シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

心中天網島

死と情念の血管炸裂ラブストーリー

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1969年。篠田正浩監督。岩下志麻、中村吉右衛門(2代目)。

 

紙屋治兵衛は女房子供のある身でありながら、遊女小春と深く馴染んでいた。ついには妻子を捨て小春と情死しようかという治兵衛の入れ込みように、兄・孫右衛門はこれを放っておくことができなかった。(Yahoo!映画より)

 

おはよう、夢に向かって邁進することをやめろと言ってもやめない者たち。

ひょっとすると周囲の知人に私の正体がバレてるかもわからないという問題が持ちあがった。

もしバレてたらえらいことである。なんとなれば、当くそブログでは阿呆のごとき文章を書いてる私も、日常生活では謹厳実直な好青年で通っているからである。

もし正体がバレてたら私の沽券とか尊厳が爆砕する。そりゃそうだろう。前回の評の見出しなんて「優しさや思いやりの心なんて知る必要ないのだわよ!」だし、その前に至っては「ぎゅ――――ん、スイッ、スイッ、ぎゅんぎゅ――――ん!」なのだから。私や固定読者はこういう感じに慣れているが、一見さんから見ればリアルクレイジー、MDMAのドカ食いを疑われるレベル。ごく控えめに言ってもただの痴態である。赤っ恥どころか深紅っ恥だ。穴があったら更に掘ったうえで入りたい。マントルまで掘り進めたい。ま、そんな心境だな。はぁ。

気を取り直してゴーするよ! 本題です!

みんなは先月「マンダム特集」を楽しんだわけだけど、今月は「志麻ちゃん特集」を楽しまねばなりません。

本日から3回に渡って岩下志麻の出演作をピピピピ・ピックアップ! 誰にも止められないし、この思いは朽ち果てない。

というわけで第1弾は『心中天網島』。お付き合いあそばせね。

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◆黒子フェスティバル◆

志麻ちゃん特集第1弾はこれっしょ。

近松門左衛門が享保5年(1720年)に発表した人形浄瑠璃『心中天網島』をデデンと映画化。主演は岩下志麻中村吉右衛門 (2代目)である。どうだ参ったか!

中村吉右衛門のリアル兄者は松本幸四郎(9代目)。したがって春のパン祭り女優またはレリゴー女として知られる松たか子は姪にあたる。

監督は岩下志麻のリアル旦那・篠田正浩。志麻ちゃん映画を数多く手掛けたあと『スパイ・ゾルゲ』(03年)を最後にズバッと引退。88歳の現在も志麻ちゃんと仲睦まじく暮らしているというのだからまったく羨ましい限りだ。篠田に嫉妬する私であります。

さて。本作は松竹を抜けてフリーになった篠田正浩が立ち上げた独立プロダクション・表現社とATGによる共同制作である。したがって前衛精神に満ちた低予算アート映画の様相を呈しておりますぞ。

ATG…日本アート・シアター・ギルドの略称。70年代前後に非商業主義の妙ちくりんな作品を製作・配給していた個性的な映画会社。1992年にぶっ潰れた。

 

大筋は近松門左衛門の『心中天網島』と同じ。妻がありながら遊女の小春と結ばれた紙屋・治兵衛が「どうしようもあるめえ」つって小春と心中を遂げる、世にも悲しい物語である。不倫や駆け落ちといった身勝手な恋が許されない時代にあって、世間への義理を通そうとするあまりなかなか結ばれない二人のじれったい情愛と容赦なき破滅が描かれていく。

200年以上に渡って天下万民から親しまれてきたキング・オブ・浄瑠璃なので、今さら筋を楽しむのはヌケサクの所業。この手の実験映画は手法に目を向けるものだ。

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お目めがくりくりな志麻ちゃん(尊い)。

 

開幕から驚かされる。本編が始まる前に篠田正浩と脚本家・富岡多恵子『心中天網島』の製作に関して電話で打ち合わせをおこなうメイキング映像が垂れ流されるのだ。篠田の後ろでは大勢のスタッフが慌ただしくスタジオを駆け回っている。

その後、クレジットタイトルが入っていよいよ本編が始まるわけだが、舞台は依然スタジオのまま。浮世絵が描かれた書割りの前には4人の黒子がバカみたいにボーッと佇んでおり、彼らがはけるとその奥にいた吉右衛門と志麻ちゃんがぴたりとカメラにおさまり、物語が始まってゆく…。

