シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

アマンダと僕

エルヴィスは建物を出ちゃいない。

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2018年。ミカエル・アース監督。ヴァンサン・ラコスト、イゾール・ミュルトリエ、ステイシー・マーティン。

 

ダヴィッドは、レナという恋人ができ、穏やかな毎日を過ごしていた。ある日、姉が事件に巻き込まれ、亡くなってしまう。ダヴィッドは残された7歳のめい、アマンダの世話をすることになる。悲しみの中、困惑するダヴィッドと母の死を受け入れられないアマンダの共同生活が始まる。(Yahoo!映画より)

 

はい、おはよう。

レビューストックがあと7本しかなくて焦りを禁じえない。

近頃はなかなか筆が乗らなかったり評を書くのが面倒臭い映画ばかり観ているので、書くペースが著しく低下しとるのだ。

それに季節柄、やけに眠い。自律神経がバグっているのだろう。こないだの休みなんて13時間も眠ってしまったわ。このようにして評を書く時間が無くなっていくわけだな。HAHAHA。笑とる場合とちゃうぞ。物書きにとって春は天敵、キラースプリングだ。こうしてる今もあくびが止まらない。

ちなみに僕は映画を観ながらよくあくびをしますよ。あと髪の毛を触ってしまう。退屈な映画を観てると無意識裡にそういう事をしてしまうんだけど、人によっては貧乏ゆすりをしたり、寝そべりながら映画を見る事もあるでしょう。皆さんの退屈のサインは何ですか。ちなみに某友人は、退屈すると服を脱いで地面に叩きつけるという奇癖を持ってます。その人を見てると退屈しません。

そんなわけで本日は『アマンダと僕』。明日から2~3日サボる!

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◆絶望を溶かすのは稚気かもしんないって話◆

アメリカ映画と日本映画に対して交互に絶望するあまり時代と並走する気力を失いつつある私だが、まぁどうにかやってるわ。

誰とは言わないが、大家というだけで有難がられるアメリカ映画の動脈硬化ぶりや、どうやらブニュエルを忘れてしまったらしいメキシコ出身者たちの技巧の発表会。15年前に比べて韓国映画もずいぶん退屈になったが、『パラサイト』(19年)のアカデミー賞作品賞受賞を受けて韓国の文化レベルを讃え自国の映画文化の惨状を嘆いてみせる日本人の頓珍漢っぷりなど、こんにちの映画文化は「絶望するに足る理由」の充実ぶりが尋常ではない。まるでハデな玉突き事故だ。見様によっては逆におもしろいぞ。

まあ、にっこり笑って今ある映画に自足することもできるが、誰もが幸福を受け入れてしまうと文化は現状に甘んじてまうねん。ほんまやで。

「堕落」とは、足を踏み外した不幸からではなく、天井を打った幸福から始まんにゃで!!!

ほい、これメモれ!

だから、皆もっと「おもしろい映画を見せろ、クソッタレ!」と怒って石でも投げつけるべきだと思うのだが、人は映画の惨状に怒るかわりにフェミニズムとかLGBTとかトランプ政権とかポリコレに対して怒っている。ご苦労なことだ。

第一、いま「映画文化」など存在するのだろうか?

 

そんな中、ヨーロッパの若手監督だけが“文化の玉突き事故”から逃れて悠々自適に映画を撮っている。

「いま、ヨーロッパの低予算映画がおもしろい!」なんて言うと「気取ってるとぶっ殺すぞ!!」と襟首を掴まれそうだが、いやいや、気取ってるわけでなく、本当におもしろいから紹介したいだけやねん。だからこやって関西弁交じりの砕けた文体で書いとるんやないか。

フランスでは『若い女』(17年)のレオノール・ セライユが、ドイツでは『希望の灯り』(18年)のトーマス・ステューバーが、イタリアだと『ともしび』(17年)のアンドレア・パラオロが、アイスランドからは『たちあがる女』(18年)のベネディクト・エルリングソンetc…。

ユニークな新人たちがフレッシュな果汁を撒き散らしながら無方向的に暴れている。なんて奴らだ。

打算も予算もなく、括弧つきの「映画文化」に組み込まれもせず、自国の巨匠の亡霊に縛られることも、ヒステリー然とした技巧主義にもアート然とした印象主義にも傾斜することなく、ただ純粋に「おもしろさ」だけを求めて感覚的に撮り散らかした稚気のいじらしさ。

ああ、なんて素直な果実たち!

