シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

またやりやがった! 怒りタランティーノ第三弾!

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2019年。クエンティン・タランティーノ監督。レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、マーゴット・ロビー。

 

目まぐるしく変化するエンタテインメント業界で生き抜くことに神経をすり減らすリックと、対照的にいつも自分らしさを失わないクリフだったが、2人は固い友情で結ばれていた。そんなある日、リックの暮らす家の隣に、時代の寵児ロマン・ポランスキー監督と、その妻で新進女優のシャロン・テートが引っ越してくる。今まさに光り輝いているポランスキー夫妻を目の当たりにしたリックは、自分も俳優として再び輝くため、イタリアでマカロニ・ウエスタン映画に出演することを決意する。やがて1969年8月9日、彼らの人生を巻き込み映画史を塗り替える事件が発生する。(映画.comより)

 

おはす、おはすー。

現在、お財布の中に390円しかありません。なめとんのか通貨制度こら。金の分際でこの私を苦しめやがって。やってくれるじゃないか。ていうかどこ中だよおまえ。ヘッド呼んでこいよ。うわっ、うわっ。増税はやめて。効くわぁ。なかなかいいパンチだったぜ。あ。オレのパンチもよかった? ラーメンでも食ってこか。

というわけで寸劇をお楽しみ頂きました(得したよね?)。本日は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』です。

初日に観て一気に評を書き上げたものの世間のお祭りムードが極めてダルく、そのまま放置、DVDレンタルに合わせてアップしようと思っていた折に昨夜のLINE、それなりに本作を楽しみながらも「全く分からんかった」と堂々たる告白をしてのけた友人Aに「詳しい話はレビューでするからチョイ待ってケロ」と約束したので急遽本日アップする運びとなったケロ。

ちなみに友人Aは「梅雨のメグ・ライアン特集」を書かせた人物です。会うたびに「SMAP特集をして丁髷」としきりにリクエストしてきて私を困らせる大いなる男でもある。

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◆何をやってるのおまえたち…◆

わたくしもご多分に洩れずクエンティン・タランティーノのビッグファンなのだが、この最新作に「映画愛」などとやたらな言葉を用いて尊尚親愛するようなステキ味溢るる映画秘宝的ファンではないので、ここではごく静かに思いの丈を綴る次第よ。

すでに多くのブロガーやレビュアーやツイッタラーがカタログ知識を総動員して本作の教育的解説に尽力してくれているように、人はタランティーノ作品を前にすると批評の切っ先が鈍ってしまう。タランティーノが仕掛けたゲーム(もちろん引用劇のこと)に囚われ、巻き込まれ、付き合わされてしまうからだ。

わけても今回の最新作は過去最大規模の大掛かりなゲームで、小ネタの拾遺が大好きな層にとっては何時間見てても飽きタランティーノ、逆に映画を観ない層にとってはおもしろさタランティーノな気難しい作品だったかもしれない。

それでは私もゲームに参加しましょう。既にその辺にゴロゴロ転がってる数多の解説サイトと似たような文章になってしまうが、知るかそんなこと。

 

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は1969年8月9日に向かって進んでいく3日間の物語である。ハリウッドを舞台に、落ち目の俳優レオナルド・ディカプリオとスタントマン兼付き人のブラッド・ピットのパッとしない日常が伸びやかに、あるいは緩慢に描き出されていく。

かつての栄光は色褪せ、つまらない悪役が目立つようになってきたデカプーは、アル・パチーノ扮するマーヴィン・シュワルツ(実在の映画プロデューサー)にマカロニ・ウェスタンへの出演を勧められて駐車場で泣く。ハリウッド俳優がマカロニ・ウェスタン(イタリア製西部劇)に進出することは都落ちを意味するからだ。

相棒のブラピもまたスタントマンとして一向に芽が出ず、デカプーの運転手に甘んじている。かろうじて上の立場に立てる相手はトレーラーハウスで飼っている大型犬だけ(何らかの悪意を持ったクリーチャーみたいな顔をしている)。あまつさえ、ようやくスタントの仕事が舞い込んだかと思えば映画スタジオでブルース・リーを投げ飛ばしてクビになる有様。

