シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

アナと世界の終わり

出来は悪いがゾンビ×ミュージカルの取り合わせだけで条件反射的に楽しめてしまう。

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2017年。ジョン・マクフェール監督。エラ・ハント、マルコム・カミング、サラ・スワイヤー。

 

イギリスの田舎町リトル・ヘブンで父のトニーと2人で暮らす高校生のアナは、世界旅行の資金を稼ごうとアルバイトに励んでいたが、秘密にしていた旅行の計画をトニーに知られてしまう。次の日、幼なじみのジョンと登校していたアナはゾンビに遭遇する。二人はゾンビを撃退した後にクラスメートと合流し、学芸会の準備をしていて校舎に取り残されてしまった生徒たちを救おうとする。(Yahoo!映画より)

 

おはよう、炒め物たち。

自分の名前をアルバム名につけるミュージシャンに告ぐ。紛らわしいからやめろ。

他の音楽ジャンルではどうか知らないけど、HR/HMには妙に多いんだよ。レッド・ツェッペリンの『レッド・ツェッペリン』とか、ブラック・サバスの『ブラック・サバス』とか、エアロスミスの『エアロスミス』とか、ボストンの『ボストン』とか。

いわんや、ボン・ジョヴィの『ボン・ジョヴィ』に関してはまったく意味が分からない。

元々ボン・ジョヴィというバンド名はジョン・ボン・ジョヴィというボーカリストの名前から取ったもの。バンドだっつってんのに個人の氏名をバンド名にした集団。さすがボン・ジョヴィ。アンチョビと語感が似ているだけのことはある。

この時点で既に意味わからないのにアルバム名まで『ボン・ジョヴィ』にしちゃうとさ…もうソロアルバムじゃん。個人の氏名をアルバム名にしたら、それはもうソロアルバムですやん(それで言うとヴァン・ヘイレンも同じなのだけど)。

なぜ特定のメンバーの名前をバンド名にしたりアルバム名にするのだろうか、奴らは。いろんな店が集まってるから「商店街」なのに、それに「パチンコ街」と名付けるようなものだよ。

それに、もしボン・ジョヴィからジョン・ボン・ジョヴィが脱退したらバンド名として成立しないっていうか…ただの虚偽になるからね。代わりにポン・ジュノを正式メンバーに迎えてバンド名もポン・ジュノにしなきゃ帳尻合わなくなるよ。

まぁ、自己紹介的な意味も込めて自分の名前をアルバム名に冠しているんだろうけど、アブリル・ラヴィーンの『アブリル・ラヴィーン』とかさ、もう半分下ネタじゃない。そんなことない?

そんなわけで本日は『アナと世界の終わり』

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◆ゾンビ×学園×ミュージカル◆

音楽というのは繰り返し聴くことを前提に作られていて、聴けば聴くほど耳に馴染み、詞や演奏を深く理解できる。その証左に「作家主義」という概念が最も広く浸透した芸術ジャンルである。

たとえば監督で映画を選んだり、ある小説家の作品にのめり込んだり、特定の美術家やデザイナーの作品を偏愛することのない一般人でも、こと音楽に関しては「好きなミュージシャン」というのが大体決まっているもんだ。人は「好きな映画監督は?」と訊かれても「特にいない」と答えるが「好きなミュージシャンは?」という質問には「あいみょんです!」とすぐに答えるのである。それこそが作家主義―ひいては特定のミュージシャンを反復する音楽的性格の傍証にほかならなーい。

ところが映画というのは基本的に「一回性の芸術」である。気に入った映画をバカみたいに何度も観返すヤツは大勢いるが、原則としては一期一会、少なくともそれを前提に作られた映像メディアである(逆に何度も見ることを前提に作られた映像メディアがコマーシャルだな)。

 

そこでミュージカル映画だ。音楽は「反復の芸術」だが映画は「一回性の芸術」なので一発で耳に馴染む曲を拵えねばならない。TVドラマ『glee/グリー』のように既存のヒット曲を使いまくるのが一番手っ取り早いが、やはり映画だとオリジナル楽曲が求められる。

その点、イギリスの低予算映画『アナと世界の終わり』は抜群の音楽性を持ったミュージカル映画だ。とてつもなくキャッチーな歌メロ、少ない音数、口ずさみやすい音程、ポップなアレンジ。短い時間のなかで膨大かつ平易な音情報を詰め込んだ楽曲群は「サントラ欲しい!」と暇な人民を叫ばせるだけの魅力がある。

しかも内容が実にフレッシュで、学園ミュージカル×ゾンビ映画という意外な取り合わせ!

