シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

シシリアン・ゴースト・ストーリー

実際の事件が題材なのに、なぜか映画オリジナルキャラの青春が描かれているという謎(解けない)。

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2017年。ファビオ・グラッサドニア、アントニオ・ピアッツァ監督。ユリア・イェドリコヴスカ、ガエターノ・フェルナンデス。

 

美しい自然に囲まれたシチリアの小さな村。13歳の少女ルナは同級生の少年ジュゼッペに思いを寄せていたが、2人の仲が深まろうとした矢先、ジュゼッペは突然失踪してしまう。周囲の大人たちがなぜか口をつぐむ中、ルナは必死にジュゼッペの行方を捜すが…。(映画.comより)

 

太陽におはよう。民におはよう。田園地帯におはよう。

泣きぼくろに憧れています。かつては油性ペンで描こうとしたこともありましたが、みじめな気持ちになるだけなので止めておきました。

自分のホクロというのは存外分からないもので、ふと鏡を見て「あれ、こんな所にホクロあったっけ?」なんてことはザラにございます。わけても男性は化粧をしないぶん鏡を見る習慣もないので、自分が思っているよりも自分の顔を知らない愚昧な生き物であります。まぁ、そもそも論を持ちだすと「鏡に映った自分」と「他人から見える自分」は違うので、これはもう男女関係なく愚昧という話になってくるわけです。

われわれは鏡に映ったものを真実だと錯覚して楽しく生きていますよ。テレビに踊らされ、人の噂を鵜呑みにし、自分の言動を無理くり正当化しては鏡の中に安心を求める自惚れた種族であります。人間最高。だけど鏡は左右逆に映すので、そこに見た真実も大抵は逆です。

かかる人生哲学に行き着いてからは「私の目の前には鏡がある」と思いながら毎日生きております。おかげさまで全然楽しくありません。

そんなわけで本日は『シシリアン・ゴースト・ストーリー』です。静かに書きました。

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◆トゥルー系だった◆

放課後に森へ駆け込んだユリア・イェドリコヴスカガエターノ・フェルナンデスが秘密の戯れに興じるファーストシーン。

二人は言葉にこそしないが惹かれ合っているのは明らかで、美しい森のなかで孫悟空のフィギュアを振り回したり、狂った野良犬から逃げまくるなどして毎日遊んでいた。

ガエターノのママンはいつも館の中に篭っており、パパンも何をしている人物なのか判然としない。どこか秘密めいた家族なのだ。ユリアの両親はそんなガエターノの家族を敬遠していて「あの小僧とは会うな」と警告めいた言葉を娘に繰り返す。

だが惹かれ合う二人は秘密の戯れをやめない。一度走りだした愛は止められない。Can't Stop Lovin' Youなのである。

ちなみにこのシーンは開幕から30分ほど延々続くので、こちらとしては一向に話が見えてこないことにムカつきを募らせる。いったい何についての映画なのか?

ていうか秘密の戯れってなに。

なんで美しい森のなかで孫悟空のフィギュア振り回すん。狂った野良犬から追い回されるってなに?

だがある日、いつものように二人で森に入って秘密の戯れに興じていると、ユリアがちょっと目を離した隙に見知らぬ大人たちがガエターノを車に乗せてどこかへ連れ去ってしまった。そして彼は二度と帰ってこなかった。

 

本作はシチリアで実際に起きた誘拐事件「ジュゼッペ事件」を大胆に翻案してラブストーリーに仕上げてしまった謎の作品である。

1993年11月23日、マフィアの内情を密告したサンティーノを父に持つ12歳の少年ジュゼッペ・ディ・マッテオが警官の制服を着た男たちに連れ去られた。指示を出したのはイタリアン・マフィアの頭領ジョヴァンニ・ブルスカ(数々のマフィアを摘発したジョヴァンニ・ファルコーネ判事を爆殺した男)。

ジュゼッペ少年は779日間も監禁された末、1996年1月11日に絞殺され、死体は酸で溶かされて湖に捨てられた。首謀者のブルスカは1996年に逮捕、公判では「今までに100~200人殺したが正確な人数は覚えていない」などと邪悪な発言をしたのち終身刑を言い渡された。

 

…だそうだ。

『シシリアン・ゴースト・ストーリー』は、事件の被害者ジュゼッペ・ディ・マッテオ(演ガエターノ)の誘拐、監禁、殺害までを描いたひどく重苦しい作品だった。

通常、この手の映画では本編が始まる前に「This is a true story。これこそがトゥルー」みたいな説明がなされるが、本作にはそれがない。だから開幕30分が意味不明だったのである。

