シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

駅馬車

我々が映画に80年もの遅れを取っていることの罪深さと幸福について。

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1939年。ジョン・フォード監督。ジョン・ウェイン、クレア・トレヴァー、トーマス・ミッチェル、ジョン・キャラダイン、ルイーズ・プラット。

 

1885年、アリゾナからニューメキシコへ向かう駅馬車に、騎兵隊の夫を訪ねる妊娠中の妻ルーシー、酒に目がない医者ブーン、町を追放された酒場女ダラスなどそれぞれに事情を抱えた男女8人が乗り合わせる。途中、お尋ね者のリンゴ・キッドも乗り込んだ駅馬車は次の町にたどり着くが、ルーシーの夫はインディアンに襲われたことにより負傷してしまい、遠くの町へ運ばれており…。(Yahoo!映画より)

 

ミャー、おはよう。

たったいま歯が欠けたぜ。だが関係ねえな。歯が欠けたぐらいで更新をサボるオレではないことぐらいお前が一番よく分かってるはずです。ていうか数年前に治療を放棄した歯が日に日に弱くなってきている気がする。悲しいから更新をサボろうかな。

そんなこって、さっそく批評と洒落込みましょうか。今日はてんこ盛りなのでね。

本日取り上げる『駅馬車』はAmazonプライムビデオでツルッと視聴できるので、評を読んで「鶴!」と思った読者はぜひ観るといい。Amazonプライムだから画質は悪いが、そんなこと気にすんな。関係あるか。「画質が悪いなら…」といって観ない奴よりも「画質が悪くても!」といって観た奴の方が1兆倍リッパなのだ。

映画は「観る」か「観ない」かだ。「観るかもしれない」もなければ「たぶん観ない」もない。生きるか死ぬかという問題に予定も留保もないように。言ってることわかるか? オレにはよくわからん。

では参る。それ行け駅馬車!

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◆アパッチとエンカウントした時点で終わる映画◆

まるで校長先生みたいに偉そげな態度で「フォードを見ることは用事」だとか「フォードは気持ちじゃない」などと謎めいた事柄を口を酸っぱくして言い続けてきた私が、去年の暮れに『駅馬車』を観たやなぎやさんから「あすこのシーン、どういう意味ぃ?」みたいな質問を受けて「記憶が定かではないので知りません」と答えてしまったことを大いに恥じ、このたび襟を正す思いで『駅馬車』を鑑賞(やなぎやさんへの謝罪も忘れずにおきたい)。

 

いかがわしいことを言うようだが、映画関連のブログや書籍を閲した際にフォードを観ている者とそうでない者の文章は一目瞭然である。ゴダールも同様。ゴダールを観ている者とそうでない者とでは「映画認識の次元」が決定的に異なるが、フォードの場合はその違いがより如実に顕在化するのだ。

その意味で、映画を観るわれわれの側の歴史…いわば観客史とでも呼ぶべきものは、2020年に至ってなお「フォード以前/以降」の結節点に取り残されたまま、CGで塗りたくられた現代映画との戯れに我が身を甘やかし続けている。

映画誕生から125年経つが、われわれ観客は80年近くも映画に遅れを取っているわけだ。

われわれは古典映画を「古臭い」と敬遠してきたが、なんのことはない、古臭いのはわれわれの側だったのであァるゥゥゥゥ(こりゃ参ったね!) 。

 

まあ、絶望しても仕方あるまい。絶望する暇があるならフォードを観よう。

てなわけで…さァ来た『駅馬車』!

目も眩むばかりの傑作。すべてがこの一言に収斂されてしまう(逆にいえば一言で語り切れてしまう、極めて危険な映画)。

この作品が80年以上にも渡って映画史の最高峰に君臨し続けている理由は、米最重要作家のジョン・フォードと米最重要俳優のジョン・ウェインが初タッグを組んだからではないし、本作が初めてスクリーンにアクション(運動)を息づかせたからでもなく、ましてや無名時代に本作を40回以上観たバカ、オーソン・ウェルズがフォードの技術を盗んで『市民ケーン』(41年)を撮り上げたからでもない。

