悪ノリ、内輪ノリのホラーオムニバス。
1982年。ジョージ・A・ロメロ監督。レスリー・ニールセン、スティーブン・キング、ハル・ホルブルック、E・G・マーシャル。
スティーブン・キングの原案を基に、コミックマガジン形式で繰り広げられるオムニバス・ホラー。父の日に墓から甦る死者、不貞を働いた妻と愛人を干潮の砂浜に顔だけ出して埋めた男に訪れる恐怖、大学の片隅に眠る木箱に潜む謎の怪物、隕石に触れたため身体中が奇怪な植物に覆われてしまう男の悲劇、潔癖症の老人を襲うゴキブリの群れの5つのエピソードが、文字通りのコミック・タッチで描かれる。(映画.comより)
うん、おはよう。前書きの代わりに今日の一句を発表します。
だしぬけに
ここぞとばかりに
なめらかに
これいいわぁ。楽。すばらしい句も生み落としたことだし本日は『クリープショー』です。
※ちょっぴり不快な画像を載せてます。
◆ホラー映画のプロたちが贈る短編怪奇譚◆
5編の短編から構成されたホラー・オムニバス『クリープショー』が復刻された。
監督ジョージ・A・ロメロ、脚本スティーブン・キング、特殊メイクにトム・サヴィーニ、さらにプロデューサーは『ゾンビ』(78年)や『死霊のえじき』(85年)でもロメロと組んだリチャード・P・ルビンスタインとホラーマニアの心を大いにくすぐる布陣である。べつに私はマニアでもシニアでもないのだが。
主なキャストは『ザ・フォッグ』(80年)のトム・アトキンス、ハル・ホルブルック、エイドリアン・バーボー、『ゾンビ』のゲイラン・ロス、そして原案/脚本のスティーブン・キングが小説家という立場を弁えることなく第2話で主演を張っている。実にふてこい。プロローグとエピローグに登場する少年はキングの息子ジョー・ヒルくんだ。親の口添え出演まるだし。トム・サヴィーニも得意の「友情出演」でチラリと登場している。
内輪も内輪。
気心の知れた仲間とわいわい戯れながら作った、そんな感じである。悪くいえば自閉的な製作体制とも言えよう。また、『裸の銃を持つ男』シリーズのレスリー・ニールセンと当時駆け出しのエド・ハリス(すでにハゲ散らかしていた)など非ホラー畑の役者も出演しております。
さて。映画はホラーマニアの少年ジョーが父親にホラーコミックを取り上げられるプロローグに始まる。道に捨てられたコミックが夜風に吹かれてパラパラめくれ、そこに収められたショートストーリーが1編ずつ展開していくという仕組みだ。
第1話『父の日』は、死んだ父が怪奇・泥ゾンビとして墓から蘇り親戚一同を攻撃するという実にくだらない内容である。
どうやらこの男は父の日にケーキを食べ損なったことが大変心残りだったらしく、ゾンビとして蘇ったあとはひたすらケーキを求めて家のなかを彷徨い歩き、家族や親戚に出くわすと「ケーキ!」と叫んで殺害してしまう。
ケーキを希求しているのにその提供者たりうる家族を殺してしまうというワケのわからなさ。とにかくケーキへの執着心がすごすぎて怖さや残酷さを感じる暇がない。
そして、ようやく何処かから見つけてきたケーキに娘の生首を乗せてパンパカパーンと登場するラストシーンのアホらしさには白目を剥きながら絶句するほかない。
余談だが、なんとこの怪奇・泥ゾンビはフィギュア化もされたが現在は入荷中止とのこと。
怪奇・泥ゾンビ。ケーキへの執着心がすごい。
第2話『ジョディ・ベリルの孤独な死』は、隕石を触ったアホの農夫が全身から草が生えてきて怪奇・雑草男と化す…といった低級きわまりない内容である。
アホの農夫を演じたのは言わずと知れたモダン・ホラー小説の第一人者スティーブン・キング。『キャリー』(76年)、『シャイニング』(80年)、『スタンド・バイ・ミー』(86年)、『IT』(90年)、『ミザリー』(90年)、『ショーシャンクの空に』(94年)、『グリーンマイル』(99年)、『ミスト』(07年)などの原作者だな。
この農夫にはほとんど知能がなく、いつも寄り目で、口から汚い汁のようなものを垂らしている。こう言っちゃあ悪いが若い頃のキングって結構バカみたいな顔をしているので、どこまでが芝居なのか分からなかった。アホの農夫を演じさせたらキングの右に出る者はいないんじゃないかと思う。
そんな農夫の身体から草や苔がワサワサ生えてきて悲しみに暮れながら死ぬまでのすごくどうでもいい過程が描かれている。私はこのエピソードを観終わったあと「わぁ、すごくどうでもいい」と思って、買い物に出かけた。
怪奇・雑草男を演じたスティーブン・キング。
3話『押し寄せる波』 は、やくざに誘拐された男が砂浜に埋められて打ち寄せる波に苦しむといった、もはや話の焦点さえよくわからない内容である。
