シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

にがい米

田植えする映画なのになんで銃なんて持ットリオ。

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1949年。ジュゼッペ・デ・サンティス監督。シルヴァーナ・マンガーノ、ドリス・ダウリング、ヴィットリオ・ガスマン、ラフ・ヴァローネ。

 

警官に追われて水田地帯に紛れ込んだ一人の女。そこで田植えをする女と争いが起こる。さらに2人の男を巻き込み、物語は悲劇になっていく…。社会派監督ジュゼッペ・デ・サンティスが手掛けた、米作地帯を舞台に女性季節労働者たちの熱気溢れる世界を描いたイタリア映画の傑作! (「Oricon」データベースより)

 

はい、おはようさんです。

先週、執筆と飲酒で忙しい中、どうにか時間を作って「ラジオ体操第1577」というすさまじい体操を考案いたしました。本来であれば皆さまの前で披露するのが考案者としての務めではございますが、いかんせん「ラジオ体操第1577」は手が5本と足が18本ないと実践できない高度な体操となっておりますので、実技披露は控えさせて頂きたく存じます。

「じゃあせめてどのような運動をするのか、図解だけでもいいから公表してくれ」と仰られる体操ファンの方もおりましょうが、実践できないモノを図解で示したところで畳の上の水練です。例えるなら、小さな女の子に絵本を読み聞かせて「いつか貴女もこんなお姫様になれるからね」と言う母親のように、子をぬか喜びさせるだけの甘き幻想。これぞ絵に描いた餅、捕らぬ狸のディストピア。実際問題、一般家庭に出自を持っている時点でお姫様とか土台むり、といったシビアな現実が厳として横たわっているのであり、此れに目をそらして夢にまどろむのは当人の自由だけれども、大人になったあとに“夢を見続けたツケ”は回ってくるのです。

そりゃあ僕だって人の子ですから、お姫様になりたいと云ふ女子あらば「いいな。かわいいな」とは思うし、出来ることならパトロンになって支援物資とかいろいろ送ってあげたいとは思います。カチューシャを買ってあげたり、友達から借りたディズニーのビデオを又貸ししたり。けれども、もしその子から「なれると思う?」と単刀直入に訊かれたら「なれないと思う」と返答せざるをえません。返答せざるをえない自分が悔しくもあります。だけどなれない。こればかりは気持ちの問題じゃない。血の問題なのです。

そりゃあ僕だって「ラジオ体操第1577」を踊りたいですよ。「こないして。こないな事もして。な?」って言いたい。そして親を喜ばせたい。「いつの間に1577を踊れるようになったの!?」と感心されたい。だけど無理です。身体造形的に。

ここで大事なのは、「なんだ、お姫様になれないのか…」=「諦めるしかないのか…」と考えるのではなく、「違うものになればいい」という発想に切り替える柔軟さです。かつて、マリー・アントワネットという大物タレントは「パンがあらへんかったら米食うたらよろしやん」というような意味のことを言いました。

これです。お姫様になれないのなら、米を食ったったらいいのです。

そんなわけで本日は『にがい米』です。いつも脳死でコピペしてる「そんなわけで」が珍しく接続詞として意味をなした。

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◆水田耕作映画の金字塔◆

このたび、私が発表する「ずっと観たかった映画ランキング」で第579位に輝いた『にがい米』がTSUTAYA発掘良品から出たので、万引き小僧みたいなすばしっこさでレンタル。人に見られると「うわ。あのひと見るからに小食なのに『にがい米』なんて食事に関するタイトルの映画借りてる」と思われて恥ずかしいので、誰にも見つからないように周囲の様子を窺いながらこっそりとレンタルした。

『にがい米』は戦後イタリアのネオレアリズモを代表するジュゼッペ・デ・サンティスの作品である。

ルキノ・ヴィスコンティやロベルト・ロッセリーニと共同作品を手掛けてきたジュゼッペ・デ・サンティスはコッテコテのネオレアリズモ作家であり、中でも畢生の監督作として名高いのが本作。

ファシズムへの抵抗を掲げたネオレアリズモが扱う主なテーマは(1)失業問題、(2)戦災孤児、(3)社会階級だが、本作にはすべて詰まっているので、それがまず「いいな」って思った。

