シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

アイリッシュマン

彼らが映画史に間に合ったのではない。映画史の方が彼らに間に合ったのだ。

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2019年。マーティン・スコセッシ監督。ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシ。

 

トラック運転手のフランク・シーランは、マフィアのボスであるラッセル・バファリーノと知り合う。ラッセルに気に入られたフランクは殺しを請け負うようになり、全米トラック運転手組合委員長のジミー・ホッファを紹介される。やがてフランクはジミーの右腕に上り詰めるが、ジミーの権力に陰りが見え始める。(Yahoo!映画より)

 

おはようじゃいー。

自宅待機の気運が高まりつつあることの余波なのか、PV数が緩やかに上昇し続けております。断っておくけど、ただでさえ家にこもってイライラしてる時に『シネマ一刀両断』なんか読まない方がいいですよ。

基本的にウチのブログは、心にだいぶ余裕のある人が読んで「また阿呆なこと書いてるなあコイツ。ゆるす」という具合に筆者を許していくスタイルで読むべき駄文・誤字・暴言・無知・挑発・ギャグのオンパレードなので、ピリピリしてる人が読むと余計にピリピリする確率が高い、ということが証明されています。証明したのは私です。イライラしてるときに自分で自分の記事を読み返して「アホかコレなんじゃこれ!」と何度コンピューターをパンチしそうになったことでしょう。

ま、そんなわけでネトフリ映画特集もいよいよ最終回。有終の美を飾ってくれるのは『アイリッシュマン』です。

やっと骨のある映画きたー。

何せ、これまでローラがダーンする映画マー公が「まああああ」って言う映画ウィルがギューンする映画リュが「ヤッ?」って言う映画だったからね。何を見てきたんだ俺は一体。ようやく映画らしい映画がきましたよ! そんなわけで、ちょっと暑苦しい文章書いちゃった。

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◆伝説集結、奇跡のリユニオン◆

すっかり老体化したロバート・デ・ニーロアル・パチーノの二度目の共演作『ボーダー』(08年)に絶望したのはかれこれ12年も前だ。

この頃「デ・ニーロ・アプローチ」と呼ばれる徹底した役作りをとうに放棄していたデ・ニーロはますます手癖だけの芝居でくだらないB級映画の犯罪的蔓延に貢献していたし、出演オファーを片っ端から断ることで知られるアルパチもゴミ同然のVシネマのオファーを安請け合いしてニコラス・ケイジじみた俳優になっていた。

2010年代に入ると「大家ならではの手抜き」に拍車が掛かり、デ・ニーロは『マラヴィータ』(13年)で、アルパチは『ミッドナイト・ガイズ』(12年)で、それぞれの代表作であるマフィア映画のパロディに興じた。この2作品はそれなりにおもしろい映画ではあるが、もはやこの二人でさえ過去の栄光にすがらないとやっていけない時代なのかと思うと暗澹たる心持ちにもなった。

いかに伝説的なスターとはいえ、歳を食えば食うだけ脇に追いやられるし、脇に追いやられれば追いやられるほど情熱も失われていく。もうデニーロとアルパチは死んだも同然だ。ショックだ。膝から崩れ落ちそう。

…と、そんなことを思っていた過去の自分にこう言ってやりたい。

「生きとんで」

 

膨れ上がる製作費に怖気づいて配給権を手放したパラマウントの代わりにNetflixが出資したことで真性ネトフリ映画と化した『アイリッシュマン』は、マーティン・スコセッシの鶴の一声で心肺蘇生したロバート・デ・ニーロ(76歳)とアル・パチーノ(79歳)が三度目の共演を果たしただけでなく、『グッドフェローズ』(90年)ジョー・ペシ『ミーン・ストリート』(73年)ハーヴェイ・カイテルなど往年のスコセッシ・ファミリーまで再集結した。

なんだこれ、水滸伝か?

そう、これはたった5人だけの水滸伝なのだ(違う)。マフィア映画という名の梁山泊に集結した男たちが(いま無理やりこじつけてる)“アミューズメントパーク化”した映画を取り巻く環境の中で今一度「映画」を問い直す!(これはホント)

ごく控えめに言って現代映画史に記憶さるべきリユニオンだろう。

f:id:hukadume7272:20200321032722j:plainかああああああああっこよすぎるぅぅぅぅうううう。

 

ただし「映画」を問い直す場がNetflixであるという皮肉には苦笑いを浮かべるのみだ!

