シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ワイルド・パーティー

リアル・ワイルドパーティーすな。

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1970年。ラス・メイヤー監督。ドリー・リード、シンシア・マイヤーズ、エリカ・ギャビン。

 

ショウビズ界に取り込まれた3人の女たちの悲劇を過激な描写で描いた問題作。大きな夢を抱いてハリウッドにやって来た女ばかりのロック・バンド。メンバーのひとり、ケリーの伯母は財産家でコネも強力、見る見る内に彼女たちのバンドは脚光を浴びていくが、同時にドラッグやSEXの誘惑にも抗しきれないでいた。次第に堕ちていく女たち。そして、変人だが天才プロモーターである男の屋敷で惨劇が起こった…。(Yahoo!映画より)

 

おはよう、愉快な住民たち。

ジミ・ヘンドリックスの『エレクトリック・レディランド』を聴きながらの前書き執筆です。

私がよく行く中古レコード店は店内がやけに狭い。一か八かで言ってみるが、多分あなたの部屋より狭いと思う。だから客も滅多に来ず、多いときで私を含めて3人も入れば店はパンパンてな具合なのである。店主も暇そうにしているし、全体的にやる気のないレコード店と言っても差し支えはなかろう。

そんなわけで私は常に店主の視線を感じながらレコードを選ぶはめになります。

店は狭い、店主は暇、ほかに客もいない=半ば必然的に私は店主に見つめられる。落ち着かない。

わかりますか、この悲しき宿命が。めちゃめちゃ見てくるからね、店主は。私を。暇だから。

この宿命のキツいところは何も買わずに店を出るのが相当気まずいという点である。何しろ私は店主にマークされているし、それでなくともこの店の客足はほぼゼロ。「何か買え」という無言の圧を背中を受けながらレコード選びをする私は冷や汗でぐっしょりさ!

過日、欲しいレコードが1枚も見当たらなかった私は店を出るタイミングを見計らっており、店主はそんな私に「何も買わずに店を出るなんてことはしないよな?」という圧をぎゅんぎゅんに掛ける…みたいな駆け引きをしていた折、抜群のタイミングでゴスロリファッションをした女の子が入店してきた。かわいい。

瞬間、私をマークしていた店主は「むむっ、ゴスロリっ」とばかりに視線をゴス女へと移し、私はこれ好機とばかりに「すまん、ゴスロリっ」とばかりに店からプルンと脱出、間一髪のところで事なきを得た。やったー!

何も知らぬゴスが生贄になってくれたお陰で危機から脱した私は、しばしゴスの魂に感謝を捧げたのち、「今日も鍋かな」と思いながらスーパーに向かいました。おわり。

よし来た、『ワイルド・パーティー』の時間だぜ!!

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◆何構うものかとワイルド・パーティー◆

今回はソフトコア・ポルノの第一人者として50年代後半から70年代中頃にかけて数々のゴミ映画を量産したエロ映画の帝王ラス・メイヤーをパワープッシュ。冬だしな。

ちなみにラス・メイヤーという映画監督は巨乳をこよなく愛した男で、すべての監督作において巨乳のモデルや女優を起用しては低予算のセクスプロイテーションを連発、『ファスター・プシィキャット!キル!キル!』(65年)『女豹ビクセン』(68年)などで一世風靡したマヌケ野郎である。

しかしラス・メイヤー作品は単なるエロ映画に終わらず大衆文化に広く浸透し、多くの映画作家たちにも影響を与えた。最も有名なのはクエンティン・タランティーノだろう。『デス・プルーフ in グラインドハウス』(07年)の着想点は『ファスター・プシィキャット!キル!キル!』にあって、今回取り上げる『ワイルド・パーティー』『ジャッキー・ブラウン』(97年)のパム・グリアを輩出したほか、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(19年)の下敷きにもなった伝説のカルト映画であるよ。

 

ドリー・リードシンシア・マイヤーズマーシア・マクブルーム扮するスリーピース・ガールズバンドが大物ロックプロデューサー ジョン・ラザーの目に留まりショービズ界でのし上がっていく…というのが物語の大まかな流れ。

だがチャート上位に上り詰めるほどバンドは堕ちていく。ドリーはジゴロのマイケル・ブロジェットと浮気。恋人兼マネージャーのデヴィッド・ガリアンはドリーに捨てられたショックから飛び降り自殺を試みたが失敗、半身不随に。レズのシンシアには恋人ができたが、自殺未遂する前のデヴィッドと寝てしまいご懐妊。マーシアにも素敵な恋人ができたが悪徳ボクサーと寝てしまい死の三角関係に!