『にがい米』という邦題があまりに明け透けなのでいったいどんな映画なのか逆に気になるだろうが、本作は水田耕作に汗するモンディーナ(田植え女)たちの労働ダイアリーである。

毎年5月になると季節労働者が殺到する北イタリア・ポー河流域の水田地帯を舞台に、出稼ぎの女たちが田植えや田草取りに従事するうちに、連帯、交歓、裏切り、派閥争いといったさまざまなドラマが芽吹き、やがて米泥棒の発覚、尻の見せつけ合い、殺人事件など壮絶な物語に発展する…!

 

主演は『アンナ』(51年)シルヴァーナ・マンガーノ

ほかにもパゾリーニの『テオレマ』(68年)やヴィスコンティの『ベニスに死す』(71年)でも知られるイタリアのセックス・シンボルである。本作『にがい米』は日本でも大ヒットし、そのグラマーな胸や太腿をこれ見よがしに振り回しての扇情的なダンスが当時の日本人に衝撃を与えたことから「原爆女優」というものすごいニックネームが付けられました。

原爆女優…。

また、ヴィットリオ・デ・シーカ、マウロ・ボロニーニ、ヴィスコンティ、パゾリーニらイタリアの名匠が集結したオムニバス映画『華やかな魔女たち』(67年)では若き日のクリント・イーストウッドと共演してもいる。

ところが、私が惹かれたのは準主演のドリス・ダウリングであった。

日本に住む我々にはビリー・ワイルダーの『失われた週末』(45年)とオーソン・ウェルズの『オセロ』(51年)ぐらいでしか目にする機会のないアメリカ出身の端役女優だが、そんなドリス・ダウリングが初めてダウリングダウリングした本作を観てびっくり。器量よし、佇まいよし、風も光も味方につけてスクリーンに生きる姿は神々しくさえあった!

上記の作品以外では取り立てて目立った活躍はないが、私がおいおい発表しようと思っている「もっと評価さるべき女優ランキング」の第57位に位置づけちゃう。もっとも、裏を返せば「こんないい女優を蔑ろにしても許されるほど40年代の米俳優が豊作すぎた」とも言えるのだが。

f:id:hukadume7272:20200613020348j:plain原爆女優の名を欲しいままにしたシルヴァーナ・マンガーノ(左)、「もっと評価さるべき女優ランキング」で57位に輝いたドリス・ダウリング(右)。

 

映画が始まると、トリノ駅で警察に追われていた宝石泥棒のヴィットリオ・ガスマンが恋人のドリスに別行動を提案し、盗んだ首飾りを彼女に預けて田植女の群れに紛れ込ませるシーンに始まる。

わけもわからぬまま列車に詰め込まれたドリスは、そこで擦れっ枯らしのズベ公・シルヴァーナと出会い農村に運ばれていくが、彼女たちに用意されたのは泥と闇にまみれたコンクリート打ちっ放しみたいな大部屋。壁にはイタリア兵が残した下品なジョーク。寝場所の争奪戦を繰り広げた女たちはようやく田植えに向かったが、雇用契約を交わしていないモグリが大勢潜んでいることが発覚し、たちまち女たちは雇用組代表のシルヴァーナとモグリ組のご意見番ドリスを主導者として分裂する。

シルヴァーナ「契約がないなら働く資格なし! 私たちの仕事を奪うな!」

ドリス 「全員平等に仕事を与えるべし! 食いっぱぐれは敵わん!」

ここから苛烈なバトルが始まるのだが、そのバトルの内容というのが「どっちが早く苗を植えられるかを競う耕作リレー」。

労働基準をめぐる揉め事の解決方法が労働に還元されとる。

結局ドリス率いるモグリ組が雇い主に直訴して全員雇用されることになり、ようやくシルヴァーナとも友好関係を築けるようになったのだが、このあと更なるトラブルが次々と惹起する『にがい米』

ちなみに彼女たちは、労働の対償として金ではなく米を受け取ります。自分たちで作った米を報酬代わりに受け取るという、なんとも言えないこの感じ…。貧困や失業問題を皮膚感覚に訴えかけてくる、この感じ。ネオレアリズモまる出しであります。

f:id:hukadume7272:20200613020515j:plain労働に従事するドリス。

 