※…当時ブルース・リーはアメリカのTVドラマ『グリーン・ホーネット』(66-67年)の放送終了後ハリウッドで武術指導をしてました。

熟考の末デカプーはマカロニを撮ることになるが、飲酒癖のせいでセリフが覚えられない自分に嫌気が差して涙ぐみ、8歳の子役に「めそめそしないで」と慰められる。

一方のブラピは街で出会った腋毛ぼーぼーのヒッピー女をスパーン映画牧場に送り届けると、そこは怪しげな連中の巣窟と化しており、乗ってきた車をパンクさせた薄笑いのヒッピーをしこたまど突き回した。

一体おまえたちは何をやっているのか。

 

【この映画で主演二人がした主なことリスト(ネタバレ要素は省略)

↓デカプー↓

駐車場で涙ぐんだ

8歳の子役の前で涙ぐんだ

いい芝居ができて涙ぐんだ

にっこり笑ってテレビを見た

 

↓ブラピ↓

ブルース・リーを投げた

薄笑いをど突いた

犬にエサを与えた

にっこり笑ってテレビを見た

 

いやウンだから…何をやってるのおまえたち?

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すぐ涙が出ちゃうデカプーすぐ手が出ちゃうブラピ。同じ釜飯食エンティン!

 

そんなこんなのエブリデイが続くわけだが、ある日デカプー邸の隣りに夫婦が越してきた。ロマン・ポランスキーとシャロン・テートである。

ロマン・ポランスキーはポーランドからアメリカに渡って『ローズマリーの赤ちゃん』(68年)をヒットさせた若手急先鋒の映画作家で、1968年に『吸血鬼』(67年)で起用した女優シャロン・テートと結婚。デカプー邸の隣りに越してきたときシャロンは妊娠8ヶ月だった。

しかし1969年8月9日、シャロン・テートは自宅に押し入ったカルト集団に全身16箇所を刺されて惨殺された。その場に居合わせた友人3名と通りがかりの1名も殺害された。俗にいう「シャロン・テート殺害事件」である。

この事件を引き起こしたのはチャールズ・マンソンの信者たち。ブラピが腋毛女を送り届けたスパーン映画牧場にいた虚ろなヒッピーたちのことだ。

カルト教祖のチャールズ・マンソンは家出少女たちをLSDで洗脳して「マンソン・ファミリー」なるコミューンを形成、初期の活動内容はキリストに見立てて磔にされたマンソンの周りで信者たちが犬の血を塗りたくって「わんわん!」と叫びながら集団セックスをエンジョイするといった実に可愛らしいものだったが、次第にマンソンの思想はエスカレートしていった。

マンソン先生いわく、どうやら近いうちに人種間戦争が起きて地底の奥深くからマンソン軍団が「ひゃっほほー」と言いながら現れ、地上の人間どもをぶっ殺したあとマンソンが世界の帝王になるというのだ。

ふむ…。

それ以降、信者たちに殺人を教唆するようになったマンソンは、この想像力の無駄遣いとしか思えない中二病まるだし終末論を「ヘルター・スケルター」と呼ぶようになった。ネーミングセンスもヘッタクレもない。ビートルズの曲を丸パクリしたものだ。

事程左様にオリジナリティがあるのかないのかよく分からない奴だった。だって一生懸命考えた設定に「既存の曲名」をつけるって…。まんまのマンソンにも程があるのではないか。誰かこいつを助ケルター。

そんなわけで、オリジナリティ不明の空想家チャールズ・マンソンは69年末に逮捕されて終身刑になり、ようやく2017年にくたばったが、今なお「悪のカリスマ」としてサブカルチャーのアイコンになっている(メタルバンドに大人気)。

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カルト教祖チャールズ・マンソン(画像上)とロマン・ポランスキー&シャロンテート夫妻(画像下)の実際の写真。

 

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は、この「シャロン・テート殺害事件」が起きる約半年前から物語が始まり、そのうちの3日間がピックアップされ、来るべき最悪の悲劇に向かって刻一刻とカウントダウンされていく。

