ってなかったりブスに見えたりするわけだが、本作の若尾は全ショットに渡って「清作の妻」だった。異様に美しかった。さすが「若尾撮り」の増村。全体的に暗いシーンが多いなかで、若尾の顔だけに照明を当て続けた伊藤幸夫という照明技師のがんばりも褒めてやらねばなるまい。
また『トゥームレイダー』(01年)のアンジェリーナ・ジョリーみたいに後ろで括った髪を一束だけ垂らす…という計算も見事。不安に駆られる彼女の憔悴を乱れ髪によって表現しております。味な真似をする。
そんな若尾。田村がいい感じに負傷して帰ってくるとヤンデレのように甘え、再び戦地に行く日が迫ると「文子はイヤじゃ、文子はイヤじゃ~」と連呼しながらメンヘラに昇格。いよいよ出発当日に送別パーティーが開かれる最中、ついに五寸釘を手にした若尾は目にも止まらぬスピードで田村の両目をピュッと潰した!
これで兵役免除。自らの手で盲にした田村を一生介護して二人だけの愛の世界を完成させようとしたのであるるるるるる。
ここで二つの殺意が若尾を射抜く。ひとつは村人たちで、風のごとくシューッと野原に逃げ出した若尾をふん捕まえて殴る蹴るの壮絶リンチ、中には騒ぎに乗じてレイプを企む者もいた。
もうひとつの殺意は田村から発せられた妻への怒りである。軍人らしく戦いにいこうとした矢先に妻から目をダメにされ、ウォーリアーとしての輝かしいキャリアは完全に潰えてしまう。あまつさえ村人たちは「田村! 兵役を免れるために妻と示し合わせたな!」と邪推して夫婦ともども村八分に。こんな話ってあるかよ。
暴れ狂う夫婦のモンタージュ。
このあと、刑期を終えて出所した若尾と、その間に廃人になった田村が2年ぶりに再会するラストシーンが用意されているが、これについては多くを語るまい。愛の究極的な昇華に終わるということだけ耳打ちしておく。
増村作品におけるヒロインたちは「悪女」という一元的な言葉で理解できるほど一点透視図法では描かれていない。角度を変えれば哀れな女、また別の角度に立てばいじらしい女と、さまざまな貌を持った「人間」なのだ。
増村が忌み嫌う風俗映画では悪女をモンスターのように描くが、この男にとって映画とは「人間感情の相剋発展を描くもの」らしく、かかる信条においては悪女も淑女もひとりの人間の一側面、不断に変化する表情のひとつの相貌にすぎないのである。
追記
増村保造の作品を12本も取り上げておいてなんだが、当初の私は「保造(やすぞう)」という漢字が読めずに「たもつくり」とイカれた読み方をしていたことを正直に告白せねばならない。今となっては「たもつくり」の方がしっくり来てる。
昭和キネマ特集が終わっても増村たもつくりの作品は個人的に追っていくつもりだ。
最後は何でお別れしようかな。家の外でクッタリしている若尾の画像でお別れしよう(本作の若尾は基本疲れているのでいつもクッタリしている)。
クッタリ。
(C)KADOKAWA