それぞれが性のトラブルに見舞われながらも何構うものかとワイルド・パーティーを満喫する無軌道さ。いかにも70年代。

 

…と、ここまでなら「まぁ、なるほどね」という感じではないでしょうか。大枠としてはよくあるバンド映画、そして各メンバーの破滅的な私生活が群像劇風に描かれているだけ。取り立てて騒ぐようなモノではない。

だが本作をカルト映画たらしめたのは急に映画のテイストが変わるラスト20分。それまでほとんど画面に映らなかったロック・プロデューサーのジョン・ラザーがやおら頭角を現し「世界は私のもの」とばかりにスクリーンを支配するんである。

彼女たちをゲストに招いて自宅パーティーを開いたラザーPは、ドラッグをたらふく食って「俺は王かもしれない」なんて抽象的なことを言いながら秘剣エクスカリバーを振り回し、ゲストを斬殺する!!!

急にサイコ丸出しのスプラッター・ムービーと化すんじゃない。

驚くばかりの脈絡のなさ。しかもなぜかラザーPの胸には乳房がついていた。

その後、剣から銃に装備を変えたラザーPは不思議なマントを翻しながら彼女たちを追いまくり、レズビアンのシンシアとその恋人の頭を拳銃で吹き飛ばす。とんだワイルド・パーティーだな。

阿鼻叫喚の地獄絵図が繰り広げられる中、ドリーたちは錯乱状態のラザーPを見事やっつけてパーティーを終わらせた。シンシアの死を悼んでいる最中、なぜか半身不随のハリスの足に感覚が蘇り「やったじゃんよー!」と皆で喜びを分かち合って映画は終わります。

あぜん。

 

売れるからという理由だけで「バンドのサクセスストーリー」と「ラザーPの殺戮ストーリー」という決して相容れない要素を力ずくで相容れさせ、画面の至る所におっぱいを配置したラス・メイヤー先生。彼の映画製作のスタンスはきわめて明確で、儲けること、ただそれだけだった。

血と音楽と裸はカネになるからな!

高度なロジックである。

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シンシア・マイヤーズ。

 

◆儲かりゃいいのさとワイルド・パーティー◆

脚本を手掛けたのはラス先生のご友人であるロジャー・イーバート。私も大いに影響を受けたアメリカで最も著名な映画評論家だ。

おそらく本作をカルト映画たらしめた大きな理由には、イーバートが脚本に参加したことでポップカルチャーとしての裾野が広がり、映画世界が豊かなサブテクストに彩られたことが挙げられる。

イーバートは、ラザーPのモデルが数々の奇行と薬物中毒で知られる音楽プロデューサーのフィル・スペクターだと明かしている。この男はビートルズのラストアルバム『レット・イット・ビー』を手掛けたことで有名だが、本来はザ・パリス・シスターズ、ロネッツ、クリスタルズといった女性歌手グループをプロデュースすることが多かった。奇行癖、薬物中毒、女性グループを売る天才…。ラザーPはフィル・スペクターの特徴を実によく捉えたキャラクターというわけだ。

驚くことに、フィル・スペクターは映画公開から30年以上経った2003年に女優ラナ・クラークソンを自宅で射殺しました。

リアル・ワイルドパーティーすな。

劇中のラザーPとまったく同じ惨事を、そのモデルであるフィル・スペクターが現実世界で引き起こしたのである。なんたる未来予知。

また、劇中で描かれる一連の惨事は「シャロン・テート殺害事件」がモチーフになっている(顔面がぐちゃぐちゃになるゴア描写は『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』へとしっかり受け継がれていた)。

事程左様に、いろんな意味でロジャー・イーバートの脚本がぶっ飛んでおります。

 

一方、映像面ではラス先生の独壇場。

『白昼の幻想』(67年)『ワンダーウォール』(68年)のようなサイケデリック・ムービーの系譜に位置する本作だが、全編に漂うのはロウなトリップ感覚ではなく極めてハイなフィルムの熱量である。

なんといっても目にも止まらぬカットの速さ。瞬きするとワンショット見逃してしまいそうになるほどパパパパパッと切り替わっていく映像の流れ星、およびそこに紛れたおっぱいの数々。

やけに鋭角的なアングルや、演奏中のドリーに2人の男の顔をディゾルヴすることで恋に揺れる乙女心を表現したりなど、押し並べて映像はキレキレである。ラス・メイヤーのくせに。

