私的トニスコ最高傑作。ファンの狂気と悲哀を描いた謎泣きストーカー映画!
1996年。トニー・スコット監督。ロバート・デ・ニーロ、ウェズリー・スナイプス、エレン・バーキン。
地元球団の大物スラッガー、ボビーの大ファンであるギルは、仕事の予定があったにも関わらず、別れた妻の元にいる息子を開幕戦に誘った。だが商談には間に合わず会社をクビになったばかりか、息子を置き去りにした事で怒った妻からは子供に近づいてはならないとの裁判所命令を受け取る。自暴自棄になるギルの唯一の心の拠り所はボビーだけだったが、彼もスランプで試合の結果はかんばしくない。彼を救おうと思い立ったギルは、その原因と思われる選手の命を奪うのだった…。(Yahoo!映画より)
おはようございます。
昨夜、豚キムチを作ってて食材を床にぶちまけてしまいました。なんでこんな事にならなあかんのよ、と思いました。嫌な思い出になった!
日常生活において最も絶望する瞬間ってモノをぶちまけた時だと思うんです。
そしてモノをぶちまけた瞬間には人それぞれの感嘆詞があると思うんですね。「あっ」とか「うわっ」とかさ。
ところが私の場合は感嘆詞ではなく「具体的な台詞」になっていて、ぶちまけるモノによって反射的に口にする台詞が違ってくるので、これをご紹介します。
まずキッチンでぶちまけた豚キムチの食材みたいに、何かが高所から床に落下した場合は「クソがっ」と呟きます。これが落下ぶちまけのパターン。
次に、グラスなどを倒して飲み物をぶちまけてしまった場合。これは「もえって」と発してしまうのです。標準語に直すと「もういいから」という意味です。これがドリンクぶちまけのパターン。
次は、付属のタレが入った袋を指で切ろうとして中の液体をビャッとぶちまけてしまった場合。このときは「頭が悪いのか?」と低温気味に呟きます。誰に対して言ってるのかというと、こんな開けにくい袋を作った商品開発部に対して言ってるわけです。これが付属ぶちまけのパターン。
そして最後はポテトチップスの袋のように無理やり引っ張って中身をぶちまけてしまった場合。そういうときは「こうなる思たわ」と叫びます。力任せに開けようとして中身をぶちまけてしまった場合というのは、だいたい結果が予想できてるわけです。ぶちまけるリスクを覚悟した上での行動ですから「案の定こうなったか」という意味でこの言葉を叫ぶわけですね。これが剛腕ぶちまけのパターン。
ぶちまけシーンにはこの他にも様々なぶちまけがあるのだけど、今回は選りすぐりの4つ(ぶちまけメジャー)をご紹介しました。
それでは映画評に移りましょう。3連続で酷評回が続いているので本日は褒め回の『ザ・ファン』をお送りします。
◆野球狂いじゃなくてもデニーロは元々狂ってる◆
はっきり言っておこう。私は『ザ・ファン』のザ・ファンである。
トニー・スコットに対する世間のイメージはそりゃあ酷いもので、『トップガン』(86年)、『トゥルー・ロマンス』(93年)、『クリムゾン・タイド』(95年)で知られる職業監督と思われており、それゆえに「リドリー・スコットの愚弟」と軽んじられたまま2012年にカリフォルニア州サンペドロの橋から飛び降りて死んでしまった。
ここでは無暗にリドスコの無能さを暴き立てることでトニスコを相対的に持ち上げるような戦略的批評はしないが、どうか達見の皆さんには今一度トニー・スコットを再評価して頂きたいと思うのです。そのためには『クリムゾン・タイド』か『サブウェイ123 激突』(09年)あたりを取り上げるべきなのだろうが、今回わたくしめが鑑賞したのは『ザ・ファン』。これは10年に一度ぐらいのペースで観返したいお気に入り映画です。
どういった中身か!
