そして我々は“予感への恐れ”を植え付けられる。
2017年。ファティ・アキン監督。ダイアン・クルーガー、デニス・モシットー、ヌーマン・アジャル。
ドイツ、ハンブルグ。トルコ移民のヌーリと結婚したカティヤは幸せな家庭を築いていたが、ある日、白昼に起こった爆発事件に巻き込まれ、ヌーリと息子のロッコが犠牲になってしまう。警察は当初、トルコ人同士の抗争を疑っていたが、やがて人種差別主義者のドイツ人によるテロであることが判明。愛する家族を奪われたカティヤは、憎しみと絶望を抱えてさまようが…。(映画.comより)
愚ッ怒喪ー忍、みんな。
そりゃあ、当ブログに初めてコメントを寄せて頂いた方に「アリス」という言葉を使うことに一抹の後ろめたさはあるよね。
なんとなれば、この言葉が「ありがとうございます」をよく誤字することから生み出された略語だということはヘヴィ読者しか知らないからである。
思えば当ブログにはシネ刀語ともいえる勝手放題の放埓ワードが結構あって、たまに「みんな迷惑してないかなぁ?」と申し訳なさを感じる瞬間がある。「死に時間」とか「ハリウッド・バビロン」とか。あと「筋肉映画」ね(本来そんなカテゴリー無いからね)。
しかしそこは腐ってもふかづめ! 語義を説明せずとも何となーく意味が伝わるネーミングセンスの塊なのであった。映画評自体もそのように自負している。たとえ映画用語を知らなくても雰囲気で読み流せるような巧みな書き方! 「目配せ」や「肌触り」といった比喩表現の繊細な使用者!
PS
最近やたら目につく「感謝でしかない」という物言い、きらいです。バカみたいだ。本来「ある」ものを「ない」と表現することでしか「ある」と言えないのか?
そんなわけで本日は『女は二度決断する』です。近ごろ糞ダニみたいなド低俗レビューが続いてるので、久しぶりに「これはごく一部の人にしか読まれないだろうなぁ」という評を書いてみてン。
◆おまえは二度決断する◆
刑務所から出所したばかりのクルド系移民と美しい花嫁が仲睦まじく口づけを交わす結婚式のホームビデオが終わったあと「1.家族」という章題が暗転した画面に浮かび、信号待ちをしている幼い息子のアップショットに繋がる。カメラが少しティルトダウンすると息子の手をしっかり握ったもう一人の手、そしてダイアン・クルーガーの顔を捉えるティルトアップ…という具合に画面は流れていき、信号を無視した車から息子を守ったダイアンが「くそ野郎」と怒鳴りつけると息子も真似して「くそ野郎」と吼え、じゃれ合いながら横断歩道を渡った親子は夫が務める旅行代理店へと向かい、不意の訪問に驚いた夫は二人の頬にキスをして軽いジョークを口にする。お世辞にも広いとはいえない店内だがカメラは多少無理なフレーミングで家族のスリーショットをおさめていた。
このファーストシーンが見事なのは、「1.家族」という章題が三者の関係を説明しているのではなく、三者の関係が「1.家族」という章題を説明しているからだ。
結婚して子を授かり家庭を築くまでの歳月をアヴァンタイトルからファーストショットに切り替わる編集点の中に描きだし、横断歩道から旅行代理店までの短い距離を歩く少ないショットの中に「幸福な現在」を示唆した監督ファティ・アキンは、こちらが「おっほーん」と感心する暇も与えず、一層緊密なフィルムの組織によって観る者の瞳をスクリーンに打ち付ける。
女友達と会う約束をしていたダイアンは夫に息子を預けて店を出るが、よほど鈍感な観客でもなければ窓越しから母を見送る息子の視線にこの家族はもう会えないのだと予感する。その予感に拍車をかけるのが、ダイアンが店の前に自転車を止めた女とすれ違い「カギは? 盗まれるわよ」と話しかけた瞬間である。「すぐ戻るからいいの」と返事して立ち去った女の相貌にはこの女は必ず後のシーンで出てくると確信させるに足る不穏さが張り付いていたのである。