以上、絶望を溶かすのは稚気かもしんないって話でした。

 

本作『アマンダと僕』が第31回東京国際映画祭でグランプリと最優秀脚本賞をW受賞したことで日本での知名度を一気に高めたミカエル・アースは今後注目すべき人物だ。自信はないが、あえて言い切ろう。

ミカエル・アースは、タイプは異なるがグザヴィエ・ドランと同じだけのヒットポテンシャルを秘めた聡明な男で、現にドランが『Mommy/マミー』(14年)で商業映画の妥協点を探ったように、アースの本作も『サマーフィーリング』(15年)に比べてドラマ性(商業性)が増している。内輪キャスティングの多かったドランが『Mommy/マミー』成功後の『たかが世界の終わり』(16年)でフランスのスター俳優を揃えたように、本作を成功に導いたアースも今後さまざまなスターと手を組み、さらに煌びやかなメジャー映画を撮ってゆくのだろう。

さて内容だが、パリで暮らす便利屋の青年ヴァンサン・ラコストが姉のオフェリア・コルブをテロで失い、姪イゾール・ミュルトリエの世話を引き受ける…といった筋である。

物語の骨子は『サマーフィーリング』とまったく同じ。まだ2作しか観てないが、とかくアース作品では大事な人が死にがち。しかも夏死にがち。残された者たちが悲しみを癒し合いがち。そして未来に向かって歩き始めがちである。

だが、映画の作りや雰囲気などは前作とまったく違うので、両方観る価値は十分ありがち。

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姉を失ったことで姪イゾールの面倒を見るヴァンサン。

 

◆移動、それは活写すべき精神の過渡◆

『サマーフィーリング』の恋人は開幕5分で死んでしまったが、本作で同じ運命を辿る姉オフェリアはわりに生きる。オフェリアがピンピンしている第一幕で、彼女が娘イゾールに国語の比喩法を教えるファーストシーンがステキを極めていた。

「エルヴィスは建物を出た」

オフェリアが教えたこの言葉は、エルヴィス・プレスリーがコンサートを終えても会場に群がりアンコールし続ける群衆に向かって警備員が言い放った言葉である。エルヴィスは建物を出た。転じて「ショーは終わった」、「望んでも無駄」、「どうにもならない」といった意味で使われる英語の慣用句である。

この比喩表現を教わったイゾールが「またひとつ学問した!」とばかりに身をくねらせてオフェリアと踊り狂うシーンがすこぶるゴキゲンなのだ(オフェリアの踊りはヤケにえろかった)。

そこで流れた曲がエルヴィスのDon't Be Cruel

ほっほーん、さすがフランス映画ねぇ。アメリカ人監督なら馬鹿の一つ覚えみたいに「Hound Dog」か「Jailhouse Rock」を選曲しそうなところを、ここぞとばかりに「Don't Be Cruel」。冷たくしないで。


エルヴィス・プレスリー「Don't Be Cruel」

 

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オフェリアとイゾールはわりに仲良し!

 

一方のヴァンサンは、枝おろしのアルバイトやアパート管理の仕事をこなしながら、ボルドーからパリに出てきたばかりのシャイニーガールと恋に落ちる。

シャイニーガールというのは今わたしが思いつきで発した言葉なのだが、とにかくそれくらい輝いてる女の娘ということだ。わかるだろ。しかもこの娘はピアノが弾けるらしい。バカな…! ピアノが弾けるシャイニーガールだなんて。さぞかしモテるに決まってる。アサリの味噌汁にアサリが入ってるぐらい確実だ…。

そんなナチュラルボーン・モテ・シャイニーを演じたのがステイシー・マーティン

清純な見た目に反して『ニンフォマニアック』(13年)では色情狂を演じておっぱいを見せつけ、『グッバイ・ゴダール!』(17年)ではアンヌ・ヴィアゼムスキーを演じておっぱいを見せつけた。本作でもおっぱいを見せつけたのは言うまでもない。

とにかく見せつけられるモノはすべて見せつけていくスタイルをこよなく愛する仏若手女優の急先鋒と言え過ぎる。

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ナチュラルボーン・モテ・シャイニーとしてのステイシー・マーティン

 

このように、一幕ではオフェリアとイゾールの親子関係と並行してヴァンサンとステイシーの恋模様がタリラリンリンと描かれるが、二幕では穏やかな公園で突如銃撃テロが発生。ステイシーは腕を撃たれてピアノが弾けなくなり、オフェリアは帰らぬ人となってしまう。

