スープのことを「おつゆ」と言わないでほしい。
1952年。小津安二郎監督。佐分利信、木暮実千代、鶴田浩二、淡島千景、津島恵子。
茂吉と妙子は生まれや気質の違いゆえに心の通わないままの中年夫婦。微妙な感情の食い違いによって長年蓄積していたものが、妙子の長兄の娘・節子の見合い問題を機に爆発する。そんななか、茂吉が急に海外出張に行くことになるのだった…。(Oriconデータベースより)
はーい、皆どおー?
昨日、自分のブログを割とがっつり読み返してみたところ「こんなアホみたいなこと書いてたのか」という現実を改めて俯瞰で直視したようで、ちょっと落ち込んだね。
映画鑑賞・評論執筆というのは私の人生の90%近くを占める営為なのに、その集大成たる当ブログで「海藻なわけねえだろ、カス。」とか「野菊チギリスト」とか書いてる記事を冷静に読んでると「おれ人生懸けて何してんだろ」という気持ちになるのも無理からぬことなんだよ。
そりゃさ、書いてるときは「おもろ」と思って書いてるわけだけど、冷静なときに冷静なアタマで読むと…なんだかちょっぴり虚しいです。少なくとも親に読まれたら最悪だなって本気で思った。だからこそ『切腹』(62年)の回みたいに、たまには真面目に書くことで人間としての尊厳をギリギリ確保してるんだと思う。わかるか。コレわかるか。フザけることは好きだけどフザけてる自分は嫌いというアンビバレンツよ。
そんなわけで本日は小津漬けの味、もとい『お茶漬の味』です。
◆お茶漬け以外にも色んな味するやん◆
すべてのお茶漬けマニアに捧げられた茶漬映画の金字塔。
といって、べつに茶漬け屋を営む夫婦の話でもなければ、お茶漬けコンクールに出場するべく究極のレシピを完成させる話でもなく、いわんやYouTuberみたいに浴槽いっぱいにお茶漬けを作るといったふざけた話でもない。夫婦生活をお茶漬けに喩えた小津安二郎のホームドラマである。
日本映画の代名詞ともいえる『東京物語』(53年)の前年に撮られた本作は、戦時中に検閲当局から何度も訂正を求められたことでやや唐突な脚本になってしまい、爛熟の後期小津作品の中ではさほど評価されていない。まあ、それを差し引いても『麦秋』(51年)と『東京物語』に挟まれたんじゃあねえ…という気もするが、小津にしては珍しく子供のいない夫婦の物語で、ややピリついた二人のすれ違いが続くうえ、ヒューモアもハートウォームも薄め…といった作品性のもろもろが絶賛を受けそびれた遠因になったのかもしれない。
映画好きにあっては、劇中一ヶ所だけ出てくる廊下のドリーイン/アウトへの苛立ちに称讃文を綴る手を止められた者も多かろうと思う。動くわけがないカメラが動き出した瞬間、あのゾッとするほど不気味で不可解なドリーに人は苛立ちを覚えるしかないのです。われわれは「小津調」などといって「カメラが動くのは境内を歩く原節子のトラッキングだけだ」という固定観念に囚われていて、また本来的に映画文法というのは観念の固定化であるから、小津に限らずとも型を破るという行為には大なり小なり拒否反応を示すのが当然と思われる。問題はこのドリーイン/アウトが公開から68年経った現在でもまだ人々に咀嚼されず放ったらかしにされたままになっていることなのだが、あ…、ちょっと第一章にしては踏み込みすぎたのでこの話はやめるわ。
それでは『お茶漬』の中身を説明します。
