シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

アド・アストラ

息子がスペースヒッキーになった父ちゃんを地球に連れ戻そうとする話。

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2019年。ジェームズ・グレイ監督。ブラッド・ピット、トミー・リー・ジョーンズ、ドナルド・サザーランド監督。

 

地球外生命体の探求に人生をささげ、宇宙で活躍する父の姿を見て育ったロイは、自身も宇宙で働く仕事を選ぶ。しかし、その父は地球外生命体の探索に旅立ってから16年後、地球から43億キロ離れた海王星付近で消息を絶ってしまう。時が流れ、エリート宇宙飛行士として活躍するロイに、軍上層部から「君の父親は生きている」という驚くべき事実がもたらされる。さらに、父が進めていた「リマ計画」が、太陽系を滅ぼしかねない危険なものであることがわかり、ロイは軍の依頼を受けて父を捜しに宇宙へと旅立つが…。(映画.comより)

 

はいはい、おはようね。

杏仁豆腐ってたまに食べたら美味しいけど2口目で早くも飽きてしまうよ。「あー、こんな感じだった、こんな感じだった。うん…、もういいや」って。

ていうかデザートを食べる文化が僕の中にはありません。子供の頃はお菓子ばっかり食べていたけど、いつしかそれを求めない身体になった。お菓子を食べる意味を見失ったというか、「そもそもお菓子って食べる必要ありますか?」という問題提起すらしていくような奴になった。学生時代はよくファミレスに行って最後にデザートを頼んでいたけど、今となってはなぜあんな無意味なことをしていたのかまるで分からない。

ちょうどいま杏仁豆腐を食べながらこの前書きを執筆している。久しぶりに杏仁豆腐でも食べたらデザートに対する見方が変わるかもしれないと思ったのだが、一個も変わらんわ。ただ白くてぷるぷるしたモノを胃に流し込むだけの空しい作業に従事しただけだった。俺の日曜日はもうおしまいだ。

そんなわけで本日は『アド・アトラス』って間違えそうになることでお馴染みの『アド・アストラ』です。

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◆むやみな宣伝によってメインストリームに引きずり出されたマイナー映画◆

『アド・アストラ』は、ここ数年やけに流行っている『インターステラー』(14年)『オデッセイ』(15年)『メッセージ』(16年)のようなハードSFを期待した者をことごとく裏切りの罠に掛け、とりわけSF好きが求めているものを何ひとつ用意しなかったことで「期待してたのと違う!」という観客からポップコーンを投げつけられたりもした不憫な作品である。

ブラッド・ピットでSFします、なんて聞くといかにも派手な大作映画を想像するかもしれないが、残念ながら監督はジェームズ・グレイ。この男の興味はSF映画ではなく映画にあるので、近未来のガジェットや海王星の視覚効果といったごく一部を除き、人が求めるSF記号は冷酷なまでに画面からオミットされる。科学的整合性は棚上げされ、B級スペースオペラさながらに「宇宙軍」や「略奪者」といったよく分からない勢力図が薄ぼんやりと描かれていくのだ。

実際、この映画の製作費は『インターステラー』の約半分であり、世界興収に至っては『メッセージ』の約半分をやっとの思いで回収、レビューサイトの点数は伸び悩み、良心的に評価する者もブラピの名演を逃げ口上に擁護するのがやっと…といったきわめて健康的な総評に終わっているのです。

またしても映画の惨憺たる現状を炙り出したグレイと、宇宙空間を独壇場に借りて123分の一人芝居をやってのけたブラピの地滑り的大勝に終わった『アド・アストラ』は、ひとまず近年稀に見る爽快な映画だったと言える。

 

物語としては、地球外生命体を見つけようと躍起になるあまりスペースヒッキーと化した父トミー・リー・ジョーンズをふん掴まえて地球に連れて帰るべく息子のブラッド・ピットが月を経由して海王星をぐんぐんに目指す…といった宇宙活劇だが、その基底部で描かれているのは宇宙飛行士としての職業倫理を優先するあまり感情を制御しすぎたことで人間味を失った(そのせいで嫁にも逃げられた)ブラピがボイスオーヴァーの濫用による哲学問答を繰り返すうちに少しずつ血の温もりを取り戻してゆくまでの自己発見である。

父は伝説的な宇宙飛行士で、その後塵を拝してはならぬと己を律し続けたブラピは、そのために妻や同僚に対して人間的な接し方ができずにいる。家を出ていった嫁はんへの謝罪と愛のメールを途中で消去してしまい、クルーの前では「パフォーマンス」として愛想笑いを浮かべる。いかなる事態にも対処できるよう、常に神経を研ぎ澄まし、周囲の雑音(コミュニケーションのことだ)を遮断し、宇宙に消えた父に想いを馳せる。彼は父を愛しているわけではないし、かといって憎んでいるわけでもなく、乗り越えようともしていなければ認めてほしいとも思っていない。

自分にとって父は何なのか? そして父の子である自分は一体何者なのか? そんな疑問と孤独に戦っているだけなのだ。

かくして、SFという化けの皮を被った実存主義をめぐる精神の旅が始まる。「宇宙は目の前に広がってるんじゃない。心の中にあったんだ!」と言わんばかりの哲学的な内容である。

うるせえな。

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全体的にうるさい映画です。

 

そんなわけで、無理にカテゴライズするならSFっつーか文芸映画である。ブラピ使って純文学を演劇調でやりました、みたいな極めて観念的な哲学冒険譚であった。当たるわけねえよな、こんな映画!

