ウィ――――ンとプルルヒィ――――だけが耳に残る不思議な映画。
2017年。アンドレア・パラオロ監督。シャーロット・ランプリング、アンドレ・ウィル
ム、ステファニー・バン・ビーブ。
ベルギーのある小さな都市で、夫とともに慎ましやかな生活を送っていたアンナだったが、夫が犯したある罪により、穏やかだった生活の歯車が少しずつ狂い始めていく。やがてその狂いは、見逃せないほど大きなものとなっていき…。(映画.comより)
よ、おはちゃん。
私にとって「間違えやすいミュージシャンの名前ランキング」第3位はママス&パパスです。ママスが先かパパスが先かっていう紛らわしい二択を迫られるあたり。どっちも大事な両親だしなぁ。
あ、いまタコス&辛スっていうギャグを思いついて、あまりの程度の低さに一人で笑ってます。
あと、私にとってはイーグルスとウイングスも間違えやすいバンド名であるよなー。イーグルスは「ホテル・カリフォルニア」で、ウイングス(ポール・マッカートニーのバンド)は「007 死ぬのは奴らだ」とかですよね。両バンドの楽曲は識別できるんだけど名前を混同してしまうンだ。レイチェル・ワイズとエーデルワイスみたいに。
あ、やば。エーデルワイスと積水ハウスも混同しそう。だめだな。こういうところを直していかないと立派な大人になれないな。
立派な大人になりてえな!
ヤケクソみたいな前書きも終わったことだし、本日は『ともしび』です。ともしんで行きましょう。
◆71歳のヌードシーンが見れるよ◆
久しぶりに人と語り合いたい映画を観たが、たぶん誰も観ていないものと思われて、さみしいです。
いつもは誰かと映画を観ても鑑賞後に意見交換はしない。特に人の意見に興味はないし、私の方も見終えたばかりで感想や評価が定まっていない状態で話をしたところで薄っぺらい言葉しか出てこないからだ。
どっこい、『ともしび』は数少ない例外でした。もし人と観ていれば「さて、話しましょうか」と膝を付き合わせて小一時間ほど議論したくなるような映画だったのだ。詳しくは後述します(しないかも)。
この『ともしび』という映画は『まぼろし』(00年)と『さざなみ』(15年)に続くシャーロット・ランプリングの平仮名4文字シリーズである。次は何がくるんだろう。『かさぶた』?
この限りなくフランスの香りをまとったイギリスの女優は『地獄に堕ちた勇者ども』(69年)や『愛の嵐』(74年)で知られる大ベテランだが、むしろ50代半ばに差しかかった2000年代からがゴールデン・エイジ。フランソワ・オゾンと出会ったことで完全開花した女優である。また、69歳のときの主演作『さざなみ』が全米の映画賞を席巻したのが記憶に新しい(『さざなみ』は低予算イギリス映画なのでこのトピックスはごく控えめに言って大事件である)。
そして本作のシャーロットは71歳。ついに重力に屈服した脂肪はダルダルに垂れ下がり、顔も心なしか『ゴッドファーザー』(72年)のときのマーロン・ブランドみたいなブルドック顔に。誰がどう見ても紛うことなき老婆であるが、なんとこの映画には彼女のヌードシーンが用意されているゥ!
そりゃあ『愛の嵐』で伝説のヌードを披露し『まぼろし』でも54歳のセックスシーンを演じ抜いた女優なので大して驚きはしないが、それにしても71歳(それも大ベテラン)のフルヌードを撮ったのが1982年生まれの新人アンドレア・パラオロとは。さすがパラオロ。おまえは誰なんだ。
シャーロット・ランプリングさま。
かなりの余談だが、THE YELLOW MONKEYの「MORALITY SLAVE」の一節「ナチスのお帽子 サスペンダー レザーパンツ バストは89」という歌詞は『愛の嵐』のシャーロット・ランプリングのことかと思われます(画像左)。
◆人生は蟻地獄◆
『ともしび』は物語ることを拒否した映画である。
何やらのっぴきならない状況に立たされたシャーロットの日常を淡々と映し出した作品なのだが、その何やらのっぴきならない状況が何なのかは一切明示されないし、示唆すらされない。
映画は「プルルヒィ――――――――――――――――ッ!」というシャーロットの凄まじい奇声に始まる。ブレスなしで何十秒も「ヒィ――――!」を叫び続けているので顔はリンゴみたいに紅潮、デコの血管はブクブクに浮き上がっている。71歳にしてこの肺活量である。
どうやら彼女はなにかの集会に参加しているようだが、そこでは大勢の人間が台本の読み合わせをしたり悩み事を打ち明け合っていて、これが何の集会なのかがいまいち分からないのだ。演劇サークル? 自助グループ? 自己啓発セミナー?
