シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

野菊の如き君なりき

その卵みたいな白フチやめてええええ。短歌もやめてええええ(普通に画面見して)。

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1955年。木下惠介監督。田中晋二、有田紀子、笠智衆、杉村春子。

 

松竹全盛時代をを支えた名匠のひとりである木下惠介監督が、伊藤左千夫の小説「野菊の墓」を斬新な演出で映画化した悲恋物語。美しい信州の自然を背景に、お互いの身分の違いが原因でむなしく散った少年と年上の少女との清らかな恋を描く。 (Amazonより)

 

はいはーい。最後に更新した4日前の前書きで「明日からはしばらくズル休みします」と宣言したのであと2週間ぐらいサボるつもりでいたけど、よく考えたらズル休みする道理なんてなかったということに気付いたので急遽再開。『シネ刀』にエンジンかけて、ブルン!

そもそも、なぜズル休みなんてしようと思ったのかというと『めくらのお市』シリーズを頑張って4日連続更新したからである。「4日も連続更新したのだから当分は休んでいいはずだ。僕にはその権利があるんだ」と思っていたのだが、仮に今日更新をサボると5日連続でズル休みすることになってしまうのよね。わかるか。

つまり、せっかく4日連続更新という「いいこと」をしたのに、そのあと5日連続でサボってしまうと「いいことポイント」を全て失った上に「悪いことポイント」が1つ加算されてしまうような気がしたのである。わかるか。ブロガーにとって更新をサボることは見えない借金をこさえるのと同じなのである!

うん。この話はもうええわ。

 そんなわけで本日は『野菊の如き君なりき』です。

「え~~、続・昭和キネマ特集、まだ続くのかよ~~」とお思いの方もいらっしゃるだろうが、僕がいつ「終わり」と言いましたか? 終わりと言うまで続くんだよボゲ!

f:id:hukadume7272:20200525085324j:plain※読者に「ボゲ」と言ったことを深くお詫びします。

 

◆木下惠介の珍奇演出◆

歌人・伊藤左千夫が手掛けた『野菊の墓』(1906年)は夏目漱石も絶賛した悲恋小説のマスターピースで、1977年には同名タイトルで山口百恵が、1981年には松田聖子主演で何度も映像化・舞台化されているパワーコンテンツだが、やはり今でも語り継がれているのは木下惠介による最初の映画化『野菊の如き君なりき』

『二十四の瞳』(54年)で知られる木下惠介は、同世代にして同格の黒澤明のライバル的存在だったが、『羅生門』(50年)が海外で大ウケしたことで「日本映画=クロサワ」の図式が出来上がり映画ジャーナリズムが権威主義に傾斜した。これに関しては黒澤自身も、外国人から評価してもらわないと自国の芸術の正否も見極められない日本人の不明に疑問を呈してるけどね。

そんなジャーナリズムとは無縁の所で映画を撮り続けていたのが木下惠介。

当くそブログでは『お嬢さん乾杯!』(49年)『破れ太鼓』(49年)を扱ってきたが、一見すると感動作に見えてじつは狂気漂う実験映画というのが彼の作家性。『カルメン純情す』(52年)では常にカメラを傾けているので画面全体が歪んでおり、『笛吹川』(60年)ではモノクロフィルムに塗り絵をするようにパートカラーを焼き付けるという意図不明な映像技法を駆使。『二十四の瞳』のイメージからヒューマンドラマの名手と思われがちだが、なかなかどうして前衛的なカルト作家なのである。

f:id:hukadume7272:20200607223828j:plain『カルメン純情す』(上)と『笛吹川』(下)。ちなみに後者は岩下志麻の銀幕デビュー作です。

 

さて、運命によって引き裂かれた若い男女の悲恋を描いた本作は、信州の山河に浮かぶ渡し舟の老客が船頭に昔話を聞かせることで話が展開していく回想形式の映画である。老客を演じるのは笠智衆(りゅう ちしゅう)。小津映画の屋台骨。撮影当時51歳だったが劇中では73歳の老人を演じている。

さっそく彼が15歳の頃まで時が遡るが、ここで早くも木下節ともいえる奇妙な実験映画術が披露された。ひとつは画面に映された短歌、及びそれを詠む笠のヴォイスオーバーである。

「まつひとも、待たるる人も、かぎりなき、思ひ忍ばむ、北の秋風に」

視覚化と同時に音声化される文字情報。これは『電車男』(05年)『白ゆき姫殺人事件』(14年)など、パソコンやスマホ上の文字を画面を映してわざわざ朗読するという21世紀の映画病理の先駆けといえる!