もちろんテロの直接的な描写はなく、ヴァンサンが公園を通りがかると既に惨劇が起きていた…という省略法が採られているが、負傷者や死者が転がった地獄絵図はバッチリ見せている。『サマーフィーリング』の頃だったらまず見せなかっただろうが、より商業映画に寄せた本作ではこういうイメージも戦略的に挿入していくわけだ(ない方がよかったけどね)。

そしてヴァンサンと姪イゾールの共同生活が始まる。

物語の主人公はあくまで子供ちゃん(イゾール)なので、カメラはこの子の目線から「母親との生活」と「叔父との生活」を対比していく。ヴァンサンは若いながらもイゾールの面倒をよく見ており、親が代わったことによる「二つの生活」の対比をなるべく作らないよう努めたが、それでも子供ちゃんにとって親が代わることは一大事。たとえばヴァンサンが姉の歯ブラシを捨ててしまったことにも「なんで捨てるん!」と過敏に反応して彼を責める…という具合である。

イゾールを学校まで送り、その足で仕事に行き、夕刻彼女を迎えにいって帰路につく。慌ただしい毎日が淡々と繰り返されながらも微妙に遠近する二人の距離感に、パシッ、パシッとピントを合わせたストーリーテリングが心地よいな。そして、ふと沸きあがる悲しみに涙するのはどちらか一方だけ。ヴァンサンが泣くときはイゾールが寄り添い、イゾールが泣くときはヴァンサンが抱きしめてやるのだ。

テロの被害に遭ったことで心に深い傷を負ったステイシーは、ヴァンサンを愛しながらも「今の私ではあなたたちを支えられない」と言ってボルドーに帰ってしまう。本当はヴァンサンと結婚してイゾールの養母になりたいと思っていたのだろうが、テロに遭ってからというもの街の騒音にもビクついてしまうほど精神的に参ってしまった彼女は、そんな状態でヴァンサンと一緒になっても面倒を見る相手が2人になってしまうだけだと考えて故郷に帰ってしまったのだ。断腸の思いで!

こうしたキャラクター劇の文芸性にもコクがあって、死者と生者を安易に線引きして対照化していない。生者の間にも厳しいドラマがある。ステイシーの描き方ひとつ取ってみても、「助かってよかった」ではなく、その先にある彼女の苦しみまで請け負っているのだ。

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愛し合ってるのに離れ離れになってしまうヴァンサンとステイシー。

 

と言っても、べつに湿っぽい映画ではないのよ。

前作と同じく季節は夏だし、外に出づればピーカンもピーカン。なんと言っても徒歩移動から自転車移動に変わったことが大きい。

ヴァンサンはパリ市内を駆け回るのに自転車を乱用し、どこへ行くにもすぐサドルに跨ろうとする自転車依存症のサドル伯爵である。ファーストシーンでは姉と自転車を漕ぎ散らかし、姉亡きあとはイゾールとタンデム三輪車を漕ぐ始末。ここまでいったら一輪車も漕いでくれと願わずにいられない。

ちなみに私は自転車を漕ぐことの意味をエレファントカシマシの「Baby自転車」で知った。いかんせん歩き無精なので、ヴァンサンと同じように隙あらばサドルに跨って自転車を漕ぎ出してしまうのだ。たまに人から「その距離なのに自転車で来たんスか!?」と言われることもあるが、うるせえ、ほっとけや。

 

自転車に乗ってパリというパリをスイスイ移動するシーンが気持ちよい。アース作品は移動過程もしっかり見せてくれるから信用できる。

もともと商業映画の歴史はスタジオ撮影から始まっているので移動過程はほとんど撮られてこなかったし、ロケーション撮影を浸透させたヌーヴェルヴァーグ以降も説話的経済性を重視するあまり移動シーンはジャンプカットで切られがちだが、アースは「移動」という行為を省略すべき身体的過程ではなく活写すべき精神の過渡として見せる。わかるか。

たとえば、考え事をしながらA地点からB地点まで移動し、どの道中でなんらかの結論に達したり悩みごとが解決したとして、それは「肉体の移動」であると同時に「精神の移動」でもあるのだ。本作だと、この場合の移動は単なる空間的事象を超えて、人物や物語の心理・構造にまで干渉しうる効力を持つ。ただの移動シーンがこれほど豊かな「意味」を持つわけだな。

