また市川崑を叩く。せっかくの千景、お富士、あややが台無し!
1956年。市川崑監督。淡島千景、山本富士子、若尾文子。
日本橋を舞台に、一人の芸者がワンワンするという話。
おはようございます。
ゴォゴォ言ってるんですけど、外が。
たまにヒュオーともいう。『北斗の拳』に出てくる誰かしらの拳法使いが構えの姿勢でゆっくり息を吐き出す、みたいな感じでヒュオーともいう。しかも小便色みたいな空です。いやだな。朝から不快な気持ちがしました。
ほんとにさぁ、台風ってなんでこんなにちょくちょく来るの。構ってほしいの? 一人っ子なの? それともNHKの訪問員なの? そうしょっちゅう来られてもねえ。
百歩譲ってヒュオーは許す。小便スカイも許す。でも傘を折るのだけはやめて。雨と風のコンボがすごいねん。
ていうか「傘」という漢字には、なぜ「人」が4人も入っているんだ。むりだろ。2人が限度だろ。しかもこの漢字、正面から見た場合、4人が組体操のサボテンみたいな姿勢になってるし。
傘
ほらね。こんな姿勢で傘さして…どうやって歩くんだよ。むりだろ。下2人の負担を考えろ。腰への負担がすごいだろ。
そんなわけで本日は『日本橋』です。日増しに堅苦しい評論になっております。
◆罪状①市川幻想術◆
日本橋 日本橋
皆で渡ろよ日本橋
どこにあるのかよく知らない
だから渡るに渡れない
日本橋 日本橋
どこにあるのか日本橋
これはいま作曲中の私の最新曲「日本橋どこ」である。
そして本日取り上げるのは泉鏡花の同名小説を市川崑が映画化した『日本橋』。市川崑の初カラー作品だ。
本作『日本橋』における日本橋とは東京の日本橋(にほんばし)のことだが、大阪にも日本橋(にっぽんばし)があるので大変ややこしく、いま俺は激烈にイライラしています。なんで同じ漢字の橋が別個にあんの。なんでこんなややこしいことするのおおおおおおおおおおおおお。
そして俺を苛つかせる理由はもうひとつ別にある。
この映画、本当であれば昭和キネマ特集の最後を飾る作品に…と思って鑑賞したのだが、少しく具合の悪い出来だったので急遽もう一本べつの映画を観て、そっちのレビューで締め括ろうと思っているんだ。つまり次回が昭和キネマ特集の最終回です(吉報!)。
そんなこんなの『日本橋』、よっぽど評を見送ってやろうかと思ったが…どうしても文句が言いたいので俎上に載せることにする。それに付き合わされる皆さんは完全にとばっちりなので、まじで読まなくていいですよ。本当むりしないで。皆さんに読んでもらう為というより天国の市川崑に説教かますつもりで書いた文章なので。
配役は淡島千景、山本富士子(お富士)、若尾文子(あやや)。
聞いて楽しい、見て嬉しい、想って愛しい、触ってやらしい、といった豪華女優陣である。
淡島千景は当ブログ初登場か。もとは宝塚歌劇団の団員だったが、退団後は映画界に転向、松竹に入って小津安二郎の『麦秋』(51年)や木下惠介の『カルメン純情す』(52年)などでグングンにキャリアを築いていたが1956年にフリー転身。ちょうどそのタイミングで市川崑に声をかけられてこの大映作品に抜擢されたという経緯である。
ちなみにどえらい別嬪やで。西洋風のシュッとした顔立ちなんや。
千景(上)、お富士(左)、あやや(右)。
さて、誰もが気になるのは映画の中身!