したがって「シャロン・テート殺害事件」をまったく知らずに見てしまうと、この映画が1969年8月9日に向かっていく話ということが分からず、そもそも8月9日に何が起きたのかすら知らないわけだから大枠としてのサスペンスを丸ごと取りこぼすことになってしまう。だからTwitterでは「予習必須!」という注意喚起がうっとうしいぐらい発されています。

それにしてもこの事件、わざわざ予習を促さねばならないほど知らない人民が多いのだろうか。『世界仰天ニュース』みたいな番組でもチョイチョイやっていたと思うのだけど。それとも世の中の人たちは『世界仰天ニュース』を見ないのだろうか。仰天できるのに?

ゆえにわれわれは、シャロン・テート役のマーゴット・ロビーがランラン歩いたりルンルン踊ったりするさまを「よろしいなぁ、よろしいなぁ」とハナを垂らしながら見惚れていればよいわけだが、それと同時に8月9日=惨劇の瞬間への心構えも強いられる。

だが、おそらく本作を見た人民は劇場のシートに身を沈めながらエンドールを打ち眺め「またやりやがった!」と思ったことだろう。未見者のために詳しくは語らないが、この映画はタランティーノが暴力の歴史に鉄槌を下した「怒りタランティーノ シリーズ」の第三弾に当たる作品だったのだ。

第二次大戦中のナチス・ドイツを扱った『イングロリアス・バスターズ』(09年)や、南北戦争直前の黒人奴隷問題を扱った『ジャンゴ 繋がれざる者』(12年)でも映画のウソが最大出力で放たれていたが、やはり今回もそこかしこにウソが装填された見世物映画になっている。まさに“パルプ・フィクション”だ。

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マーゴット・ロビーとは生年月日がぴったり一緒です。

 

69年アメリカの原風景

映画は「シャロン・テート殺害事件」以外にもおびただしいテクストを内包しています。もともとタランティーノは自身が偏愛するポップカルチャーをモザイク的に引用したポストモダン的意匠の第一人者だが、とりわけ本作では過去最大級の引用劇がお楽しみ頂ける(=お楽しみ頂けない方には過去最大級にお楽しみ頂けない)。

シャロン・テート=マーゴット・ロビーはお忍びで映画館に入って自身の出演した『サイレンサー第4弾/破壊部隊』(68年)を見る。彼女が赴いたホームパーティーにはスティーブ・マックイーンがいるし、デカプーは「かつて『大脱走』(63年)の主演候補だったがマックイーンに役を取られた」とこぼす(ここは泣かない)。彼が火炎放射器を振り回すのは『イングロリアス・バスターズ』同様に『追想』(75年)への目配せだろう。

その他、『かわいい毒草』(68年)『ペンダラム』(68年)『ジョアンナ』(68年)、それに『バットマン』(もちろん66-68年のテレビ版)など拾遺しきれないぐらいの小ネタが満載。そもそもこの映画の題名自体が『ウエスタン(原題:Once Upon a Time in the West)』(68年)『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(84年)で知られるマカロニ・ウェスタンの祖セルジオ・レオーネへの壮大なラブコールなのである。

事ここに至っては引用のための引用と化しており、ごく一部の映画オタクとの自閉的交歓のための祝祭空間はどこかマンソン・ファミリーに繋がる部分もあり。これは紛れもなく『キル・ビル』(03年)的童心の再来である。

ただし『キル・ビル』よりも遥かに意図的にショーアップされた本作は少しく自意識過剰。「パロディやってます感」というか「皆の好きなタランティーノはこれでしょ感」というのが満艦飾の道化精神で提供されるため、『キル・ビル』の強烈なインチキ臭さや『デス・プルーフ in グラインドハウス』(07年)の天然オタクっぷりが好きな私としては本作は贅沢すぎるほど至れり尽くせりだった。鑑賞中、大いに楽しませてもらいながらも「尽くして欲しいわけじゃないんだけどなぁ」という微かな居心地の悪さも覚えてしまって。スピルバーグが『レディ・プレイヤー1』(18年)を撮ることとはわけが違うからね。

