アルパチが疲れすぎて何もかも忘れる話。
2002年。ダン・アルグラント監督。アル・パチーノ、キム・ベイシンガー、ティア・レオーニ。
30年のキャリアを締めくくる仕事として、難民救済の慈善パーティを開催するニューヨークのベテラン宣伝マンのイーライ。長年のクライアントである映画俳優ケアリーが、女性スキャンダルのもみ消しを依頼。仕方なく仕事を受けたイーライだが、この事件が思わぬトラブルを呼ぶことになる。(Amazonより)
おはようございます。
次回からは恐らく200人中199人が興味ないであろう映画を4連発で更新します。短評ですがよく分からないことが書かれています。
よく分からないと言えば映画批評ほどよく分からないものはない。映像に言葉で迫ろうとする不毛、それ自体が反映画の営みにほかならないので、いわば映画評とはある種の厳しさをもって映画から遠く離れる作業なのかもしれない。映画と瞳の別居!
このくそブログがくそブログである所以は、とても批評とは呼び難いたわごとの上澄みだけを掬った有害な文章によって構築された点にありますが、私が考える「批評活動の絶対条件」における教育、喚起、挑発、害悪のうちの1つ、すなわち「害悪」は押さえてるので実に誇らしい心持ちがしています!
そも、芸術や表現というのは批評という毒で汚染して思いきり踏みつけることで本来の価値が顕在化するので、デタラメな惹句や文句を浴びせかけることって存外大事だと思うんだよ。キミがどう思うかは知らないが。
そんなわけで本日は『ニューヨーク 最後の日々』。ばかみたいな記事です。
◆血尿おじさん奮闘記◆
よほどのパチリストでもなければ共感は得られないだろうが、90年代後期~ゼロ年代初期にかけてアル・パチーノがよく出ていた「中くらいの映画」がたまらなく好きだ。
『訣別の街』(96年)や『インサイダー』(99年)や『リクルート』(03年)など…あの辺である。
ほどほどに見れる肩の凝らない社会派映画とでも言えばいいだろうか。どれも『狼たちの午後』(75年)の亜流の亜流の亜流みたいなもんだが、あれほどの傑作の亜流ならいくら作っても作り過ぎることはあるまい。
そんなわけで今回は私が愛する「アルパチ中くらい四部作」から『訣別の街』をチョチョイとチョイス!
午後8時。隠居してのんびり余生を過ごそうとしていたパブリストのアル・パチーノが人生最後の大仕事に着手した途端、旧友の映画スターから暴行容疑で捕まった女優のスキャンダルをもみ消してほしいと頼まれる。睡眠不足でふらふらになりながらも留置所から女優を出して高級マンションに送り届けたが、そのマンションのペントハウスは政界の大物やセレブ専用のアヘン窟だった。そこの経営者と揉めた彼女は小型カメラに撮り溜めた各界の大物とのセックステープをメディアに売ると脅し、雑誌撮影の仕事に向かうべくアルパチの車に乗り込んだ。
深夜2時。休憩に立ち寄ったモーテルで睡眠薬をドカ飲みしたアルパチがバスタブで意識を失いかけているとき、隣の部屋では彼女が何者かに襲われていた…。
『ニューヨーク 最後の日々』は、疲労と血尿に苦しむ老パブリストが業界の闇を覗いてしまったことで政治的陰謀に飲み込まれるさまを描いた神経衰弱ムービーである。
当時62歳のアル・パチーノは生まれたての雛みたいなバサバサの寝癖と落ち窪んだ眼、それにヨレヨレのスーツでニューヨーク中を駆け回る激烈多忙人間を演じており、劇中では「あ、このまま死ぬのかな…」と予感する瞬間が何度もあるぐらい疲労困憊している。彼は病身を押すべくさまざまな薬を過剰摂取しているが、却ってそれが原因で体調不良を起こしているのだ(ばか)。
アメリカ中の有名人とコネのあるアルパチは、影響力のある批評家に袖の下を渡してくだらない演劇の絶賛評を書かせたり、政治家のパーティーに映画俳優やミュージシャンを呼んでマスコミへの印象操作を仕掛けたりなど小汚い便利屋業に甘んじている。
生まれたての雛みたいなヘアースタイルで小汚い便利屋業に甘んじるアルパチ。
そんなアルパチをコキ使う映画スター役がライアン・オニール。
この男は肉体関係があった女優のスキャンダルをもみ消せと依頼したプレイボーイで、バカのくせに政界進出を目論んでいる。
ライアン・オニールといえば難病映画の金字塔『ある愛の詩』(70年)、ロードムービーの金字塔『ペーパー・ムーン』(73年)、私的キューブリック金字塔『バリー・リンドン』(75年)、真夜中カーアクションの金字塔『ザ・ドライバー』(78年)で一躍時の人となったキング・オブ・70年代だ。薬物依存と家庭内暴力で幾度となく逮捕された20世紀最大のスキャンダル俳優としても知られ、息子グリフィン・オニールを銃で発砲し、娘テイタム・オニールも父同様に薬物に溺れた悲劇的血筋の持ち主である。
そしてアルパチに世話される女優役がティア・レオーニ。