熱狂的な野球ファンの男がスター選手への執着心からストーカーと化す…といったコテコテのサスペンスなのだが、どーも何かの琴線に触れて思わず泣いてしまう作品でもあるのだな。感動要素なんてゼロなんだけど。
ストーカー役はロバート・デ・ニーロ。全盛期キワッキワの頃である。そんな彼につきまとわれる大リーグ選手役にウェズリー・スナイプス。たまにヴァンパイアを殺したり脱税したりする人です。
ほかにもプロ野球番組のDJ役にエレン・バーキン、ウェズリーのエージェント役にジョン・レグイザモ、同チームのライバル役にベニチオ・デル・トロなど「90年代の顔」がゾロッと揃ったキャストアンサンブルが見もの。下積み時代のジャック・ブラックが一瞬映っているのもこの際見もの。
トラヴィスとブレイドの対決やで。
二人の対決を見守るのはエレン・バーキンとレグイザモやで。
以前、ある女の子が「ロバート・デ・ニーロってすごく優しそうな俳優だよね」と私に言った。『レナードの朝』(90年)と『マイ・インターン』(15年)の役柄からそのような印象を持ったのだという。やれやれと思ったが、面倒臭いので「そうね」と話を合わせておいた。
今にして思えばこの映画を勧めておけばよかったと後悔している。
本作のデニーロは熱狂的なジャイアンツファン。自身も元プレイヤーだったことから、別れた妻のもとにいる息子と野球観戦に行くことだけが生き甲斐の冴えないセールスマンだ。
だがこの男の野球愛は常軌を逸していた。野球観戦に夢中になるあまり「18時までに息子を帰して」という妻との約束を破り(のちに接近禁止命令)、ファールボールが飛んできたら息子を突き飛ばしてボールを取りに行き(ケガを負わせる)、よそのキッズがボールをゲットすると「チッ、クソガキめ!」と毒づく始末(危うく殴りそうになる)。
また、息子が母と義父に見守られながら少年野球をしているところに接近禁止命令を無視して近づいていきスイングの仕方をレクチャー。止めに入った再婚相手をバットで威嚇し、元妻は怒り狂って号泣、息子もおびえて号泣。最低のトラブルメーカーなのであった。
野球を愛しすぎた男。
そんなデニーロ、普段はナイフ販売会社でしがないセールスマンをしているが、営業先でよく人を脅すのでクビにされてしまった。
もうこうなった以上、デニーロにとっての生きる希望は4000万ドルの契約金でホームタウンに戻ってきた大物スラッガーのウェズリーだ。野球番組の生電話でウェズリーと通じたデニーロは「アンタがジャイアンツ入りすれば鬼に金棒。期待してるぜ!」と応援し、ウェズリーの方も「ありがとう。俺たちが頑張れるのはファンのお陰だ」とデニーロに感謝した。
だが入団後のウェズリーはスランプに陥り世間から大バッシングを受け、それと反比例するように同じチームのベニチオが英雄扱いされていく。しかしデニーロはまったく打てないウェズリーを責めるどころか逆に擁護し、ウェズリーから玉座を奪い取ったベニチオを逆恨みしてサウナの中で殺害してしまう。自社のナイフで。
翌日の球場では試合前にベニチオの追悼式がおこなわれた。有名歌手が悲しいバラードを歌ったが、それを苛々しながら客席で見ていたデニーロは…
「早く試合しろよ!」
鬼かおまえ。
その試合でウェズリーはホームランを打ちまくったが、ヒーローインタビューでスランプから脱した理由を訊かれて「わからない」と言った。この言葉を聞いたデニーロは目の色を変え、額に血管を浮かび上がらせる。
