シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

永遠の門 ゴッホの見た未来

ゴッホっていうかデッフォ。

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2018年。ジュリアン・シュナーベル監督。ウィレム・デフォー、ルパート・フレンド、オスカー・アイザック。

 

人付き合いができないフィンセント・ファン・ゴッホは、いつも孤独だった。唯一才能を認め合ったゴーギャンとの共同生活も、ゴッホの行動により破たんしてしまう。しかし、ゴッホは絵を描き続け、後に名画といわれる数々の作品を残す。(Yahoo!映画より)

 

おはよう、冬の乾燥に悩めるみんな。

スーパーの会計時にカゴの中の食材からこちらの晩ごはんがガチバレするのがイヤだ。

たとえば鍋の食材を一式買ったら「鍋する気満々やん今夜こいつ」ということがレジ打ちのおばはんに知られてしまうでしょ。

私は人生これ情報戦だと思っている秘密主義者。こっちは相手のことを知らないのに、相手が一方的にこっちのことを知っているという図式がとても気持ち悪く、うまく言えないけど何かのアドバンテージを取られた気がしてしまうので、なるべく見知らぬ人間には何の情報も与えたくないのである。

したがってこの場合、私はレジのおばはんにアド取られて不利な状況に追い込まれたわけです。私はおばはんが今晩なにを食うか知らないが、おばはんは私が鍋を食うことを見透かしている。これはマズい、おばはんの方が一手有利だ。「おまえの手の内なんてお見通しなんだよ、馬鹿豚ポップコーンが。どうせ鍋だろ? しねよ」と思われてるような気がして、心がげしゃげしゃになってしまう。

だもんで私は、スーパーで買い物するたびに曰く形容しがたい敗北感にまみれているのです。くやしみ。

そんなわけで本日は『永遠の門 ゴッホの見た未来』です。すでに公開が終わりかけてるタイミングでのあえての更新という、このセンス。

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◆「ゴッホは俺らが育てた」

フィンセント・ファン・ゴッホについてベチャクチャと喋っていきたいと思います。

ゴッホといえば「日本人が好きな画家ランキング」において堂々の1位である(ピカソもアツいけど多分ゴッホっしょ)

とはいえ多くの人民は『ひまわり』耳切り事件ぐらいしか知らないアッホであるが、「とりあえずゴッホ好きって言っとけば間違いない」といったふんわりした人気が瀰漫しているような気がしてならないのだ。

そう、ゴッホはなんとなく人気がある。なぜか。ゴッホがジャポニスムの立役者だったからじゃねえかな。

ジャポニスム(日本趣味)とは19世紀中頃にヨーロッパ全土を席巻した日本美術による一大潮流のこと。とりわけ圧倒的な人気を誇った「浮世絵」は、ドガ、モネ、ルノワール、ゴーギャンなど印象派画家の心を揺さぶり、世界中の美術史に吸収され、しまいにはアール・ヌーヴォーにも影響を与えた。

アール・ヌーヴォー…建築や工業製品に用いられた19世紀末のヨーロッパ装飾技術の総称。植物や昆虫をモチーフに曲線美を追求したエレガントなデザインが特徴(20世紀初頭になると幾何学的な直線を追及したアール・デコが都市をデザインしていく)。

ゴッホもまた葛飾北斎や喜多川歌麿の浮世絵に魅せられ「僕も浮世絵かきたーい」なんつって『タンギー爺さん』『花魁』を制作。なんなら歌川広重の『名所江戸百景』の模写まで残している。

ゴッホを含め、そうした印象派たちの活躍によって日本美術のやばみが世界中に発信されジャポニスムが花開いたのである。

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左から『タンギー爺さん』『花魁』『名所江戸百景』(フィンセント・ファン・ゴッホ作)。

 

また、よく知られているようにゴッホは死後評価された画家であり、今となっては1枚124億円で取引きされる作品もあるほか、演劇、音楽、映画、書籍、広告など広く大衆文化に浸透している。これほど偉大な画家に影響を与えたのが日本美術なのだから、そこに暮らす我らジャポン民がゴッホ好きになるのも無理はなかろう。

そうそう、むかし京都市美術館のゴッホ展に行ったとき、私の横にいたおっさんが「ゴッホは俺らが育てた」とパラノイアみたいなことを得意気にのたまっていて「早く耳切って死んでくんねーかな」と思った記憶が蘇ってきました。ファン・ゴッホは数々の名画を生み出したが、それと同じぐらいアッホなファンも生み出したのだ。おっほ。