まぁ、トレーラーを見るといかにもそれっぽい画が抜粋されているが、まさかここまで振りきってくるとは思わなかった。それだけに『アド・アストラ』は爽快なのである。

以前『裏切り者』00年)評の中でそれとなく触れたが、ジェームズ・グレイという映画作家は観客に見切りをつけた生粋のシネアストで、まぁ、わかりやすく言えば孤高の天才ってやつだ。

これまでに手掛けた監督作では、一貫して「ことによると貴方たちには僕の映画が理解できないかもしれないが、むりに理解する必要はない。貶すだけ貶して忘れてくれればいい」とでも言うように観客を素通りし、厳しい態度で映画“だけ”を見据えている。したがってグレイ作品の前にはただの一人も観客はおらず、経済的利害が介在する余地もない。強いて言うなら映画の神に捧げるべく供物としてのフィルムを回し続ける映画キチガイなのである。

そしてもう一人の映画キチガイがブラッド・ピットという名前のマイナー俳優だ。この男は単なる二枚目スターではなく、かなり聡明なシネフィルである。それを傍証するのが以下の3点。

(1)映画会社は持っても監督業には手を出さない。

(2)しばしばオファー選定を誤る。

(3)芝居をしない。

断っておくと、「シネフィル」とは映画をよく見ている人間のことではなく映画を畏怖している人間のことを言うので、不幸にも俳優でありながらシネフィル足り得てしまったブラッド・ピットは、映画を撮ることの恐ろしさに幾度となく立ち会ってきたからこそ監督業には手を出さず、「作品としての映画」の側にも「商品としての映画」の側にも付けず、その中間地帯で我が身を持て余すからこそくだらない映画に出てしまい、映画を破壊する厚かましいスターへの憎悪から分かりやすい名演をその身に固く禁じた映画を畏怖する俳優である。

映画と討死にする覚悟でいるマイナー作家とマイナー俳優が、むやみな宣伝によってメインストリームに引きずり出された結果、観客を大いに困惑させ、苛立たせもした123分を野放図に生きた。この失敗はたまらなく痛快な成功だ。

 

◆口ごたえするスペースヒッキー◆

別に『アド・アストラ』は深刻ぶった顔で観る映画ではない。

月面で盗賊とカーチェイスする騒々しさとか、実験用のマントヒヒが大暴れする阿呆らしさとか、ブラピがパニックを起こしたクルーと揉み合っているうちに全員殺してしまうデタラメさとか、滑稽なシーンが盛り沢山だ。

どう見てもこれはグレイが拗ねながら盛り込んだサービスシーンであって、決して純粋なアクションとかスリルを提供するものではない。20世紀フォックスのお偉いさんに指示されて渋々撮ったのだろうか、「これでいいんだろ。糞っ垂れが…」とブツブツ言いながら仕上げたような卑屈さに満ちていた。

またキャスティングもおもしろい。

宇宙で一人ぼっちのT・L・ジョーンズというシチュエーションからして『スペース カウボーイ』(00年)なのだが、その目配せとしてドナルド・サザーランドまで出している。ここまでやったからにはクリント・イーストウッドも出したいという思いもあっただろうが流石に無理と考え、かといってジェームズ・ガーナーは2014年に死んでいるので、仕方なくローレン・ディーンを出してお茶を濁した。

まったくどうでもいいが、ブラピの元妻役にはドワナクローズマイアイズの娘リヴ・タイラーリヴちゃんに見送られて宇宙に行った男は必ず生きて帰って来るというジンクス再び。

 

これに関しては笑うべきではないのだが、どうしても笑ってしまったのはT・L・ジョーンズの顔である。猿やん。海王星付近に引きこもっているところをブラピに発見されて「ウキャ!」と猿みたいに怯え、「帰ろう、父さん…」と手を差し伸べられると「キィ!」などと口ごたえする。すると、えらいもんでブラピまで猿に見えてくる(もともと猿顔ゆえの親子設定なのだろうが)。

そのあと宇宙空間で「こっち来いって、父さん。地球に帰るんだよ!」「嫌じゃ、離せ。わしは残るんじゃ~」骨肉の争いが繰り広げられるシーンに至って観る者は爆笑の渦に包まれる。

ましてや、ブラピは父を見つけるために大勢のクルーを已むに已まれず殺してきたのだ。そうまでして見つけた父が「帰りたくない」とか口ごたえして、挙句には「ウキー」とか言いながら宇宙空間に飛び出すことでスペースヒッキーとしての矜持を見せつけたのである。おもろい。 

