「死んだ」ではなく「いない」と表現する映像言語の豊かさ。
2015年。ミカエル・アース監督。アンデルシュ・ダニエルセン・リー、ジュディット・シュムラ、マリー・リヴィエール。
夏のある日、30歳のサシャが突然亡くなったことから、サシャの恋人ローレンスそしてサシャの妹ゾエ、出会うことがなかった2人が顔を合わせる。突然の別れの地となったベルリン、悲しみが深く残るパリ、少しずつ自分の生活を取り戻していくニューヨーク。3つの都市で過ごした3度の夏を通じ、残された人たちが少しずつ人生の光を取り戻していく。(映画.comより)
うん、おはよう。
ライブ音源のボーナストラックまじ要らん。
洋楽の国内盤には、よく日本限定のボーナストラックが収録されているが、そこで多いのがライブバージョンなんだよね。
端的に、要らん。
エンドロール後のオマケシーンぐらい要らんわー。ミュージシャンが作り上げたオリジナル・アルバムという「完結したひとつの世界」に対する冒涜とさえ思っているわー。
ていうかライブ音源を「CD音源」として聴いても意味ねえだろ、根本的に。そのライブに足を運んで生の音を聴くならまだしもよォーッ! その生の音を「録音」してCDに焼いてる時点で生じゃねえだろ、それはよォーッ!
そもそもボーナストラック自体いらん。
誰か、ボーナストラックという概念を地球上から撲滅してくれ。
第一、誰にとってのボーナスなんだよ。3曲も4曲も5曲もよォーッ! それで容量圧迫されて俺のiPodパツパツになってます。なまじボーナスなんか得たことで逆に首が回らなくなるという逆説。この世で一番ミジメな逆説だろこんなもん。
「iPodに移す前にボーナストラックだけ弾けばいいじゃん」という説はご尤もだが、その作業だけでも一苦労なのだ。
ボーナスのために苦労を強いられるって、それこそ誰にとってのボーナスなんだよ! ナーバスになるよ!
また、ライブバージョン以外にアコースティック・バージョンとかも収録されてるんだけどさ…要らん。
以前、ある友人がヤケにぽやぽやした顔で「激しい曲のアコースティック・バージョンって何のために存在するの?」と言っていて、その時の私は「うーん…、同じ曲でもアコギで演奏することで別の表情が見えてくる…趣ぃ? そういう微妙な趣が出るんだよ」と知ったかぶりで返答したが、それでも合点がいかない友人は「激しい曲に微妙な趣なんて要る…?」と疑問を呈してきた。今ならその友人の気持ちが分かる。
要らん。
激しい曲をアコースティックでやるな。なんで元々盛り上がってる曲を盛り下げていくの。どういう司会進行やねん。そういう静かな曲だけを集めたアンプラグド版のアルバムだってあるんだから、わざわざそれをボーナストラックにすな。
こんなものは「よかれと思って…」の代名詞だよ! レーベル側としては「ファンが喜ぶと思って」沢山ボーナストラックを入れてくれたのだろう。その気遣いにはサンキュー・フォー・ザ・カインドネスだよ! サンキュー・フォー・ザ・テンダネスでもあるよ!
しかし要らないよ!
人を思いやるって難しいねッ!!!
そんなわけで本日は『サマーフィーリング』です。優しい人間になりたいよ。今日は大人なムードでしっぽり行きますよー。優しい歌が歌いたい。
◆大事な人を夏に亡くしがち◆
大型新人現る!というほど熱のこもった騒ぎようではないが、いま映画ファンを中心にミカエル・アースというフランスの新人監督が人気を集めてるらしい。
映画ファンと言っても、Twitterで血眼になって話題作の絶賛ツイートをしてるような層ではなく、たとえばそうだな、土曜の昼下がりにコーヒーでも飲みながらFilmarksに短評を寄せるような物静かな映画ファンである。
奴らは精神が発達しているのでヨーロッパ映画や芸術性の強い作家でも新旧問わずよく観ており、かといってそれを誇る素振りもなく、ただ感覚のままに映画を楽しみ、短評を綴り、そしてコーヒーを淹れにいくのだ(部屋に観葉植物を置きもする)。
奴らに気に入られたミカエル・アースは、今後どのように評価され、フランス映画の地図に位置づけられていくのだろうか。そんな好奇心に人を誘い込まずにおかないのが長編2作目となる『サマーフィーリング』である(1作目は日本未公開)。
ミカエル作品の主人公は大事な人を夏に亡くしがちということが言えると思います。