もちろんジュゼッペ事件を知っている者なら「シシリアン」というタイトルと「ジュゼッペ」という固有名詞から「あ、ジュゼッペ事件の映画なのね。すなわちトゥルーね!」と即座に理解するわけだが、果たしてこの現代日本でジュゼッペ事件を知る者が何人いるのだろう。

これ絶対最初に「この映画トゥルーだよ」って出しておくべきだったよね。

ちなみに私が「コレもしかしてトゥルー系?」と気付いたのは、誘拐シーンのあと早々にジュゼッペの監禁生活を見せ始めたからである。

仮にフィクションであればミッシング(行方不明)モノとして作劇されるだろうし、となれば映画はユリア視点に立ち、ジュゼッペの生死は宙吊りにされるはずだからである。これによって生死宙吊りミステリが成立する。だが我々観客はかなり早い段階でジュゼッペの無事を確かめることになるので、生死の宙吊りは早々に失効、これすなわちミステリの破綻。そしてわざわざこんな作劇にする理由はトゥルーストーリーだからに他ならない…という推理なのだっ。

それにしても人騒がせなトゥルー系である。

返す返す言って申し訳ないが…これ絶対最初に「この映画トゥルーやで」って出しておくべきだったろ。

それこそトゥルーだろ!

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◆この映画を被害者に捧げたとて…◆

この映画について調べていると必ずと言っていいほど「幻想的」というワードにぶち当たる。本作はマフィアに拉致監禁されたガエターノと彼を捜し続けるユリアの悲恋を幻想的に描いたラブストーリーなのだ。

映画は二人の「精神の結びつき」を視覚化していくが、そこで映し出されるのは互いが見た幻の相手であり、二人の時空を変幻自在に往還する抽象図像である。つまり薄汚い地下室に閉じ込められたガエターノはそこでユリアの虚像を見、ユリアもまた日常の端々でガエターノを幻視する。なんとなく美しげな映像がポヤ~っと映し出された、虚実入り混じる惑乱の空想世界。

ま、身も蓋もない言い方をすればただの妄想シーンだがな。あと、酸で溶かされ湖にばら撒かれたガエターノの肉体の塵が水中を漂うさまを長回しで2分近く見せたりもする。こうした午睡感覚が延々続くのだ。たまんねえ。

ちなみに、こうした映像表現はミュージックビデオに多い。手軽に「映像美」や「映像詩」のレプリカを画面に落とし込むことができる手法だ。ご苦労なことである。こうした幻想的な映像はここ一番というときに効果を発揮するものであって、本作のように無暗やたらに濫用してもかったるいだけ。テレンス・マリックを思い出してしまったよ。

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物語は離れ離れになったユリアとガエターノの生活をカットバックしながら進行する。

ガエターノを捜そうとしない大人たちに苛立ちを募らせたユリアは、親友のコリンヌ・ムサラリと一緒に髪をブルーに染めて親や教師に反抗するが、このシーケンスの意味が俺にはよくわからなかった。本筋の誘拐事件やロマンスとまったく関係ないからである。ましてやユリアは映画オリジナルキャラクター。

なぜ実際に起きた惨たらしい事件を扱っているのに「架空の少女の思春期」にフォーカスしているのだろう。

一生懸命考えたけどわかりませんでした(一方、ガエターノは薄暗い地下室で痩せ細っていた)。

もっと意味がわからないのはユリアの家庭環境である。なぜか彼女のママンはサウナ好きの健康オタクという無駄設定がゴテゴテ張りついたキャラクターで、ユリアとパパンがピクニックに向かう道中にママンの手作り弁当を町のゴミ箱に捨てる描写があるのだが、このシーンもなんだかよく分からないまま…(一方ガエターノは地下室で痩せ細っていた)。

ガエターノが殺害されたあとのラストシーンは、マリアたちが海を眺めながら「彼は帰ってこなかったけれど私たちは生きていかねばなりません」みたいな決意の眼差しを朝日に向け、そのあとキャッキャ言いながら海岸で水を掛けあうなどして遊びます。マリアとコリンヌが映画中盤で仲違いしたことは「なかったこと」にされた上、名前も知らない同級生2名がしれっと紛れ込んでいました。誰ですのん。

どうやら『シシリアン・ゴースト・ストーリー』はジュゼッペに向けたレクイエムとのことだが、先述したように主に描かれているのは「ジュゼッペ事件」よりも「映画オリジナルキャラの苦い青春」。

ジュゼッペ関係あらへん。

どこら辺がレクイエムやってん。

だけどエンドロールには「この映画をジュゼッペ・ディ・マッテオに捧げる」とあって…思わず「捧げちゃうんだ、これ…」って呟いてしまいました。

これを捧げたとて…じゃない?

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