「わからない? わからないだと? 俺があいつを葬ってやったからだろ…?」
あ、急に怖くなってきた…。
その後、別荘で息子と休暇をとるウェズリーを遠くから監視していたデニーロは、海で溺れた息子を偶然救ったことでウェズリーから感謝されて別荘に招かれる。ここで初めて両者が顔を合わせた。
善人を演じるデニーロにすっかり心を許したウェズリーは「ファンは信用できない。これからはファンの為じゃなく自分の為に野球をするつもりなんだ」と何気なく呟いた。その言葉に愕然としたデニーロは、ウェズリーの息子を誘拐して「明日の試合でオレの為にホームランを打て」と要求する。
「そして『オレたちが頑張れるのはファンのお陰だ』と言え!」
息子の命が懸かった翌日の試合。ウェズリーはヒットすら打てないまま8回裏で雨が降り出した。放送席に匿名の電話が掛かる。
「今夜は野球史上に残る大変な試合になる。恩知らずには天罰が下るのさ…」
怖い怖い怖い怖い。
◆現場と指令室◆
デニーロが仕事に向かう車中でプロ野球のラジオ番組を聴くファーストシーン。デニーロはジャイアンツ入りしたウェズリーについてDJのエレン・バーキンとしばらく議論したあと、憧れのウェズリーと生電話を繋いでもらってエールを贈る。
だがウェズリーへの憎悪を剥き出しにする映画後半では、彼の息子を誘拐して車まで盗んだデニーロは真夜中のハイウェイを飛ばしながらウェズリーの別荘に電話をかけ「明日の試合でホームランを打て」と要求した。
このふたつの「車中の電話」は映像的に類似しているが、電話越しの「協調と対立」によって二者の関係性の変化を簡潔に示してもいる。ここにトニー・スコットの作家性がよく出ていた。
原則としてトニスコの映画は二つの空間の細かいカットバックで構成されている。
そしてその空間とは遠隔通信によって情報伝達がおこなわれる「現場」と「指令室」である。
『クリムゾン・タイド』では軍司令部と通信する潜水艦内の様子が描かれ、『エネミー・オブ・アメリカ』(98年)では国家安全保障局の偵察衛星による監視と追跡、『スパイ・ゲーム』(01年)でも会議室から現場へと指令が下され、『サブウェイ123 激突』もまた地下鉄ハイジャック犯と運行指令室の職員が無線越しに交渉する映画である。
つまりデニーロが電話をかける車中は「指令室」であり、ウェズリーはそこが何処であれ「現場」の側の人間…という構図におさまる。もちろん現場の人間よりも指令室であれこれと命令をくだす人間の方が立場的に優位なのは明らかなので、デニーロに振り回されるうちにウェズリーにとっての「現場」はクライマックスの球場になるわけだ。
脅迫電話をかけるデニーロ先生。
だが本作のサスペンスは電話による遠隔通信ではなく二度にわたる対面に宿る。
一度目は海でウェズリーの息子を助けたデニーロが別荘に招かれるシーン。デニーロはわざと野球に疎いふりをしているので、自分が以前ラジオで喋ったファンだとは気づかれていない。
そして二度目の対面、これは大雨の球場でランニングホームランを決めたウェズリーが「アウト!」と言った審判のマスクの奥にデニーロの相貌をみとめた瞬間である。
ウェズリー「この審判…こいつだ! こいつが犯人だ!」
警察 「わぁー。取り押さえろー」
いよいよ追い詰められたデニーロは自社のナイフを振り回します。好きだな、自社のナイフ。