しかもこの短歌、一度だけでなく場面転換のたびに挿入されるのだ。いかな原作の伊藤左千夫が歌人とはいえ、これじゃまるで短歌の新作発表会だ。

しかも白字だから見えづれえの何のって。

f:id:hukadume7272:20200525085818j:plain画面に字をベタベタ貼り付ける系映画の先駆け。端的に「やめろ」と思った。

 

そしてもうひとつの実験術が、白のアイリス・インとともに回想シーケンスが始まると楕円の縁取りを残したまま物語が進行していくという摩訶不思議なフレーミングである。

アイリス・インというのは、暗転した画面の一点から丸く開きながら全画面を映し出すという場面転換法であり、逆に画面の縁から丸く閉じていく手法をアイリス・アウトという。サイレント映画やカートゥーン作品でしばしば見かける手法だ。『サザエさん』とかもね。

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これね。

 

ところが本作では白い縁取りを残したまま映画が進行するので、いわばスタンダードサイズ(1.33:1のアスペクト比。ほぼ正方形)のフレームが楕円形になるわけだ。

まるでドアの覗き穴から映画を見ている気分に浸れちゃうんである。

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見 づ ら い 。

 

もうこの四文字にすべての感情が収斂されていくわ。

まあ、最初のうちは「この卵みたいな白フチも今だけだろう。きっと『ここは回想パートですよー』と伝えるための一時的な演出であって、しばらくすれば消えるに違いない」と思っていたが、結局最後まで消えないのである。

じゃあ見づらい。

百歩譲って回想パートと現代パートが激しく入れ替わるような映画だったなら観客が混乱しないようにこのような映像技法で時間軸を明示するという手法も頷けるが、笠智衆が出てくる現代パートが回想シーケンスを寸断するのは途中1度だけだ。つまり時間軸がコロコロ変わるような映画ではないのである。だったら「ここは回想パートですよー」としきりに訴えるような白フチはどうも不要に思われる。ていうか不要だ。

だって見づらい。

いかに木下惠介が珍妙怪奇な作家かということがこれでお分かり頂けただろう。

いま「珍妙怪奇」なんて言葉でオブラートに包んだけど、はっきり言っていいなら頭狂い倒してる人だからね。「そんなことして何になるの」と思うような意図も狙いも背景もよくわかんねえ珍奇演出を好むのである。そしてその演出が時に迷惑っていう。

f:id:hukadume7272:20200525090345j:plain白フチと短歌の合わせ技。雑情報がすごい(頼むから普通に画面見してぇ)。

 

◆野菊と竜胆の恋◆

事あるごとに詠み上げられる短歌と卵みたいな白フチがウザったいことこの上ないが、回想シーンの中で描かれるのは少年少女の清らかな恋である。

くそ田舎で健やかに育つ15歳の田中晋二(笠智衆の若かりし頃)は、病気の母・杉村春子を手伝うために近くの町家からやってきた有田紀子と仲睦まじく暮らしていた。紀子は2つ年上の17歳で、晋二の勉強中に掃除と称してちょっかいを出してくる天真爛漫ガールであった。

二人は大の仲良しで、暇さえあれば近くの山で草花を引きちぎったり、畑からナスビをぶっこ抜いては「Yeah.」と欣喜雀躍するようなド田舎生活を満喫していた。

しかし、これを快く思わない同世代の村人たちは二人の仲のよさを妬んだり冷やかすなどして徐々に村八分にしていくんである。特に憎たらしいのは馬乗りの少年。

馬乗り「いま評判のアツいお二人さんだね。そんなに見せつけてくれちゃ、あんまり罪だよ」

晋二 「ばか!」

馬乗り「なんだと。ばかだと!」

馬乗りの少年はちょろちょろと逃げる二人を馬でパッパカ追いかけて轢き殺そうとしたのだ。なんてことをする、このガキ!