劇場の拘束力から解放され自宅で気軽に楽しめる…という理由から210分まで膨れ上がったストーリー、それにILMによる特殊効果で主要キャストを若返らせたデジタル技術は、奇しくも去年、スコセッシが「マーベル作品は映画じゃない」と啖呵を切ったことに発した映画論争をも照射してもいる。

マーベル映画論争に関しては業界人も一般人もアホなコメントしかしておらず、唯一『ドクター・ストレンジ』(16年)のベネディクト・カンバーバッチだけがスコセッシの発言の本質が映画のフランチャイズ化と劇場のブッキングシステムを穿ったものだと理解してその旨に同意する態度を示していたが、いずれにせよこんな下らないことで騒ぐ人間しかいない現代で「映画」の意味を問い直したところで大した解答など得られないのではないかという気もする。

何が言いたいかというと、私は“巨匠”マーティン・スコセッシに対してもマーベル映画に対しても同程度に冷めてる人間だし、むしろスコセッシに関しては人間としては好きだが映画作家としては中の下といって散々ぶった斬ってもいて、またデニーロとアルパチのビッグファンではありながらも彼らの老いに目を瞑ってむやみやたらに称揚するほど幸福な映画ファンでもないが、それにつけても『アイリッシュマン』は擁護に足る作品…いや、いっそ絶賛してしまってよいのではないかとさえ思っているぐらいにはバカな人間です、ということである。

 

とりあえず『ゴッドファーザー』(72年)『スカーフェイス』(83年)『グッドフェローズ』が好きな人間は「でも3時間半は長すぎるよなぁ…」なんてザリガニみたいな後ろ向き精神は捨てて、もっと『アイリッシュマン』に興味を示せ! 殴るぞ!

f:id:hukadume7272:20200321031314j:plainロバート・デ・ニーロとアル・パチーノが“今さら”スコセッシ映画で共演することの歴史的幸福。

 

◆萌え映画としての『アイリッシュマン』◆

『グッドフェローズ』『カジノ』(95年)がそうであったように、本作もまた実話が基になっている。

簡単に筋を紹介すると、マフィアに冷凍牛肉を横流ししたことで起訴されたトラック運転手のフランク・シーランという男が、自分を無罪にしてくれた弁護士の従兄弟であるラッセル・バファリーノというギャングと仲良くなり、ラッセルの下でヒットマンとしてちょこちょこと暗躍。やがてラッセルから全米トラック運転手組合の委員長ジミー・ホッファを紹介されたフランクは人生最良の知己を得、ホッファの下で更にちょこちょこと裏社会を暗躍するが、やがてマフィアとの関係をこじらせるホッファを問題視したラッセルがフランクにホッファ暗殺を命じる…というものだ。

 

ロバート・デ・ニーロが演じたフランク・シーランは裏社会の大物ラッセル・ブファリーノから“ペンキ塗り”を任され、全米トラック運転手組合の支部長にまで上り詰めた人物だ。本作はフランクの告白を基に出版されたノンフィクション作品『I Heard You Paint Houses(訳:お前は家にペンキを塗るそうだな)』を原作とする(ペンキとは血の隠語。つまり“ペンキ塗り”とは殺しを請け負うという意味だ)。

アル・パチーノ演じるジミー・ホッファは、アメリカ最大の労働組合のトップにして次期大統領とも噂された人気者だが、裏ではマフィアと繋がり、ニクソンに献金していたことからケネディ兄弟にマークされていた人物である。1975年に謎の失踪を遂げ、後にホッファの右腕だったフランクが「おらが殺っただ」と告白したが遺体は今も見つかっていない。

そんなフランクとホッファを繋げたラッセル・バファリーノを『ホーム・アローン』(90年)のチビ泥棒でお馴染みのジョー・ペシが演じる。

※以下、俳優名で表記。

 

映画が始まると、老人ホームの通路をゆらゆらと進むステディカムが、ロビーでボケッとしている車椅子の老人を捉える。このオープニングは『グッドフェローズ』のコパカバーナ・クラブの長回しを連想させるが、場の賑わいもカメラの迫力も退行していて元気がない。なにしろ今は2000年代初頭、時系列としては物語の結末部にあたる部分だからだ。

老人ホームでただ死を待つだけのデニーロはおもむろにカメラに向かって口を開き、マフィアと交流を持った1955年から、最高のボスであり無二の親友でもあったアルパチを殺害した1975年までの20年間の出来事を悔いるでも誇るでもなく語り始める。

