踊れ筋肉。よろめけ美徳。世界のMISHIMA、銀幕に見参仕る!
1960年。増村保造監督。三島由紀夫、若尾文子、船越英二。
当時、世界的に高名となっていた三島由紀夫が主演し、やくざの跡取ながらどこか弱さや優しさを持った男を演じている。やくざ同士の命のやりとりに身を晒して生きる武夫は、ある日けなげに生きる若尾文子と出会い彼女の愛を一身に受けるようになる。(Amazonより)
ういうい、おはよー。
私にとって忍者コンテンツといえば『NARUTO -ナルト-』よりも『NINKU -忍空-』、妖怪退治コンテンツといえば『犬夜叉』よりも『GS美神 極楽大作戦!!』ということだけはこの際ハッキリと申し上げておきます。
それはそうと、今月コンピューターを買い換えました。だからどうしたという訳でもないのだけれど、お祝いしてもいいよという方がいらっしゃいましたら、各人、好きなスタイルで祝って頂ければと思います。僕はそれを無視するまでです!
そんなわけで本日は『からっ風野郎』です。
普段より幾分ボリューミーな回ですので、それによって「読むの面倒臭い」と思う一派と「暇潰しの時間が増えて嬉しい」と思う一派に分かれることが予想されます(後日「シネトゥ国勢調査」をおこないますので必ずどちらかの派閥には属して下さい)。
◆肉体派作家MISHIMA ~後頭部にダメージを受けながらの意地と執念の撮影~◆
戦後日本文学界で自己闘争と美の追求に命を燃やした行動派の文士、三島由紀夫。
私は彼の美文に心酔し、その思惟的な文体に影響を受けた人間のひとりだが、ベストセラー小説『金閣寺』(56年)によろめいてからは「いけねえ、思想を乗っ取られる…」と危機感を覚え、なるべく読み返さずにいる作家のひとりだ。
そんな三島が映画初主演。
ズコーッ。
うんにゃ、ノット・ズコーなのだ。三島は随筆やコラムなどに多くの映画批評を寄稿してきた映画好きで、とりわけ文芸映画よりも活劇映画をよく好んだという。且つ、私生活ではボディビルで鍛え上げた肉体を誇示。大映の永田社長から「やるけ?」と訊かれて二つ返事で飛びついたのは当然の成り行きだったといえる。
はいよっ、そんなわけで『からっ風野郎』。
監督は増村保造。読み方は「ますむら たもつくり」です。三島とは東大法学部の同期生だ。
できあがった脚本は、三島演じる無教養なヤクザが敵対する組の親分を遮二無二狙うも、逆に敵方の雇ったヒットマンに遮二無二狙われて大層イヤなきもちがする、といったハードボイルト路線である。
大映側から相手役の女優を自由に選ぶ権利をゲットした三島は、やや食い気味で若尾文子(キャワオ)を指名した。どうやらキャワオのぽちゃぽちゃとした顔が好みだったらしい。
世界的文豪の性的嗜好に基づいた一存でキャスティングされてしまったキャワオ。
脇を固めるのは大映が誇るハンサム風雲児・船越英二と川崎敬三、それに東宝・黒澤明の『生きる』(52年)や『七人の侍』(54年)でお馴染みの志村喬。ヒットマン役には『アウトレイジ ビヨンド』(12年)が遺作になった神山繁など、なかなかの豪華俳優が揃った。
世界のMISHIMA、銀幕見参!
さて。映画がクランクインすると、三島は増村組に向かって「自信があるのは胸毛だから、よろしくお願いします」と挨拶して現場入りした…という逸話が残っている。
「自信があるのは胸毛だから」の意味がまったく分からないが、おそらく文豪ジョークなのだろう。
しかし演技経験がほとんどない三島の三文芝居に日夜増村の怒号が飛ぶという壮絶な撮影現場になったようで、増村の演技指導という名の罵詈雑言ぶりに周囲のスタッフや共演者は肝を冷やした。なにしろ相手は世界的作家である。
されど自分が畑違いの素人だと重々自覚している三島は、たゆまぬ努力とニッポン男児のなにくそ精神で黙々とテイクを重ね、その愚直なまでにひたむきな姿を見ていたキャワオらは「三島さん、えらいっ!」とエールを贈ったようである。大好きなキャワオに褒められた三島はうれしいきもちがした。
その後、増村に「へたくそ!」とか「しゃもじ顔!」とドカギレされながらも三島の不慣れな撮影はそこそこ順調に進み、残すところラストシーンだけとなったが、ここで未曾有のハプニングが発生。
ヒットマンの凶弾に倒れるクライマックスの撮影にて、勢いよく真後ろに倒れた三島がガチで後頭部をしたたか打ちつけ「美徳のよろめき!」と叫んで気絶したのである。
撮影は即刻中断され、病院に搬送された三島は10日間の入院を余儀なくされた(ベッドの上でキレたらしい)。
物書きにとって頭は何よりの資本。その頭が後遺症でおかしくなることを危惧した三島は「もういやだっ!」と駄々っ子のように騒ぎ、荒れたが、今さら引き返すわけにもいかないのでファイナル・ガッツを見せて無事クランクアップまで漕ぎつける。事故後、特に三島の頭がおかしくなった様子はなく、打ち上げでは「頭が無事でよかったじゃん」、「飽くなきガッツが実を結んだじゃん」と関係者一同が三島を讃えた。
しかし映画が封切られると三島への評価は惨憺たるもので、「大根」、「しかも、おでんの大根」など厳しいバッシングに晒された。中には「大根サラダ好き」などと映画とまったく関係のないたわ言をほざく者もいた。
当の三島にとっても芝居の難しさを痛感する結果となり、ヒュッと肩をすくめて「もう活動はこりごり」と弱音を吐いたことはあまりに有名。
活動…活動写真。昔は映画のことをそう呼んだ。
とは言いつつ、のちに自作を映画化した『憂国』(66年)では監督/主演を務め、五社英雄の『人斬り』(69年)では勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢との共演で見せた芝居で好評を得ているのだけどね。よかったじゃん!
