Wレイチェルが遂にレイチェリングする話。
2017年。セバスティアン・レリオ監督。レイチェル・ワイズ、レイチェル・マクアダムス、アレッサンドロ・ニヴォラ。
超正統派ユダヤ・コミュニティで生まれ育ったロニートとエスティは互いにひかれ合うが、コミュニティの掟は2人の関係を許さなかった。やがてロニートはユダヤ教指導者の父と信仰を捨てて故郷を去り、残されたエスティは幼なじみと結婚してユダヤ社会で生きることに。時が経ち、父の死をきっかけにロニートが帰郷し、2人は再会を果たす。心の奥に封印してきた熱い思いが溢れ、信仰と愛の間で葛藤する2人は、本当の自分を取り戻すため、ある決断をする。(映画.comより)
ご苦労さん。
ここ数日間はまったく評が書けず、映画も観る気になれず、ブログを更新する気も起きないというアンニュイな日々が続いてゐた。
というか、ちょうど1ヶ月前に「続・昭和キネマ特集」を終えてからずっと調子が悪い。原因ははっきりしていて、特集を終えてからというもの最新映画ばかり観ているせいだ。目下わたしは特集中に見逃したホットでタイムリーな欧米映画を慌てて拾遺しているわけだが、はっきり言って私は最新映画にまったく興味ないわけ。
2000年代はなんだかんだで豊作だったし、映画史にとっても大きな転換期だったので楽しみながら時代と並走していたが、2010年代、特にここ5年の映画は目に見えてひどい。オバマ&トランプ政権以降は映画の都・ハリウッドが政治の都と化してしまい、政治に映画が従属。映画という木になる政治の果実は美味しいが、政治という木になる映画の果実は、もはや根本が政治なので、もう政治なんだよ。
あと単純にスタジオの技師が育ってない。照明ひとつ取っても「おまえ、どんな映画観て育ったんだよ?」と思うような基礎ガクガクの新人技師が大量投入されてハリウッドの伝統をご破算にしてる状態。不思議なことに、2000年代にいい映画を作ってた人たちがなぜか一斉に消えてるんだよね。業界スタッフ総入れ替えというか。イーストウッドも長年組んでたトム・スターンを切っちゃったでしょ。この事実をどう考えるんですか!?
そんなわけで「ほんと2020年代は頼みますよ」と願わずにいれない私がここにいますって感じで。ええ。愚痴をこぼしてすみませんでした。
そんなわけで本日は『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』です。彼女たちがどんな選択をするのか!? っていう、そういった部分が非常に注目ポインツになってる映画ですね。
◆レイチェリング映画の最高峰◆
レイチェル・ワイズとレイチェル・マクアダムスが女性同士でレイチェルレイチェルするという禁断のラブストーリーが本国公開から3年遅れで日本上陸。「レイチェルと言えば選手権」でワンツーフィニッシュを決めたWレイチェルが共演したレイチェリング映画の最高峰ということがひとまず言えていく。
そうなると困るのは彼女たちの呼び方で、ふだん私は役名ではなく俳優名で表記しているのだが、それだと「レイチェルの風になびく黒髪がとても素晴らしく…あ、いま言ったレイチェルはワイズの方なのだが…」とか「あのシーンのレイチェルはレイチェル史に刻まれるほどレイチェリングしていたが、ここで言うレイチェルとは無論マクアダムスの方のレイチェルであり―…」なんて、その都度どっちのレイチェルの話をしてるのか逐一説明せねばならないうえ、場合によっては読者の大脳が破裂してしまう恐れもある。
べつに私は誰かの大脳を破裂させたいなんて思ってないので今回は役名表記で話を進めることにする。
本作は『ロニートとエスティ』という邦題だが、レイチェル・ワイズ扮するのが「ロニート」で、レイチェル・マクアダムスが「エスティ」を演じている。