 

さて。ゴッホの伝記映画はちょくちょく作られている。

近年ではゴッホさながらに油絵のタッチでその生涯を描いたアニメーション『ゴッホ 最期の手紙』(17年)がちょっとした話題になったが、それ以前にもロバート・アルトマンが『ゴッホ』(90年)を手掛けていたり、晩年の黒澤明が趣味全開で撮り散らしたオムニバス映画『夢』(90年)では中年男がゴッホの絵画世界に迷い込むというエピソードがバッコリ収録されております(黒澤マニアのマーティン・スコセッシが監督業をほっぽらかしての出演)

それらゴッホムービーにおいて、とりわけ私が好きなのはヴィンセント・ミネリ監督、カーク・ダグラス主演の『炎の人ゴッホ』(56年)である。思いきりハリウッドナイズされた作品だが、芸術家の「激情」をスクリーンに塗りたくった、熱の高い作品だと思う。劇中ではゴッホの絵(本物)が多数使われているのでファン・ゴッホのファンおっほは必見。必ずや「おっほ」と感嘆詞を漏らすことだろう。

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マイケル・ダグラスのパパン。

 

そんなゴッホムービーの最新作『永遠の門 ゴッホの見た未来』を観た。

監督は『潜水服は蝶の夢を見る』(07年)で知られるジュリアン・シュナーベル。過去にも画家の伝記映画『バスキア』(96年)を撮っているが、こちらはグラフィティ・アートなので全く畑が違うね。

グラフィティ…スプレー缶で街中の壁という壁に落書きして回るストリート・アートのこと(私の友人もやってましたが普通に犯罪です)。

そしてゴッホを演じるのはウィレム・デフォー

『ハンター』(11年)以来の単独主演作に目頭を熱くしての祝福。数えるほどしか主演作がないデフォーにとって『永遠の門』は確実にキャリア後期の代表作となるだろう。

助演にはルパート・フレンドオスカー・アイザックほか、『潜水服は蝶の夢を見る』の主演俳優マチュー・アマルリック『告白小説、その結末』(17年)エマニュエル・セニエ、さらにはマッツとミッツで混同しがちなマッツ・ミケルセンが出演。ミッツ・マケルセンだっけ?

デフォーを輝かせるべく、皆さん張り切っておられます!!

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キャリア屈指のかわいさ。

 

◆斜陽する友情 ~そしてメンヘラへ~◆

物語は1888年にはじまる。

と、こんな書き出しをすると「こちとらゴッホがいつ生まれたかすら知らねぇんだから1888年とか言われても前後の文脈がわかんねーよ」と思われるかもしらんが、だから今からそれを説明しようとしてるんじゃねーか。生き急ぐな、ゴッホかおまえは!

読者諸兄と同じく、1888年のゴッホは生き急いでいた。パリで浮世絵にドハマりしたあとに南フランスのアルルという地に居を移したばかりの頃で、誰もが知る『収穫』『ひまわり』『夜のカフェテラス』など主な代表作を鋭意制作、まさにキャリアハイに当たる爛熟期を迎えていた(ちなみに死の2年前)。

執念の創作活動と並行して描かれるのはゴッホが終生苦しめられた精神疾患。やがて奇行を繰り返すようになったことで精神病院にぶっ込まれ、退院後に謎の銃傷を負って死亡するまでが描かれております。

 

もちろん弟テオとゴーギャンも登場するぞ。ルパート・フレンド演じるテオは兄ゴッホを経済的に支援していた画商で、オスカー・アイザック扮するゴーギャンはゴッホと同じくポスト印象派の画家、一時期は共同生活していた無二の親友である。

だが、すべてのゴッホムービーでドラマ要素を担っているのがゴーギャンとの仲違いだ。二人の共同生活がわずか9週間で終わった理由は依然不明なので、本作では「作品性の相違」という仮説を採っている。

ゴッホの制作スタイルは「モチーフを目で見てキャンバスに模写する」というものだった。

「は? フツーじゃん。ていうか、それが一般的な絵の描き方でしょ?」と思うかもしらんが、さにあらず。これは絵描きあるあるだが、たとえ目の前にモチーフがあっても、つい観察を怠り、想像に頼って筆を運んでしまうことなどザラにあるのだ。

