シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

まぼろしの市街戦

すてきなごっこ遊び(なんて柔らかい寓話!)。

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1966年。フィリップ・ド・ブロカ監督。 アラン・ベイツ、ジュヌヴィエーヴ・ビジョルド、ジャン=クロード・ブリアリ。

 

第1次世界大戦末期、敗走中のドイツ軍が、占拠したフランスの小さな町に時限爆弾を仕かけて撤退。進撃するイギリス軍の兵士プランピックは、爆弾解除を命じられて町に潜入するが、住民たちも逃げ去った町では、精神病院から解放された患者とサーカスの動物たちが解放の喜びに浸り、あたかもユートピアのような生活が営まれていた。プランピックは爆弾発見をあきらめ、最後の数時間を彼らとともに過ごそうと死を覚悟するが…。(映画.comより)

 

おはよう、神々のしもべたち。

長い文章を一気に読ませたいときは読点( 、)の数を減らせばいいと思います。
文章を読むときの人間の目は読点がある所まで文字を追い続ける習性があるのであえて読点をつけないことで息つく暇も与えず一気に読ませるという姑息な作戦です。
この文章のようにねえ!
どうしても読点をつけざるを得ないときは、代わりに三点リーダーや半角スペースを用いるのも手かもね。そんなわけで本日は『まぼろしの市街戦』。さらりといくで。

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◆すてきな諦念◆

世界的なカルト映画『まぼろしの市街戦』が半世紀の時を経て蘇った。よいしょ、よいしょ、と喜んでおられる方も多いのではないかと思います。何しろ「幻の傑作」が幻ではなくなったのだからな。よいしょ。

この映画はアメリカでロングランヒットを記録してカルト的人気を博したフランスの作品である。フランス本国よりもアメリカに好まれたというわけだな。

監督はフィリップ・ド・ブロカという中年親父。ゴダールやトリュフォーのもとで助監督を務め、のちに『リオの男』(64年)『おかしなおかしな大冒険』(73年)を発表。名優ジャン=ポール・ベルモンドを使い倒した監督である。

それでは早速論じていきたいのだが、そのまえに軽く筋の紹介をしておく(筋紹介は毎回記事の頭に付けてはいるが読み飛ばしてる読者が多いだろうと思って改めて本文の中で紹介してしまう。このような行為を何と言うか。そう、二度手間だ!)。

 

一次世界大戦末期、敗走中のドイツ軍は占拠していた北フランスの小さな街に「どうせ負けるなら道連れだー」とばかりに時限爆弾を仕掛けて撤退。市民は逃げ出し、街はゴーストタウンと化したが、この危機的状況をまったく理解していない精神病患者たちは病院を抜け出し「市民ごっこ」をはじめる。司教や床屋や娼婦になりきって…。

爆弾解除を命じられて街を訪れたイギリス軍の通信兵アラン・ベイツは、一般市民に扮した狂人たちに爆弾の情報を聞き出そうとするも全く話が通じず、逆に彼らのお祭りムードに呑まれて楽しい一時を過ごしちゃう。アランを「王様」と思い込んだ狂人たちは、この街を「どこかの王国」と思い込んでおり、アランを王としてもてなすのだ。軍隊では話の通じない上官に無理難題を強いられていた下っ端通信兵のアランも、かかる状況に対してまんざらでもないご様子。王様のコスチュームに身を包み「我は覇者なり」などと言ってキングライフを満喫。やがて爆弾解除を諦めたアランは、狂人たちとの「幸福なごっこ遊び」の中で死んでいくことを決意する。

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王様になっちゃうアラン。

 

楽しくも儚げなムードに包まれたメルヘン叙情詩であった。

仮装した精神病患者たちが自由を謳歌し、檻から逃げ出したクマは街を闊歩する。そこに迷い込んだひとりの兵士は「戦争なんてやってられないよ」とばかりに残り少ない時間を彼らとの享楽に捧げるのだ。

閑散とした街の寒々しさと狂人たちの賑やかなパレードが対比された抒情的な映像がすばらしく、ことにフェリーニやホドロフスキーのような狂騒趣味が塗り込まれたサーカス的感覚がいわく形容しがたい哀惜の風を送り込いんでいる。

この「楽しいんだけど物悲しい」という相反する雰囲気がわかるけ?

時計台の真下に埋められた時限爆弾は深夜0時に起爆する。つまり狂人たちのユートピアは刻一刻と「予定された終焉」に向かっている。その運命を知っているのは通信兵アランのみ。爆弾の在処は突きとめられず、危機を訴えても誰ひとり理解せず、ならばと全員を引き連れて街から脱出を試みるも狂人たちは外界を恐れていやんいやんするばかり。で、しょうがないから諦めるっていう。潔い結論だ。

本作は寓話的な戦争批判になっていて、フランスよりアメリカでロングランヒットした理由もベトナム戦争に反対するアメリカのヤング層に支持されたからである。武器を捨てて享楽を選んだアランの行動はヒッピーの思想信条と軌を一にし、本作が製作された1966年の翌年にアメリカン・ニューシネマは芽吹いた。

つまるところニューシネマとは何かを諦める代わりに仮初めの希望を手にする男たちの儚い青春なのだ。本作はその先行作。フランス人がこの作品の歴史的価値を理解したのは後年のことだった。

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◆すてきなブラックユーモア◆

唐辛子並みにスパイシーな戦争風刺が実にユニークだ。

街の外では英軍が独軍を追い詰めていたが、そのころアランと狂人たちは街を王国に見立ててゲラゲラ笑いながら享楽生活を楽しんでいた。物語は街の内部/外部の並行モンタージュによって綴られ、やがてフィルムの内奥から「本当に狂っているのは精神病患者の方か?」という問いかけが反語的に木霊する。