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宇宙に引きこもることを良しとするスペースヒッキー、トミー・リー・ジョーンズ。ひとり猿の惑星を見事に体現した。

 

『2001年宇宙の旅』(68年)『地獄の黙示録』(79年)への細かい目配せに関してはよそのリッパな批評を読んで頂くとして、この刺激も図式も物語もない、限りなくテレンス・マリックを思わせながらも実はヌーヴェルヴァーグにも通じる思惟的にして恣意的な作劇はある種のセンス・オブ・ワンダーに満ちた思索性を獲得していると思う。表層的なバカバカしさと、深層的な実存危機。その線分のなかでボンヤリとした午睡感覚を湛えながらフィルムは振動する。

時代設定は「近未来」という実に曖昧なものなのでやりたい放題の描写のオンパレードだが、地球での生活や火星基地の造形には目を見張るものがある。自宅の方が宇宙空間よりも孤独と静寂に包まれた「死」のイメージにおさまっており、宇宙ステーションの人々は皆フレンドリーで活き活きしている…という具合に、ブラピから見える世界が反語的に視覚化されているのである。愛した元嫁の顔は一度としてクローズアップされず、そうでない者の顔だけが大写しになっていく。すべてが逆さまなのだ。

また、不断に映されたブラピの相貌が、時としてT・L・ジョーンズよりも老けて見える瞬間が何度もあるのがいい。目の下にひどいクマがあるかと思いきや、次のシーンではクマが消えて顔も若返っているではないか。

なんだこれ、『ベンジャミン・バトン』か?

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『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(08年)のブラピ。

 

◆映画の呪いはブラピに後方を振り返らせた◆

ジェームズ・グレイは真剣に語らねばならない数少ない現代映画の作家なので、最後の章はちょっと真面目に書こうかな。

 

映画は国際宇宙アンテナの事故によってブラピが成層圏まで達するタワーから真っ逆さまに落下するシーンから始まる。これは地球に帰還(落下)するラストシーンの反復装置たりうる前に、スクリーンの限界に挑みながらも決して超えられないことの諦めから撮られた自己処罰的な痛々しさに満ちていた。

『エヴァの告白』(13年)を撮ったグレイのことだからロケットの垂直運動や人物の上下運動が横長のスクリーンに適さないことぐらい当然知っていただろうが、それでもシネマスコープという箱の中で約120秒も落下シーンが持続することの構図的誤謬に甘んじねばならなかったのは、『2001年宇宙の旅』が徹底した平行性と、美しい円運動と、厳しい一点透視図法によって上下運動の呪いを免れ、スターゲート・シーケンスの無方向的な特殊撮影を使ってまでスクリーンを護りきったことへの嫉妬の顕れなのだろうか。

まぁ、なんでもいいが「ブラピいつまで落ちるん」とは思った。

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天まで届きそうな国際宇宙アンテナ。

 

ではグレイに残された画面運動は貧しい上昇と落下だけなのか。ノンである。

全編これ振り返るというゴダール的動作を主題化させることで、辛うじてキューブリックの亡霊から逃げ切ることに成功している。

『アド・アストラ』は後ろを振り向く映画である。

挙げだせばキリがないが、とにかくブラピが事あるごとに後方を振り返るのだ。それっぽいことを言うなら「父の呪縛=過去からの呼びかけに答えるがごとき」だな。

火星基地に着いたブラピを通信室に案内するルース・ネッガが、不意に現れた上司に「君はここまででいい」と言われて案内役の座を奪われたあとも、カメラは画面奥に向かっていく上司とブラピではなく、踵を返して画面手前に向かって歩きだすルース・ネッガの忌々しそうな表情を捉えるのだし、父への通信を終えたブラピが通路ですれ違った船長に話しかけた際もやはり後ろを振り向いている。

なんだこれ、ブラピの首の可動域を楽しむ映画か?

もちろん違う。違和、不安、後悔、恐怖といった内なる感情が後ろを振り返させるのだ。だからこそ父との無理解を受け入れたブラピが海王星の輪を通過してケフェウス号に戻るシーンでは正面だけを見据えていたのが実に感動的である。

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とはいえ、ブラピの首の可動域もお楽しみ頂ける。

 

ちなみに、バーで酒を飲んでいたブラピの前に元嫁が現れるラストシーンで、リヴちゃんは前からでも後ろからでもなく真横から現れる。

前から現れると復縁成功、後ろから現れれば決定的破局、真横から現れたのはそこをボカしている…と解釈するのが映像言語というものだが、観客の中には、ただ単に「リヴちゃんが現れた」という事実だけ拾ってハッピーエンドと判断するバカ 人が多く、またしてもグレイは映画の惨憺たる現状に頭を抱えることになる。

あと、せっかくなのでリヴちゃんは「上からマリコ」に対抗して「真横からリヴ」という楽曲を発表すればいいと思った。父に頼めばすぐ作ってもらえるだろう。

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タイラー親子はいつも幸せです。

 

(C)2019 Twentieth Century Fox Film Corporation