趣味も育ちも違う結婚8年目の夫婦に倦怠期が訪れた。まじか。まじである。それなりの高給取りでありながら質素な生活を好む佐分利信を、お嬢様育ちの木暮実千代は内心見下している。病気の姪を見舞いにいくと言って友達らと修善寺に向かったが、勿論これは妻のトリック。ちゃっかり温泉なんぞ満喫し、ダシに使った姪を酒で手懐けるのだからマァ上手い。他方、佐分利はこれを見抜いていたが妻との喧嘩を避けるべく気付かぬふりをしていた。
過日、歌舞伎座のお見合いの席から逃げ出してきた姪が佐分利の休日を脅かす。仕方なく姪を競輪やパチンコに連れて行ったが、歌舞伎座でほうぼう姪を探し回ったあと家に帰ってきた木暮はご機嫌斜め。せっかくの良縁が台無しだと怒る妻、無理に結婚させても僕たちみたいな夫婦が一組できるだけじゃないかと諭す夫。口論の果てに木暮は家を出ていき、その間に海外出張が決まった佐分利は飛行機に乗ってしまった。未曾有の危機が夫婦を襲う! 二人はどうなってしまうのか!? そしていつになったらお茶漬けにありつけるのか。
夫役の佐分利信(さぶり しん)は『戸田家の兄妹』(41年)や『彼岸花』(58年)など小津作品に多数出演した重厚感たっぷりのオヤジであり、本作と同じ年に製作された『離婚』(52年)と『慟哭』(52年)でも木暮実千代と共演している。にしても『離婚』と『慟哭』て。
当ブログで扱った中では『氾濫』(59年)に出演。世界最強の接着剤を発明するも手柄を社長に奪われるヒラの科学者を重厚感たっぷりに演じ抜いた。また監督業にも精を出しており、私はいずれも観たことはないがたぶん重厚感たっぷりなんだと思う。
本作ではラストシーンでお茶漬けにありついたほか、トンカツと味噌汁のねこまんまにもありついた。
佐分利信。ねこまんまをこよなく愛する物静かな夫。
妻役の木暮実千代は『祇園囃子』(53年)、『赤線地帯』(56年)、『銭形平次捕物控 まだら蛇』(57年)などでお馴染みの美人一番搾り。
本作のラッシュを見た際には「私のアップが少ない」と小津相手に愚痴をこぼせるほどの肝っ玉女優であり、加えて全身から滲み出る色気も相俟って姐御役や恋敵役を多く演じたヴァンプ女優だが私生活では良妻賢母らしい。しかも本名が「和田つま」。妻て。
本作ではラストシーンでお茶漬けにありついたほか温泉宿で懐石料理にもありついた。
木暮実千代。甲斐性のない夫にぷりぷりする妻。
そんな木暮とつるむ親友が淡島千景と小桜葉子。
淡島千景は4年後の『早春』(56年)で小津作品で初の主演を飾る。その美しさは『日本橋』(56年)に載っけた画像をピュッと見てもらえれば一目瞭然だろう。
小桜葉子は加山雄三のリアルママンである。本作を最後に映画界から足を洗い「小桜式美容体操」の勝手考案・独自追求・高額講師を務めた(効果のほどは不明)。
淡島千景(左)、小桜葉子(右)。
そして夫婦喧嘩の引き金になった姪を津島恵子が演じる。『七人の侍』(54年)では男装した百姓娘をこれ見よがしに演じた。1996年には日本映画批評家大賞のゴールデン・グローリー賞という何がグローリーなのか全然わからない賞に輝きもした。
この3名はお茶漬けにありつくことには失敗したが木暮とともに懐石料理と日本酒にありついた(姪の恵子に至ってはラーメンにもありついた)。
津島恵子。無理やりお見合いをさせられてしまう。
佐分利の部下を演じたのは当時すでに大スターだった鶴田浩二だ。
本作が作られた1952年は、松竹の恋愛禁止令により戦後最大のロマンスと言われた岸惠子と別れさせられて自殺未遂を起こした年。ちなみに翌年は鶴田浩二襲撃事件の被害者に(山口組が鶴田をしばき回して日本芸能界にやくざの怖さを思い知らせた)。