果たして、ダイアンが女友達と公衆浴場に行って完成間近のサムライのタトゥーを見せびらかしてるあいだに旅行代理店が何者かに爆破される。爆発の瞬間は見せず、ダイアンが店に向かうとすでに通り一帯が封鎖されており警察車両や救急車のパトライトが夜雨にけぶるハンブルクを禍々しく彩っていた…という見事な演出に始まる本作。既におもしろい。
息子の顔がなんとも味わい深い。
爆弾テロで家族を失った女が絶望の底で涙しながらも法廷で闘う本作は、第70回カンヌ国際映画祭でパルム・ドールこそ逃したもののダイアン・クルーガーの名をとびきり高めた。
ドイツに生まれモデルとして活躍したあと『トロイ』(04年)でハリウッド進出を果たしたダイアン・クルーガー。爾来『ナショナル・トレジャー』(04年)や『イングロリアス・バスターズ』(09年)で国際的な女優となっていくが、多くのモデル上がりの女優がそうであるように添え物同然のヒロインを演じることが多く、これといって強い印象を残してこなかった。実際、アメリカとフランスの合作映画によく出ているダイアン・クルーガーは生え抜きのドイツ女優とは言い難く、多くの出演作ではアメリカ的な―あるいはフランス的な風景の中に甘んじて個性を埋没させてきた常にアウェーに置かれた不遇の女優である。
そんな彼女が初めて純ドイツ映画で主演を飾った凱旋作『女は二度決断する』での芝居は世界中の非クルーガリストを驚嘆させた。かくいう私もその一人で「こんなに上手い女優だっけ」といった感心すら超えて「これ本当にダイアン・クルーガー? ていうかダイアン・クルーガーって誰?」と謎のゲシュタルト崩壊を起こすほどであった。何しろダイアン・クルーガーの貌を106分も見続けること自体が人類にとって初めての体験なのだ。
本作を観始めた者はファーストシーンにおける雪崩れるようなショットの美技に心を掴まれ「これは真剣に観るべきだ」と決断し、エンドロールを迎える頃にはダイアン・クルーガーに狂ーガーするあまりクルーガリストとしての道を歩み始めることを決断するだろう。
おまえは二度決断する。
画像左は『トロイ』、右は『イングロリアス・バスターズ』のダイアン・クルーガー。
◆映画の表情が女の感情を剥き出しにする◆
家族を殺されたダイアンは発狂と慟哭に悶え、遺灰をほしいと言ってきた夫の両親に「二度も家族を失いたくない」と言って追い返し、震える手で煙草を吸いながら憔悴する。彼女の身体は生きることを拒み、いつしか生理もこなくなった。唯一心配してくれる女友達は産まれたてのベイベーを抱えて毎日家に来てくれたが、息子を失ったばかりのダイアンにはベイベーを愛おしむ女友達の幸せそうな顔が応えた。
映画は無言のアップを通して、家族を失った絶望、一人きりになった戸惑い、犯人への憎悪、友達への嫉妬、それに人生への疲れや諦めを点描のように画面に馴染ませ、ステディカムの微細な揺れでその時々のダイアンの心情を静かに代弁する。
とうの昔に断っていたドラッグに手を出してしまうシーンで明らかになるのは、かつて夫が麻薬売人をしていたという暗い過去。これによって警察の初動捜査は今度の爆破事件が「移民同士の抗争」に過ぎないという予断のもとに、結婚後改心した夫へのイメージは怠慢としか言いようのない捜査線の中で徐々に歪曲されていく。
その後、バスタブで手首をすっぱ切って自殺を図った直後に容疑者が捕まったという留守電を聞いたダイアンは血だらけで浴室から這いずり出、燃えるような瞳で何度も留守電もリピートするのだった。
このシーケンスには物語的進展もなければ映像的美技もなく、もっぱらダイアン・クルーガーの息もつかせぬ芝居がドラマの糸を引っ張っていた。
ここで画面が暗転して次章へ移る。「2.正義」だ。
捕まったのはネオナチの若い夫婦。事件当日に自転車を止めてダイアンとすれ違った女が実行犯だった。弁護士の友人デニス・モシットーを頼ったダイアンは被害者遺族として裁判に立ち会ったが、被告側の弁護士は夫の犯罪歴やダイアンの薬物使用歴をあげつらい、彼女の証言には信憑性がないと主張する。