日本橋で屋形を構える芸妓の千景。一番弟子はあやや。界隈きっての美人芸者・お富士を一方的に敵視している千景は、お富士にフラれた医学士・品川隆二と結ばれた。そこへかつての夫・柳永二郎が現れ千景に復縁を迫る…といった大筋である。
なるほど、まあまあ面白そうじゃないか。だが現実は過酷だ。
ビタイチ面白くないのである。
主題は不明瞭、筋運びは緩慢、ドラマも薄味、画も迫力に欠け、情感も抜け落ちている。
と言ってしかし、誰の目にも明らかな駄作というわけではなく、たとえば『バッファロー'66』(98年)が好きなどと甘えたこと言う映画学校のバカ学生に「傑作ですぞ」なんて嘘をついて見せてやったらコロッと騙されて「たしかに素晴らしいですね~!」などと本当はぜんぜん判ってないのに「傑作ですぞ」という言葉の刷り込みによって何となく傑作だった気にさせるほどには魅力もあるのだが、それゆえに猶更タチが悪い。
あまねく表現に対する私の金科玉条は「明らかな傑作か、明らかな駄作か。それ以外は無価値」。最も忌むべきは40~60点のハンパな洟垂れ映画。
つまりザッツ本作というわけである。
市川崑はシュルレアリスムの作家です。
現実と妄想、あるいは現世と冥界の境界線を瞬時に越境する術を持っていて、それまで賑やかだった場面がフッと暗転してあたりに静寂が広がる…といった幻想ホラーを突拍子もなく劇中の端々に放り込む、ちょっと気の触れた監督だ。
そしてこの演出を市川幻想術と言う(言わない)。この独特な演出が吉と出たのが『私は二歳』(62年)であり『女経』(60年)。そして凶と出たのが本作なのだ。
この市川幻想術は泉鏡花の幻想文学に符合するところが大きく、たとえば本作でもクローズアップにおさまった人物が長台詞を喋り始めた途端にあたりが真っ暗になる…といった演出が繰り返されるが、これが大失敗の要因であることに市川は気づかない。
長回しで撮っちゃってんだよ。
たしかに長回しは場の雰囲気を醸成するが、本作の場合は映像設計(クローズアップ&いきなり暗闇)によって雰囲気は十分に醸成されているので長回しを使う必要がないのだ。あまつさえ長回しのたびにドラマ進行はブツブツと寸断され、そこでの長台詞で状況説明や心情描写を一度に済ませてしまおうという薄汚い魂胆まで見える。
いいか。みんな。よく聞いてくれ。
長回しを便利使いするとロクなことにならんぞ。
先ほど論った「主題は不明瞭、筋運びは緩慢…」といった5つの欠点は全てこの長回しに起因します。
畢竟、映像技法それ自体を指して「斬新」とか「平凡」と評することはできない。評するべきは技法ではなく「その使い方」であり、それ如何によって相対的に評価されるべきなのである。
かかる市川幻想術の場合、なるほど一見して「革新的」に映りもするが、これは使い方を誤っているので実は「退嬰的」だと思う。
以前に市川作品を評したときに「市川崑は一流か二流か?」と言ったけれども、今回も思ったよなー、それは。駄作と良作の振れ幅がすげえ。
市川幻想術。急にあたりが暗くなり、現実世界が精神世界に一変する。
◆罪状②クローズアップの乱打◆
事程左様に、描こうとしているものがフィルムの表皮を上滑りしているけれども、ことによると市川の興味は顔を撮ることに集中していたのかもしれない。ふとそのように感じるほどチグハグな映画術に反して役者の顔だけはいい。
千景、お富士、あやや、それに脇の品川隆二や船越英二…。中でもやはり淡島千景の見せ方には相当な気合いが入っておりまして、まるでショット自体が「千景ええええ!」と絶叫しているような半狂乱のごとき千景愛にブッ貫かれているのであります。
お富士にフラれた男たちはことごとく千景と結ばれる。千景はいわば妥協された女。本命にフラれた男たちを慰める都合のいい受け皿なのだ。そんな受け皿女がようやく本気で愛せたのが品川隆二。彼もまたお富士に狂った恋の残党である。
「気持ちの上だけでも私を妻にしておくんなはれ!」
品川の心には未だお富士があることを知りながら、それでも千景はこの男を求めた。
そんな千景。愛した品川をお富士に取られやしまいかと一方的に敵愾心を向けるが、当のお富士は悪女どころか淑女。自分の意図せぬところで男を狂わせてしまうナチュラル・ボーン・モテ女であり、お富士はお富士で、ある意味では不幸な女なのだ。
そんな二人を傍で見ているのがあやや。近所のガキ大将(川口浩)によく虐められており、何かにつけて「やい、あやや。『♡桃色片想い♡』歌えよ!」と言って突き飛ばされてしまいます。
なんでそんなことするん。
地面にズサァーって転んじゃうあやや。かわいそうなあやや。