暴論を承知であえて押し通すが、フランス映画とは移動の歴史ではなかったか。

メリエスを見よ。ルノワールを見よ。「歩きながら話す」ゴダール、「海を目指して走り出す」トリュフォー、地下鉄のザジは移動それ自体が目的化した疾走少女であり、ロベール・アンリコの登場人物も旅と称した移動を続ける。ジャック・タチも移動の申し子だ。その遺伝子を受け継いだジュネやダルデンヌ兄弟だっていつもそこらをほっつき歩いている。

ま、こじつけだがな。

こじつけようと思えば幾らでもこじつけられるんだよ、こんな話は。

なんしか、今後のアース作品では移動手段にも刮目したいところだよなー。徒歩、自転車ときて、次は自動車か。はたまたローラーシューズか。ことによると竹馬かもしれぬ。

f:id:hukadume7272:20200224042224j:plainここぞとばかりに自転車を漕ぎ散らかす二人。

 

◆エルヴィスは建物を出ちゃいない◆

私のお気に入りは、姉の友人と街でばったり出会ったヴァンサンが「オフェリアは元気?」と訊ねられ「まあ…」と曖昧な返事をしてしまい、少し考えたあとに去りゆく友人を追って背後から話しかけるシーンだ。

ここでの二人は超ロングショットにおさまっているので会話内容は聞こえないが、さしずめ「姉は死んだんだ」といった言葉で本当のことを打ち明けたのだろう。なんとなく気後れして本当のことが言えなかった、でもやっぱり伝えた方がいいよな…といった心の迷いがロングショットによって描き出された好い場面だよ。

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ヴァンサン・ラコスト。

 

だが本作屈指の名場面はヴァンサンとイゾールがテニス観戦に行くクライマックスだ。

バカスカ点を取られていくヘッポコ劣勢選手を見かねたイゾールが、なぜか涙をぬぐいながらヴァンサンに向かってこう言うのだ。

「エルヴィスは建物を出た…」

彼女は、もう挽回できないヘッポコの中に「母との時間が二度と戻ってこない現実の苛烈さ」を見たのである。

あの選手は負ける。母は死んだ。もうどうにもならない。エルヴィスは建物を出てしまった。

だがヴァンサンは「まだ分からない」と言って泣きじゃくるイゾールを勇気づける。

カメラが、試合を見守るイゾールの顔と、彼女の視点を借りて映し出されたヘッポコを切り返していると、思わぬ逆転劇が起き、劣勢だったヘッポコが得点するごとにイゾールの顔に笑みが灯ってゆく…。

久しぶりに目頭熱夫!

エルヴィスは建物を出ちゃいないってことですよ、だから。諦めるのはまだ早い。

このシーンには三重の感動がある。「エルヴィスは建物を出た」という比喩が文字通り比喩的に回収されたシナリオへの感動。無言のアップに耐えながら涙を流すイゾールへの感動。そして何よりボールを追うヘッポコ選手をイゾールが目で追い、その貌の変化をわれわれが追うという瞳の無交差的な曲線への感動である。

なるほどな、よう出来たあるわ。彼女は母の幻を追う代わりにボールを目で追った。そして悲しみを癒し、再生してゆくのである。

この「視線の運動」によって映画たりえた『アマンダと僕』は、不要なシーンの介入や人物相関図の煩雑さといった多少の欠点も抱えながら、なお傑作と呼ぶに足るだけの透徹した輝きがありました。

 

正直、この素朴な世界観にステイシー・マーティンのヒップなかわいさは少々鼻につくが、まあ商業映画の宿命と思って「かわいいー」と素直に愛でておけばよいし、何より姪を演じたイゾール・ミュルトリエが美少女でないことの圧倒的正しさが本作を美しい映画たらしめてもいる。

現代映画を観続けるモチベーションは「あの大家がまたどエラいものを撮った」という驚きと「あのしょうがない奴が珍しくいいものを撮った」という見直し、そして「久しぶりにいい新人が出てきた」という発見にある。当ブログで扱った作品で言えば、それは『運び屋』(18年)であり『アリータ:バトル・エンジェル』(19年)であり『アマンダと僕』なのだ。

すげえ並びだな。

イーストウッドとロドリゲスとミカエル・アースがこのオレを現代映画に繋ぎ止めてるというのか~。なんだこの人生?

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