物語の舞台はクリスマスで賑わうイギリスの田舎町リトル・ヘブン。高校のクリスマスパーティーの準備が着々と進められている中、外の世界では謎の疫病が蔓延、ゾンビが校内に侵入してどえらい騒ぎになる…といった中身である。

ヒロインのアナを演じるエラ・ハントは卒業後の進路をめぐってパパンと対立しているJK。幼馴染のマルコム・カミングからは秘かに片想いされており、一度だけ肉体関係を持ったDQNのベン・ウィギンズからもしつこく迫られているモテ女子だ。そんな彼女の日常がパンデミックによって狂いだし、阿鼻叫喚のクリスマスパーティーが始まっていくぅー。

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◆ただの「MUSIC FAIR」◆

クリスマス前日を描いた第一幕はキャラクター紹介に当てられており、各キャラの悩みがミュージカルを通じて吐露されていく。

エラは大学進学の前に世界を旅するという計画をパパンに反対されており、マルコムはエラへの想いを打ち明けたいが今の関係性がぶっ壊れることを恐れて二の足を踏んでいた。クリストファー・ルヴォーマーリ・シウのラブラブカップルは特に悩みはなさそうだが、一匹狼のサラ・スワイヤーはレズビアンであることを周囲にからかわれている女の子で、離れ離れになったパートナーをSNSで探し続けている。そしてポール・ケイ扮する校長先生は風紀を守ろうと独裁的な教育方針で生徒の自由を奪うクレイジーシニア。いずれも愉快なキャラクターである。

歌唱力、キャラクター性、その他諸々を考慮した結果、わたくしの推しメンは孤高のレズビアン・サラに決定しました! 優勝したサラ・スワイヤーさんには私が夜なべして作った「危険な縦笛」が贈呈されます。

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優勝したサラ・スワイヤーさん。

 

クリスマス当日。自宅のベッドで目覚めたエラは「遅刻、遅刻!」と言いながらもヘアーアイロンでしっかり髪を巻き、イヤホンを両耳に突っ込んで揚々と家を出る。機嫌のいいヤギみたいに元気いっぱいに歌い、『雨に唄えば』(52年)よろしく街灯を使った遠心力ポールダンスもどきなども披露しながらノリノリで登校する。その背後でゾンビが近隣住民を襲っていることにも気づかず!

その夜、体育館でおこなわれた発表会では馬鹿みたいなヒップホップダンスや卑猥なシャンソンが披露され、沸きに沸く生徒たち。

そこへゾンビが校内に闖入し、生徒たちをかじり倒していきます。エラ、マルコム、サラ、そしてガールフレンドとはぐれたクリストファーの4人は「どないすん」と途方に暮れて学校近辺をうろちょろとサバイバルします。ちょいちょいミュージカルを挟みながら。

 

おもしろそうでしょ? 意外とおもしろくないよ。

ゾンビ映画のフォーマットに則りつつ随所でミュージカルが入るという…まぁ、それだけの映画ね。斬新なようで実は凡庸。

「ゾンビ×学園ミュージカル」という掛け算を思いついたはいいけど全然掛かってないというか、むしろ引き算になっていてどちらの魅力も共倒れ。こういうのを私はアイデア一発出オチ映画と呼んでいるのだけど。

ゾンビ映画として見た場合はミュージカルが上滑りしていて、ミュージカルとして見た場合はゾンビ要素がダブついてるので、要はうまく融和してないんだと思う。そのうえゾンビ映画としてもミュージカル映画としてもかなりヌルい出来で、どちらを取っても帯に短し襷に長し。