だが映画は、50年代、70年代、ゼロ年代という3つの時間軸を行ったり来たりするので、急に時や場所が飛んだりキャストが年老いたり若返ったりする。先日、これと同じようなことをした『スウィート ヒアアフター』(97年)にぶち切れたばかりなのだが『アイリッシュマン』にはそのような映画が招きがちな時制的混乱はない。むしろ個々の時間軸のエピソードが有機的に絡み合い、巧みなマッチカットによるイメージの連鎖が巨大な物語の図像を描きだしている。

3時間半もの長尺でありながら、時制を弄った巧みなテリングによって「2時間半の病」という現代アメリカ映画の病理を克服したスコセッシを『救命士』(99年)ぶりに讃えたいと思いまーす。

f:id:hukadume7272:20200321034321j:plainデニーロ三種盛り。

 

映画は、ピッグス湾事件、キューバ危機、ケネディ暗殺、コソボ紛争などの世界情勢を掬いながら、戦後マフィア組織の栄枯盛衰をアメリカ近代史の文脈のなかに太筆で描き込んでいく。

ジョー・ペシから命じられるままに“ペンキ塗り”をこなしていくデニーロが裏社会で暗躍…なんて聞くといかにも物騒な内容だが、実際のところは義理と人情の板挟みになったデニーロおじさんが困り顔で右往左往するという激烈にチャーミングな映画なので安心されたい。

よく気が利いて物静かなデニーロは、暗殺業をこなす傍ら、恩人ペシと友人アルパチの仲を取り持ちつつ、家では自分を嫌う娘とのコミュニケーションに苦心惨憺。たしかに、娘を突き飛ばした店員を路上に引きずり出して指を折ったり、組織の邪魔者を至近距離からヘッドショットするなど凄まじい暴力性を発揮することもあるが、ずんぐりむっくりしたロバート・デ・ニーロ(75歳)のまったくキレのない動きや苦虫を噛み潰したような顔も相俟って妙なオモシロが漂っている。まるでテディベアの家長みたいな風体のデニーロが終始かわいらしいのだ。

ペシと仲のいいフィラデルフィア・ファミリーの大ボス、ハーヴェイ・カイテルが出資している洗濯工場をそうと知らずに爆破しようとしてカイテル兄貴からバチバチに叱られる場面の平謝りっぷりなどマフィア映画とは思えないぐらい微笑ましい。

f:id:hukadume7272:20200321030248j:plainノリでマフィアと関わった男。娘に嫌われ、寂しい思いをしている。

 

可愛らしいといえば直情型説教俳優として知られるアル・パチーノも、例によって激怒→説教→激怒→説教を繰り返すパワフルジジイをやたらキューティーに爆演していた。

マフィアと持ちつ持たれつのブラックコネクションを結んでいたアルパチは、マフィア組織が利権を見込んで支援していたケネディ兄弟を「洟垂れのガキ」だの「ファッキンコカローチ」だのと言って蛇蝎のごとく嫌い、旧友のペシから最後通牒を受けてもケネディ批判をやめなかったせいで結局暗殺されてしまったわけだが、この困ったちゃんぶりがどうも憎めない。強情ゆえに敵ばかり作ってしまうタチなんだよな。わかる、わかる。

最も印象的なのは、ライバル組合員スティーヴン・グレアムとの「仲直りの会」でグレアム側から謝罪を求められて「おまえが先に謝れ」の応酬でガチギレするシーンだ。精神年齢が中学生なのである。

また、彼が演じたジミー・ホッファは無類のアイスクリーム好きとして知られているので、劇中ではアルパチがぶち切れながらもチョコレートパフェをうまうま食うみたいな不思議な芝居がお楽しみ頂ける。

怒りと幸せを同時に噛みしめていく二重感情演技の精髄を見た(棒読み)

f:id:hukadume7272:20200321030221j:plain怒りながらパフェを食う男。デニーロだけが心の友。

 

ジョー・ペシはどうか。やはり可愛らしいんである。

何度注意しても生活態度を改めないアルパチを断腸の思いでデニーロに粛清させたペシだが、とはいえアルパチとは竹馬の友で、最後まで彼を救おうと手を尽くした義理深い男である。

そう考えるとこの映画に悪人なんて一人もいないということが言えると思います(まぁ、あちこちで頭バンバン撃たれて大勢死ぬのだが)