このシーケンスは法廷劇として手堅くまとまっている。遺体の損壊状況を詳しく説明されてパニックを起こしそうになったダイアンを献身的にサポートするデニスとの連帯や、原告側の証人になってくれた容疑者の父との気まずい関係を物語の余白に描き込みながら、たとえ仕事とはいえダイアンの過去を蒸し返して精神病と決めつける弁護側の非倫理的な言説とそれに立ち向かうデニスの舌戦をスリリングに切り返していく(被告側弁護士を演じたヨハネス・クリシュのすばらしく邪悪な相貌がいい)。
だが「2.正義」という章題を説明したシンメトリーな法廷の構図と蛍光灯の昼白色が公平な判決を下してくれるはずだという我々の期待は、裁判長が口にした「証拠不十分」という絶望的な響きによって打ち砕かれた。
この章はネオナチ夫婦に無罪が言い渡されたあと、もはや怒りも嘆きもしないダイアンが無表情のままサムライのタトゥーを完成させに行くシーンで終わるが、一見すると無表情が隠したかに思える彼女の感情は「映画の表情」によって露骨なまでに剥き出されている。裁判中にダイアンとデニスが通っていたバーでは適度にポップなクラウトロックが鳴っていたが、挿入歌の過激性は少しずつ増してゆき、このタトゥー・スタジオでのシーンに至って遂にその過激性はデスメタルという形で彼女の心境を代弁する。
もうひとつの「映画の表情」はタトゥーが模ったサムライに他ならないが、ここに込められた彼女の思いはラストシーンで明らかになる。
シンメトリーの構図と蛍光灯の白昼色。
◆ピントを送らない長回し◆
最終章の「3.海」では、無罪放免となったネオナチ夫婦がギリシャの海辺で休暇を満喫していることを知ったダイアンが火の車になってギリシャに向かい、裁判で夫婦のアリバイを捏造したネオナチ仲間のヤニス・エコノミデスが経営しているホテルに張り込んで夫婦の居場所を突き止める…という探偵映画まがいの暴挙が描かれる。
車の中からホテルを見張るダイアンをドアガラス越しに捉えたカメラがゆっくりと車道にパンして再びドアガラスを捉えると、ダイアンは先程まで被っていたニット帽を外しており、背景の木々も緑を増している。つまり季節が変わるまで毎日ホテルに張り込んでいたことが同一ショットの中で語られている。
その後、接触したホテルの従業員がネオナチ夫婦とグルだったためにヤニスから追われた彼女はどうにか追跡を振り切るが、そう広くは描かれないギリシャの港町をうろつくさまは不穏な緊張感にみなぎっていた。タバコ屋から出た直後に刺されるのではないか、車のエンジンをかけた途端に爆発するのではないかという「予感」だ。いみじくもファーストシーンで母を窓越しに見送った息子の視線は、われわれの脳に予感への恐れを植え付けていたのである。こんなところで効いてくるとは。
毎日ホテルに張り込むダイアン。
裁判資料の爆弾製造に関する書類に目を通したダイアンはホームセンターで材料を買い、家族を殺した爆弾とまったく同じものを作ってネオナチ夫婦がキャンピングカーで寝泊まりしている海辺に向かう。夫婦が午後のジョギングに出かけるのを草陰から見送ったあとにキャンピングカーの下に爆弾を積んだバックパックを置いたダイアンは、しばらく風の音を聞きながら穏やかな時を過ごすうちに夫婦爆殺計画を思い止まり、爆弾を回収して宿泊先に帰った。これが一度目の決断。
宿泊先のベンチに座って茫然としていたダイアンを「復讐など忘れて前に進むべきだ」と諭すように長らく止まっていた生理が再び始まり、何度も電話をかけていたデニスはようやく連絡がついた彼女に上告を勧めたが、家族との思い出を反芻しながらブルーアワーに包まれた海辺を漫ろ歩くダイアンは静かに二度目の決断を下す。
いつものように午後のジョギングから帰ってきたネオナチ女が不意になにかの気配を察して辺りを警戒するさまを緩慢なスピンアラウンド(被写体を軸にカメラが360°旋回する撮影法)で捉えたあとに「気のせいか…」と思って夫の待つキャンピングカーの中に入っていくと、先程まで女にピントを合わせていた定点ステディカムの遥か彼方の雑木林からボヤけた人影が画面手前に向かって歩いてくる。ダイアンだ。
