シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

不滅の女

ロブ=グリエを観る、というフィルム体験は存在しない。

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1963年。アラン・ロブ=グリエ監督。フランソワーズ・ブリオン、ジャック・ドニオル・ヴァルクローズ、カトリーヌ・ロブ=グリエ。

 

休暇を過ごすためイスタンブールにやって来た教師の男は、陽気だがどこか謎めいた美女と出会う。男は彼女との邂逅を重ねるうち、その不可解さに妄執をかき立てられていき…。(映画.comより)

 

はーい、どうもねー。

U-NEXTとAmazonプライムビデオの定額見放題にぶち込まれたことを記念して、今日から4日間はアラン・ロブ=グリエ特集です。

とは言え、ほとんどの人民にとっては死に時間としての4日間になると思うので、なるべく短くまとめるつもりではいる。だが遠慮しながら書くつもりはない。

まあ、興味のない人は静かに画面を閉じて頂いて、特集が終わった頃にでもまたひょっこり顔を出してもらえれば嬉しいなって思います。それでは、レッツ・グリエ。

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◆アラン・ロブ=グリエに関する漸進的長考◆

没後10年の2018年には特集上映「アラン・ロブ=グリエ レトロスペクティヴ」が全国で開催され、現在はU-NEXTとAmazonプライムビデオのようなVODにちゃっかりエントリされているアラン・ロブ=グリエのフィルモグラフィは、公開から約半世紀経ってなお人々の感性を大いに刺激しているようだ。

かく言う私も動画配信サービスを彷徨っていた折に「グリエ上がっとるやないか」とひょっとこ踊り。あきらかにVODに蔓延るギガントどうでもいい商業映画から浮いたロブ=グリエ作品群の不自然な佇まいが妙にベリークールに感じられ、死してなお人々の感性をジャックするロブ=グリエが頼もしく思えもしたものだ。

 

前衛映画(一般にはアート映画や難解映画とも言うが「アート」や「難解」といった単語がある種のバイアスを助長することを懸念してここでは前衛映画と呼ぶ)とは不思議なもので、前衛映画をその前衛性に埋没して見た場合はこれほど腹立たしいものはないが、ひとたび商業映画の脇に据えてみると不意に凶暴性を発揮して通俗的なるものを粉砕してくれることの爽快感へと人を導いてしまう。

たとえばゴダールやキューブリックや北野武が前衛であるにも関わらずこれほどまでに大衆に受け入れられているのはそうした理由による。彼らの映画はほどほどに前衛的で、ほどほどに通俗的だが、大衆(通俗の代名詞みたいな連中だね)が愛するのは、ゴダールの、キューブリックの、武の「前衛的」な部分であります。それは取りも直さず、通俗=後衛に対する近親憎悪、また後衛的環境に埋没している自身を脅かさんとする気付け薬としての前衛映画へと向けられた打算の愛にほかならないのである。

つまり前衛映画とは、通俗映画を攻撃しながらもそれが無ければ生きていけない、きわめて生命力の低い芸術形態なのだ。ロックンロールはポップ・ミュージックが音楽シーンの大半を占めているからこそロック足り得るのだし、関西のおばはんは関東のマダムがいてこそキャラクターが立つのである。

 

ところが、ロブ=グリエの前衛精神は何物にも相対化されえず、しかし打算の愛だけはしっかり勝ち取る、まるで触媒のごとき精神である。

彼とやや近しい映画を撮ったジャン・コクトーやアンディ・ウォーホルの本業が芸術家だったように、グリエも小説家という肩書きを最初に持ってくるべき人物で、いわば余技として映画を撮っている程度の男に過ぎない。そう聞くとアレハンドロ・ホドロフスキーやデヴィッド・リンチを思い浮かべてみたりもするが、映画作家兼芸術家芸術家兼映画作家とでは根本的に存在を異にしている。

グリエの場合はまず小説家として世に出、ロマン・ヌーヴォーとかいう妙ちくりんな文学潮流を築きあげた。その後、アラン・レネの『去年マリエンバートで』(61年)のシナリオを手がけ、処女作『不滅の女』で監督デビュー。爾来、監督業と文筆業を並行しながら、その不可解な作風で世界中を混乱の淵に叩き落としたのである。笑いながら。

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人がロブ=グリエの恣意的な時間の前後および凝固に戸惑うのは「実時間のように映画内時間も流れている」と思い込んでいるためだ。