ペシは何といっても『SAW ソウ』に出てくるビリー人形みたいで可愛い。とにかくこの映画はペシ萌えがすごい。

彼が90歳を迎えた1994年のシーンでは、デニーロから硬ったい硬いパンを勧められたが「食べられない。歯がない…」と寂しそうに答え、ワインに浸せばいいのさと言って実演してみせたデニーロに倣って赤ワインでべちゃべちゃにしたパンを食し「うまい」と感想した。よかった。

※そのあと死んだ。

f:id:hukadume7272:20200321030207j:plain楽しそうに男梅ごっこに興じる男。「どう、できてる? CMくる?」

 

何しろ、スコセッシ×デニーロ×ペシのマフィア映画トリオと今まで一度も交わらなかったアル・パチーノが遂に合流したことの身震いすら禁じ得ない高揚が単なる同窓会を超えた祝祭空間へとわれわれを誘ってくれる210分はひとまずマーティン・スコセッシの総決算だと口を滑らせるだけの活力に満ちている。

映画としての欠点など幾らでもあるが、私は気に入った映画をトコトンまで贔屓する人間だし、そうした不誠実な態度の上にこそ『シネマ一刀両断』という自他ともに認めるくそブログは成り立っているので、本作の欠点はひとつ残さず隠蔽させて頂く。証拠の銃をヘンなフォームでぽいぽい河に投げ捨てたデニーロのようにな。

ちなみにアルパチの養子役をマット・デイモンが演じてるぞ!

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ジェシー・プレモンスです。

 

◆大抵のことは車があれば事足りる◆

これは欠点ではなく“弱点”なのだが、『アイリッシュマン』は主要キャストの平均年齢が76歳なので動態が出せないという問題をいかにクリアするかという一点に腐心していた。つまり画に動きがないという問題だ。

1950年代のシーケンスでも別の役者を使わず、本人が(CGで顔を若返らせて)演じているため、たとえばデニーロが娘の敵討ちをする場面なども、一応「アクションシーン」と呼べるものの実際問題としてデニーロの動きはフィットネスレベルだ。Wiiスポーツだ。

もっとも、アルパチだけがゼンマイ仕掛けのカブトムシみたいにバタバタ暴れていたのは流石の一言だが、ペシやカイテルは大聖堂に取り付けられたガーゴイルのように動かない(たまに「死んでるのかな?」と思うぐらい動かない)。

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ゼンマイ仕掛けのカブトムシ。「すーこーしー背ーのーたーかーいー」

 

そこで、映画史家としての顔も持つスコセッシが導き出した方策がとにかく車を走らせることで画面に動態をつけるというものだ。

ペキンパーやイーストウッドほどではないにせよ、少なくともフランシス・フォード・コッポラやリドリー・スコットよりは車の走らせ方を心得ているスコセッシは、だから本作の重要ポイントとなる1975年のシーケンスにペシとデニーロが互いの妻を後部座席に乗せて従兄弟の娘の結婚式に向かうロードトリップを選んだ。それに言うまでもないが、この物語は「トラック」運転手と「トラック」運転手組合・委員長のラブストーリーなのだ。

 

そんなわけで、大抵のことは車があれば事足りる。

そもそもからして、トラックが故障して立ち往生していたデニーロを通りがかりのペシが助けてやったことから二人の蜜月は始まっているのだし、デニーロが拳銃を隠す場所も車のグローブボックス、それにアルパチの下で最初に請け負った仕事が船員組合のタクシー数十台を海に突き落とすことだ。

また、後部座席から自分の部下を絞め殺したルイス・キャンセルミは、映画後半で車に同乗してきたデニーロを後部座席に乗せまいとしたものの結局は自分が助手席に座るはめになり「後ろから殺されるのではないか」という強迫観念に駆られることになる。車を使ったサスペンスとしては出色の出来栄えだ。

その後、デニーロを乗せた車がグレアムと話し合いをするつもりでいるアルパチを拾う場面でも、後部座席に座る二人の信頼関係をワンショットの中に証明しながら、アルパチのシャツ、車のボディ、目的地の民家、それに何も知らないルイスのシャツも煤けた赤色で統一されており、ただ一人、デニーロだけが青いシャツと青い瞳謀反の前兆を画面に刻みつけている。

