祈りの黒鳥が夜に舞う。ディートリヒズム炸裂の巻!
1931年。ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督。マレーネ・ディートリヒ、クライヴ・ブルック、アンナ・メイ・ウォン。
革命の嵐吹きすさぶ中国。北京から一路上海へ向かう特急列車の中では、様々な人間たちのドラマが交錯している。上海リリーと名乗る謎の美女と、米軍将校ハーベイの運命的な恋。食い詰めたイカサマ賭博師、高級売春婦らしき中国娘、そして商人に化けたスパイ。やがて反乱軍のゲリラの手で列車は荒野に急停車させられる。反抗する者は即座に殺す、と宣言した無情なゲリラにいま、乗客のすべての未来は握られてしまった…。(ぴあ映画生活より)
おはようございます。目薬を2秒で両目に点す男、ふかづめです。
自他ともに認めるドライアイゆえに目薬はお友だち。毎日点してるうちに秘技・片手点しを体得した私は、日本でいちばんスマートに目薬が点せる男となった。
片手点しのプロセスを紹介すると、まず目薬本体を中指・薬指・小指で握りつけ、人差し指と親指を使って蓋をぶち開ける。蓋は指の間に挟んでおきます。次は薬指と小指を使って眼鏡を外す(私は眼鏡をかけているのだ)。あとは上を向いて点眼あるのみだ。
すなわち掌のなかに目薬、蓋、眼鏡を持ったまま点眼するわけ。これには高度な技術が要求されるし、素人が遊び半分で手を出すと取り返しのつかないことになるので決して真似してはならない。想像を絶する精度と確度を必要とする命懸けの職人芸なのだからね。これが点眼マスター!
電車内でも揺れに負けじと片手点し。ビールをぐいっと飲み干しながらの片手点し。そんなものはお茶の子さいさいである。やったことないけど。
「二階から目薬」なんて諺があるが、点眼マスターともなれば「ボーイングから目薬」すらこなしていくわな。高度1万メートルからの目薬すら受け止めていくよ。余裕だわ。なめんな。
そんなわけで本日は『上海特急』です。上海特急から目薬。
◆フィルムの相貌が覚醒するとき◆
読者の中には私が古典至上主義と思ってる人もいるかもしれないので、その誤解を解くところから文章を始めねばなりません。
当たり前だが、クラシック映画だからといって全てがすぐれているわけではないし、むしろ時代的不自由を加味するなら現代よりつまらない映画が多かったかもしれない。それにいつの時代もマヌケな業界人の割合は変わらないのだし。
だが現にクラシック映画=不朽の名作というのが人々の共通認識である。ではなぜ古典は称揚されるのか?
この疑問自体がナンセンスなのだ。古典が称揚されるのではない。称揚に値しない駄作凡作が時代とともに自然淘汰され、風化に耐えた映画だけが古典となって今なお生き続けているだけのことだ。
古典だからすぐれているのではなく、すぐれた映画だから古典たりうる。時代という濾過装置にかけられ、最後まで生き残った記念としてビデオグラム化された映画群のことをわれわれはクラシックと呼んでいる。
こうして改めて言葉にするとヤンキーモンキーベイビーズでも分かる簡単な話だが、多くの人民は古典映画が何か立派で高尚でお堅いものだと思い込んで勝手に身構えたり、観た方がよいと思いながらも一向にその気が起きない自分を恥じてみたり、あるいは古典さえ観まくれば映画の何たるかが自ずとわかると信じ込んで無理に見続けたりしているが、どうか手前勝手なイメージだけで映画を権威化しないでほしいと願っておるのです。
映画神話、古典幻想、シネフィルの優越といった権威主義は、ほかでもなく映画の側ではなく一般大衆によって巻き散らかされた卑屈な偏向にすぎないのだからね!!!