レイチェル・ワイズは『ハムナプトラ/失われた砂漠の都』(99年)で本格的にレイチェリングしてブレーク、その後『ナイロビの蜂』(05年)でしっかり評価されたイギリス出身のしっかりした女優である。色気がすごい。『ブラック・スワン』(10年)のダーレン・アロノフスキーとの事実婚をうっかり解消したあと、6代目ジェームズ・ボンドのダニエル・クレイグとちゃっかり結婚した。まさにリアル・ボンドガール。
女優としてのレイチェル・ワイズは演劇風のダウナー芝居を得意とし、どの映画を観てもひどく落ち込んでたり憔悴してる役ばかり演じている。近年ではギリシャが生んだ危険人物ヨルゴス・ランティモスに気に入られて『ロブスター』(15年)や『女王陛下のお気に入り』(18年)などで再びレイチェリングすることにしっかり成功。
個人的に『マイ・ブルーベリー・ナイツ』(07年)は自称髪型評論家としての私のターニングポイントとなった作品です。
ちなみに私は「レイチェル・ワイズ」と「エーデルワイス」をしばしば言い間違えることにかけては定評がある。昔、こたつで爪を触りながら「レイチェルワーイズ、レイチェルワーイズ♪」と歌っていたら「エーデルワイスじゃない?」と家族に指摘されて「そんなエーデルな」と思った、という大切な想い出を付記しておこう。
『マイ・ブルーベリー・ナイツ』のレイチェル・ワイズ。この重たい前髪がいい!!
他方、レイチェル・マクアダムスは『2018年ひとりアカデミー賞』で最低女優賞に輝いた実績を持つアナザー・レイチェル。
『きみに読む物語』(04年)、『きみがぼくを見つけた日』(09年)、『アバウト・タイム ~愛おしい時間について~』(13年)といった女子ウケ抜群の“泣けるラブストーリー”で大いにレイチェリングしてスイーツ女優としての地位を確立し、現在は性格俳優に転向すべくめったやたらに社会派・前衛派の映画で爆演。『消されたヘッドライン』(09年)や『スポットライト 世紀のスクープ』(15年)などなど、私の大好きなジャーナリズム映画にやたらと出てくるので正直邪魔だなと思っている。
今年41歳と知って驚いたが、未だに若手感が抜けない。私が選ぶ「苦手な女優ランキング」では大いに健闘しての第5位。おめでとうございます。
レイチェル・マクアダムス。スイーツを極めしもの。
そんな二人が、厳格なユダヤ・コミュニティの戒律に逆らって強く結ばれるバイセクシュアルの女性を厳しく体現した本作。
宗教とLGBTを全面に押し出した題材なのでややカタい映画なのだが、それとは別の意味でカタい近年のフェミ・ポリコレ映画に比べれば遥かにしなやかな作品で好感が持てた。
最近『ターミネーター:ニュー・フェイト』(19年)とか『チャーリーズ・エンジェル』(19年)とか『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』(20年)といった、まるで映画を拡声器か何かだと思っている“出来の悪い政治演説ショー”を立て続けに観て「ことによると映画史上過去最低じゃない? このディケード…」と虚しい失望感に襲われるあまり映画を観ること自体が厭になりつつあるので、宗教を扱ってるけど宗教の話はしていない本作、あるいは同性愛を扱ってはいても同性愛の話はしていない本作は、それだけで一定の好感度を獲得なさっています。本当におめでとうございました。
本作のマクアダムスはキャピキャピしてないのでマクアダ・アレルギストの私にやさしい。
◆難事連発、盤根錯節◆
映画は、ロンドンのとある教会で「天使と獣の中間にいる人間はどちらになるか選択することができる」と説いたラビが教会でぶっ倒れるシーンに始まる。
ニューヨークで写真家をしているロニートの元にその訃報が届き、ショックを受けた彼女はやけ酒をあおりに入ったバーのトイレで適当な男とセックスした翌朝ロンドンに飛ぶ。