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ラス・メイヤーなのにディゾルヴを上手く使っている。

 

なんと言ってもラザーPが警備員を斬殺するシーンで、あの「パンパカパーン!」っていうファンファーレでお馴染みの20世紀FOXのテーマ曲が鳴るバカバカしさ。

これぞ究極のメタフィクションだ。このファンファーレによって「これは映画ですよ」ということを断っているわけだが、なぜそんな断りを入れるのかと言うとふざけ過ぎた展開に対して批判の予防線を張っているのである。

というのも、まず映画冒頭で「本作は『哀愁の花びら』とは何の関係もない」という言い訳みたいな前置きが出てきます。もともと本作は『哀愁の花びら』(67年)の続編として企画されていたのだが、原作者に「作んな」と拒否されたため、あくまで『哀愁の花びら』とは何の関係もないパロディ映画という体で製作されたのだ。

問題はここからです。『哀愁の花びら』にはシャロン・テートが出演しており、彼女が公開後間もなくマンソン・ファミリーに殺害されたことで、ラス先生はクライマックスの大殺戮を思いついた。

こりゃ金になる!

ちなみにシャロン・テート殺害事件から本作が公開されるまでの期間は1年にも満たない(だから映画終盤の大殺戮ではさすがにやりすぎたと思ったのか、テキトーに20世紀FOXのテーマを流して冗談であることを猛アピールした)。

利用できるものは何でも利用する。それがラス流映画術だと言うのかぁー。

ラスというよりゲス!

ゲスを極めたラス・メイヤー…ということでゲスを極メイヤーという一発ギャグを開発しました。自由に使ってください。

 

シャロンテート殺害事件の悪夢はリアルとフィクションを去来しながら何度も繰り返す。

1969年…シャロンテート殺害事件が起きる(現実)

1970年…『ワイルド・パーティー』で早速ネタに(創作)

2003年…フィル・スペクターが『ワイルド・パーティー』さながらの殺人事件を起こす(現実)

2019年…『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』で再びネタに(創作)

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セクシー女優のシンシア・マイヤーズとエリカ・ギャビンがレズビアンをねつえん。

 

◆言い訳だらけのワイルド・パーティー◆

先述の通り、シャロンテート殺害事件のわずか翌年に本作を公開したラス先生は世間の批判をよほど恐れたのか、言い訳みたいな前置きを入れたりファンファーレを流してお茶を濁すなど、終始おずおずとした態度が目立つ。

ビビってもうとるやないか。

この及び腰な感じというか…石橋を叩きまくる制作スタイルが実にラス先生らしく、妙な愛嬌さえある。彼は金の亡者ゆえに用心深い。悪評をばら撒かれると映画がコケてしまうからな。だからこそ本作ではふざけながら謝るという攻守一体と化したゲス・メソッドを用いたのだ!

シンシアを殺され悲嘆に暮れていた一同が、半身不随のデヴィッドが足の感覚を取り戻した途端に大喜びするシーンの何と不自然なこと。「撮りたいもの=殺戮シーンも撮ったことだし、さっさと話をすり替えよう」てな具合である。

 極めつけはラストシーンでカマされる特大の言い訳。

これまでの登場人物が順々に映しだされ、彼らの中に何らかの教訓を見出した謎のナレーターが観客に向かって人生論を語りだすのである。

 

ラザーPは自分の観念の中だけで生きていた

ドリーは身勝手に周囲をかきまわし友情を軽視したが、その痛みから生涯忘れえぬ教訓を学んだ

シンシアとその恋人はお互いが光と影だった。美しい関係ゆえに悪魔につけこまれた

デヴィッドは昨日を過去だと思わなかったため、明日のことが見えなかった

マイケルは自分から身を捧げない。奪うだけの人間はもっとも高いツケを払う

 

なにこのちょっと小粋なキャラクター寸評。

そして映画全体を総括するようなナレーションの白々しさ。

 

人生をどう生きるかはあなた次第です。そこに差し伸べられた手は愛の象徴にほかなりません。愛は見返りを求めない。ただそこにあるのです。心に愛があればどんな谷でもきっと越えられるでしょう

 

死ぬ気でまとめに掛かっとる…。

「愛」とか「人生」とか言い出してるからね、この内容で。無理くりエエ話にしようとすな。麻薬とおっぱいと殺戮しか描かれてないのに愛もヘチマもあるかあ!!!

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ワイルド・パーティーでした。