知能指数というものがそもそも無いマイケル・ベイの脳筋映画『バッドボーイズ』(95年)でヒロインの座を射止めたあと、90年代末にブレークして『ディープ・インパクト』(98年)、『天使のくれた時間』(00年)、『ジュラシック・パークⅢ』(01年)などで引っ張りダコだった薄味美人。
ちなみに私はティア・レオーニのごく控えめなフアンである。特に『天使のくれた時間』のティアはキャリアハイの可愛さ。同作はロマンティック・ファンタジーとしてもよく出来ているが、ひとつだけ難があるとすれば相手役がニコラス・ケイジという点だろうか。ニコラス・ケイジがロマンティック・ファンタジーなどやるな(ロマンティックでもなければファンタジーでもないだろうが)。
なお、本作ではイラチ・ビッチ・ヤク打ちの三拍子を揃えた新人女優を演じており、セックステープをばら撒くと啖呵を切ったことで各界の大物を敵に回してしまう(背面ヌードあり!)。
さて、アルパチの死んだ弟の妻を演じているのはキム・ベイシンガーだ。
せんど男を惑わせてきたイイ女の代名詞、言わずと知れた80年代のセックスシンボルとして名を馳せたゴージャス女優である。当ブログでは『ナインハーフ』(86年)を過去に取り上げました。
本作では義兄アルパチを愛してしまった淑やかな未亡人を演じてイメージの刷新を図るも結局ムダだった。49歳になってますます香しい色気を放っただけザッツオールなのである。
『ナインハーフ』、『バットマン』(89年)、『L.A.コンフィデンシャル』(90年)などを代表作と言い張る。
監督はダン・アルグラントという完全無名の三下だが、製作総指揮にはロバート・レッドフォードが名を連ねている。
フランスのハンサム代表がアラン・ドロンだとすれば、アメリカ代表はレッドフォードだった。映画人としての顔もあり、俳優業、監督業、プロデュース業の三足の草鞋をサッ、ササッ、サッ、サッと素早く履きこなす忍者みたいな奴だが、わたくし、映画人としてのレッドフォードには甚だ懐疑的で。当時は散々騒がれていた『普通の人々』(80年)も『リバー・ランズ・スルー・イット』(92年)も結局は映画史の藻屑と化したのだし。
やはりこの人はハリウッド切ってのハンサムマンとして『明日に向って撃て!』(69年)や『スティング』(73年)で輝いていた姿を拝むに限る。
◆永遠のチョコマカボーイ◆
この映画は、難民救済の慈善パーティを最後にこの仕事から手を引くことを決めたアルパチが数々とトラブルに見舞われながらも無事開催日を迎えるまでの約24時間が描かれているが、はっきり言ってかなり淡味な内容である。
これといってドラマチックなことも起きなければ分かりやすい二元論で善悪や勝敗が決まる作品でもないので、話の展開性だけ見て「感情移入できない」とか「オチ読めた」などと勝手放題に書き散らす各映画レビューサイトの平均点は軒並み低い。寂しいことだと思う!
たしかにこの映画は特に優れているわけではない。むしろ待ったなしの凡作だが、「ストーリーだけ見て凡作と判断する」のと「映画の見方を心得たうえで凡作と判断する」のとでは天と地ほどの差なので、まことに僭越ながらこの映画の見方を教えていきたいと思います。
アル・パチーノを観る。
以上です。
『ニューヨーク 最後の日々』を観るときはアル・パチーノだけを目で追っていればよい。そうすれば間違いはないし、キミの世界はより公平なものとなるだろう。
ていうか、キミは遅かれ早かれ大事な人とこの映画を観る日がくると思う。そのときはぜひ教えてあげてください。「アル・パチーノだけ観るんだぜ」と。「それがコツだぜ」と。「このどうしようもない映画を辛うじて楽しみうる唯一にして最高のコツだぜ!」と。
御大、顔色悪すぎ…(傷んだ大根みたい)。
ファーストシーンでは、ブロードウェイでくそみたいな劇を見てしまったアルパチがベイシンガーとのディナーの約束を反故にして関係者に媚びを売ったり昔馴染みにあれこれと指示を出す仕事風景がデ・パルマのごときロングテイクで映し出されていく。
この、フレームの全域を忙しなく動き回るアルパチ・ムーヴが何だか感動的だ。還暦を迎えて尚カートゥーン・キャラクターみたいにチョコマカと動き回るアルパチは永遠のチョコマカボーイだと思う。熱狂的ファンだからか、何だか泣けてきた。
相手が話を聞いてなくても一人夢中で講釈を垂れる口数の多さも健在。疲労困憊の割にはのべつ幕なしに喋り続けてた。
アル・パチーノはフィルムに宿るエネルギーそのものだ。どんな「死にショット」でもアルパチがヒョイと入ってきただけで電池を入れ替えた時計のように蘇生してしまう。
まぁ最近の映画ではアルパチ自身が止まった時計みたいになってるが。
つまり本作はニューヨークという巨大な怪物を前に消耗していくアル・パチーノそれ自体を観るための映画である。緩やかに…だが確実に体力を奪われて全身ぽきぽきになっていくアルパチ自体が既にドラマチックなのだ。 誰だ、「淡味な映画」とか言ったヤツは。オレか!!