桃色のファンタジー。
しかし役者がどんなにいい芝居をしてもなぁー…。それを撮る側が愚図だとオジャン、ご破算、元の木阿弥なのである。
『日本橋』は女の哀憫がちらちらと見え隠れするところに情緒を持つ作品なので、頭のいい女優三人はなるべく撮られまいとするわけです。顔のクローズアップになると、まるでカメラから逃げるように目を伏せたり顔を背けたりする。正面からはっきり撮るのは下品なの。この三人にはそれが分かっていたの。
しかし市川は執拗なまでのクローズアップによって仮面の下に隠した女たちの哀しみを白日の下に晒そうとしたし、腰巾着の二流カメラマン・渡辺公夫も市川の指示通りに女たちの顔を追い回した。
長回しに続いて市川がやらかしたのはクローズアップの乱打である。
なお、市川とは真逆の作風を持つ一番弟子・増村たもつくりは、1958年7月号の『映画評論』の中でこのように論じています。
日本映画はクローズアップの豊かな表現力を利用して、抑揚乏しく変化の小さい、ほとんど無表情に近い日本人俳優の演技を補うことを考え出した。クローズアップは日常茶飯事に於ける、ほんの僅かな、かすかな喜怒哀楽の表情を見事に捉える。したがって深刻な思想的対立も、強烈な愛憎の激突も生来的に持たない日本的人物を、起伏の少いルーズで浮薄な――もしくは温和な風俗ドラマに組み上げて、ノロノロ展開させたとしても、クローズアップを巧みに使えば、結構小味ながら多彩で、退屈はしない映画ができ上がる。
かくして、日本に於いて、平板な風俗劇や、変哲もないホームドラマと称する日常風景映画が成立し発達する。更に悪いことは、クローズアップの心理表現力に頼って、文学作品を追い廻し、心理描写と称して、意味あり気だが内容空虚な思い入ればかりのクローズアップを多量に挿入し、小説の高級紙芝居化みたいな文芸映画をつくり上げる。これも又、クローズアップ濫用によって日本映画がおちこんだ泥沼に他ならない。
『映画評論』1958年7月号
このクローズアップ論、市川をディスってるとしか思えない。
「女の哀憫」を撮り続けた溝口健二はクローズアップを使わない。増村保造も使わない。成瀬巳喜男はここ一番という時だけ使う。
ただ一人濫用した市川の浅見がジワリ…もしくはニュルリ…と露呈する。
そんなわけで『日本橋』は品のない映画でした。なまじ三者の顔がよく撮れていただけに複雑な気分なのでした!
お富士のクローズアップ。リコーダーをピョロピョロ吹いてます。
◆罪状③映画がドラマの激情に追いついてない◆
その他、セットや色彩やキャラクター造形にも不満はあるが、長くなるので論うのはよす。だがこれだけはしっかりと批判しておきたい。
映画がドラマの激情に追いついてない。
花街炎上のクライマックス。屋形から民家へと火が燃え移っていく光景は『タワーリング・インフェルノ』(74年)ならぬ日本橋インフェルノといった具合でなかなかに凄絶。
ストーカーまがいの妄執ぶりを見せていた千景の元夫・柳永二郎は、この狂乱に乗じて日本刀片手に「フラれた恨み!」とかわけのわからないことを言って千景の屋形に押し入り、なんと千景と間違えてあややを刺してしまった!
なんでそんなことするん。
なんであややばっかりこんな目に遭うん。かわいそうなあやや。あややの魂フォーエヴァー。
そこへ千景が幽鬼のごとく現れ、刀を取って永二郎を斬殺、しかるのち硝酸を飲んで自害した。
む、むちゃむちゃやぁ。人がバタバタ死んでいきよるでぇ…。
硝酸飲んじゃった系女子(千景)。
いかにも壮絶、いかにも劇的な物語であるが、他を殺めるまでの情念のうねりはもうひとつ実感に乏しく、とてつもなくスゴいことがとてつもなくショボく描かれているという感じなのだ。映画がドラマの激情に追いついてない。
こうした映画と脚本の夫婦喧嘩はあまねく表現媒体で起こりうる。たとえば音楽だとメチャ壮大で複雑な曲を作ったはいいが演奏技術が足りなすぎ…という例。文学や絵画だとコンセプトは素晴らしいが描写力が劣る。マンガやアニメだと話はおもしろいが絵や構図がド下手…といった具合であろう。
なぜ本作がドラマの激情に追いついてないかと言うと、これはシンプルな話で、激情を撮り逃しているからです(長回しとクローズアップを濫用したため)。
良きにつけ悪しきにつけ市川崑は目に見えるものしか撮らない。
ゆえに『東京オリンピック』(64年)を撮り得たのだが。
そういえば来年は二度目の東京オリンピックだな。だれか気の利いた監督が市川の後を継いでドキュメンタリー映画でも撮ればいいと思うのだが、今の日本映画界には市川崑を超える作家すらいないのでは仕様があるまいな。
(C)KADOKAWA