何が言いたいかというと「二度の電話」ではウェズリーがサスペンスの対象(劣勢ゆえに観客から心配される側)だったが、「二度の対面」ではデニーロがその対象になるということだ。
本作は『恐怖のメロディ』(71年)や『ケープ・フィアー』(91年)のように主人公がひたすら追い詰められるようなオーソドックスなストーカー映画ではなく、いわば主人公とストーカーが対等な立場にある。電話で追い詰めたデニーロは対面で追い詰められる。逆も然りだ。
ところでこのラストシーン、デニーロが審判を装って場内に紛れ込んでいた…というのがなんとも滑稽で、おそらく全観客が「中継見てれば安全だったのに」と総ツッコミしたであろうお間抜けシーンである。まぁ、「オレの為にホームランを打て」なので一番近いところで見ないと意味がなかったんだろうな。
デニーロ「オレは昔ピッチャーだった。ピッチャーは頭がキレるんだぜ!」
どうやら頭のキレる人間は審判になりすますというアイデアを思いつくそうです。
まぁ、半笑い感は拭えないラストだが、演出のキレはいい。「マスクの奥に相貌をみとめる」という極上のサスペンスと、それを昇華させた一度目の対面がうまく作用した素晴らしい画運び。「見る側」だったデニーロが「見つけられる側」に滑り落ちるという皮肉も効いていて。
この二度にわたる電話と対面をサスペンスフルに配置したトニー・スコットが愚弟だってさ。冗談はおよしなさいよ。
雨もいい。
◆ベストピッチを見せてやる…◆
ことによるとやや荒唐無稽なプロットかもしれないが、もちろんそんな事はどうでもいい。何といっても本作のおもしろさはデニーロが演じた野球狂いのストーカー。その人物造形にあるのだからァ。
スランプのウェズリーに喝を入れたり怒りを露わにするどころか「オレだけがウェズリーの理解者だ。オレだけがあいつを救ってやれる」と誇大妄想に駆られていくデニーロがゾッとするほど不気味なのである。
ロバート・デ・ニーロといえば狂気的な役で知られる役者だが、正確を期すなら誇大妄想の役者である。極度の不眠症から歪んだ正義感に駆られる『タクシードライバー』(76年)や、出所したあとに自分の弁護士を逆恨みする『ケープ・フィアー』などに顕著だが、本作に最も近いデニーロ・エッセンスは『キング・オブ・コメディ』(82年)での役。お笑い芸人を目指すデニーロが有名コメディアンからの社交辞令を真に受けて「オレ、あの人にハマってる!」と勘違いした果てに、そのコメディアンを誘拐して生放送のお笑い番組に出演する…というイカれた男のアメリカン・ドリームを描いた作品だ。
『キング・オブ・コメディ』はマーティン・スコセッシが撮った数少ない傑作のひとつだが、それでもデニーロの狂人ぶりはやや単純化されていた(それゆえに面白いのだが)。対して本作ではより人間的なヒダが微細に表現されていて、ただの野球キチガイに終始しないあたりがいい。
少年時代はリトルリーグのスターだったデニーロは栄光の残滓をウェズリーの夢に託すことで人生を取り戻そうとしている哀れな男。そして人格破綻者ゆえに仕事も家族も失い、野球だけが残った。命よりも大事なジャイアンツの救世主ウェズリーだけが全てだったのだ。
彼の息子の命の恩人になったデニーロは「お礼になんでも言ってくれ」というウェズリーに何を求めたか。莫大な金? サイン付きユニフォーム? それともエージェントの地位? 違うね!