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踊り狂うプリオ。


また、タランティーノを語る上で欠かせないのが音楽のサンプリング。

劇中ひっきりなしに当時の音楽が鳴りまくるわけだが、今回の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』は過去のタランティーノ作品に比定してロックンロールの選曲が多かったように思う。むべなるかな。本作の時代設定になっている1969年代といえばロック史上最大の転換期なのだから。

ビートルズの実質的なラスト・アルバム『アビイ・ロード』が発表され、彼らのブリティッシュ・ロックを受け継ぐかのようにレッド・ツェッペリンが現れて従来のロックンロールをハードロックへと引き上げる。かと思えばキング・クリムゾンが『クリムゾン・キングの宮殿』でロックを芸術へと変えてしまい、ザ・フーはクイーンより早くにロックオペラを極めたコンセプト・アルバム『トミー』をリリース。ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズは自宅のプールでくたばって伝説と化し、世代交代のごとくシカゴやエルトン・ジョンがデビューした。

劇中ではロイ・ヘッド&ザ・トレイツ、ポール・リヴィア&レイダース、ニール・ダイヤモンドなどがアホみたいに掛かりまくる。個人的にはディープ・パープルの「Hush」が使われていたのが嬉しかったな(タランティーノはディープ・パープルなんて絶対好みじゃないだろうが「Hush」は唯一好みそうな曲なので)

第1期ディープ・パープルの代表曲「Hush」

 

そして1969年の音楽シーン最大のトピックこそがウッドストック・フェスティバルの開催。

これはロック史に残る伝説の野外フェスという枠すら超えて「文化人類学的な一大トピック」として扱われている。なぜならこの野外フェスはフラワー・ムーブメントの終焉の象徴だったからである。

そう、本作の裏側に横たわる最も大きな時代背景こそがフラワー・ムーブメントだ。

「武器ではなく花を!」をスローガンに、ベトナム戦争に反対するヒッピーたちは愛と平和を願ってロックを聴いたりシャブを食ったりフリーセックスに興じては「イッツマイライフ」などと嘯いた。

余談だが、かかるフラワー・ムーブメントの延長線上にあるのが意地でもヒッピースタイルを貫くことでお馴染みのSuperflyのパワーバラード「愛を込めて花束を」だが なぜかブライダルソングの定番曲になっているという珍現象に苦笑。

そんなフラワー・ムーブメントにも終わりが訪れる。ヒッピーたちが掲げたラブ&ピースの理想論はマンソン・ファミリーによる「シャロン・テート殺害事件」によって脆くも崩れ去ったのだ。マンソン・ファミリー自体がヒッピー的生態を持っていたので、やがて世論はヒッピーに対して懐疑的になり、彼らが中心となった映画・音楽・芸術などの若者文化(カウンターカルチャー)は緩やかに終息。その最後の祭りがウッドストック・フェスティバルというわけだ。

 

したがって本作ではタランティーノが幼少期を過ごした69年アメリカの原風景がビッカビカに美化されている。街をうろつくヒッピー、ドライブインシアター、ピンナップ・ガール、夕暮れに点灯する映画館の看板、カリフォルニアに降り注ぐ陽光…。

あるいはポマードで髪をべったり撫でつけたデカプー、どう見てもピーター・フォンダ風モミアゲ横分けグラサンのブラピ、ミニスカート&ロングブーツでぷりぷり歩くマーゴット。

「60年代に生まれたかった」が口癖の私にはこたえられないオールドアメリカンの百花繚乱。ベリークールと言える。

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くねくねと踊るマーゴットのようす(すき)。

 

◆完全趣味映画◆

そうそう。どこぞのアホな映画評論家が「タランティーノの演出はこれが最高傑作と言っていいほど円熟の域に達しているゥ!」みたいなこと仰っていた。さすがアホな評論家。貴重なご意見をどうもありがとう。キミのことは決して忘れない。

だが、この貴重にしてアホなご意見は180度キレイに間違っていて、演出に関してはむしろ過去最低の出来。前作の『ヘイトフル・エイト』(15年)が過去最高級に巧かったことから、これはもう明らかに意図的な演出放棄である。「今度ばかりは好きにやらせてもらう」というマニフェストとしてあえて撮らなかったのだろう。