疲労でぐちゃぐちゃの御大(死んでないよ)。
◆「忘れた」という剛腕◆
逆にストーリーだけで観るとこんなムチャな映画はない。
アルパチの不幸は映画女優のティアを連れてモーテルに立ち寄ったことだ。モーテルでの休憩中にティアが何者かに絞殺されちまったのである。
バスルームで睡眠薬をがぶ飲みしたアルパチは混濁する意識のなかで殺害現場を目撃したが、その後「ティアが眠ってる」と勘違いしたままモーテルを後にし、かかりつけの病院で主治医からティアの死を知らされ大ショックを受ける。どのニュース番組でもティアの訃報。だがアルパチは殺害現場を目撃していながら「何も覚えてない」、「忘れた」と言い張るのだ。
本当に覚えてないらしい。
薬でぐちゃぐちゃになったアルパチは、彼女が殺された記憶をガチンコで失念していたのだ。
だが、失われた記憶はここ一番というタイミングで都合よく思い出されることになる。ライアン・オニールからクビを言い渡されたときに都合よく思い出し、逆にライアンをゆすったのである!
こんなもん作り手の匙加減やないか。
記憶の有無なんて曖昧なものを作劇に持ち込むな。本人が「忘れた」と言えば忘れたことになるんだし、「思い出した」と言うだけで話が一転するんだから。こんなデタラメなものはない。脚本家のやりたい放題やないか。おい脚本家、神かおまえは。
薬でぐっちゃぐちゃの御大(お休み中)。
そんな神脚本で進行していく物語は、ついにアルパチと有権者を結ばせる。
ペントハウスに入り浸るニューヨークの有権者たちは、アルパチがティアから入手したテープを返すよう遠回しに説得=脅迫するが、それに気づかず無事に慈善パーティを成功させた彼はベイシンガーと列車に乗る約束をしたあとに街角でティアを殺した犯人にブスリと刺されてしまうのでありました。おわり。
まるっきり『カリートの道』じゃなーい。
恋人と列車に乗る直前に殺られてしまったなら、それはもう『カリートの道』(93年)じゃなーい。
あと、脅迫されてることに気付かない鈍感さに笑う。NYの有権者たちは「あのテープはこの街の未来にとっても脅威になり得るのだ。言ってること分かるだろ?(我々にとって不都合な物だからさっさと返せ)」と婉曲的にテープの返却を求めるが、疲労MAXのアルパチは「わかるわかる」とテキトーな相槌を打って帰ってしまう。絶対わかってない。
ていうか何なんだろ、この映画。どこの世界に言葉の意図が汲み取れなかったせいで命を狙われる話があるんだよ!
しかもラストシーンに至ってはヒットマンに脇腹を刺されたことにすらいまいち気付いてなかったからね。疲労が限界に達したために痛覚すら鈍麻してたのかな? 「脇腹あっつー」とかぶつぶつ言いながら街の売店で新聞を買ったアルパチは、帰宅後イスにもたれてブランデーを飲みながらテレビを見る。そして死ぬ。
この映画の要点をまとめると、老パブリストが24時間かけて記憶力、理解力、認識力の不足を露呈していくだけの内容です。面白すぎるんか?
アル・パチーノほど自己破滅的な物語が似合う俳優もまたといまい。
人がよく知るマフィア路線のほか『哀しみの街かど』(71年)や『訣別の街』でもこれまでに重ねてきた悪事のツケを払わされる因果応報の流転が描かれてきた。一方、その対極では『セルピコ』(73年)や『ジャスティス』(79年)などで法の腐敗に立ち向かう熱血漢も演じている。
だが本作のアルパチは破滅すべき悪人ではないし、またそれに立ち向かう熱血漢でもない。うだつの上がらない使いっ走りだ。そんな男が大都会に殺される一夜の悲劇…。
おすすめのコメディ映画です。
テレビを見ながらしっぽりと死んでいく男。