『駅馬車』が「映画が持ちうる魔法」をすべて掛けちまったからである。

西部劇でありながら、保安官と無法者の決闘とはまるで縁のない人々の人間模様を細やかに描き上げた本作は、西部劇のようで西部劇でなく、アクション映画であってアクション映画ではないという多義的なレイヤーの堆積によってプリズムのような偏光を放つ傑作だ。

鉄道が敷かれる前の18世紀から旅客を運ぶための馬車として運行していた「駅馬車」は現代における電車の役割を担っており、階級も性別も異なる人々を鮨詰めにして町から町へと移動していた。そんな駅馬車を題材にしているのだから「保安官と無法者」よりも「ごく一般的な乗客」に主眼が置かれるのも当然である。

 

アリゾナからニューメキシコに向かう駅馬車に乗り込んだのは、娼婦クレア・トレヴァー、藪医者トーマス・ミッチェル、酒商人ドナルド・ミーク、貴婦人ルイーズ・プラット、賭博師ジョン・キャラダイン、銀行家バートン・チャーチル。ここに御者アンディ・ディバインと保安官ジョージ・バンクロフトが加わり、ティム・ホルト演じる騎兵隊中尉の護衛のもとアリゾナを出発する。

キャラ多すぎてゲェ吐きそうになるが、まあ我慢しようではないか(我々はゲェを吐くために生まれてきたわけではないのだから)

ここまでわずか15分だが、すでにキャラクター相関図の点と点は克明すぎるほど線を結んでいる。アル中の医者トーマスと娼婦クレアは婦人会から町を追放された嫌われ者だが、最も忌むべきは5万ドルを横領した銀行家バートン。すでに酔い心地のトーマスはタダ酒にありつこうと酒商人ドナルドを半ば無理やり馬車に乗せるが、この二人は漫才担当のコメディリリーフとして無口なバートンの存在感を掻き消している(バートン=真の悪人ほど目立たないのです)。

一方、酒場でポーカーをしていた賭博師キャラダインは、二階の窓から貴婦人ルイーズと目が合ったことで瞬く間に恋に落ち「おれが彼女を守るんだ!」と意気込んで馬車に乗り込む。窓越しのカットバックだけでキャラダインに乗車の理由を作ったストーリーテリングの妙と一目惚れのすぐれて映画的な活用術に早くも息を呑む。ごくん。

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べっぴんのルイーズ・プラット(左)とボルゾイ顔のジョン・キャラダイン(『キル・ビル』のデビッド・キャラダインや『ナッシュビル』のキース・キャラダインは息子)。

 

もうひとつ、この出発シーンで見逃さずにおきたいのは、町人たちのブーイングを受けながら馬車に乗り込んだトーマスに蔑視の視線を注いでいた女たちが「あんなアル中と一緒に行くの…?」と隣のルイーズを心配する一連のショットである。

ルイーズもまた不快そうに馬車を睨みながら「数時間だから平気よ」と答えたが、次にカメラが切り返したのはなんとトーマスではなく娼婦クレアの憂愁の表情だった。

つまりトーマスとクレアは赤の他人同士でありながら町を追い出された厄介者という共通点があるので、クレアにはトーマスに対するルイーズたちの蔑視がまるで自身に向けられているように感じられたのだ。

この構図は上流階級と下層階級の対比になっていて、現に決まりが悪そうにしていたクレアは後のシーンでもルイーズから無言の蔑みを受けることに甘んじている。

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酒飲みトーマス(1枚目)に向けられた貴婦人ルイーズの蔑視(2枚目)が自分に向けられたものでは…と気に病む娼婦クレア(3枚目)。

この3枚目で再びトーマスに切り返さないあたりがフォードの天才。

 

さて、いよいよ出発という段になって、保安官ジョージが「道中アパッチが襲ってきたら高確率で死にます」とどえらい断りを入れ、馬車は走りだす。

乗客 「え…俺たち死ぬの? 護衛隊が守ってくれるんじゃないの?

保安官「護衛しきれないかもしれないじゃん

護衛隊「自信ありません

乗客 ほな高確率で死ぬやないか

まったく、むちゃむちゃな話である。アパッチとエンカウントした時点で終わりて。 物凄い緊張感だなあ!