「アンタに投げてみたい」
あまりの純粋さに不意打ちされて思わず目頭熱夫である。
夜の浜辺でキャッチボールする現役メジャーリーガーと夢破れし元ピッチャーの中年。ここだけ見ると実に感動的な映画だが、ウェズリーがポロッとこぼした「これからはファンの為じゃなく自分の為に野球をする」発言がデニーロを狂気沙汰へと向かわせたのよねぇ…。
どうやらデニーロは「ファンとプレーヤーは持ちつ持たれつ」という野球哲学を持っているらしい。プレーヤーはファンに感動を与え、ファンは感動の対価としてチケットを買って応援する、という理屈だ。
蓋し尤もなことであるよなー。私は野球に関してはズブの素人だが、たとえば音楽とかだとさ、自己陶酔してるミュージシャンっているでしょう。コンサートで延々ソロ弾いて自分だけ気持ちよくなってる奴とか。映画でも何でもさ。「アンタのオナニー見せつけられても…」と思うような作品って多いじゃない? 腹立つよね。
たしかに誘拐殺人なんでもござれのデニーロは明らかに異常だが、その「行動」が異常なのであって「行動原理」それ自体にはむしろ理解すら示せちゃう。
『ザ・ファン』は、そんな狂人デニーロがどんどん愛おしく思えてくる作品なのである。
ウェズリーの息子を誘拐したデニーロは、昔リトルリーグで共に戦った幼馴染み チャールズ・ハラハンの家を訪ね、ラチった息子を紹介して「こいつはオレの子だ!」と言った。
でもウェズリーの息子は思いっきり黒人なのよ。
もちろんこのウソは0.1秒でバレた。なぜこんな見え透いたウソをついたのか。愛おし過ぎるぞ、デニーロ。
ウェズリーの息子にキャッチボールを強いるデニーロ(強く投げて息子を泣かせる)。
話が前後して申し訳ないが、翌日の試合、つまりクライマックス。
警察隊が目を光らせる大雨の球場で審判になりすましたデニーロはランニングホームランを決めたウェズリーに「アウトー! アウトったらアウトー!」とムキになって連呼したせいですぐ正体がバレる。アウトになったのはデニーロの方でした。
ずぶ濡れのグラウンドで警察に囲まれたデニーロは観念すべきか抗うべきかで少し考え、意を決した。ウェズリーに向かって「ベストピッチを見せてやる…」と言い、自社のナイフを握って投球フォームに入ったのだ(自社のナイフ活用しすぎ)。浜辺でのキャッチボールが最悪の形で繰り返されたわけだが、なぜか私は目頭に熱い感覚をおぼえていた。
警察の一斉掃射を浴びて蜂の巣にされたデニーロは、駆け寄ってきたウェズリーに「礼ぐらい言ってくれてもいいだろう…?」と言って笑った。
「少しはファンを気にかけるようになったか?」
エンディング曲のなかで映し出されたのはデニーロがリトルリーグで活躍していたころの写真とトロフィー。在りし日の栄光。写真の中の少年はとても誇り高く、自信に満ちた笑みを浮かべていた…。
余韻がすげえ。何度観ても色んな感情が錯綜して「あー」ってなっちゃう映画である。
青春も将来もすべて映画に捧げた私としては本作のデニーロをサイコパスの一言で片づけることは到底できそうにないし、ましてやストーカーなどと一元的に規定できるキャラクターでもない。このイカれた男の裏側には曰く形容しがたい哀憫が漂っているからだ。
その微妙な趣を体現したロバート・デ・ニーロの表現力はトニー・スコットの映画術を幾分か掻き消してもいて、それゆえに『ザ・ファン』は凡作扱いされている。映画がデニーロに負けているのだ。
あと、これは書かずに済ませようと思っていたが、やはり書いてしまおう。
デヴィッド・フィンチャーの『セブン』(95年)をパクり倒してます。
銀残し、ネガポジ反転、インダストリアル・ロックなど、90年代~ゼロ年代のスリラー映画がこぞって真似した手法だ。これも『ザ・ファン』が凡作のスクラップ工場に埋没した大きな要因。
辛うじてトニー・スコットの作家性を担保しうるものがあるとすれば豪雨だろうか。
この作家は『クリムゾン・タイド』のファーストシーンの豪雨のほかにも『マイ・ボディガード』(04年)や『サブウェイ123 激突』でも効果的に雨を降らせていた。主人公の意志を象ったようなドラマティックな雨を。
衛星やコンピューターのような「ハイテク機器」を画面に出すトニー・スコットと、その天敵とも言える「水」の組み合わせの意外性を誰ひとり論及しないまま、この才能ある「愚弟」はヴィンセント・トーマス橋から身投げして水の中に沈んでいった。
火花のように降りしきる豪雨。