『アマンダと僕』(18年)は姉を亡くした青年が姪の面倒を見るという心温まるサマームービーだ。この作品が第31回東京国際映画祭のグランプリに輝いたことで注目を集め、無名時代の本作『サマーフィーリング』もようやく日本に入ってきて鑑賞できたわけだが、こちらの青年は恋人を亡くしたことで彼女の妹と心の傷を癒し合う…というサマームービーだった。
翻訳家の青年アンデルシュ・ダニエルセン・リーが恋人を亡くした悲しみから立ち直るまでの3年間が描かれており、舞台は1年ごとにベルリン、パリ、ニューヨークへと変わってゆく。いずれもその年の夏を描いている。死んだ恋人の妹ジュディット・シュムラとは家族同然の仲で、夏が来るたびに再会しては近況報告を交わす。そんな二人のサマータイムをやさしく綴った106分となっているで。
3年間も悲しみに暮れ続ける青年役を、オリヴィエ・アサイヤスの『パーソナル・ショッパー』(17年)やポール・グリーングラスの『7月22日』(18年)などで地味に活躍中のアンデルシュ・ダニエルセン・リーが演じる。1979年の1月1日に生まれることに成功したニューイヤー・ニューカマーである。
恋人の妹役にはジュディット・シュムラ。『カミーユ、恋はふたたび』(12年)や『女の一生』(16年)など、最近のフランス映画で稀に見かける女優だ。ちょうどエミリー・ワトソンを『奇跡の海』(96年)の頃に戻して11キロ痩せさせた、みたいなルックスを売りにしている(どこまで伝わるんだろうか、こういう感覚的な例えって)。
ニューイヤー坊主としてのアンデルシュ・ダニエルセン・リー(左)、エミリー・ワトソンをシュッとさせたみたいなジュディット・シュムラ(右)。
◆所変わって三度の夏◆
アンデルシュの横で目覚めた恋人が服を着て職場に赴き、帰路につく途中でぶっ倒れる。軽快にジャンプカットを重ねて死に辿り着くまでがとてもリズミカルだ。次のカットでは憔悴したアンデルシュがその死を知って泣き崩れたり葬儀を執り行う過程なども省略され、遺族たちは葬儀を終えて談笑するまでに平静を取り戻している。ただ一人、妹のジュディットを除いては。
何かの間違いで死んだとしか思えないほど軽快に描き出された不幸は、それが心地よいリズムに乗っているだけにアンデルシュとジュディットを過去に置き去りにしたまま月日に撫でられ治癒してゆく。
実際、どれだけ大事な人が死んだといってもそう何年もヘコみ続けられるものではないが、その点アンデルシュは特殊な奴だった。四六時中、年中無休でヘコみまくってるのだ。その理由は恋人の死から葬儀を終えるまでの過程に秘められていたのだろうが、いかんせん丸ごとジャンプカットされてしまったので想像で補うしかない。
そんな風にしてベルリンの夏は過ぎていく。
恋人の死を引きずり続けるアンデルシュ。
1年後。アンデルシュはパリに降り注ぐ陽光を浴びながら恋人を想っていた。“彼女が死んだ”という事実はどうにか受け入れたようだが “彼女がいない” ということは未だ受け入れがたいようで、気の抜けたぬるいビールみたいに毎日をたゆたっている。これじゃアンデルシュというより病ンデルシュじゃないか。
一方、育児に追われるジュディットは夫との関係をやや気まずいものにしていた。おそらく姉の死が遠因になっているのだろう。彼女はアンデルシュとは反対に、なるべく姉のことを考えないようにして日々の生活を取り戻そうとしていた。
このパリのパートは彼女の視点から綴られている。オート=サヴォワにあるアヌシー湖に臨んだ実家でサマーバケーションを送ったり、1年ぶりにアンデルシュと会ってラフな会話を楽しむなど、一見すると姉の死を乗り越えた風にも見えるが、実はノンなのである。むしろアンデルシュよりも深い喪失感を抱えていることが後に明かされるのだが、それだけに悲しみを抑えて気丈であろうとするジュディットの笑顔が痛々しい。
姉の死を引きずり続けるジュディット。
1年後。故郷のNYに帰ってきたアンデルシュと、夫と離婚してNYに暮らす友達を頼ったジュディットがまたしても再開する夏。アンデルシュは姉の誕生日パーティーやハンドテニスにジュディットを誘い、やがて姉が営む雑貨屋の女従業員と仲良くなった。
ジュディットが「友達がバンドをやるから来ない?」とアンデルシュに言われて行ったバーには女従業員もいて、二人が仲睦まじそうに話している様子に祝福の笑みを浮かべながらも、ジュディットの表情はどこか寂しげだった。ようやくアンデルシュが新しい愛を手に入れたことで姉の死が過去になり始めたこと。彼の方が先に悲しみを乗り越えたこと。同じ孤独を分かち合う理解者がいなくなってしまったこと。だが彼の門出を心から喜んでもいる。そんなさまざまな感情が交錯してのセレブレーション・スマイル。グッときたねぇ~。