しかし、そんな風にして周囲から囃し立てられるほどに互いへの淡い恋心を自覚していく晋二と紀子。

晋二は「気にすることないよ。僕ら何も悪いことしてないじゃない」と言ったが、紀子はどこか思いつめた様子。今では考えられないが、この頃の2歳差は今の20歳差ぐらいのインパクトがあり、年上女子が年下男子と恋に落ちるなど不埒千万という旧価値が瀰漫していたのである。それを察した晋二は「しばらく会わないでおこう」と約束したが、一度走り出した恋は止まらない。Can't Stop Lovin' Youなのである。

f:id:hukadume7272:20200525085946j:plainCan't Stop Lovin' You.

 

母に綿を摘んでこいと言われた晋二は、同じく綿摘みに来ていた紀子と久しぶりに再会する。うれしい心持ちがした紀子は、目についた野菊をぶちぶち千切って「私は野菊の生まれ変わりよ」と豪語した。急に何を言うんだろうと思う私をよそに、紀子は「野菊の花を見ると、身震いが出るほど好きよ」とも付け足した。ちょっと文法がおかしいが実際にそう言ったのだ。紀子は文法の解体者なのだろうか? 日本語の脱構築者なのだろうか?

いや、そうではない。

じつは彼女は村一番の野菊好きで、野菊をちぎってその香りを嗅げばどんな精神状態からでもたちまち幸福感に浸れるほどの野菊チギリストなのだった。「清爽」という花言葉を持つ野菊は紀子にお誂え向きの花といえる。

「道理で、紀さんは野菊のような人だナ」と笑った晋二が「僕も野菊が大好きさ」と付け加えた一言がダブルミーニングっつーか…紀子への告白になってるあたりが胸キュンポインツだ。なぜ胸キュンなのかと言うと、この比喩が紀子にはイマイチ伝わってないからである。遠回しの告白がうまく伝わらない…この甘酸っぱさ!

一方の晋二は他の追随を許さぬ竜胆好きで、竜胆さえ咲けば他はすべて枯れてもいいとさえ思っているリンドリストであった。それを知った紀子の「竜胆が美しいなんて知らなかったわ。竜胆が急に好きになっちゃった」という言葉も無意識裡での告白の返事になっているわけだが、やはりこの比喩も晋二には伝わっておらず、能天気な彼はこんなことを言います。

「紀さんが野菊でボクが竜胆か。おもしろいネ!」

別におもんないわ。

それにしても好いシーンだなー。

この“比喩法を使ったとはいえ互いがハッキリと告白して相思相愛になったにも関わらずそのことに気付かない二人”が何とも可愛くて切なくて…おっさん、たまらない気持ちになっちゃった。

そして竜胆の花言葉が「あなたの悲しみに寄り添う」。2年早く生まれたことを悔やむ紀子に不器用ながらも寄り添おうとする晋二のやさしさが目に沁みるゥ!

f:id:hukadume7272:20200525090918j:plain野菊チギリストとリンドリストのささやかなロマンス(卵フレームが依然としてうざい)。

 

この再会は「山に行って綿を摘んできとくれ」と二人別々に頼んだ母・杉村春子の粋な計らいだった。

晋二の母である杉村は紀子を我が子同然に可愛がっており、長男・田村高廣とその妻・山本和子から「村の笑いものになるからあまり二人を近づけない方がいいよ」と言われても当人たちの意思を尊重していたグロリアス・マミーなのである。

ちなみに杉村春子は文学座の設立メンバーにして演劇界の頂点に君臨したウルトラ大女優である。杉村を崇拝する著名人は、高峰秀子、勝新太郎、若尾文子、吉永小百合、美輪明宏、泉ピン子、IKKOなど後を絶たない。どんだけ~。文学座では樹木希林、黒柳徹子、桃井かおり、寺島しのぶなど数え切れないないほどの俳優を育成・輩出した。

そんな杉村演じる母ちゃんがなかなか複雑多面なキャラクターで、ただ単にやさしい親というだけではない。紀子を追い出そうとする和子から入れ知恵されてしまい、よかれと思って泣く泣く二人を引き裂いてしまう張本人でもあったのだ。この人物造形の微妙なデッサン。杉村春子です。

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小津映画の常連・杉村春子。

 