だがアパッチの縄張りをガシガシ横断しているというのに愚にもつかない雑談に耽る一行をやたら牧歌的なムードが包み込む。一行は「オレって朝から晩まで豆ばかり食っているんだよね。どう思う?」だの「オレって奴は葉巻が大好きなんだ。どう思う?」だのといったカスみたいなトークでいちいち盛り上がる。バカばっかりなの?

そんなフォード的大らかさにこちらがカラカラ笑っていると、やおら現れた大男がターミネーターさながらにライフルを片手でぐりぐり回して「馬が怪我したから乗せろ」と言ってきた。

あれを見ろ、鳥だ! 飛行機だ!

いや、ジョン・ウェインだ!!!

ウェインは父を殺した極悪三兄弟に敵討ちをするべくニューメキシコのローズバーグを目指すさすらいのガンマンだった。

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パッパーン!

 

ここで嬉しいこぼれ話をひとつ。

当初この映画の主演にはゲイリー・クーパーを、娼婦役にはマレーネ・ディートリヒを使うという条件付きでデヴィッド・O・セルズニック御大*1が製作する予定だったが、フォードは当時B級映画で食い繋いでいた三流役者ジョン・ウェインとクレア・トレヴァーを使うと言って聞かず、泣く泣くセルズニック御大と袂を分かった。結果的にウェインはこの映画を機に一躍大スターとなり「ミスター・アメリカ」という仰々しい異名までゲット。映画史上…というか地球上で最も有名な俳優となった(ちなみに同年にセルズニックが製作したのが『風と共に去りぬ』。まさにアメリカ映画にとって運命の分かれ目だったといえる)

この章の最後に、ウェインがいかに凄い俳優かについて軽くまとめます。メモれ!

 

~ジョン・ウェイン伝説~

『駅馬車』以降、20本以上ものジョン・フォード監督作で「アメリカン・ヒーロー」のロールモデルを築くことに成功してゆく。

「デューク」の愛称でアメリカ国民から愛された伝説のスターだが、生まれながらのカリスマなので弱冠4歳にして近隣住民から「ビッグ・デューク」と呼ばれることに成功していた。

・入院中には当時の大統領ジミー・カーターが見舞いに訪れ(異例中の異例)、のちに大統領自由勲章をゲットすることにも成功している。

・1979年に鬼籍に入ると、葬儀には次期アメリカ大統領ロナルド・レーガンが駆けつけ「ウェイン最高」といった極上の賛辞を受けることにすら成功した。

・発明家や政治家に授けられがちな議会黄金勲章をゲットすることにも余裕で成功。もはや映画スターの枠を超えた偉人、と評されることにも成功した。

・生前には莫大な製作費をかけ自ら監督を務めた超大作『アラモ』 (60年)を壊滅的失敗に導き大赤字を叩き出すことにも成功している。

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ジョン・ウェインと書いてアメリカと読む。

 

言葉の無言、映画の饒舌

バカを乗せた馬車がドライ・フォークの駅に着くと、駐屯しているはずの騎兵隊がアパッチの襲撃を受けたことでそそくさと撤退しており、急に不安になったホルト中尉が「命が惜しいので護衛はここまでです」と言い残して騎兵隊と共にさっさと引き返してしまった。

「そんなドライな」と呟いた一行はドライ・フォークの宿でベチャベチャのお粥を食べながら今後の予定について議論したが、このシーンも地味ながら印象深い。引き返すか旅を続けるかを多数決で選ぶアメリカ的政治風土もさることながら、フォードにしては珍しく女性の扱いがさらりと描かれているのがいい。

キャラダインはレディファーストと言いながらルイーズばかり贔屓するが、ウェインだけは皆に蔑まれている娼婦クレアのこともレディとして扱い、遠慮して席を外そうとする彼女に「一緒にお粥たべよ!」と誘いかけるのだった。ベチャベチャのお粥はさぞかしクレアの心を温めたことだろう!