物語が進むごとに英軍と独軍が時限爆弾の起爆/解除をめぐって策を弄するさまが滑稽に思えてきて、逆に狂人たちの方がよっぽどまともな連中に見えてくるのだ。

監督のブロカが自ら演じたヒトラー伍長はオツムの足りない小男だし、作戦失敗の責任を取って銃殺された独軍少尉はいかにもわざとらしく倒れる。

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そしてアランと相思相愛になったジュヌヴィエーヴ・ビジョルドの何気ない一言がきっかけでいとも容易く時限爆弾は発見・解除され、アランたちが祝砲の花火をバンバン打ち上げると、それを見た独軍が「爆破成功だ!」と勘違いして街を訪れたところで偵察中の英軍と鉢合わせ。狂人たちのお祭り騒ぎをよそに激しく撃ち合った果てに両軍全滅。ドン引きした狂人たちに「狂ってやがる…」と言われてしまうのでした。

その後、アランは進駐軍に合流して次の任務に向かうことになったが、分列から抜け出して街の精神病院に舞い戻った。

全裸で!

おしまい!

アランが全裸で精神病院の門を叩くラストシーンは兵士をやめたことの決意である。

映画冒頭では独軍に見つかり精神病院に逃げ込んだアランが病衣をまとい患者のフリをして追手をやり過ごした。だが、ラストシーンでは自らの意思で軍服を脱ぎ去って病衣をまとうことを決意する。全裸になることで軍務を放棄したアランは、進んで狂人たちと共に入院生活を送ろうと決めたのだ。

なんと洒落た戦争に対するノーの唱え方!

「衣装の着脱」は映画全域に底流する主題だが、これはいわばペルソナを取り換える儀式のようなものだろう。アランは軍服と病衣と王様のコスチュームを着分けるし、狂人たちもまた街に出づるときは皆好き好きに衣装を身につけるが、遊び終えたあとは病院のまえで衣装を脱ぎ捨てて粛々と院内に帰ってゆくのだ(そして病衣に着替える)。どうやら彼らは自分たちの振舞いが「ごっこ遊び」であることを自覚しているかのようだ。

この不思議な味わいがブロカ作品だというのかっ。似たような作品でも『カッコーの巣の上で』(75年)とはえらく違った趣がある。

 

そしてこの章の最後に書いておきたいのはもうひとつの主題、コミュニケーション不全とその解消である。

はじめて街を訪れたアランは狂人軍団とのディスコミュニケーションに苦しみ、彼らの輪に加わることでようやく心を通わせたが、その一方で、アランは通信兵にも関わらず軍内部との通信には失敗し続ける。将軍は彼の言葉に耳を貸そうとしないし、アランが送った2羽の伝書鳩は自軍と敵軍にそれぞれ別の手紙を届けたせいであらぬ誤解を招いてしまう。

通信兵なのに通信できない…というブニュエルのごとき皮肉。ようよう意思疎通できたのはわけのわからない狂人たち…という面白さ。あの手この手で戦争をおちょくり倒した痛快風刺劇。寓意に富みすぎですぞ!

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◆すてきなノスタルジア◆

この作品を生涯ベスト映画に挙げる奴が多いのもなんとなく分かる気がする(私は挙げないが)。狂騒のなかに漂う哀愁がノスタルジアを刺激するのだろうなぁ。『アンダーグラウンド』(95年)のようにさ。

先ほども名前を出したが、もしあなたがフェリーニやホドロフスキー好きなら高確率で気に入ると思う。街の広場や路地裏を、ゾウさん、クマさん、ラクダさん各位が漫ろ歩き、仮装した狂人たちがわけのわからないことを叫びながらウロチョロする。ライオンの檻は開け放たれ、若い娘は電線のうえを綱渡り。時計台から落ちたバカを絨毯でキャッチするもトランポリンの要領で跳ね戻って再び時計台に張りついてしまう逆行運動のくだらなさ。うんざりするほど横に長いシネマスコープの画面は、そんな狂乱沙汰を映すフォローパンやズームアウトの効果を極限まで引き出している。

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主人公の通信兵を演じたアラン・ベイツは『その男ゾルバ』(64年)『ローヤル・フラッシュ』(75年)で知られるイギリスの役者だが、この「何てことのない貌」が抜群にいい。特にこれといった性格もなんらかの強い意志も感じさせず、ただ大人しく狂人の群れに埋没しただけの一兵士としての貌。やがてその貌は「王の貌」に変わり、挙句ラストシーンではあらゆる肩書きを捨てた「ノッペラボウの貌」へと先祖返りする。

そんなアランと結ばれた電線渡りの娘が『1000日のアン』(69年)のジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド。黄色をテーマカラーに持つ無垢な少女である。ちなみに私とは誕生日が一日違いだが、そのことについて特になんの感想も私は持っていない。

ミシュリーヌ・プレールが演じた娼館のマダムもいいな。毎朝病室のベッドを抜け出して鏡のまえで紅を引く(マダムのペルソナを被るための儀式)。そのときの物憂げな表情がとても切ないのだ。「ごっこ遊び」を自覚しているからこその悲哀だろうか!

アメリカン・ニューシネマと同時代的な共振を持つ本作は、まるできめ細やかな散文、あるいは少女が暇で吹いたシャボン玉のように『カッコーの巣の上で』『イージー・ライダー』(69年)の頭上を浮遊する。なんと柔らかい寓話なの!!!

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通信兵アラン・ベイツ(左)、電線渡りのジュヌヴィエーヴ・ビュジョルド(右)。マダムのミシュリーヌ・プレール(下)。