我ながらキケンな映画に対する嗅覚が放射能測定器並みでブルっちまう。
2015年。スティーブン・グリーン監督。ジェシカ・ビール、ジェイク・ギレンホール、キャサリン・キーナー。
プロポーズ中に起きた事故で脳内に釘が入ってしまったアリス。摘出手術に失敗し超エキセントリックな性格になった彼女は、全てを失ってしまう。ある日、アリスは若手政治家ハワードが弱者を救う活動をしていることを知り、彼のオフィスを訪ねる。出会った瞬間に恋に落ちる2人だったが、アリスの特殊な事情に目をつけたハワードは、彼女を政治活動に利用しようと考える。(映画.comより)
おはようございますと言わざるをえない。朝だからな(もし今が夜だったらこんな挨拶はしなくて済むんだが……朝だからな)。
さて、私には対義語研究家としての顔もあるので「これと反対の言葉は何だろう?」ってことを常に考えながら日々闊達に生きてるわけです。
つい最近も「大泉洋」の対義語は「小泉邦」という研究結果を打ち出して日本言語学会に激震をもたらしたわけだけど、目下取り組んでいるのは 「引っ張りだこ」という言葉。これは多方面から誘いや働きかけを受けることを指す慣用句だが、この言葉の逆は何かと考えたところ、まあ「押し合いイカ」あたりが妥当ではないかと思う。タコを引っ張り合うと言うのなら、その逆はイカを押し合う以外はないと考えたのだ。まあ、意味はよくわからんが。
こんな感じで慣用句を片っ端からひっくり返してやろうと試みたところ、まあ出るわ出るわ!
「隅に置けない」の逆は「真ん中に置く」だし、「お茶を濁す」の逆は「泥水を濾過する」、「路頭に迷う」の逆は「スナックに入る」、「我を忘れる」の逆は「きみを覚えてる」、「白紙に戻す」の逆は「Paint It, Black」などなど…。
我ながら対義語名人ではないかしらと思い、しばし自己陶酔したのち「ふかづめ」の対義語を考えたところ「賢人」という言葉が思い浮かびました!
つまり愚人ってことか。ふざけやがって。
そんなわけで本日は『世界にひとつのロマンティック』です。皆して俺をなめやがって。
◆3つのヤバみ◆
当ブログではポスター写真のすぐ下に制作年、監督名、出演者を表記している。今回は監督名に「スティーブン・グリーン」と表記したが、実はそのような人物は存在しない。
この映画の本当の監督は『ザ・ファイター』(10年)や『世界にひとつのプレイブック』(12年)で知られるデヴィッド・O・ラッセルなのだが、ある事情からスティーブン・グリーンという偽名でクレジットされているわけだ。
あれはそう、12月上旬の肌寒い日のことだった。
いつものようにレンタル店を彷徨っていた俺は、この映画のDVDを目にして「おっほ」と楽しい気持ちがした。本当なんだぜ。なんたってジェシカ・ビールとジェイク・ギレンホールのロマンティック・コメディだって言うんだからな!
DVDパッケージを仔細にチェックしたところ、監督はデヴィッド・O・ラッセルで、邦題は『世界にひとつのロマンティック』とのこと(パッケにはラッセルの名前が表記されていた)。
ふーむ、ラッセルの代表作『世界にひとつのプレイブック』をもじっただけのクソ安直な邦題だが、まぁよかろう。怪演バカのジェイクがこの手のロマコメに出ること自体がフレッシュだったし、おっぱいのイメージしかないジェシカ・ビールも久しぶりに主演を張ってるし。何もかもが新鮮じゃないか。
怪演バカのジェイク・ギレンホール&おっぱいのイメージしかないジェシカ・ビール。
さっそくギューンと家に帰った俺は、ご飯をムシャムシャッと食ったあと、DVDをプレイヤーに突っ込んで映画鑑賞と洒落込んだ。
ととと、ところが!