もちろん、スパーン映画牧場を訪れたブラピが不気味な番人ダコタ・ファニングを押しのけて旧友が昼寝をしている部屋に赴くシーンで死亡フラグが立つ…みたいなごく基本的なサスペンスぐらいは演出する(何気にタランティーノって職業倫理に忠実なので)

だがあくまで全編を覆い尽くしているのは自動車に乗った人物を後部座席から捉えて好きな音楽を垂れ流すといった趣味の持続。

つまりタランティーノが自分イチオシの音楽をかけ続けるために車の運転シーンをひたすら撮る…という風に先後関係が逆転した作りになっていて。

…ってこれ『運び屋』(18年)じゃねえか!

やってることクリントのジジイとほぼ一緒だよ!

【イーストウッドの場合】

なんだかすげえ歌いたい気分だ→でも自分は歌手ではなく映画監督だ→歌えない→だけど歌いたい→人生は地獄だ…→そうだっ、自分の映画でなら思う存分歌えるじゃないか!→『運び屋』制作決定。

【タラちゃんの場合】

「歌いたい」を「聴かせたい」に変換してください。

 

ちなみにTwitterではマンソン・ファミリーもびっくりの狂信的絶賛ツイートが垂れ流されている中、ごく一部の人民が「これダメですね」とぶった斬っていて思わず「おっほ」って思いました。彼ら否定派の意見はぐうの音も出ないほど正しい。

そうね、私の不満点としてはフレーミングがとにかく酷くてワイドスクリーンがほとんど活かせていないところ。足裏ショットのフェティシズムもまったく出ていない。音楽に傾斜しすぎ。また、タランティーノの持ち味といえば「退屈ゆえに心地いいダイアローグ」だが、デカプーのイタリア撮影シーケンスなんかはただ純粋に退屈。

あと、これは単なるお節介なのだが、本作はマカロニ・ウェスタン主軸のオタク視点から69年米映画史のごく一部だけを切り取った作品であって、「概観」と呼ぶにはキューブリックやロメロの台頭、ハリウッド黄金期スターの凋落、何よりニューシネマの勃興など大いに取りこぼしがあるため、本作だけ見て「これがオールドハリウッドなんだな。映画愛! 映画愛!」とはあまり思わない方がいいかと思います。

どうも世間的にはタランティーノの「映画偏愛」が「映画博愛」と取り違えられている気がしてならないのだが…まぁこの話はいいや。

 

最後になってようやくデカプーとブラピに言及するね。

空港に降り立ったポランスキー夫妻がキレイに歩幅を合わせて歩くのと対照的に、同じく空港を歩く二人の足取りはちょっぴり不揃い。デカプーが長年世話になったブラピに「もう雇えない」と言った直後のシーンだったかな。そしてクライマックス。二人の関係が終わりかけたときにマンソン・ファミリーが襲撃をしてきたことで何が起こったか?

凋落俳優のデカプーは人気絶頂期の出演作とほぼ同じシチュエーションを演じ、売れないスタントマンのブラピは映画ではなく現実世界で自慢のスタントを披露する。

映画ではヒーローになり損なった二人が映画顔負けの大暴れを演じ、救急車の前で「ある言葉」を何気なく交わすシーンは何とも感慨深い。いみじくも友人Aが「これ何の映画なの? 2人の友情物語?」と言っていたけど、ある意味その通りだよ!! 役者とスタントマンの絆『キル・ビル』でユマ・サーマンのスタントを務めたゾーイ・ベルが本作に出演しているあたりにも濃く表れていたしね。

ダラダラした会話劇にやおら大殺戮ショーのゴングが鳴って阿鼻叫喚の「血の祝祭」が始まるイズムも健全。タランティーノにしては撮りこぼしの多い作品だったが、この「血の祝祭」を突きつけられても平常心でいられるファンは少ないだろう。

なお、映画プロデューサー役のアル・パチーノはスクリーンの中で銃を乱射するデカプーに大喜びしていた。アンタはもっとハデに乱射してたけどね。

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フェイスにスカーのあるゴッドなファーザーもチラリと登場。

 

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