◆徐々に物騒な展開に…◆

非常に見所が多く、また見応えのある作品だ。

画面の密度、物語の濃度、現地ロケの迫力、キャラクターの活力、撮影技法に富んだ手練手管の演出。金髪丸顔・健康美のシルヴァーナと、黒髪面長・艶麗美のドリスの対照。水田という大して面白味のない舞台にも関わらず単調に陥ることを回避し、むしろドラマティックな熱を生み出す“環境”として画面化されたオテロ・マルテリの撮影もいい。

マルテリといえばフェリーニの『道』(54年)『甘い生活』(60年)でも生々しい人間を陽光に晒したり闇夜に包んだりしてきた撮影監督が、この男がカメラを向けるといかな美男美女でもあらゆる美化を禁じられた“地べたの人間”として剥き出されてしまう。誰がどう見ても豪華なセットのなかで高級衣装に身を包むべきシルヴァーナ・マンガーノとドリス・ダウリングを“泥だらけの田植え女”に変えてしまうのだから、これは並大抵の腕ではない。

女たちが地べた的なら男たちもやはり同じで、警察を振り切って農村に現れたヴィットリオ・ガスマンと、ドリスが惚れた兵士ラフ・ヴァローネは、シルヴァーナがドリスから盗んだ首飾りをめぐって男同士の殴り合いを演じる。

『嘆きのテレーズ』(53年)で知られるラフ・ヴァローネは禿げてないかわりに顔のでかいジュード・ロウといった容貌で、ひとまず色男や貴公子の役が似合う役者ではある。現にファーストシーンでは屈強な正義漢として登場したし最終的にもドリスと結ばれるのだが、いかんせん重度の面食いだった。盗まれたドリスの首飾りをシルヴァーナから取り返そうとするも、そのグラマラスボディにやられてシルヴァーナをたらし込もうとする始末。だが彼女を落としたのはヴィットリオの方で、米倉から大量の米を盗みだす作戦…通称「精米かっぱらうしかあるまい計画」に彼女を加担させる。

すべてのキャラクターが身も心も汚れきっているのだ(一見淑女に見えるドリスも、もとを正せば宝石泥棒ヴィットリオに協力していた情婦)。

f:id:hukadume7272:20200613020733j:plainラフとシルヴァーナ。

 

過日、朝から大雨なので急遽振替休日になった女たちだが、呑気に休んでいても故郷に帰る日が延びるだけだと考えてあえて田植えに繰り出す。といっても満場一致でそうなったわけではなく「あんたが行くなら私も行く…」の心理で仕事に向かうあたりがまた面白いのだが、この大雨のシーケンスは2つの悲劇のカットバックによってダイナミックに構成されている。ヴィットリオが枝を鞭のようにしならせてシルヴァーナを滅多打ちにするSMプレイの場面と、ドリスたちが仕事中に発作を起こして水田の藻屑と化した仲間を助け出す場面である。

「痛みを忘れるために歌うのよ!」と言われた発作女が、仲間たちと共に謎めいた歌を絶唱しながら大雨の畦道を担がれていく様子はいかにも異常。そのうえ、痣だらけで水田に戻ってきたシルヴァーナは彼女たちの絶唱を聴いて「もうやめてぇぇぇぇ!」と発狂する。

さっきまで皆楽しそうだったのになんでこんなことになるん。

 

『無防備都市』(45年)然り『自転車泥棒』(48年)然り、ネオレアリズモ作品では混迷するイタリア社会を取り巻く負の力学によって物事は必ず悪い方向に突き進んでいくが、例によって本作も“大雨の悲劇”のあとに更に壮絶な事件が巻き起きる。

共謀したヴィットリオとシルヴァーナの「精米かっぱらうしかあるまい計画」を阻止しようとしたラフ&ドリスが米倉を舞台にハードアクションを繰り広げるのだ。

ヴィットリオの投げたナイフがラフの肩に突き刺さる!

ドリスが放った銃弾がヴィットリオを蜂の巣にする!