カメラは「ウェイン×クレア」と「キャラダイン×ルイーズ」のツーショットに分けながらおさめることで二組の恋の予感をスクリーンにみなぎらせる。そして再び馬車に乗り込んで旅を続ける短いシーンでのウェインとクレアの無言の視線劇がロマンスの結実となるのだ。

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これ見よがしに対比されるウェイン×クレア(上)とキャラダイン×ルイーズ(下)。

 

アパッチ・ウエルスに到着した夜にルイーズが産気づく場面ではさまざまなドラマが同時多発する。

キャラダインは彼女が妊娠していたことに動揺し、アル中の藪医者トーマスは悪魔のように熱いコーヒーで酔い覚ましをして助産を務め、クレアが夜通しベイビーの世話をした。そして翌朝目を覚ましたルイーズは、これまでクレアとトーマスを蔑視してきた己を恥じた。といっても感謝や謝罪を言葉にするのではなく、ただ少しばかりの涙を浮かべて顔をそむけるのである。フォードは無言のうちに心の機微を描き込む。

ウェインがクレアに求婚する場面でも「赤ん坊を抱いてるときのキミはまるで…」と言いかけたウェインは、彼女の何か言いたげな眼差しに言葉を取り上げられてしまう。その眼差しは、のちにウェインが三兄弟への復讐さえ成し遂げれば大人しくお縄にかかるという黙契を保安官ジョージと結んでいたことをトーマスから聞かされたクレアに「命を粗末にして何が求婚よ!」と激しく責め立てながらもウェインを保安官から逃がそうと彼女に一計を案じさせるのである。

「愛してるわ」というクレアの意思を言葉でなく“映画”で伝えた本作屈指の名シーンだ。

知ったようなシネフィルは「フォードに女は撮れない」などとぬかす。まさか。そのような寝言はこの一夜を通して描かれた娼婦クレアと貴婦人ルイーズの好対照な魅力について三日三晩再考したのちに言って頂きたい。再考する脳があればの話だが。

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ウェインとクレア(いよ、ご両人)。

 

事程左様に言葉の無言、映画の饒舌に貫かれた物語は、ウェインがインディアンの襲撃の狼煙を目撃したことで遂にクライマックスを迎える。

渡し場で馬車に筏を取りつけて川に突っ込んだ一行はパワープレイで川を渡り切るが、インディアンを振り切って荒野を駆けている最中、一本の矢がドナルドに突き刺さった。誰より生に貪欲だった酒商人のイジられキャラだ。彼の酒を頼りにしていたトーマスは「イジられキャラぁー!」と叫んだが、ドナルドを心配している余裕はない。背後からは馬車を囲むようにして猛虎のごとく追跡してくるインディアンの群れ。思わず乗客の脳裏に保安官ジョージの言葉が浮かんだ…。

「道中アパッチが襲ってきたら高確率で死にます」

そして彼らの背後では言葉通りの現実が…。

乗客 ほな高確率で死ぬやないか

どうなるん! 馬車の中のみんな!!?

 

ごめんな、フォードは観とけ

死の荒野で繰り広げられる馬車とインディアンの猛チェイスはアクション映画の歴史に刻まれた奇跡の7分間だ。いかな『ワイルド・スピード』(01年)『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(15年)もこの7分間の前では児戯に等しい。

西部劇史上最高速度で土を蹴る無数の馬、その迫力を目減りさせることなく追い続けるトラック撮影、風と砂塵のダイナミックな演出、落馬するスタントマンたちのこれ絶対骨折してるっしょ感、カッティング・イン・アクションの憎々しいまでの正確さ。激しい銃撃戦に耳を塞ぐ女たちのこわばった表情も撮り逃さない。

これだけでも十分スペクタクルだが、このシーンには今なお語り草になっている伝説のスタントが2つ存在する。

ひとつは、肩を負傷した御者アンディの代わりに手綱を握ったウェインが疾走中の客車から最後列の馬にジャンプし、最前列に向かってひょいひょいと馬から馬に飛び移るスタント(ミスったら死ぬ)

もうひとつは客車を引く馬に飛び移ったインディアン役のヤキマ・カナットがウェインの銃弾を受けて落馬するも腕力だけで馬の腹にしがみつき、その後地面に落ちて馬車に轢かれるという壮絶なスタント(ミスったら死ぬ)

これを超えるスタントシーンがあるならぜひ教えてほしいです。

※バスター・キートンとジャッキー・チェン以外で。

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あまりに凄いのでギャグにすら見えてくる。

 

だが真に感動するのはウェインたちが弾切れを起こしてからだ。

インディアンの猛攻撃に晒される中、ルイーズが怯えながら神に祈っていることに気付いたキャラダインは弾倉に残った1発を彼女に捧げ、せめて楽に死なせてやろうと銃を向ける。カメラはルイーズの顔と銃を持ったキャラダインの手を捉えるが、途端、その手が力を失い、銃を落とす。インディアンの矢に倒れたのだ。その不幸とすれ違うように騎兵隊のラッパを耳にしたルイーズは彼が死んだことにも気付かぬまま「助けが来たわ!」と大喜びする。

やるせなー!