だがゴッホは徹底的に観察する。穴があくほど対象を凝視することにかけては他の追随をあんまり許さなかった。画材を背負って山を歩き回り、描きたいと思った風景の前でイーゼルを立てて黙々と描き始め、日が暮れたら宿に帰り、翌日また同じ場所に行って続きを描き始めるのだ。

対するゴーギャンは思考や想像によってキャンバスに絵を広げていくタイプの画家で、「見たままだけでなく想像力を使うことも大事よ」と力説。「極論、絵なんて目隠ししてても描けるのだし」とも言った。

だが、ゴッホはどうしても見た物を見た通りにしか描けなかったので、執拗に目隠しプレイを勧めてくるゴーギャンに「ああん、もう。自由にやらして!」と言ってぷりぷりした。そこから二人の関係が悪化していくのだが、このシーンの寂寥感がたまらなくてねぇ。

両者が自らの作風について議論を戦わせるシーンを「多弁かつ説明的」と評したアッホなライターがいたが、このシーンは数あるゴッホムービーの中でもゴーギャンとの微妙な関係性が最もよく描出されている。山を歩きながらフェアに意見交換する二人はあくまで穏やかな態度を装ってはいるが、内心では互いに「あ、こいつとは分かり合えないかも…」と後の訣別を予期したかのような切ない表情を湛えていたのだな~。

それでも惰性でつるむ二人の斜陽する友情が生々しいやら居た堪れないやらで…。まるで、とうに終わった関係、形骸化せし情を延命するかのようにズルズル引き延ばす恋人たちのよう!

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ゴーギャン役のオスカー・アイザック(左)。

 

ゴーギャンのダメ出しは止まるところを知らない。

こねくり回すような厚塗りこそがゴッホ描法の精髄だが、ゴーギャンは塗り重ねに対しては甚だ懐疑的で「そんなことはやめろ」とゴッホに忠告。さらには、緻密さとは程遠い超絶速筆こそがゴッホ描法の奥義であるが、ゴーギャンは慎重かつ正確な筆運びをこそ美徳とするタイプの画家で、サッササッサ描くゴッホに「そんなことはやめろ」と忠告。

やることなすこと全てが正反対のゴッホに嫌気が差したゴーギャンは彼のもとを去るが、ゴッホは基本メンヘラなので「いやだ。ゴーたん居なくなっちゃうの、いやだ!」と駄々をコネて更に嫌われてしまう。

駄々という駄々をコネにコネたゴッホはついに精神錯乱を起こし、自らの左耳を切り落とした。史実ではその耳を娼婦に送ったとされるが、本作ではゴーギャンに送るつもりだったがミスって娼婦に送ったという描かれ方がされていた。

耳の配達先を間違えたことでゴッホのメンヘラぶりがよく出たナイス翻案といえる。

また、この映画で描かれるゴッホは弟テオに依存しており、入院中に見舞いにきたテオをベッドに招いて抱きしめてもらっている。なんなら頭も撫でてもらっている。

それを演じるウィレム・デフォー(63歳)に全米が萌えた。

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テオ役のルパート・フレンドによしよしされるデフォー。

 

これは映画の美点でもあり欠点でもあるのだが、本作はフィンセント・ファン・ゴッホの知られざる内面に肉薄するというコンセプトから全てがゴッホの視点で描かれている。

ゴッホ役のデフォーを映すときはクローズアップ、そして手ブレだらけのハンディカムなので画面酔いする観客続出。また、頻繁に挿入されるデフォーの視感ショットでは画面上部と下部で被写界深度が異なる(瞳の焦点や視野を表現するためか)。ジュリアン・シュナーベルは『潜水服は蝶の夢を見る』でもPOV方式を採用していたが、その映像技法を一層ハードコアに振りきったのが本作なのである。

その結果、デフォーの細かい芝居のニュアンスを漏れなく拾うことはできても、ブレにブレる映像はただ見苦しいだけのものとなり、われわれは唯一手ブレのない美しいロングショットに辛うじて安らぎを見出すことでこの罰ゲームみたいに過酷な110分を走破する勇気を振り絞ることができる。

大体において「一人称視点に立てばゴッホの内面を深掘りできる」という発想自体が浅ましい。しょせんこの映画で描かれた「ゴッホの内面」などシュナーベルが勝手に作り出した「ぼくの考えたゴッホ」に過ぎないのだから、それをさも真実かのように一人称で見せられたとて…なのである。

ただし、ゴッホが好んだ青と黄の慎ましい配色にはとても品があり、一部のモノクロシーンには「ゴッホだったらどのように色を付けるだろうか?」と想像する塗り絵のような楽しみがあることを付け加えておく。