果たして、グレアムがいると思い込んだアルパチが無人の民家に入ったところを真後ろから後頭部めがけて2発銃弾を撃ち込んだデニーロは、床に崩れ落ちた彼のシャツと同じ色の血飛沫で壁を染め“ペンキ塗り”を完了するのだった。

いかな組織からの命令とはいえ親友のアルパチを殺害し、あまつさえその秘密を家族に気取られてしまったことで天涯孤独の身となったデニーロは、仲間が次々と死んでいくなか不幸にも最後まで生き残ってしまい、現在時制では車椅子に頼り、ただ死を待つだけの禿げ散らかした老人と化してしまう。「車椅子」と名のついた一人乗りの車こそが彼の孤独を表しているのは言うまでもない。

f:id:hukadume7272:20200321030623j:plain赤と青の色彩戦略は『グッドフェローズ』でも使われていた。

 

あらゆるキャラクター間の関係性を流麗に語りきった「窓越しの視線」や「少し開けたドア」といった確かな演出は視覚効果だらけの騒がしい大作映画よりも余程スペクタキュラーだが、わけても特筆大書に値するのはやはり撮影の巧さである。

『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(13年)『沈黙 -サイレンス-』(16年)に続いて3度目の参加となる撮影監督ロドリゴ・プリエト畢生の仕事とも言える本作は、まずコダックの35ミリフィルムで撮影されており、各時系列のシーンに合わせてネガ濃度を1段ずつ増感することで1950~2000年代アメリカのその時々の空気や表情を余すところなく真空パックしている。まったく、なんて臨場感なんだよ(また、時制が頻繁に入れ替わっても混乱しないのはこうした理由にも拠る)。

さらに面白いのは、時代が進むごとに映像が褪色していき、禿げあがったデニーロin老人ホームの時間軸に至っては「大罪の黒」と「告解の白色光」のハイコントラストを形成していることだ。彩色設計だけでキリスト教への帰依というサブテクストをいとも容易く表現してのけたプリエトは、ことによるとこの映画の本当の主役なのかもしれない。

f:id:hukadume7272:20200321035329j:plain景色を眺めてるだけでも楽しいのだぞ!

 

まだまだ書き残したことはあるが、これ以上続けてもこの記事自体が『アイリッシュマン』みたいなボリュームになるからなぁ。スコセッシ化しないうちに締めねばならないが、最後に付け加えることがあるとすれば、マフィア映画にしては珍しく主要人物が3人しかいないということだ。3時間半もあるのに主要人物がたった3人ぽっちだぞ。

ジ・アルフィーかよ。

そう、彼らはジ・アルフィーなのだ(違う)。信頼と裏切りという名のロックンロールを鳴らす男たちが(いま無理やりこじつけてる)パフェを食ったりペンキを塗ったりしながら今一度「マフィア」をアメリカ近代史の中に問い直す!(これはホント)

ちなみに、劇中では死なないザコキャラたちは初登場時に「のちの死亡日時と死因」がスーパーインポーズされるという無情なシステムによってスコセッシに一掃される。汚れた世界に勝者などいないのだ。

 

『アイリッシュマン』を観た以上は、スコセッシと主要キャスト3人の座談会を収めた23分の短編ドキュメンタリー『監督・出演陣が語るアイリッシュマン』も併せて鑑賞するのがこの世界の掟だ(Netflixに転がっている)。

スコセッシはまるでアイアム発言権と言わんばかりに人の話を遮って口角泡を飛ばし、それに呼応するアルパチも初のスコセッシ作品参加がよほど嬉しかったのか普段よりも饒舌。二人のマシンガントークにうまく相槌を打ちながら要点だけ整理していくペシは劇中の役そのままの橋渡し的存在だし、デニーロはやはり一歩引いた所から「ヤァ、ヤァ」などと呟いてへらへらしていた。

プロ同士による映画論というより老人ホームの閑談といったユルい言論空間の中で和気あいあいと進むダベンジャーズ達の…恐らくは最初で最後の宴。4人が元気なうちにこの映画が作られた僥倖に、人は思わず「間に合った。映画史に間に合った!」と呟きそうになるが、さにあらず。

彼らが映画史に間に合ったのではなく映画史の方が彼らに間に合ったのだ。

最後の最後によくわからないことを言ってしまった。

f:id:hukadume7272:20200321035639j:plain最初はハーヴェイ・カイテルもいたが、なぜか途中退席してた。カイテル帰ってる!

 

Netflixオリジナル映画『アイリッシュマン』