あまりに物騒な展開に驚きを禁じ得ないが、百歩譲ってナイフ投げは分かるとして…なんで銃なんて持ットリオ。

ヴィットリオを射殺したことで落着したが、彼を愛していたシルヴァーナは完全に精神がイカれてしまい、田植え作業を終えた打ち上げの日に櫓の上から飛び降り自殺してしまう。

そして帰郷の日、報酬として米入りの頭陀袋をもらったドリスたちは、広場に安置されたシルヴァーナの遺体に「ドンマイ」、「米だけに」と言いながら精米をぱらぱらとかけてやるのだ。ナン米ダブツ。

f:id:hukadume7272:20200613021130j:plainヴィットリオとドリスは宝石強盗カップル(後に破局)。

 

◆ネオレアリズモを観よう◆

「貧困」というテーマを一切見せることなく、家族を失った「孤児」としての女性たちが農村という共同生活空間に「階級」を作り共存する。ネオレアリズモの基本精神をひとつずつ押さえた作劇はメタファーという形でも内在化しており、それはたとえば盗んだ首飾りという“富”が逆説的に貧しさを物語っていたり、その首飾りが虚栄の贋物だと明かされたことで“貧困ゆえの活力(これも逆説)”がフィルムに照り返されるといった言外の説話に顕著である。

シルヴァーナとドリスの分かり合えそうで分かり合えない関係性が、しかし寸断を免れた視線の合致によって映画的としか言いようのない息遣いとともにメロドラマたりうる瞬間にも大いにシビれるが、いちばんシビれた…というか衝撃的だったのはシルヴァーナのダンスである。アメリカ映画だと一発でヘイズコードに引っかかりそうなほど扇情的で、よい子は見ちゃダメ!なのである。しかも腋毛までファ〜っと生えている。

あとこれはオマケの一言だが、シルヴァーナやドリスを見ていると『もののけ姫』(97年)のタタラ場で働く女たちを思い出しました。

そう、これはおトキさん達の物語なのだ。

f:id:hukadume7272:20200613020953j:plainタタラ場の女たち(違うがな)。

 

~ネオレアリズモ相談センター~

「ニューシネマやヌーヴェルヴァーグは観てるけどネオレアリズモはあんまり…」

こんな映画好きが存外多いのではないかしら。ここではそんな人々の相談に乗り、ネオレアリズモへの抵抗感を少しでも緩和するべく、親身になって皆のことをサポートしたいって思ってる。そんな思いから生まれたコーナーです。

まず、どうして人はネオレアリズモをあまり観ないのだろうと考えたとき、真っ先に思い至った要因は「名称が覚えにくいから」というものだった。

ただでさえネオレアリズモ(イタリア映画運動)とネオリアリズム(新現実主義)が紛らわしいのに、これらを混同してネオレアリズムと言ってしまう…といった過ちを人類は幾度となく繰り返してきました。

かくいう私も、長年「リズモ」を「リズム」と勘違いして「ネオレアリズム」としきりに豪語していた時期があったし、その間違いに気付いたとき「二度とネオレアリズモなんて観るか!」と逆上したものだが、今の私はいつも心にリズモがあるので二度と同じ轍を踏むことはない。

したがって、名称が覚えにくいという人は心にリズモを持つとよい、ということが言えると思う。

 

人がネオレアリズモを観ない第二の要因は「陰気」とか「堅苦しい」といったものだろう。

たしかに、ネオレアリズモは40~50年代のイタリア社会の暗部を抉っているので画面もテーマも物語も暗いし、しょぼくれた人民の不幸な生活を描いているので世知辛いことおびただしい。こればかりはどうしようもないが、とはいえ別にネオレアリズモを立て続けに観ると死ぬ病気に罹ってるわけでもないんだし、陰気とか言ってないで観たらいいんじゃないですか。

というか、ネオレアリズモは陰気だとか言ってるオマエ自身がすでに陰気だ。あれこれ理由を探して“観ない自分”を正当化する態度の方がよっぽど堅苦しいのとちがうかな?

まあ、そういう私はロッセリーニの『ストロンボリ』(50年)を観てないのだが。だって陰気で堅苦しそうじゃない?

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