本作ではお茶漬けにありつくことには失敗したが、佐分利とはトンカツ&ビールにありつき、仲良くなった姪の恵子とはラーメンにありついた。
鶴田浩二。大スターなのに三角座りをしている。
このように『お茶漬の味』どころかいろんな味がする本作。小津の他作品にも出てくる「カロリー軒」で食べるトンカツや、修善寺温泉の旅館で食べる懐石料理が実に羨ましいが、中でも印象深いのが鶴田浩二と津島恵子がラーメンを食べる場面。麺をすすった鶴田は恵子に向かってこんなことを言う。
「ラーメンはね、おつゆが美味いんだ」
おつゆって言うな。
スープと言え。百歩譲っても汁じゃ。「おつゆ」なんて貧乏くさい表現をするな。
だが本作、物語の端々には昭和20年代の庶民の暮らしが素描されていて、例えばご飯に味噌汁をぶっかけた佐分利が「ねこまんまはおよしよ!」とブルジョワ育ちの妻に怒られる場面なんかもある。ことによると、そのような庶民感覚を「おつゆ」という語彙で表現したのだろうか。きっとそうなのだ。その直後に鶴田が発した「こういうモノはね、美味いだけじゃいけないんです。安くなくっちゃ」というセリフが小津の価値観をそのまま表している。小津映画にあってはラーメンのスープは「おつゆ」なのである。
ペロッとラーメンを平らげた鶴田は店員に向かって快活に叫んだ。
「ラーメンもう一つ。おつゆ沢山!」
おつゆって言うな。
このように主要人物がいろいろな料理にありつく本作だが、やはり主役はお茶漬け。だがまぁ、お茶漬けトークはお茶漬けらしく最後に取っておくとしよう。うーん、美味い。こじゃれてるゥ!
なお小津は鮭茶漬が好物とのことであった。どうでもいいわ。
恵子に向かって「ラーメンはね、おつゆが美味いんだ」と主観的意見をまくしたてる鶴田。
◆焼け石にいろはす事件◆
映画が始まると、タクシーの車窓から見える当時の東京の風景が映し出されていく(明治生命館とか!)。車中の恵子は大の映画好きらしく、叔母の木暮にジャン・マレーの新作を見に行かないかと勧める。後のシーンでは50年代にブームだったパチンコや競輪も描かれており、当時の風俗がよく活写されている。パチンコは下皿なしで立ったまま打ち、競輪は今はなき後楽園競輪場でおこなわれていたので記録映像としての資料的価値も高い。
二人が淡島千景のオフィスを訪ねて「こないだの歌舞伎、どうだった?」と言われると、恵子が「歌舞伎の立ち見って初めて。海老蔵がこれっぽっち(指で小ささを表す)。でも面白かった」と答える。もちろん海老蔵といっても灰皿事件でボッコボコにされた11代目の方ではなく9代目市川海老蔵のことを言ってるわけだが、やはり当時の風俗をよく吸い込んでいるナーと思った。
左上から時計回りに、明治生命館、後楽園競輪場、歌舞伎、パチンコ。
千景のオフィスで女子トークをするうち「温泉に行きたいわね」という話になって、恵子がジャン・マレーを見に一人で映画館に向かったあと、千景は「あの娘が謝恩会に行った先で盲腸で倒れたことにすれば見舞いと称してどこにでも行けるわ!」と実千代に提案。これ妙案と膝を打った実千代、さっそく夫の佐分利に姪の見舞いに行くと言って温泉旅行の準備を始めたが、そこへ折悪く恵子がやってきてあじゃぱー。
「馬鹿よあんた。今時分きて。千景と約束してたのに。なにさ」
ぷりぷりしながら恵子の左腕をぺろんと叩いて立ち去る実千代の可愛きこと!