そんなわけで、どことなく権威的なムードを漂わせたジョセフ・フォン・スタンバーグを試験的に凡才と言いきってみる。実際この『上海特急』はそう大した映画でもないし、ある程度の悪口なら天国のスタンバーグも笑って済ませてくれるだろう。
本作は内戦状態の中国を舞台に北京から上海行きの列車に乗り込んだ乗客たちの悲喜劇と革命軍とのトラブルが密やかに描かれた80分の作品で、ファーストシーンでは8人の男女が一人ずつ一等車に乗り込んでいく(牛が線路を塞ぎもする)。
主役はイギリス軍医のクライヴ・ブルックらしいが、恐らくほとんどの観客の目は中国人娼婦を演じたアンナ・メイ・ウォンに向けられただろう。ハリウッド初の中国系アメリカ人としてサイレント期に活躍した女優である。
さて、この列車には昔クライヴと付き合っていた「上海リリー」なる妖しい高級娼婦が乗っているらしいとの事で良識派の乗客たちは彼女を警戒した。この上海リリーを演じたのがマレーネ・ディートリヒである。出ましたなぁ。ドイツが生んだ100万ドルの脚線美。妖狐のごとき神秘さを湛えた銀幕の奇跡であーる。
スタンバーグとは『嘆きの天使』(30年)、『モロッコ』(30年)、『間諜X27』(31年)に続いて4度目のタッグとなる。その後も2度タッグを組んだほか、ルビッチ、ワイルダー、ヒッチコック、ラング、ウェルズといった一級のシネアストたちの映画を彩り1975年に引退。一般にはワイルダーの『情婦』(57年)とウェルズの『黒い罠』(58年)が有名だが、クラレンス・ブラウンあってのグレタ・ガルボのように、スタンバーグ作品でこそディートリヒの光彩は最高度に放たれる。
先述の通り『上海特急』はそう大した映画ではないが、そのフィルムの相貌はディートリヒが登場するや不意に覚醒するのです。
20世紀最大の女優、マレーネ・ディートリヒさん。
◆ディートリヒ、その手◆
数年ぶりに再会したクライヴとディートリヒは客室の外で過ぎ去りし愛を語り合う。かつてディートリヒはクライヴを嫉妬させて愛を確かめるために他の男と付き合うフリをしたが、それを真に受けたクライヴは黙って彼女のもとを去ったのだ。互いに自分の行動を悔いながらも「過去を取り戻したい」と言う男と「それでどうなるの?」と冷たく返す女。
だが客室に戻ろうとするクライヴの袖をギュッと掴んだディートリヒはプチ円運動で彼に抱かれる形となり、静かに見つめ合ったまま唇を重ねる…。
この「どっちなん!?」という感じが実にディートリヒだなァ。えらくモコモコしたファーコートを纏い、しきりに目をくりくりさせながらピーチクパーチク話すディートリヒの小鳥的魅力は筆舌に尽くしがたいのでいっそ伝えることをやめる。
また、彼女が買ってあげた時計を未だに身に付けていながら復縁を断られたことに拗ねて素っ気ない態度を取るクライヴの間に合ってない感に笑う。すでに「過去を取り戻したい」とはっきり言って抱擁・接吻までしたのだから、いまさら素っ気ない態度を取ったところで何も取り繕えやしないのだ。一手遅いんだよ、おまえは。ばか野郎が。
ディートリヒとクライヴの元カップル。まだ愛の炎は残ってるのかしら。
身分を偽って一等車に乗っていたワーナー・オーランドの正体は革命軍の司令官で、軍隊に逮捕された便衣兵の部下を取り戻すべくクライヴを拘束し人質交換しようと列車を止めたが、ディートリヒにスケベを働いたことでクライヴに張り倒されてしまう。オーランドの怒りを買った二人は拘留され、ディートリヒはこの男の愛人になることを条件にクライヴを解放させたが、かつて凌辱された恨みを持つアンナ・メイ・ウォンが取っておきの中華殺法で「あいやー」言いながらオーランドを暗殺! ブルース・リーか、おまえは。
このシーケンスで素晴らしいのは、ディートリヒが獄中の人となったクライヴを案じる身振りである。彼女がクライヴを愛していることぐらいハナから分かりきっているが、初めて顕在化した彼への愛情は何によって示されるか?