映画を観るわれわれは、一度死んでしまったキャラクターは基本的には蘇らないことを知っているし、時間が前後する際はフラッシュバックやフラッシュフォワードが使われるはずだと信じている。つまりわれわれは時間演出という制度を無意識のうちに了解しながら画面なり物語の流れに身をゆだねているわけだが、ロブ=グリエの作品にあっては映画的制度が存在せず、が為に人はロブ=グリエの見方をその作品の中に模索せざるを得ない状況に置かれてしまう。

つまり「ロブ=グリエを観る」というフィルム体験はまず存在せず、好むと好まざるとに関わらずフィルム体験の一歩手前で“ロブ=グリエの見方を観る”という反映画的な態度を強いられることになるのだ。

たまんねえ。

※相変わらず意味のわからない文章が続きます。

 

イスタンブールに赴任した教師ジャック・ドニオル・ヴァルクローズが、波止場で知り合った謎の女フランソワーズ・ブリオンに惹かれるうち、妄執的な愛の迷路に囚われていく『不滅の女』。彼女は街の至るところで怪しい男たちに監視されており、ジャックもまた民家のカーテンの隙間からこっそりと誰かに覗かれていた(こわい)。

開幕。裸で横臥したフランソワーズが瞬きもせずこちらをジッと凝視したかと思うと、波止場、海辺、遺跡など様々な場所に佇む彼女の後姿が映されてゆき、その様子を見えるはずのないホテルの窓からジャックが見つめているショットへと繋がるファーストシーンで早くも観る者は「あー、早速わからん」と発狂します。

その後も、さっき居たはずの人物がワンショットの中で消滅したり、男女が会話していると次のショットでは男女の構図はそのままに背景だけがガラッと変わる…などメチャ&クチャの極みともいえる演出が立て続く。そしてエキストラは機械のように単純動作を繰り返す。もしくは石像のように動かず、決まった言葉しか話さない。ドラクエの村人の原点け?

そして同一のイメージが何度も何度も何度も何度も反復され、過去のショットが現在のショットに並置されてしまう。自動車事故で死んだはずの不滅の女が裸で横臥してこちらを凝視する。それは現在時としての彼女なのか、回想の中の彼女なのか?

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違う。そもそも“現在時”とか“回想”という制度自体がここには存在しないのだ。

一切のフィルムは無時間化され、次々と切り取られていく映像断片は意味や連続性を欠き、時間は健忘症を引き起こし、事実と虚構がひとつに混ざり合いチョコバニラアイスみたいなことになる。

観る者は「あー」と言いながら発狂します。

イメージの反復を通して、既出のショットは何者かに捏造され、映画の記憶は不断に上書きされてしまう。ジャックがホテルの窓に近づけば、カメラはフランソワーズの生死=存在/不在に関わらず恣意的空間に佇む彼女の後姿を映し出す。一見するとわけのわからん演出だが、これは演出(制度)ではなくきわめて理に適った映画存在の論理なのである。フレームとしての窓は幻想を生み出す映写装置にほかならないので、窓辺に佇んだジャックは見たいものを見る権利を得、とうに死んだフランソワーズをフレームに現出せしめただけに過ぎないからだ。言うまでもなくジャックをカーテンの隙間から覗いていた人々とは映画空間へのレイプに加担したわれわれ観客である。

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映画後半では、無理やり辻褄を合わせるようにフランソワーズの死がジャックによるものだったことが明かされる。だが、そこには何らの推理性もなく、ほとんど思いつきに近いデタラメさで話を閉じたロブ=グリエは、なるほど、演出と空間のみならず説話すらも犯しきることに成功してしまったようだ。

イスタンブールのモスク、廃墟、海辺。それらは鮮烈なイメージに収まりながらも一切の感情を持っておらず、柱の影から現れたフランソワーズ・ブリオンの不確かな存在もオブジェのように死に絶えていた。この映画を「美しい」と言ってしまうことが如何に傲慢であるかぐらいは分かっているつもりなので、この映画の美しさにビリリと痺れた私は「美しい」に代わる言葉を見つけるためにしばし沈思黙考したのち、ついに熟睡を遂げたのであった。

 

追記

デヴィッド・リンチへの直接的な影響のほかに、ベルトリッチやアントニオーニにもロブ=グリエの不純な血は流れているので、そこらへんの作家が好きな人なら「面白かぁないが観てよかった」と思えちゃうかもしれない。

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