結句、いまひとりの友人・小桜葉子を病人に仕立て上げ、実千代、恵子、千景、葉子の4人は温泉にゴーする運びと相成った。やったじゃんかいさ~。
この修善寺温泉のシーケンスでは、実千代が池の鯉を佐分利に見立てて「鈍感さん!」とからかう場面が滅法すばらしく、夫婦の場面以上に夫婦関係をよく表している。実千代は秘密の旅行を楽しんでいることすら気付かない鈍感な夫に嫌気が差しているわけだが、望まぬお見合いを控えた恵子は鯉をディスる実千代に人知れず反感を覚えていた。友だちがいる前で妻が自分の夫を小ばかにする、あまりにリスペクトを欠いた夫婦の形に。
実千代は恵子のお見合いに賛成だったが、夫を平気でディスる彼女が見合い結婚だと知った恵子は「叔母さまと叔父さまは全然ぴったり行ってないじゃない。お見合いなんてしない!」と主張し、ことさらお見合いを嫌がるのだった。
恵子 「なぜ叔父さまに嘘なんかついて修善寺にいらしたの?」
実千代「なにさ。あんただって付いてきたじゃないの」
恵子 「真っ黒なノソノソした大きな鯉、叔父さまだなんて。叔父さまお気の毒だわ」
実千代「余計なことよ。もう連れてかないから。なにさ!」
恵子 「いいの。私、結婚したって旦那さまの悪口なんて絶対言わない。好きな人くらい自分で見つけます!」
実千代が自分の夫を鯉に見立ててバカにする場面。
一方、鯉扱いされた佐分利は妻の秘密旅行を看破していたが決して咎めることはない。と言って、それは優しさにあらず。無用の衝突を避けるべくして編み出された平和実現術なのだ。あるいは育ちの差ゆえの諦念かもしれない。
妻が高級旅館で懐石料理をうまうま食べている頃、佐分利は鶴田に誘われるまま気安いバーでビールを飲んだり汚い食堂でトンカツを食べていた。そこへお見合いの席からエスケープしてきた恵子が現れ、戻りなよと心配する佐分利を説き伏せ競輪やパチンコ遊びに同伴する。そこで恵子と意気投合した鶴田は、佐分利が先に帰ったあとに彼女をラーメンに誘い、あの伝説の持論を得意満面に唱えるのである。
「ラーメンはね、おつゆが美味いんだ」
おつゆって言うな。
家路についた佐分利が「見合いエスケープ事件」を起こした恵子に怒り心頭の実千代から愚痴を聞かされていると、おつゆで腹をタプンタプンにした恵子が帰ってくる。カンカンに怒った実千代がギャーッと恵子を責めたあと「あなたも叱ってやってちょうだい!」といって佐分利に怒りのバトンを渡したが、エスケープ事件に加担した手前どうしても恵子を悪者にできない佐分利は、実千代が居間を去る後姿を目で追いながら形だけの説教をする。かかあ天下にありがちな風景ねぇ。佐分利信は『彼岸花』のように威厳ある夫も似合うし、本作のように尻に敷かれる夫もよく似合う。顔は怖いが、笑うと少しバカのようで可愛らしいんである。
直後、叱るフリをする佐分利に対して叱られるフリをしていた恵子が「叔父さま、こんなに勝ったのヨ!」とパチンコで勝った景品を机に並べたのが悪かった。これを目撃して佐分利がエスケープ事件に加担していたことを知った実千代は「あなた今日、恵子と一緒だったんですね。なぜ嘘をおつきになるの?」と烈火のごとく怒りだす。佐分利が「べつに嘘はつかない。ただ言わなかっただけだ…」と詭弁を弄しても焼け石にいろはすであった。互いを庇い合う佐分利と恵子を喝破する実千代。強い! そして怖い!