やくざは、男が苦しみながら死んでいく様子を自宅の中継モニターから見て楽しんでいたが、殺した男とその恋人が怪奇・悪霊ゾンビとなって自宅を襲撃。やくざが「わぁー」と叫んだところで話が終わる。
「…だからなに?」と思った。すぐ買い物に行った。
焦点がよくわからない上にすごくどうでもいいエピソードを堪能することができてよかったと思った。もしかしたら私は幸せな奴なのかもしれない。
怪奇・悪霊ゾンビ。海藻にまみれている。
第4話『箱』は、古い木箱から怪奇・人喰いゴリラが現れるといった果てしなく興味を引かない内容だ。
2人の大学教授が力を合わせてゴリラ退治をするのだが、いつも若妻の尻に敷かれている方の教授が退治ついでにゴリラに妻を殺させるというブラックユーモアもあって、鑑賞後の余韻はちょっと清々しい。「バカが死ぬ」というのはモンスター映画やスプラッター映画の名物だものな。
怪奇・人喰いゴリラ。窮屈な木箱を住処にしている。
第5話『奴らは群がり寄ってくる』は、傲慢な社長のオフィスに大量のG(ゴ○○リ)が侵入してくるという不快指数天空ブチ上げ級の内容だった。
最初は数匹だったのが、いつの間にか10匹、100匹と増え、最終的にはオフィス内が真っ黒になるほど数千ものGが群がり、死んだ社長の腹を食い破ってウジャウジャ出てくるのだ。
このエピソードがすこぶる不快なのは、撮影に使われたのが実験用に無菌繁殖されたホンモノのGだということ。
気でも触れとんか。
別のGは好きだけどホンモノのGはダメでしょ。しかも1000匹以上だぜ。
全身をGに這われるという(災)難役をこなしたのは『十二人の怒れる男』(57年)や『インテリア』(78年)のE・G・マーシャル。名優に何やらせとんねん。まぁでも、オファーする方もする方だが受ける方も受ける方だよな。
ちなみに撮影後は回収が追いつかず大量のGが逃げ出したという裏話も。
大量のG。アニメシーンから引用。
◆映画とコミックの融合やで◆
遊び心に満ちた…というか終始ふざけ倒した作品だが、総じてトム・サヴィーニの独壇場だった。怪奇・泥ゾンビ、怪奇・雑草男、怪奇・悪霊ゾンビ、怪奇・人喰いゴリラ、そして腹を食い破られる社長の等身大フィギュア…。
どれも血と泥と体液にまみれたキッタネェ怪物だが、どこか一ヶ所だけかっこいいポイントがあったり洒落た照明が当てられていたりしていて、サヴィーニの美意識が垣間見える作品だった(別にそんなもん垣間見る必要などないのだが)。
話自体は総じてひどいが、サヴィーニ流特殊メイクの粋を集めたグラフィカルな画面はなかなか魅力的である。それを彩るのがコミック風の視覚演出だ。
本作は架空のホラーコミックの内容を一編ずつ紹介していく…という設定なので、急にアニメになったり、背景だけ絵になったり、スプリットスクリーン(画面分割)をコマ割りに見立てたり…などなどコミックさながらの映像表現が充実している。
各エピソードのファーストショットがアメコミ風の絵になっていて、それが少しずつ実写になり動画となって映画が始まる。ラストシーンはこれの逆。ストップモーションの掛かった実写画面が少しずつ絵に変わっていくという仕組みだ。
実写映像なのにマンガの集中線!
こうしたギミックがあれやこれやと装填されていることの根底には「映画とコミックの非互換性」への途方もない楽観視がみとめられる。
映画でコミックを表現することはできないし、コミックで映画を表現することもできない。もともと映画とコミックは交換不可能なメディアだからな。だから、たとえば我が国でやたら盛んなマンガの実写映画化ではモノを考える力のない連中が心を砕いてどうにか「擦り合わせ」を試みるが、そもそも擦り合わせる必要などないのだ。どれだけ擦り合わせようが摩擦すら起きないほど映画とコミックのあいだには何ら性質的類似性も関連性もないからである。
だがロメロは楽観する。
「観客がホラーコミックを読んでるっていう体(てい)で映画にすりゃいいじゃん」
たったこれだけのことだった。たったこれだけのことで昨今の日本映画界が苦心を強いられている「マンガの実写化」がいとも容易く成立してしまった。
簡単な話である。「これはマンガだ」と言い張るだけのシンプルな論理。狂言!
馬鹿と天才は紙一重とはよく言ったもの。ジョージ・A・ロメロであります。撮影も編集も三流以下だが、今さらそんなことを論っても仕方あるまい。ロメロは発想で勝負する。
なお、本作はTSUTAYA発掘良品に並んでいるが観る必要はない。
『クリープショー』フィギュアは絶賛発売…中止中!