おもしろかったのは最初の17秒だけで、2分経過した時点で「ん…」と異変に気付き、5分も経つ頃には「おーや、おやおや…」と漏らしていた。
我ながらキケンな映画に対する嗅覚が放射能測定器並みでブルっちまうのだが…奥さん、ヤバいぜこの映画。
ヤバみ①出演者が若い
特にジェイクが不自然なほど若い。ジェシカはたまにしか見ない女優なので特に違和感はなかったが、ジェイク出演作は毎年のように見ているので外見的変化にはすぐ気が付いた。
老けメイクをしているとは思えないし、また、する必要もない役柄なのだ。あるいは本国公開から数年遅れで日本に入ってくるような映画であれば確かにこのような顔面タイムラグが生じるが、それにしても顔が若すぎるぞ…。
一体どうなってんだ。ジェイクってこんなに成長速度の早い奴だったのか?
うむ、やはり若い。
ヤバみ②ショットが繋がってない
「どういう意味ぃ?」と訊いてくるばかの為に噛み砕いて言うならカットが不自然なのである。
何度説明してもショットとカットを混同するシャバ僧が多いのでもっと分かりよく説明するが、ショットというのは録画スタート~録画ストップの間に撮られた映像のことで、カットというのは特定のショットを「ぶった切って」別のショットに「繋げる」編集作業のこと。
つまり映像を「区切る」ことをカットと呼ぶんだ。映画を見てるとパッ、パッ、パッと常に映像が切り替わっていくだろ。この「パッ」だよ。カットとはパッ!
その意味で本作はパッとしない編集なのである(うまいこと言うた)。綺麗に繋がってないっつうか。映像的にも不自然だし、物語的にもリズムが悪い。映画を見ない人なら特に何も感じないだろうが、映画好きにとって「下手な編集」というのは気持ち悪くってしょうがないのである。音痴のカラオケを聴かされてるようなものだ。「ピッチ合ってないしリズムもむちゃむちゃですやん」みたいなことである。
ヤバみ③つまらない
端的につまんねえっす。
終始物語の軸が定まらないし、語りも性急すぎるので話についていけない。なにより一番ヤバいのはロマコメじゃなく政治映画だったというあたり。
ヒロインのジェシカは、恋人(ジェームズ・マースデン)にプロポーズされたレストランで事故に巻き込まれ脳天に釘がぶっ刺さってしまう。その影響でエキセントリックな性格になった彼女は保険未加入ゆえに高額な医療費が払えず、たまたま見ていたテレビで「困ってる人を救いたい」と調子のいいことを言っていた若手政治家ジェイクにすがりつく。
ジェシカに助けを求められたジェイクは、上司である議員(キャサリン・キーナー)の月面基地計画の広報担当になってくれるなら医療保険制度の法案を提出すると約束し、これを信じたジェシカは「月に軍事基地つくれー」と国民にアピール。ケガの影響で演説の天才になったジェシカは、民間人でありながらあれよあれよという間に政界進出していく…といったストーリーなのだ。
え? なんて?
ハナシの輪郭がいまいち掴めないというか、はっきり言ってカオスに近い脚本であるよなー。
劇中ではオゲレツな下ネタが飛び合う一方で医療保険問題や人権問題がこれ見よがしに打ち出される。少なくともロマンティック要素は限りなくゼロに近い。
頭に釘が刺さったまま政治活動をおこなうジェシカは「手術を受ける」という当初の目的を忘れてしまうし、自分を見失ったジェイクは山奥に暮らす部族に加わり謎の儀式を受けちゃう。議員も一人死ぬ。…なんて?
デヴィッド・O・ラッセルの作品はどれもハナシの焦点がボケてるが、それが良い方に転んだのが『ハッカビーズ』(04年)で、悪い方に転んだのが本作だ(おまけに変なフィルム撮影のせいで画面もボケ気味)。
なんだろな…、つまらないというより釈然としない映画だな。思わず「なんて」と聞き返してしまうほどスッと入ってこないストーリーに前後不覚。「どこに話の軸があるの? 」みたいな五里霧中のストーリーに右往左往。そんな感じが100分続きます。
地獄。
『テキサス・チェーンソー』(03年)や『ブレイド3』(04年)でプチブレイクしたジェシカ・ビール。
◆アラン・スミシー映画だった◆
そんなわけで、どえらい失敗作である。駄作ではなく失敗作ってとこがポイントね。
たしかにデヴィッド・O・ラッセルは中の下だが、ここまで酷い映画を撮るとは…少し引っかかる。よっぽど体調悪いときにしか作れないぞ。ここまで酷い映画は。
だけど映画が終わったあとに色々調べてみて…うーん、なるとく!