友達が感染するたびに安いメロドラマで涙を誘って…という単調な筋運びとモッチャリした編集がけっこう苦痛で、舞台もやたら狭い校内だけ、物語のミッドポイントもなし。「頭を狙う」というゾンビ映画のお決まりも途中からウヤムヤになってて、角材で腹とかぼこぼこ殴ってゾンビを倒していく学生たち。

腹殴って倒せたなら多分それゾンビじゃないよ。

普通の人間を倒してしまっているよ、おまえたち。

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撮影もぬるいです。各シチュエーションを撮る際のアングルとかフレーミングが3種類ぐらいしかなくて、そのローテーションだけで映像が成り立っているので自ずと画面は平板に。音を立てずにゾンビの群れを突っ切る場面など近年稀にみる緊張感のなさだ。

こうした拙い撮影はミュージカルパートでも散見される。アッパーな曲のときは激しいダンスでごまかしているが(そのダンスも大概ひどいが)、モロに馬脚を現すのはバラードを歌うとき。

ずっと同じ姿勢で歌ってる役者を、ずっと同じアングルで撮り続けている。

なにこのメデューサ撮影法。メデューサに石にされたの?ってぐらいカメラも被写体も微動だにしない。かしこい犬みたいにジッとしている。

4人が横並びにボサッと突っ立って歌唱するシーンなんてタダの「MUSIC FAIR」だからね。

「MUSIC FAIR」でミュージシャン同士がコラボレーションしたときの立ち方なのである。いっそ仲間由紀恵と軽部真一もキャスティングすべきだったのでは。

映画なんだからさぁ!

空間! 使えよ!

動態! 出そうよ!

これじゃあ音楽番組だよ!

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「MUSIC FAIR」としての『アナと世界の終わり』。

 

◆ダンスというより暴動◆

まぁ、全部が全部わるい映画ではないのだけれど。

先に述べた通りソングライティングの素晴らしさ。これには胸が躍ってしまう。曲の1番を聴いただけでスッとメロディが耳に馴染み、2番では早くも一緒に口ずさめちゃうようなハイパーキャッチーな楽曲群。強ぇ。

前章では「ダンスも大概ひどい」と述べたが、ややっ、待たれよ待たれよ、「だからダメだ」とは一言もいってないぞ。たしかにエラやマルコムたちの踊りは不調和で大味ながらも、いわゆる正統派ミュージカルの潔癖性に中指を立てんばかりのヤケクソな情熱に満ちていて、この一瞬ごとにスパークする身体性こそが青春なのだと確信したダンス(=暴動!)をフィルムに刻みつける。

そう、この映画で披露されるダンスは限りなく暴動に近い。

実際、DQNの元カレ・ベンは「勉強は苦手でもゾンビ狩りなら成績A」と歌いながらゾンビを殺しまくるし、エラたちをゾンビの群れに放り出した校長はサルのように暴れ回り、クライマックスのエラも歌いながらゾンビをなぎ倒していく。

 

次にキャラクターである。残念ながらヒロインのエラは退屈な造形におさまっているが、脇を固める同級生たちは皆それぞれに諧謔味を持っていて観る者を飽きさせない。

また、各キャラクターの生死を分けた運命にロジックがあるのがいい。むやみに死なせて即物的なスリルを狙うゴミ映画とは一線を画しております。私の推しメン・サラは無事に生き延びることができるのでしょうか。教えてあげないよ!

 

先ほど「アイデア一発の出オチ映画」と言ったように、良くも悪くもゾンビ×学園ミュージカルというステキ味溢れるアイデアこそがすべてで、その両方を多分に摂取してきた映画好きならこの取り合わせだけで条件反射的に楽しめてしまう作品構造がすでに出来上がっている。数ある映画の中からわざわざこの映画を選んだ人間は本編を観る前からすでに楽しんでいると言えるのです。ゾンビ×学園ミュージカルという心躍る取り合わせに。これぞ映画と観客と共犯関係。

まぁ、クリスマスにアホの友達を自宅に集めて鑑賞会を開くのがよいでしょう。

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