実千代がいなくなるのを確認しながら折檻を演じる佐分利と恵子。
やがて喧嘩の争点は「価値観の相違」に移り、佐分利は夕食時に実千代が嫌がるねこまんまをしたことを詫びながらも「僕はもっとインティメートで、プリミティブな、遠慮や気兼ねのない気安い感じが好きなんだよ…」と言う。
たしかに、ねこまんまほどインティメート(親密)でプリミティブ(素朴)なメシもまたとないが、ねこまんまが好きだという話ぐらいでいちいち横文字を使うなとも思う。恐らくこういうところに苛々しているのであろう実千代は西洋趣味&豪華主義のセレブ主婦。怒って家を出たはいいが、親友の千景からも「あんた、わがままなのよ」と叱られ、ますます臍を曲げ、神戸の同窓生のもとまで安らぎを求めに行った。
その間に海外出張に行ってしまった佐分利に、まだ強情を張りつつも心の底では反省して家に帰ってきた実千代。女中の小園蓉子に「旦那さま、何か仰ってなかった…?」と訊ねては、夜の影満ちる家中を無暗にうろうろ、気持ちはそわそわ。
佐分利は夜更けに帰ってきた。飛行機の故障で出張が延期になったのだ。二階に上がった夫をちょこちょこ追いかけた実千代は、まるで何事もなかったかのように微笑んだ佐分利に「神戸はどうだった。面白かったかい?」と訊かれ「私…もうしない。あんなこと」と済まなさそうに答えた。
「なに」
「あなたに黙って遠くへ行くようなこと…」
「してもいいさ。君らしいよ」
「ううん、もうしない」
あれほどキツい妻だった実千代が、まるで少女のようにはにかみながら夫が帰ってきた喜びを必死で堪えるさまといったらない。ひょっとしてこれはツンデレというやつなのだろうか。そうなのだ、これがツンデレというやつなのだ。
そのあと和解した二人の会話も大変によく「腹減った」、「何か上がる?」、「ああ」、「私も頂く」、「そう。下へ行こう」と、こんな具合なのだ。短い言葉がぽんぽんと交わされ、そのたび切り返される小津式の逆打ち。これまでは実千代ばかりが喋り続けていたが、ようやく夫婦が“繋がった”のである(精神的な意味でも、ショットの面でも、対話としても)。
また、階段に向かう途中、実千代が佐分利の左腕にぺろんとタッチする所作がエロい 巧い。もちろんこれは秘密旅行計画をあじゃぱーにした恵子の腕をぷりぷりしながら叩いた所作と呼応する。
そしていよいよ…いよいよ…お茶漬を食べるとき!
いいですか読者の皆さん。ついに佐分利と実千代がお茶漬を食べてしまうんですよ!!!
仲直り(この愛に満ちた穏やかな表情!)。
◆お茶漬の味ってどんな味◆
一階に下りた二人は「きみ寒くないかい」、「ううん大丈夫」みたいな思いやりを見せ合い、真夜中の夜食会議。何を食べるか考える。
「蓉子(女中)を起こすのは可愛そうね」
「うん。分かるかい、色んな物のある所」
「なァに」
「茶碗や箸」
「行きゃ分かるわよ。行ってみましょう」
いつもは蓉子が立っていた台所。勝手がわからず右往左往しながらも力を合わせ、コソ泥みたいに棚や抽斗をひっかき回してぬか漬けや米を見つける様はまるで宝探し。台所に続く暗い廊下をドラクエ歩きで突き進んでいくのは洞窟探検のようだし、これはまさしく夫婦再生、愛のリボーン。その儀式こそが共同作業による深夜のお茶漬作りなのだ。
佐分利「あったよ、たくあん」
実千代「それ蓉子のじゃない?」
佐分利「うん(ポリポリかじる)」
分かってるなら女中のたくあん食うなや。
実千代がキュウリを切るときに佐分利がスッと袖を持ってやる所作や、ぬかみそから謎の物体を掴み出して「なんだろ?」と破顔一笑する実千代のスマイルも抜群に胸キュンポインツなのであるが、やはり我々の胸を打つのは盆と米桶を持って食卓に移った二人がしずしずと茶漬けの準備をする場面である。
かつて佐分利がねこまんまを作ってバチギレされた構図とまったく同じローポジションから「米に味噌汁をかける」という夫婦決裂の禁忌が「米に茶をかける」という夫婦修復の励行に転じるあたり。
すなわち『お茶漬の味』とは夫婦円満の味なのである。よう考えられたあるわー。
台所を荒らす二人。
先にお茶漬をかっこんだ佐分利が「美味いよ」と報告すると「そう? 私もやろ♪」と言ってこれに続こうとした実千代、箸を持つ手の異臭に気付き「ぬかみそ臭い!」と笑うと「どら」と言ってその手を嗅がせてもらった佐分利は「きみの手も驚いてるだろう」と渾身の佐分利ジョークをほりこんで実千代を笑わせる。
何がおもろいねん。
インティメートでプリミティブなジョークを口にしやがって。
さて、お茶漬でシメたはずだが、本当のシメは妻の涙。茶漬をずばずば食ってる最中にやおら泣き出した彼女はこれまでのことを改めて謝るが、涙の意味は別にあった。
「わかったの私。あなた仰ったわね。インティメートでプリミティブな、遠慮や体裁のない、もっと楽な気安さ。わかったの。やっと今…」
実千代は初めて理解した。秘密に赴いた高級旅館の窓から夫に見立てた鯉をディスって愚痴を肴に日本酒を煽ることが夫婦生活なのではなく、サッと謝ってパッと許し合える気安き喜び、いかな質素なお茶漬でも共に食べる幸せ、ぬか漬けまみれの臭っさい手を嗅いでビタイチおもしろくないジョークに笑い合える一時。
それこそがインティメートでプリミティブな遠慮や体裁のないもっと楽な気安さなのだとォォォォォォォォ!!