そんな本作は、魅惑的な政治思想で戦後文壇に衝撃をもたらし、カリスマ作家でありながらクーデター後に割腹自殺を遂げるというセンセーショナルな「三島事件」の当事者が天下の大映で初主演を飾った…という文化的トピックばかり取り沙汰されているし、事実わたしもこうして取り沙汰しているけれども、次章では頑張って“映画俳優・三島由紀夫”を見つめ倒したいと思う。
キキャワオに筋肉を見せびらかす三島。
◆悪を企むキザなMISHIMA◆
三島の役は新興暴力団の親分・根上淳の暗殺をトチって服役している二代目ヤクザである。
出所後はオジキの志村喬と若頭・船越英二の世話を受けている身だが、なぜかヤケに態度が大きく、とびっきりキザな男なんである。革ジャンを着たかと思えば次の瞬間には脱いで裸になったり、変なところに重心を置いて佇んだかと思えば目を細めて壁に凭れかかる…など「メンズノンノの撮影ですか」と訝しく思うほどのナルシぶりだ。
この頃の三島はボディビルで全身モリモリだったので、好むと好まざるとに関わらず筋肉映画としての性格を手にしてしまった本作…。『からっ風野郎』というよりはガチムチ野郎と呼んだ方が早いかもしれないねぇ。
しかしどうも格好がつかないんだ、これが。
出所後、ナイトクラブで妖しいバナナのうたを歌う愛人(すげえブス)の家に転がり込むも、抱くだけ抱いて「おめえとはこれっきりだ。あばよゥ!」と軽やかに捨ててみせるキザっぷりや、次にアプローチを掛けたキャワオが「ダメよダメダメ」と抵抗するので思いっきり張り倒して力尽くで純潔を奪うさまなどもいかにも昭和漢。まさに沢田研二の「カサブランカ・ダンディ」の世界である。
ききわけのない女の頬を ひとつふたつ張り倒して
背中を向けて煙草を吸えば それで何も言うことはない
ボギー ボギー あんたの時代はよかった
男がピカピカのキザでいられた
ボギー ボギー あんたの時代はよかった~
男がピカピカのキザでい~ら~れ~た~~~
まあ、たいへん結構なことだが、とかくそうしたキザな身振りちゅうのは沢田研二や勝新太郎のような色気のある男がやるから似合うのであって、凡なる男がジュリーだカツシンだと粋がって女を引っ叩いたところでそれは単に婦女暴行。
そこへきて三島はどうか。
小柄、猫背、面長という与太郎三拍子をコンプリートせしパッパラパー。
ヤケに筋肉だけ発達したパッパラパー。タレ眉、ゲジ眉、パッパラ眉。覇気も色気もなく、言っちゃあ悪いがマヌケ寺のバカタレ坊主にしか見えないのである。
そんな三島が棒立ち・棒読み、棒歩きでイキり倒すのだから観てるこっちが赤面してしまう(ラッシュを見た三島も大層赤面し「仮面の告白!」と叫んでもんどり打ったことはあまりに有名)。
とっぽいナー。
そのうえ三島が演じた主人公が猛烈なクズとくるんだ。
下宿先の管理人・キャワオを力尽く(端的にレイプ)で我が物とした挙句、ストックホルム症候群的に自分に惚れさせるのである。
さらには、真っ向勝負だと敵対組織の根上淳に敵わぬと考え、根上の幼い一人娘を誘拐して身代金まで要求するのだ。
また、キャワオが妊娠したと知ると紙幣を投げ捨てて堕胎を勧める始末。ク…クズっ!
そのうええええええええええええああァァァァ
彼女が中絶を拒否すると産婦人科でもらった中絶薬を騙み飲みさせようとするのだ!
まだじゃああああああああああああああ
かかる邪悪な中絶計画に勘づいたキャワオが飲むフリだけしてあとで薬を吐き捨てたと知るや否や「謀ったな、このアマ!」と激昂して往復ビンタでキャワオをぶちのめすンである!