通常であればキャンピングカーに向かうダイアンの背中をナメながらフォローしたり、もしくは真横からのトラッキングショット、そうでなくともせめてピントを手前から奥に送るのが常套手段だが、そのいずれも放棄したファティ・アキンは、ピンボケの中に「正義」と「復讐」があやふやになったダイアンを捉え続ける。ピンボケしてるのは彼女の心ってか。うまいねえ。
そして先程の女と同じ位置に立ったことでくっきりとピントが合ったダイアンの相貌に人は彼女の決断がもう揺らぎえないのだと諦め、このあと訪れるであろう凄惨なラストシーンに立ち会うことを決断する。
バックパックを前に背負ってキャンピングカーの中に踏み込んだ彼女は、夫婦を道連れに自爆することでようやく憎しみを断ち切り、家族を殺された人生を「復讐など忘れて前に進むべき」などと能天気に考えて歩み続ける苦痛と屈辱から解放されたのだ。
サムライの悲しき最期。
本作は2000年~2007年の間にドイツ8都市でネオナチ組織がおこなったトルコ系移民に対する連続テロ事件に着想を得ており、当初警察はトルコ人同士の抗争と早合点したために犯人逮捕が大幅に遅れ「ドイツ警察の戦後最大の失態」とまで言われた。また、中東難民を大量に受け入れた2015年以降はドイツ東部を中心に多くの移民が極右ネオナチ組織に暴行・殺害されている。
憎しみの連鎖を肯定した『女は二度決断する』の結末に苦言を呈する者もいるが、監督のファティ・アキンは上記の連続テロ事件で友達の家族を殺されているので否が応でもこのような“人道的”な結末にせざるを得なかったのだろう。おもしろいことに、この結末に苦言を呈す者はいても本作が物議を醸すことはなく、多くのメディアやレビューサイトはダイアン・クルーガー演じるヒロインの二度目の決断を「よくやった」もしくは「無理からぬこと」と首肯している。
このような感覚に陥った映画は久しぶりだが、これはいわばアレだ、「観終わった後にしばらく画面の前から動けない映画」というやつだ。
かく言う私もダイアンの決断を受け入れた人間の一人だし、これはネオナチによる移民虐殺などという政治的な作品である前に一個人が恨みを晴らすまでのビジランテ映画だと思っている。
社会学的に見れば「テロに対してテロで報いる」という行為は負のスパイラルなので止めましょうという事になるが、果たしてどれだけの被害者遺族が「社会学的に」自らの悲憤を抑えられるだろう。私は復讐肯定論者だが、一発やられた相手に対して一発やり返すことは復讐ではなく等価交換だと考えているので、爆弾で二人殺されたダイアンが犯人二人を爆殺したことはむしろ良心的な仕打ちだったとさえ思っている。もし彼女がネオナチ仲間のヤニスまで殺していた場合、これは立派な「復讐」だが、法が見逃した当事者だけに報復するぶんには「等価交換」である。自爆行為でダイアン自身まで死んでしまっているので、そこを勘定すれば等価どころか割を食っているぐらいだ。
「復讐は何も生まない」などというお行儀のいいクリシェは、しょせん復讐心とは無縁の部外者が口にする一般論である。そしてこの一般論は恐らく正しい。復讐などしないに越したことはないのだ。オーケー、なら私は正しくなくていい。
『ジョジョの奇妙な冒険』の第6部に出てくるエルメェスというキャラクターの名言を引用して、これ以上感情的にならないうちに評を締め括りたいと思う。すばらしい映画でした。傑作でしかない。
「復讐なんかをしても失った姉が戻るわけではないと知ったフウなことを言う者もいるだろう。許すことが大切なんだと言う者もいる。
だが、自分の肉親をドブに捨てられて、そのことを無理矢理忘れて生活するなんて人生はあたしにはまっぴらごめんだし…あたしはその覚悟をして来た!
『復讐』とは自分の運命への決着をつけるためにあるッ!」
エルメェス・コステロ。スタンド名は「キッス」。シールを張り付けた物体を複製するッ!
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