表情?ノンである。
台詞?ノンである。
窓に当てた手と祈りの手。イエスである。
クライヴが連れて行かれたあと、ディートリヒは自分たちを断絶する窓に手を当て、そのあと暗闇の中で指を折って彼の無事を祈る。目に溜めた涙のきらめきと白く浮かび上がった手によって身体化された愛がフィルムの表層をやさしく撫でてゆきまーす。
マレーネ・ディートリヒは手の女優である。
『嘆きの天使』によって脚線美の女優と思われているが、ディートリヒをディートリヒたらしめるのは脚でも顔でも尻でもない。手だ。
誰よりも煙草の吸い方が上手かったローレン・バコールもディートリヒの煙草の持ち方を見ればたちまち火種を落として逃げて行ってしまうし、腕がもたらすフィルム的効果を熟知していたエリザベス・テイラーですら革命軍に押さえつけられるディートリヒの腕を前にしては「クレオパトラなのにー!」とか何とか言いながら逃げて行かざるをえない。煙草を持つ手。火をつける手。それをくわえる手。上下する手。流線を描く手。男を抱きしめる手。ディートリヒの手! そういうことです。
今一度思い返してみよう。彼女がクライヴに贈った愛の証は腕時計だった。やはり手でした。
映画終盤、ディートリヒが時計をつけていないクライヴに「時計は?」と訊ねると「理想とともに無くしたようだ」としゃらくさい返事が返ってきたので「理想は取り戻せないけど時計ならまた買ってあげる」と洒落たセリフを吐き、果たしてその約束はラストシーンで果たされることになる。手渡された腕時計。なんてロマンチックタックなシーンなのか。これが「手の女優」にしか出来ない、愛のすぐれて映画的な表現なのだ。
そして駅でキスする最後のショットに至って、ついにクライヴの背中に手を回したディートリヒはキスをしながら手袋とステッキを傍らのゴミ箱に投げ捨てる…。
執拗なまでに、そして豊穣なまでに手のイメージに彩られた『上海特急』。
ディートリヒが手を動かすのではない。
手がディートリヒを動かすのだ!
ディートヒリは手によって動かされております。
◆ファッション界の黒鳥◆
無論、こうした手の有機的なイメージを際立たせるのは無機的に水平運動する列車の存在である。
画面奥から突っ込んでくるこの鉄の塊はリュミエール兄弟が手掛けたわずか50秒の初期映画『ラ・シオタ駅への列車の到着』(1895年)を思わせもするが、その迫力はもっぱらディートリヒの手の神々しさを相対化するために仕掛けられた装置に過ぎぬので、間違っても本作を列車映画の系譜に位置付けてはならない。
ディートリヒが列車に乗っているのではない。列車がディートリヒに乗っているのだ!(もういいか)
試験的に述べた「ジョセフ・フォン・スタンバーグは凡才」という試論は依然変わらないが、それゆえにディートリヒの並外れた女優力に映画など女優でどうとでもなるという思いを一層強くした作品であったなー。
彼女の女優力を支えているものは過不足なく役と同化する「芝居」ではないし、観る者に移入を強いる「表情」でもない。むしろ同化や移入を拒否し、まさに映画でしかあり得ないというような衣装に尽きるのだ。
ディートリヒは『舞台恐怖症』(50年)でクリスチャン・ディオール本人に衣装を仕立てさせたように、出演作では自らシビアに衣装を選ぶことで有名だ。男装さながらのタキシード、美空ひばりも吃驚のシルクハット、足首を覗かせたドレープコート、しまいには軍服。
性差を横断し、流行に逆らったディートリヒズムは彼女独自の美意識をスクリーンに展開し、それがあまりに完成されていたために却ってフォロワーを生まなかったが、唯一例外だったのは『モロッコ』に影響を受けル・スモーキング(女性が男性の服を着るタキシード・スタイル)でファッション革命を巻き起こしたイヴ・サンローランである。
ディオールをこき使いイヴ・サンローランに影響を与えたファッションモンスター。
さて、本作でも幾つかのディートリヒズムが画面を彩るが、やはり語るべきは肩回りに鳥の羽をあしらった黒鳥ドレスだろう。格好よすぎて呼吸すら忘れるとはこのこと。
ラストシーンで身にまとった黒鳥ドレスは彼女のゴシック趣味が横溢したディートリヒズムの神髄である。ビビッドな光沢を出すために羽根の一枚ずつに塗料が塗られ、ワンショット撮るごとに羽根の向きを考えながら何度も縫い直されたんだとか(ひょえー)。
首に乱れ咲くフェザーがディートヒリの鋭角的な頬骨と相まってすばらしい視覚効果を生み、彼女の輝かせ方を熟知したスタンバーグがトドメの撮影を加えた『上海特急』は奇跡としか言いようのないショットに満ちている。芝居や表情も大事だが、それ以前に映画俳優は俳優自身が視覚効果であらねばならない。ドラマ俳優とは違うのだ。
ちなみに、この黒鳥ドレスはアラン・レネの『去年マリエンバートで』(61年)に影響を与えたが、私の見立てだとブライアン・デ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス』(74年)のキャラクター造形にも裨益したように思う。
人はただマレーネ・ディートリヒという神話を前に眩暈と頭痛を覚えながらフィルムが引き起こした甘美な幻覚の中で「黒鳥がいる…」と訳のわからないことを呟いていればよい。
「私は着せ替え人形にはならないわ!」