…謀った?
キャワオを騙して中絶薬を飲ませる三島。
悪を企んでいるぞっ、といった渾身の表情芝居を見せる。
「悪を企んでいるぞっ」
これが物書きの限界…。
やはり作家に俳優業はむずかしかったー。
だが、そんな風来坊の三島も焼きが回ったようだ。ヒットマンの神山相手に油断したのである。
この神山、殺し屋のくせに喘息持ちという設定が大変おもしろく、咳で手元が狂って銃を外したり、船越の恋人が経営する薬局を偶然訪れてニアミスするといった描写がさり気なくもストーリーの推進力になっているのだ。喘息さまさまなんである。
そしてクライマックス。神山の執拗な追撃を振りきった三島は遂にカタギになる決意を固め、翌日キャワオと駅で待ち合わせして田舎へ逃げる算段らしい。今となっては死亡フラグ。
案の定、翌日東京駅でキャワオと合流して電車を待っていた三島は、生まれくるベイビーのために服を買おうと階下のデパートに向かったところを神山に撃たれて絶命するのだ(撮影で後頭部を強打したシーン)。
ってこれ、デ・パルマの『カリートの道』じゃない!
もちろん本作の方が先に作られてるんだけど。
以前も『ミッドナイト・ラン』評で述べたが、映画において“駅・空港”は出会いと別れの場なのである。
デパ地下で撃たれて上りエスカレーターを下りようともがく姿は、アル・パチーノがやれば壮絶な最期になっただろうが、どうもクニャクニャ動きの三島だとタコ体操にしか見えず、不本意ながら本作でいちばん笑ったシーンになってしまった。
三島の死体を乗せて静かに上昇するエスカレーターの動きがなんとも素っ気ない。
エスカレーター逆走エンド。死に顔はいい。
◆三島由紀夫のイコノグラフィー◆
なんやかんやで楽しませて頂きました。
ばかに発色のよいフィルムは96分の尺に具合よくまとまっていて、当時の東京の風俗描写も目に楽しい。ロケーションが多いのも嬉しすぎる。
しかし三島の芝居はどう控えめに見てもヒドく、感情希薄で迫力不足、身振りも退屈。存在そのものに必然性がなく、映画が「来るな」と言っているのに無理やりフレームに押し入ったような、そんな身体の厚かましさがあった。声の平坦さに至ってはCM出演時のアスリートを思わせるほどだ。なまじ三島を囲む共演者たち(特に船越)がうまいだけに一層稚拙ぶりが際立つのである(ボロカスだな)。
それゆえに、だ。
それゆえに“三島由紀夫の主演映画”としてはコレで正しいのかもしんない!
ここからは少し…いや、かなり面倒臭い話をする。
撮影現場では三島をさんざん怒鳴りつける一方で、その稚拙ぶりなど一顧だにせず映画を進行させてゆく増村のダブルスタンダードは、スクリーンの中の三島を異形たらしめ、その不自然で不格好な存在が際立つほどに“イコンとしての三島由紀夫”を前面化せしむる異化装置なんである。
したがって本作の三島は見えないパーテーションによって隔絶されることになった。そこに映っているのは、彼が演じた“朝比奈武夫”という男でもなければ“俳優・三島由紀夫”でもない。“作家としての顔も、俳優としての貌も持たない、無記名の肉体”にほかならないのだ。
故にわれわれ観客の目に、スクリーン上の主演男優は限りなく三島由紀夫に似た謎の珍奇男として映るわけ。
限りなく三島由紀夫に似た謎の珍奇男。
おそらく増村の狙いは三島由紀夫が三島由紀夫によって異化されるという前代未聞の文学実験にあったのだろう。
三島由紀夫は自己相対化の人であり、「肉体改造に励むオレ」とか「その肉体を自ら処刑するオレ」という具合に、終生自己の演劇化に固執することで「三島由紀夫」を内外両面から作品化することで三島由紀夫たりえた人物である。
その三島ショーの片隅にぽつねんと佇む本作もまた三島文学の傍流。
つまるところ、三島由紀夫の作家性をまるごと映画表現したものが本作という寸法なのである。
まあ、芝居ができない人を使って普通の商業映画を撮ることなど土台ムリな話なので、こうでもしないことには映画が成立しないという窮鼠増村の背水の陣だったのだろう。
「三島由紀夫」という名の世界を巻き込んだ演劇プログラムの一翼を担い、映画と文学の双輪で駆動するからっ風装置。
決してすぐれた作品ではないけれども、すぐれた作品でないほど映画はおもしろい。
この商業映画のジレンマに、芸術的敗北をあえて志向した本作は、ある意味では勝利していると思います。
もはや糞まじめにうまい芝居をしている共演者たちにこそ「何やってんだ?」と感じてしまうほど、三島のヘタさは何物にも相対化されえない。増村は負けることで勝つのかー。なにそれ~。
背中合わせの交渉シーンがベリークール。