 

そして銃傷を負って死に至るラストシーン。

長らくゴッホの死因は自殺と思われていたが、近年の研究により他殺説が有力視されつつある。その新説ではゴッホと交流のあった2人の少年が事故的に発砲した弾丸がゴッホの左胸に命中したというのだ。重症のゴッホが宿に駆けつけたテオに負傷の理由を一言も話さぬまま死去したことからゴッホが少年たちをかばったとする見解である。

とはいえ一般的なゴッホ像は「苦悩の末に自殺した狂気の芸術家」というイメージに収まっているし、はっきり言ってゴッホをここまで有名たらしめたのは「自殺込みの評価」なので、この新説は方々から否定されている。だからこそ、あえて新説を採った本作のラストシーンが胸に迫るのだ。一抹の無念に歪んだデフォーの死に顔は「狂気」という形容詞がつきまとうゴッホの魂をいくらか慰撫しただろう。

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芸術家につきまとう「苦悩」や「狂気」は人々が作り出したイメージに過ぎないのかもしれない。

 

◆ゴッホこじらせ◆

ゴッホという画家のおもしろさはその人物像にある。映画化に耐えうるようなドラマティックなエピソードはさほど多くないが、彼の人間性はいくつもの時代を超えて人々に示唆や救済を与えてくれるんだ。

たとえば私のようにゴッホに憧れている人民はきっと多いはず。とりわけ何かを表現・創造・発信することに生き甲斐を感じる人種であればゴッホをこじらせてる確率は高い。

なんといっても孤独アコガレだよね。

根暗で神経質で人付き合いが苦手なゴッホは、人々に疎まれ、嫌われ、蔑まれながら、独り黙々と画業に没頭した。まさに芸術家のイメージそのものではないか!

お次は生まれる時代を間違えたアコガレ

ゴッホの作風はポスト印象派の正統性からは大きく逸脱したもので、当時の美意識や価値観には到底おさまらないスケールだった。まさに「早すぎた天才」のイメージそのものではないか!

最後は太く短くアコガレ

過去の栄光を水増ししながら長生きするより一瞬の火花を散らしてこその人生、それが表現者にとって最もスタンダードな生き様だ。とりわけ絵画・文学の世界ではそれが顕著で、死と創作は常に隣り合わせである。しかもゴッホの画家活動はわずか10年。これはビートルズの活動期間と同じ。だが天才の10年は永遠を約束する。

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ここぞとばかりにきらめき倒すウィレム・デフォー。

 

本作を一言で表すならデフォー尽くしということになってしまうよね、それは。どうしても。

デフォーが大いにデフォった作品で、天候やロケーションといった撮影環境もすべてがデフォーの味方をしており、まさに絶好のデフォり日和に撮られた全人類対応型のデフォー映画といえよう。

光を浴びるデフォー。土の匂いを感じるデフォー。山をうろちょろするデフォー。創作を邪魔する子供たちにガチギレするデフォー。急に走りだすデフォー。一生懸命なにかを見てるデフォー。病室のベッドで眠るデフォー。目覚めるデフォー。よろめくデフォー。たまに笑うデフォー。「むむっ」て顔をするデフォー…。

すてき。

すてきといえば、キャンバスの生地にさらさらと絵筆を走らせる摩擦音がたいへん心地よいので摩擦音フェチには必見の作です。デフォーが奏でる摩擦音、それはこの世のどんな音楽よりも崇高で美しい天国の音色なのである。

また、劇中ではデフォー自らがすばらしい筆致で絵を描いている。絵といっても抽象画なので相当訓練を積んだと思うのだが、デフォーは細かい仕草に至るまで「画家の生態」を徹底的に身体に馴染ませた。カンバスの立て方からモチーフに向ける眼差しまで、その一挙手一投足にはどこか深遠な趣があり、天才ゆえの悲しみすら湛えていた(気のせいかも)。

だからといって「まるでデフォーが本物のゴッホに見える!」なんて馬鹿げたことを言うつもりは毫もない。

ここに映っているのはデッフォなのだから。

もはや本作はゴッホ映画ですらない。だってゴッホなんてどこにも出てこないんだし。スクリーンに映し出されたのはゴッホを自分なりに解釈して演じきったデフォー、すなわちデッフォなのである。

もうなんかよく分かんねえけど…ウィレム・デフォーの勝ち!!!

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何かに勝ったデッフォ。

 

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