空腹を迎えたコソ泥みたいな勢いでお茶漬をかっこんだ佐分利は、まさしくインティメートでプリミティブな笑顔を浮かべて実千代を慰め、まるで名言いいますみたいな顔をしてポツリと呟く。
「お茶漬だ。お茶漬の味なんだ。夫婦はこのお茶漬の味なんだよ」
うるせえな。
真夜中のお茶漬。
以上が『お茶漬の味』の一部始終だが、まだ書けてない「女の友情」について少し。
実千代が人の左腕にぺろんとボディタッチする所作/構図の反復は先述した通りだが、もうひとつ面白いのは、実千代が千景から「あんた、わがままなのよ」と言われる場面でも同様の反復が用いられた点である。
同調を求めるつもりが思わぬ反対意見に遭って臍を曲げた実千代が「帰ろっ」と言って千景のオフィスを出ると、ひとり残された千景のフルショット、次いで椅子に腰かけ物思いに耽るバストショットに繋がる。さて次のカットでは、自宅に帰った実千代がオフィスの千景と向き合うような対面構図のバストショットにおさまり、次いでソファに腰かけ物思いに耽るバストショットに繋がる。
どこまで伝わるか判らんが、これは構図が逆行しているのである。通常の映画がA→B→C→Dてな具合にショットが続いていくとすれば、この4つのショットはA→B→B→Aという具合に、BとBの間を結節点として同じ構図がフィルムの過去を遡るように逆行しているわけだ。
もっとも、これらのショットの“物語的な意味”を絵解きすると喧嘩別れしたかに思える千景と実千代は、しかし離れがたき親友同士なのだという程度のものに過ぎないのだが、だからこそ構図一発でそれを簡略化してのける小津映画はショットとショットの間にストーリーがあるのだ。
およそ小津映画にあって「カット」とは編集的作業ではなく説話的略語である。言うまでもなくショットとは映像言語そのものだが、ショットからショットへ画面が切り替わるカットさえもが正式な言語なのである。
↓この「構図の逆行」、画像で説明すると分かりやすいと思います。
ちなみに物語の結末は「夫婦はお茶漬の味なんだ」と言ってみせた佐分利のドヤ顔ではなく、このあと二段オチ…いや、三段オチが用意されている。
二段オチまでなら言っても許されるだろうから耳打ちするが、佐分利がようやく海外出張に発ったあとに自宅に千景らを招いた実千代があの夫婦水入らずのお茶漬ナイトの出来事をべらべら喋るのだ。しかも「私が泣いて謝ったら、あの人、目に涙いっぱい溜めてんの。イヤ。 泣いちゃイヤ! 男のくせに! と思ったのよ」なんつって、事実なのか脚色なのか極めて曖昧な言い方をする。このあたりも小津映画の醍醐味。女性観察のおもしろさなのだよなー。
千景 「それにしても珍しいわね、あんたが泣くなんて。ワアワア? しくしく?」
実千代「はじめワアワア、あとからシクシク」
何言ってんだ、こいつら。
小津映画の常連・笠智衆もパチンコ屋の主人役でちゃっかり登場。女中役の小園蓉子は芳根京子に似ていて可愛かった。