楽に死なせてやろうとした矢先にキャラダインの方が死んでしまい、その無償の愛にも気づかぬままルイーズが救われたのである。そして彼の片想いは荒野に散った。人妻…ましてや妊婦と知りながらも一途にルイーズを想い続けた賭博師キャラダインは愛のギャンブラーでありました(賭けには負けたがね!)。

そして彼が迎えた死の悲恋を拳銃を握った手だけで演出したフォードの極的なまでにミニマムな映画術。

何度も繰り返して申し訳ないとは思うのだけど、悪いことは言わん。本当に悪いことは言わん。

フォードは観とけぇ…(絞り出すような声で)

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 愛の右手、祈りの顔。

 

騎兵隊の加勢によってインディアンを追い払った一行は最終地点ローズバーグに到着する。

金を横領した銀行家のバートンは逮捕され、出産直後のルイーズはクレアに対して「何かお礼がしたい」と言うが「いいのよ…」と微笑んだ彼女から優しくコートを着せてもらい救急隊に搬送された。また、クレアは負傷した酒商人ドナルドの搬送にも笑顔で立ち会った。

クレアはいい女。

そしてクレアとウェインは晴れて結ばれる。

だがウェインには最後の大仕事があった。父の仇、極悪三兄弟への復讐だ。インディアン戦では弾切れを訴えていたが、実はこの日のためにハットの中に3発だけ銃弾を隠し持っていたウェインは「I'll be back」とターミネーターじみた言葉をクレアに残して兄弟御用達の酒場に向かう。

酒場ではウェイン討ち入りの報を受けた三兄弟がポーカーを中断してのそりと立ち上がり表に出た。このとき兄弟がテーブルに投げ捨てたカードはAと8の黒のツーペア。この手はデッドマンズ・ハンド(死者の手)といって、西部開拓時代に実在した保安官ワイルド・ビル・ヒコックがポーカー中に暗殺されたときに持っていたことからゲロゲロに不吉な手札とされる。

つまりこの時点で三兄弟の敗北はすでに確定していたのだ。

3対の1の対決は映画の庇護のもとウェインの大勝に終わった。復讐を終えたら逮捕すると言っていた保安官ジョージはウェインとクレアを馬車で逃がし、飲んだくれのトーマスに「一杯おごろう」と言って酒場に消えていくのであった。まだら雲とモニュメントバレーに祝福された馬車が荒野を駆ける…。

 

誰もが晴れやかな微笑とともに観終える『駅馬車』は「映画が持ちうる魔法」が片っ端から掛けられている。1939年にこんなものを見せられた当時の観客は、その後の映画史にいったい何を期待すればよいのか。

その意味では、フォードをリアルタイムで見逃した我ら現代人が映画に80年の遅れを取っていることにすら無自覚なのは「観客史」にとって唯一にして最大の幸運だったかもしれない。こんなものをリアルタイムで観てみろ。ヌーヴェルヴァーグやニューシネマを迎える頃には首括ってるぞ。

余談だが、ジョン・ウェインが本作で被っていた私物のテンガロンハットは20年後のホークス作『リオ・ブラボー』(59年)まで被り倒したという。フォードに始まったアメリカン・ヒーローの歴史的シンボルがホークスで潰えた、という妙な感慨深さに耽りながら、そろそろ評を締め括りたいと思う。ばいなら。

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フォードだョ!全員集合。

 

*1:デヴィッド・O・セルズニック…MGM、パラマウント、RKOを転々としながら『キングコング』(33年)『風と共に去りぬ』(39年)『レベッカ』(40年)『第三の男』(49年)など多くのクラシック・スタンダードを世に送った名物プロデューサー。