ンーフーン? 大変興味深いです。要するにこのファーストシーンでは2つのだいじ味ポイントが示されておるわけだな。

(1)遊廓に見立てた撮影スタジオの中で映画が進行する。

(2)黒子が堂々と画面を出入りする。

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舞台は遊廓(だがどう見てもスタジオ)。そして頻繁に映り込む黒子たち。

 

(1)に関してはラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』(03年)を想像して頂ければよい。まるで演劇のように、存在しない壁や扉を「ある」と見立てながら芝居がおこなわれていくわけだが、これを映画でやると限りなくオママゴトに近い、妙な趣がある。

(2)に関してはさらに実験的で、大勢の黒子が不断にフレームイン/アウトを繰り返し、いたずらに画面を賑やかせる。あまつさえ黒子が演者にモロ被りして吉右衛門や志麻ちゃんがよく見えなかったり、隅でジッと待機している黒子の顔を抜いた珍妙ショットも頻出するのだ。

邪魔。

本来、黒子(正しくは黒衣)というのは“観客からは見えない”という約束事のもとに舞台上に現れて演者を助けるアシスタント的存在なのに、その黒子が演者を隠してしまったりショットを独占するなど本末転倒の黒子フェスティバルが開催されております。

黒子なのに邪魔。

黒子の分際で扱いが演者。

物語を円滑に進めるための黒子が原因で画面が滞る。

そんな珍奇現象が巻き起こり放題な本作。むっちゃおもろいやんけ。正気のサタデーナイトやんか。

この「黒子だらけのオママゴト」が実に前衛的で、既存の映画制度をあの手この手で破壊してゆくのである。ゴダールにも通じる洒落っ気を感じたなぁ。志麻ちゃんが行灯に火をつけた(フリをした)途端にパッとスタジオ内が明るくなるのだが、なんのこたあない、スタッフが豆電球を付けただけだ。享保5年に豆電球て。

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黒子なのに存在感抜群。

 

◆映画を信じるな◆

ゴダールの名前を出したついでに今少し掘り下げるなら、こうした本作の演出はゴダールが幾度となく自己批評的に言及してきた「映画は作り物である」という命題に与している。

「何を今さら。映画が作り物なんて誰でも知ってるやい!」と思う人あらば問う。世界観に没入したりキャラクターに移入する行為は映画を信じることにほかならないのでは?

人は映画を観ながら脳内に第二の映画を捏造する。

好きな役者とかロマンティックな場面など「自分が見たいもの」だけを脳に届けたり、逆にストーリーやサブテクストといった「目で見えないもの」を見ようとする。スクリーンから得た情報を瞳で濾過して手前勝手な認識・解釈で映画を観た気になっているのである。それが無意識理にてめえで捏造した第二の映画とも知らずに。

ゆえに「映画が作り物なんて誰でも知ってるやい」という言説はまったくの逆だ。むしろほとんどの人間が映画が作り物であることを知らない。いわんや、スクリーンに映された役者の容姿を見て「美しい」などと言うのだから、いかに人が映画を妄信しているかという事が窺えるのである(大抵の場合、美しいのは役者じゃなくて撮り方ね)

 

本作を制作したATGという映画会社は、ゴダールが旗手となったヌーヴェルヴァーグの精神に倣った鈴木清順や大島渚らを中心とした日本ヌーヴェルヴァーグの発信地である。そこではもっぱら映画制度の解体―つまり観客に夢を見せ盲にするための骨法を打ち壊して「目を覚ませ、映画なんて作り物だよ!」と叫ぶような気付け薬(というか劇薬)のごとき難解な芸術映画が作られた。

だが芸術映画は決して難解ではない。難解だと感じるのは商業映画の制度を妄信しているためである。商業映画の頭で芸術映画を観て「難解」とボヤく輩は、例えるなら気付け薬を睡眠薬と勘違いして服用、「何なんだろうこの薬。ぜんぜん眠れない」と言うようなものである。おまえはアホか?