晋二は追われるように中学の寮に入れられ、その間に紀子は実家に帰されて親族一同に諭されるまま他家に嫁いだ。晋二のような小汚い田吾作よりも前途ある金持ちと結婚した方が幸せになれる、と説得されて…。祖母の浦辺粂子だけが紀子の味方をしていたが、これ以上自分と晋二のことで村に迷惑はかけられないと思った紀子はむりに笑顔を浮かべて縁談を了承したのだ。

冬休みに帰省した晋二が誰ひとりとして紀子の話題を触れないことを訝しがっていると、過去に二人をからかっていたことを謝りにきた作女・小林トシ子が涙ながらに重い口を開く。紀子は流産の果てに命を落としたのである。手には竜胆の花を固く握りしめていた。

現在の晋二……ええい、つまりは笠智衆が彼女の墓参りをする現在パートにて映画は終わる。

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野菊の如きお前らなりき

本作を観たのは初めてだったので色々と調べたところ、どうやら世間では名作として扱われているらしく、レビューサイトでは「感動」、「傑作」、「ボロ泣き」、「加湿器」など軒並み絶賛。

なるほど、加湿器10台分に相当するびちゃびちゃの悲恋が観る者の涙を誘いもしようが、どうも私は湿度の高いメロドラマというものが好きではなく、本作のように「泣いた」ではなく「泣けた」と可能動詞で絶賛されるような湿潤の悲恋モノなんか観ると全身がムズムズしてしまうんである。死にゆく紀子を涙ながらに看取る家族のクライマックスに人が涙するのは映画への感動から流されたものではなく、泣き濡れる杉村春子はじめ役者勢のリアクションショットへのリアクション、これすなわち「もらい泣き」に過ぎないわけで。おまけに感傷的なムードを誘う劇伴まで大仰に鳴ってやがらぁ。

まぁ、こうして見ると昨今の難病映画にも受け継がれたきわめてモダンな演出であり、その先見の明には驚かされるが、一方ではアーリーメロドラマ=お涙頂戴モノの病根たる木下惠介の功罪は計り知れないものがある。うんにゃ! 木下の功罪というより木下を生兵法で咀嚼した映画ジャーナリズムの粗忽さに問題があるのだ。

およそ『二十四の瞳』しか見てない馬鹿垂れどもが「木下=感動屋さん」というカタログ知識だけで木下映画術を馴致。黒澤を「マルチカメラ」と「本物志向」、小津なら「ローポジ」と「イマジナリーライン越え」というワードを阿呆のように連呼することでしか語りえない生煮え野郎どもの一知半解がためにメロドラマの冤罪者として映画ジャーナリズムの絞首台に立たされた木下!

数々の作品でメロドラマの鋳型を作り上げてきた木下の功績は「誰か病死させ、役者を泣かし、劇伴鳴らしましょう」とばかりに水で薄められマニュアル化!

後世のくだらない映画・ドラマでせんど流用された木下映画術のその残滓!

一杯どうかね、映画遺産のソーダ割り!

本作にはあまり感心しなかったが、それ以上に感心しないのは本作のような古典的なメロドラマ演出の真似事をしては粗製乱造されゆく低劣・無個性も甚だしい略式映画のゴミの渦に日本映画の豊かな風土が散らかされてしまった事なんじゃああああ!

紀さああああああああん!

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『野菊の墓』という原題を『野菊の如き君なりき』に変えたあたりが木下惠介のロマンチシズム。陰鬱な内容だが「陰鬱な描写」は少なく、意地悪な馬乗りの少年が落馬事故で死んでしまう一幕さえユーモアすれすれで語られるので全編通して妙に微笑ましい。山の景色もやや露出過多だが美しく、身は引き離されても心は繋がっている二人の精神世界として画面を彩り、微風にゆれる草花たちは若き男女の恋心を代弁するかのようにフッと微笑み返していて。

なにより可愛らしいのが主演二人。朴訥とした田中晋二くんのロッテ・アーモンドチョコレートみたいな粒的魅力、および芸術の粋に達した棒読み台詞の爽快さ。一方の有田紀子は涙の似合う薄幸美少女。憂いの顔を笠で隠す仕草には現代映画が忘れてしまった美しさが息づいている。

本作の出演以降、田中晋二と有田紀子は他作品にちょろちょろと出たあと映画業界から姿を消した。心をこめて、『野菊の如きお前らなりき』

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