なるとく…成程+得心の合体語。とてつもなく腑に落ちたときだけ使うことが許された贅沢な造語(みんなも使っていいよ)。
まず、本作が撮影されたのは2008年だったわ。
なるほど、ジェイクが10歳も若く見えたわけである。そんなに前の作品だったのかよ。
ではなぜ2008年に撮影された本作が2015年に本国でリリースされ、さらにそこから4年も経った2019年に日本でDVDスルーされたのか。
撮影中の資金難でキャストにギャラが払えず製作中止に追い込まれたからであるぅー。
ズコーッ。ものすごくカッコ悪い理由ですべての辻褄が合った。ズココーッ。
出演者へのギャラ未払いにより撮影は14回も中断され、主要キャストのジェシカ・ビールとジェイク・ギレンホールがぷりぷりしながらストライキを起こす騒動にまで発展したようなのだ。資金難により撮影日数を短縮しながらもどうにかクランクアップには漕ぎつけたが、納得のいかないラッセルは「やめた」と言って監督を降板し、同時期に製作会社キャピトルも破産してぶっ潰れた。ろくでもねえな。
ところがどっこい、2010年のオバマケアが本作のストーリーと奇跡的に符合したことで「今こそこの映画を世に出すべきじゃない?」と製作続行の話が持ち上がり、元キャピトル社員が夜なべしてフィルムを完成させたことでようやく配給が叶ったという涙ぐましい経緯がある(だから編集がヘタだったのかコノヤロー!)。
しかしラッセルは予算&日数不足から思うように撮影できなかったことに怒り心頭、「映画は最終的に世に出ることになったが、これは僕の作品ではない。黒歴史だ」と騒いだ結果、スティーブン・グリーンという架空の名前を監督名に冠した…という顛末である。
まぁ、よくある話っちゃあよくある話なんだよね。2000年まではアラン・スミシー名義の映画が沢山あったけど、その最新版が本作だったというわけかー。
アラン・スミシー…映画監督が何らかの理由で自分の名前をクレジットしたくない場合に使われる架空の映画監督の名前。やがてこの意味が世間に浸透したことにより、全米監督協会は2000年に「もう使うな」と命じた。
~有名なアラン・スミシー作品~
『ガンファイターの最後』(69年)では監督のリチャード・トッテンと降板後の監督ドン・シーゲルが共にクレジットされることを拒否したためにアラン・スミシー名義となった。
『ハートに火をつけて』(91年)では監督のデニス・ホッパーが最終編集権をめぐって映画会社と激しくバトったためにアラン・スミシー名義となった。
その他、日本の映画やアニメでも「阿蘭墨志」といったクレジットで正体を隠す業界人は多い。
あまり大きな声では言えないが、かく言う私もまったくやる気がないときは坊ちゃん回とかキャサリン回みたいに「別人が書いた体」でレビューするので、ある意味では私もアラン・スミシー名義の使用者なのである。
実際、アラン・スミシーは責任逃れには持ってこいの名義だ。もしあなたが仕事でトチって「やばいな」と思いながらも担当者名とか責任者名を明記せねばならないときは「アラン・スミシー」と書けばいいのだ。それを見た人間は「誰これ?」と戸惑い、まんまと責任逃れができるのですからねっ。
………………。
映画のはなし一個もしてね。
だが無理からぬことだと思うなぁ。映画の話をするにはあまりに映画として成立してないし、はっきり言って出来がどうこう以前に世に出していいレベルではないとすら思ったのですからね。やはり映画はポスプロが大事(ポストプロダクション…撮影後の編集作業)。
公開するまでが映画作りです!
ジェシカとジェイクは気の毒でした(特に主演作の少ないジェシカ)。腐るなジェシカ。羽ばたけジェシカ。
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