ロンドン北部に位置する厳格なユダヤ・コミュニティはロニートの生まれ育った故郷だったが、数年ぶりに帰ってきた彼女にコミュニティの連中はどこかよそよそしい。どうやら教義に背いて故郷を捨てたことを快く思ってないらしい。
そんなロニートと旧交を温めた幼馴染みのドヴィッド(演アレッサンドロ・ニヴォラ)は、亡きラビの後継者と目された薄禿げ男であり、数年前にエスティと結婚した。
この三者のなんとも気まずい関係性を見つめながら戒律とタブーだらけのユダヤ・コミュニティの地域性に肉薄する第一幕はとても謎めいていて、ことによると好奇心よりも眠気がまさっちゃうかも。ちなみに私は開幕30分あたりで抵抗もむなしく熟睡を遂げている(もちろん起きたあと観返しましたよ)。
だって舞台がユダヤ・コミュニティというだけあって、いかにも厳粛な空気がフィルムの全域を支配しているんだもん。
本場イスラエルのエルサレム地区にある超正統派ユダヤ・コミュニティでは、男性は黒い帽子と黒いコートに身を包み、女性は黒のロングスカートにウィッグを着用するが、そうした服装規定はロンドンのコミュニティにも存在し、エスティ役のレイチェル・マクアダムスはトレードマークの金髪をダークブラウンに染めて敬虔なユダヤ教徒に扮し、レイチェル・ワイズもまた洒落たストールとマフラーを重ね巻きしながらも全身黒で統一しておりユダヤ・コミュニティの厳かな伝統主義を際立たせていた。
黒い服装がとても格好いいレイチェル・ワイズ(左)。
やおら物語が動き始めるのはロニートとエスティが昔から相思相愛の仲だったことが発覚する中盤以降だが、先述した通り三者の関係は非常に気まずいものだ。
かつて戒律に縛られることを嫌ったロニートは自由を求めてニューヨークに渡り、残されたエスティは自らのセクシュアリティを打ち明けられぬままドヴィッドと結婚したので、今回のラビ頓死を受けてふらっと故郷に戻ってきたロニートに対してエスティが怨嗟らしき感情を抱くのも無理からぬこと。「なにさ。私を捨ててNYに行ったくせに、今頃しれっと戻ってきて。なにさ!」てな具合だろう。
それでも相思相愛の二人は激情のままに身体を求め合うが、ある晩、路チューしてるところをご近所さんに目撃されたことでコミュニティ内に不吉な波紋が広がる。当然ドヴィッドも二人の関係を知ってしまい、そこへ追い討ちをかけるようにエスティの妊娠が発覚する。
ロニート「マズいことになったわね」
エスティ「これは相当にマズいわよ」
うむ、傍から見ててもそう思う。これは非常にマズい。
加えて、本作に通底するもうひとつの軸がロニートのアイデンティティ。死んだラビはロニートの父親だったのだ。彼女はバイセクシュアルとしての自分の生き方を否定するコミュニティの長への憎悪と反撥から是が非でもエスティとの愛を成就させるつもりでいたが、それはエスティとドヴィッドの夫婦関係をぶち壊すことを意味してもいたのだ(しかもエスティは妊娠中)。
ロニート「ややこしい話になったわね」
エスティ「これは相当にややこいわよ」
うん、傍から見ててもそう思う。これは非常にややこしい。
ただ単に宗教における同性愛の是非を問うだけでなく、そこに親子の確執や夫婦の問題といったさまざまな難事がビッグマックみたいに乗っかって盤根錯節を極めた、実にざんない映画である。どう転んでも誰かが誰かを傷つけることでしか終わらないのだ。
愛の破戒者たちの行く末は語らないこととするが、『Disobedience』という原題の意味が「不服従」ということだけはそっと付け添えておく。マックシェイクのように。
愛するロニートとよき夫の狭間で葛藤するエスティ。
◆瞳は切り返されない◆
まあ、映画としてはさほど気の利いた代物ではないけれど、愛し合う二人が少しずつ隘路に追い詰められていく息苦しさや、閉鎖的なコミュニティの底知れぬ冷たさを皮膚感覚に訴えかけてくる触覚的演出はなかなかよく、まずもって誰も楽しそうな顔をしていない。