そのあとに長年連れ添った夫が何かの罪を犯して収監される。夫が何の罪で捕まったのかは例によって明かされない。一人きりになったシャーロットの家には毎日のように無言電話が掛かってきて、誰かがアパートのドアを叩きながら「あの子はまだ子供なのよ!」と叫ぶ。そして彼女が孫の誕生日会に行こうとすると「来ないでくれ」と息子に断られてしまう。
ここから彼女の日常が少しずつ崩れ始めていく…。
って、いやいや待って。それ以前にわれわれ観客はいま何が起きていて何が原因でどうなっているのか…という事態の把握がまったく出来てないわけよ。
その後「私はノットギルティだ」と言い張る夫に面会したシャーロットは「封筒を見つけたわ。写真見たわよ」と言い放ち、その足で集会に参加するも途中で気分が悪くなって家に帰ろうとし、地下鉄に乗り込んだところでプツッと映画は終わる。
刑務所に向かう夫と付き添いのシャーロット。
全き静寂に包まれた欠語的映像の連鎖がひたすら続く。何も語られないし、どこにも辿り着かない映画だった。ただ花瓶の花を入れ替え、地下鉄に乗り、プールで泳ぐ…といったシャーロットの慎ましい一日が重なっていくだけ。
なるほどな。これは「映画の読み方」よりも「映画の勘」によって理解される作品なのかも。
いくつかのレビューサイトを巡ったが、ストーリーと戯れている映画ブログがことごとく批評を封殺されているのがおもしろかった。何しろストーリーが分からないんじゃあニッチもサッチもどうにもブルドッグ。
この映画、そもそも登場人物がまったくの無口なのだ。人と滅多に会わないシャーロットの孤独な生活を見せた作品なので言葉が生起する余地がないのである。
だが言葉では直接語られずとも、示唆に富んだ映像言語に目を向ければ大方の察しはつく。おおよそ夫がよその子への性的虐待で逮捕され、人生の黄昏時にひとり残された妻の空虚な日々を描いた作品といったところなのだろう。
収監された夫は自分の息子を憎悪していたので、ことによると夫が手をかけたのは孫だったのかもしれない。そして夫に対して半信半疑だったシャーロットはある写真を見つけたことで「こいつギルティだ!」と確信する。その写真に何が映っていたかは当然示されないが、事ここに至っては示すまでもなかろう。
だが、こんな絵解きをしても仕様がない。本作は「夫が何をしたか?」を推理する映画ではなく「夫のした事がいかに妻の人生を変えたか」を直視する映画だからである。
「日常の崩壊」と呼ぶほどドラマチックなものではないけれど、シャーロットの日常は少しずつ不調をきたし始める。飼い犬はエサを食べなくなり、フィットネスクラブの会員証が失効してしまい、プールでの日課の平泳ぎはガキの飛び込みによって妨害される。
一つ一つは大した出来事ではないが、まるでボタンを掛け違えたような僅かな違和感が彼女の人生に不吉なレイヤーを重ねていく…。
この映画はなぜか上手くいかないイムズが感覚化された作品だと思う。ご経験ないですか? 何の因果関係もないのに悪いことが次々起こる。まるでブニュエルやアルトマンの映画みたいだ。人生は蟻地獄。
夫が逮捕された日からなぜか物事がうまく行かなくなる。
◆電動カーテン、ウィ――――――――――――――――ン!◆
『ともしび』は、人が映画を「観」ているのか「見」ているのかを厳しく判断するリトマス試験紙のような作品だ。
シャーロットの感情はスクリーンから排除されているので、観る者は彼女の感情も思考も行動原理も掴めぬまま、ただこの甲殻類のような無愛想な顔を見続けることになる。
シャーロット・ランプリングは殻をまとった芝居をする女優だ。感情を定着させることも発散させることもなく、むしろそれを肉体の殻で覆い隠すことによって感情だのドラマだのといったものをカメラに委ねる女優である。
だから当然、夫がいなくなったことで不安を抱えるようになっても「不安を抱えてます」といった芝居は一切しないし、さらに言えば「不安を表に出さないようにしてます」といった抑えた芝居もしない。だから映画は、彼女の不安感を隣室から漏れてくる騒音や地下鉄で乗り合わせたヒステリックな人々といったもので代弁するわけだ。
なお、クライマックスでは海辺を歩くシャーロットが岸に打ち上げられたクジラの死骸を目撃するが、これは『甘い生活』(60年)の安易な模倣だった。豊かな鏡面のモチーフには好感を持てるが、このクジラはあまりにも“やり過ぎ”だ。
でけぇクジラを見つけちゃったシャーロット。
駅の改札横でデヴィッド・ボウイの「Modern Love」をアップテンポで弾き語りする若い男と、その前をのそのそと通り過ぎるシャーロットの緩慢な歩き方が良く対比されていた。
そう、これから本作を観ようとしている前途ある読者に一言だけエールを贈っておく。
むちゃむちゃ眠い映画だけど、頑張り。
ストーリーが分からないから…とか、無言&無感情だから…など多くの眠み要素はあるが、最も眠みを誘発するのは動作の緩慢さ。これひとつ!
あまつさえ緩慢なのは71歳のシャーロットの肉体だけでなく、たとえば電動カーテンが自動で開ききるまでの約1分間をロングテイクで撮ったりなんかもしてんのね。
カーテンの「ウィ――――――――――――――――ン!」という喧しい機械音と、シャーロットの「プルルヒィ――――――――――――――――ッ!」という絶叫だけが耳に残った。
なんちゅう映画体験してんだ、オレは。
飼い犬も(老犬なのか)ほぼ動かないし、彼女が家政婦として働く家の子供も全盲ゆえにキッズ特有の無邪気さはない。ひとつだけ速く動く被写体があるとすれば地下鉄である。
だが、それに乗っても彼女の時は止まったままだ。
超緩慢な映画。だからといって早送りで見ちゃヤーよ。
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