それにしても、このシーンでアンデルシュの友達が演奏していた曲はまったく最低だった。フランスのポピュラー音楽のレベルはつくづく低いと思っているが、それにしてもあんな酷い曲をやらなくてもいいだろう。もしこの曲が入ったCDを誕生日プレゼントに貰ったら「ごめん。本当にごめん」と言ってその場で叩き割るわ。
さまざまな感情が交錯してのセレブレーション・スマイル。
◆不在と郷愁◆
まあ、エリック・ロメールをやってるわけだな。
彩度の高い色彩感覚と、16mmフィルムが醸すザラついた画面の味わい。油絵を間近で見たような映像の粒立ちが記録フィルムのように、ひいてはそこに映るアンデルシュとジュディットの“記憶”をスクリーンに投影したかのような効果を生んでいる。
レビューサイトで「映像のリズムが速すぎる」といった指摘が散見されるようにジャンプカットが多用されているが(何しろ3年の歳月を106分で描いてるので)、その一方で歩くという主題が強調されてもいた。
とにかく人物がよく歩く。「こんなに好い天気なのだから歩かねば損だぞ」とでも言うように、わざわざ徒歩で移動したり気分転換に散歩をしたりする。おもしろいことに、歩くシーンだけは絶対にジャンプしないのだ。
私は歩くことの意味をエレファントカシマシの「歩く男」で知ったが、とはいえ筋金入りの歩き不精で、徒歩5分のスーパーマーケットに行くだけでもチャリンコに乗ってしまうような空け者である。友達もみな歩くとすぐ疲れるような連中なので、砂漠とかに放り出されたら当日自決確定という体たらくなンである。
そんな私が無性に歩きたくなる映画が本作です。気持ちよさそうにペタペタ歩くジュディットを見ていると、今すぐ靴を履いて家を飛び出し、そこらを「血行促進、血行促進」と呟きながら遮二無二歩き回りたくなる。いや…よそう。
16mmならではの粒子の粗さ。または歩くことの歓び。
とはいえ皆さんは、まだまだこの映画に乗り気ではないと思う。
なるほど、「愛する人を失った喪失感」だとか「残された者たちの再生の物語」なんて手垢のついたクリシェを聞くと「うっげー、重ぉー。そういうのは勘弁だわ~」と思うだろうが、たしかに皆が「うっげー」となる気持ちも一理ある。そんな重苦しい映画など誰も好き好んで見たがらない。『息子の部屋』(01年)だとか『ヒア アフター』(10年)だとか『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(16年)だとかな。まあ、映画賞効果で箔がついたり人気監督が手掛けているから…という理由で見ることはあっても、映画のテーマ自体に惹かれて見る人間はあまりいないはずだ。その手の映画で大衆の関心を引いたのは『カールじいさんの空飛ぶ家』(09年)ぐらいだろう。
だが、ひとまず安心してよい。
『サマーフィーリング』が描いているのは死ではなく不在、喪失ではなく郷愁なので、とかく人を暗い気分にさせるような湿った陰鬱さには滑り落ちていない。死んだことへの悲しみよりも“いない”ことへの寂しさが涼やかに描き出されている。
それはまるで季節の終わりに感じる心地よい憂鬱(憂鬱!)。
長い本を読みきってしまったときの名残惜しさ(名残惜しさ!)。
遠くで暮らす家族や友人との別れ際に抱く哀愁(哀愁!)。
それなのである。何が重いことがあるか。黙って観ろ!
なにしろ太陽が照っている。季節は夏。舞台はベルリン、パリ、NY。一度に三粒美味しいとはまさにこのこと。美景の数々とのんびりした空気。踊り疲れた真夜中にビルの屋上で友人たちと告白ゲームに興じ、つまらぬジョークでドド滑り。バーに行けば最低な曲も流れる。互いを思いやるアンデルシュとジュディットの気を遣いすぎた微笑ましき関係性。傷ついた者たちを癒す、夏の魔法だ。
悲しいムードとは相容れない“夏”をあえて物語の背景に持ってくることで奇妙な異化に成功した『サマーフィーリング』は、まったく新しいフィルム感覚にみなぎった快作である。
(C)Nord-Ouest Films - Arte France Cinema - Katuh Studio - Rhpone-Alpes Cinema