また、三者の精神状態を表すような曇天が映画全編を覆っており、ロニートは戒律や伝統を冷やかすようにウィッグを付けて町を闊歩する。この辺の比喩表現も豊かだったわ。
もちろん映画の山場はWレイチェルによる渾身のラブシーン。レイチェルのレイチェルを噛んだり舐めたり、唾液を交換したり…。やってることは過激だが、官能詩のように情愛と性愛が入り混じるエモーショナルな愁嘆場に仕上がっている。以前に「もうラマンの限界だ!」と喚きながらズタズタにこき下ろした『愛人/ラマン』(92年)よりも遥かに美しい情欲描写だ。
セバスティアン・レリオの作品は初めて見た。
アルゼンチンに生まれてチリで育った、このカイル・マクラクランとレイ・リオッタを合わせてその辺のB級TVタレントで割ったような華があるようで実はないといった顔立ちのレリオは『グロリアの青春』(13年)や『ナチュラルウーマン』(17年)で秘かに頭角を現していると耳にしつつ、観たい観たいと思いながらもなんとなく観てこなかったので今回初めてレリオをレリゴーしたわけだが、まあクセの強い作家である。
カイル・マクラクランとレイ・リオッタを合わせてその辺のB級TVタレントで割ったような華があるようで実はないといった顔立ちのセバスティアン・レリオ。
と言うのも正面からのショットが異常に少ないのね。
レリオは正面よりも横顔に執着する。たとえばロニートとエスティが見つめ合う場面。
通常であれば正面(厳密には少し斜め)から捉えた両者のアップショットを切り返すことで本来は結ばれていない視線をカットによって結び付いているかのように見せかける(もちろん実際はカットされたことによって視線は寸断される)のがイマジナリー・ラインの原則だが、レリオはこの原則に従わず、互いに見つめ合う二人の横顔をすとんとカメラにおさめる。
つまるところ、結ばれた視線などというものは“見つめ合う横顔のショット“によってしか視覚化され得ないのが映画の原理であり、ある意味ではカメラが二人の視線の間に入ってそれぞれの顔を切り返す行為はカメラの傲慢ともいえるわけだ。そのことに何故かやたら敏感なレリオは、“ロニートとエスティが見つめ合う横顔”と“エスティとドヴィッドが見つめ合う正面ショットの切り返し”を巧みに使い分けることでエスティにとって本命の相手が誰なのかということを視線/非視線的な構図によって示唆してみせる。
そういう意味ではすぐれて線的な、あるいは面で観てもしょうがない映画を撮る監督だなーと思う。壊れかけのレリオだなーと思う。
「結ばれた視線」は見つめ合う横顔のショットによってしか視覚化されない。
~おまけ~
それにしてもレイチェル・ワイズのオファー選定は年々カタくなっているねー。Amazon配信限定の『コンプリート・アンノウン』(16年)みたいに低予算で作られた劇的展開とは無縁の内省的な文芸映画だったり、『トゥルース 闇の告発』(11年)や『否定と肯定』(16年)のような社会派映画だったり。どことなくニコール・キッドマン然としてきたなぁ。
と思いきや、MCU次作の『ブラック・ウィドウ』(20年)に出演ですか。でも、それすらニコさまと同じだからね。今やニコさまクラスの役者でも「ここらで一丁アメコミやっとくか」のブランディングが必要な時代。
とはいえレイチェル・ワイズはいくらなんでもカタ過ぎるので、もっと『コンスタンティン』(05年)みたいなマヌケな映画にも出てほしいのだけど。いっそマクアダムスと合体すれば釣り合いが取れていい感じになるのではないかしら。
『コンスタンティン』のレイチェル・ワイズ(キャリア史上最高のレイチェリングぶり)。
なお、レイチェリングがどういう意味かについては教えてあげないこととする。
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