商業映画は夢を見せるもので、難解映画は夢から覚めさせるもの。

畢竟、いっぺん頭をまっさらにして芸術映画に臨めば存外愉しめるかもしれぬぞよ。本作などがまさにそうだ。スタジオ丸出しの舞台と、邪魔でしょうがない黒子。全編にリフレインする言葉は「映画など作り物である」。

信じる者はバカを見る。信じぬ者だけが映画を観る。

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幕一枚の背景はこれが作り物の世界であることを訴えている。

 

そう考えるとアバンタイトルで監督と脚本家が電話で打ち合わせをするメイキング映像の意図が見えてくるのとちがいますか。「さぁ、今から僕たちの作った映画が始まりますよ」ということだ。

すべてが作られている。『心中天網島』の褒めるべきは、その作為性である。

モノを作るに当たっての打ち合わせ、モノを作るためのスタジオ、モノを作るために欠かせない黒子(スタッフ)。画面に映るすべてのモノが作り物然としている。書割りはどこまでも平面的で、志麻ちゃんは浄瑠璃で使われる人形のような厚化粧。事務的な口調と機械的な芝居、世界観やリアリティを排除しようと白飛び寸前のハイキー。

極めつけは自力ストップモーションだ。志麻ちゃんが手紙を受け取った瞬間にすべての人物がピタッと動きを止め、黒子が志麻ちゃんの手から手紙をふんだくって観客にも読めるようカメラの前に示す。そのあと手紙は志麻ちゃんの手に戻され、時は動き出す。その間、画面内の人物は自力で静止しているが、注意深く見ると手がぷるぷる震えていてかわいい。

この自力ストップモーションのわざとらしさ。いかにも作り物。

また、志麻ちゃんが吉右衛門の妻と愛人を一人二役で演じた点も、やはり作り物感を助長している。

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ひたすら可愛い志麻ちゃん。

 

◆まるで黒子に操られるよう◆

世間に対する義理、あるいは世間から愛の妨害を受けた二人は結ばれそうで結ばれず、遂には心中という道に二人だけの愛の世界を見出す。一緒になるには金が要る。妻も切らねばならぬ。世間様から後ろ指をさされて日陰をぽてぽて歩かにゃならぬ。とかくに人の世は住みにくい。

本作は愛につきまとう俗世のしがらみを描いた作品でござる。

だから、画面内外をぶんぶんに横切り、吉右衛門と志麻ちゃんを決して二人きりにさせない黒子が「しがらみ」の暗喩となる。二人だけのロマンスシーンを台無しにする文字通りの第三者だ。

すなわち黒子は我々観客にとっても主演二人にとっても邪魔な妨害者。映画制度を破壊する妨害者であり、二人の愛を厳しく社会化する妨害者なのである。

ラストシーンでは、心中を決めた吉右衛門が志麻ちゃんを刺殺したあとに首吊り自殺をする。その準備を手伝うのが黒子たちだ。あるレビュアーがこのシーンをさして「まるで黒子による処刑だ」と言っていて思わず膝を打った。成程、一人では難儀する首吊りの準備をせっせと手伝う黒子たちは、まるで吉右衛門につきまとう死神のやう!

愛と映画を同時に妨害する黒子。彼らこそが真の主役、本作のMVPなのやもしれぬ。

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まるで黒子が殺したように見える吉右衛門の自殺シーン(画像左)。

そして刺し殺された志麻ちゃんの顔は文楽人形そのもの(画像右)。

 

うーん…やっぱウソ。MVPは志麻ちゃんだ(そうに決まってる)

歳も立場も口調も異なる妻と愛人を一人二役で演じた志麻ちゃんのかがやき。及びゆらめき。そしてラヴシーン。刀で喉を突き刺された顔のおそろしさ。狂い悶えんばかりの情愛と血管が破れんばかりの悲憤ほとばしる執念の芝居を志麻ちゃんはしました。

そんな奥ゆかしき女の生態を描破した成島東一郎の撮影もいい。まるで黒子に操られる文楽人形のように翻弄される吉右衛門と志麻ちゃんの哀切を情感豊かなクローズアップとロングショットだけで表現していてすごいと思った。おもしろいのは、物語が進むにしたがって画面の明度がどんどんどんどん落ちていき、死のラストシーンに至ってはほとんど黒味で潰れるあたり。二人の悲恋を明度で語った成島東一郎のキャメラを祝福します!

ていうか成島東一郎って誰だ。調べたところ『戦場のメリークリスマス』(83年)のカメラマンらしい。ああそう!

そんなわけで作り物ならではのおもしろさが、じわり、じわ、じわり…と広がる『心中天網島』。死と情念の血管炸裂ラブストーリーを、あなたもどう!

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まばゆいばかりの志麻ちゃん。