シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

長屋紳士録

進め放屁、しぶといツラ魂で明日をにらめ。健やかに育て。

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1947年。小津安二郎監督。飯田蝶子、青木放屁、河村黎吉、笠智衆。

 

戦後間もない東京には戦争で親を亡くした戦災孤児がたくさん居たが、その中の一人を拾ってきた男は、その子を女に預けてしまう。女はその子が疎ましくて仕方がないので、どこかに置き去りにしようとするが、なかなかうまくいかない。そのうち、その子供に情が湧いてきて、二人の間に実の親子のような絆が生まれてくる…。(Amazonより)

 

おはようごぜえます。

メッセージの伝達意欲が日に日に低下してる気がするわーって話を今からするわー。

たまに呪詛のごとく唱えているけど、映画批評なんてもんは書いても無駄だし、読んでも無駄なのね。そう決まってるのね。

映画を観ることは何処までいけど感覚の作業なので、いかな理屈っぽく技法を紐解いて「だからあすこのカメラは好いんですよ」と結論してみても、読み手との間に感覚のズレがあれば何ひとつ伝わらない。頭で理解して頂けたとしても、それは説明が伝わったというだけのことであって、必ずしも映画の好さが伝わったわけではない。そもそも映画=イメージというのは他者と共有できないので、もとより批評の不可能性の前に砕け散ってるんだと思うわ、僕たち。

ここは『シネマ一刀両断』という映画ブログですけど、ここで書かれた“映画”なんてものは、しょせん私がイメージを言語化して、その言語から読者がすきずきにイメージした“映画という名の錯覚”に過ぎないので、いわば伝言ゲームの最初と最後ぐらいチグハグになってるわけよね。それに私がしてることだって、正確には「イメージの言語化」ではなく「イメージの記憶の言語化」だからね。映画はスクリーン上にしか存在しない。もっと言えばスクリーン上に存在するのは光と影。その明滅だけであって、図像はこっちで勝手に結んでる。見たいものだけ見て、都合よく解釈してるだけ。普段、僕たちは軽薄きわまりないトーンで「映画を観た」なんてのたまってるけど、いや、観てないからね。

つまりなんだ、僕と君が仲睦まじく肩を並べて『羊たちの沈黙』(91年)をポテチばりばり食いながら観ても、二人はまったく別の映画(イメージ)を観てるわけ。いわば『羊たちの沈黙』という語と『沈黙の羊たち』という語では、意味は同じだけど言葉としては違うわけでしょう。だからその、同じようで違うものを……ああ、やっぱヤメ。例えミスったわ。

違う例えを用意しました。ともに夜景を眺めるカップル。女は煌びやかなビルの星座に酔い痴れ、男は遠くの煙に「火事やん」と洟垂らしながらバカ面浮かべて思う! だけど二人は「同じ夜景を見た」という思い出を共有する。

本当に共有したのは思い出じゃなくて“錯覚”だというのによォーッ!!

おととい来やがれ!

そんなわけで、なまじ例え話をしたことで却って要点を見失った本日、『長屋紳士録』です。るんぱ。

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◆放屁の営為~Fart Boy Wildlife~◆

あらよォー! 「帰ってきた昭和キネマ特集」の最後は小津安二郎の戦後1作目『長屋紳士録』で締め括りたいと思う。この映画は「紳士」と題しておきながらおばはんとガキンチョの物語という裏ぎりのホームドラマだ。

過日、長屋に住む笠智衆が見すぼらしいガキンチョ・青木放屁を連れ帰ってきた。

青木放屁。

なめた芸名だ。

千代田区・九段で屁のように漂っていたところを笠が発見したのである。その迷い子を押し付けられたのが独り身の飯田蝶子。数年前に夫を失った蝶子は、荒物屋を営む子供嫌いの意地悪おばさん。近所に住む笠や河村黎吉らに懇願され、素性不明の放屁を家を置くはめになった。

放屁はじつに無愛想なキッズだった。いつも意思不明のファジーな表情を湛え、物言わず部屋の隅に佇んでいる。推定年齢は6~7歳。星座不明。ラッキーアイテム不明。垂れるなと言うのに寝小便を垂れては蝶子から猛烈に叱られるという生活リズムの保持者である。

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放屁のようす。

 

うんざりした蝶子は放屁を海岸に置き去りにして逃げ帰ったが、ふと後ろを振り返ると放屁がしゃかりきに走って追いかけてきた。放屁にしても「この婆さんはイヤだが、厄介にならねば明日はない」と本能的に察しているようだ。放屁の野生がすごい。

そんな折、蝶子はご近所さんの息子がくじで200円を当てたと知り、その当選理由に以下のような見当をつけた。

「むじゃきな子どもは欲がないから運にも恵まれる。逆に大人は煩悩があるからくじが当たらないのさ!」

思わず膝を打ちたくなる見解だが、よく考えると認知バイアスがすげえわ、この論理。

本来は大人も子どもも当選確率は同じだけど大体の場合くじを買うのは大人だから稀に子どもがくじを当てるとその印象が強く残るってだけだろババア。

そこへ旧友の吉川満子が家に遊びに来て、帰り際にお駄賃10円を放屁にやると、さっそく蝶子は「その10円でくじを買っておいで。おまえ、割とむじゃきだろう? 」と笑顔を装い、上機嫌で放屁を外に放った。

だが夕刻、くじをすべて外しておめおめ家に帰ってきた放屁に、蝶子は「この野郎、全部スッちまいやがって!」と逆上した。おもしろいと思ったから俺は笑った。

f:id:hukadume7272:20200928054839j:plain満子から駄賃をもらう放屁。

 

ある日、恐ろしい事件が起きた。蝶子が大事に作っていた庭の干し柿がひとつ消えたのだ!

さっそく放屁が捜査線上に浮かび上がり「おまえが食ったんだろう、ガキ!」と難詰されたが、放屁は頑として容疑を否定。

「しぶといガキだね! 白状したらいいのにサ!」

するとそこへ河村黎吉がやってきた。この男は蝶子に放屁を押し付けたチャランポランな男である。どうやら干し柿を食った犯人は黎吉らしい。このジジイ!

この時ばかりはさすがの蝶子も悪いと思い、ビービー泣きじゃくる放屁に干し柿を与えた。それに蝶子には、しぶとく冤罪と戦った放屁のガッツがいじらしく思えたのである。

「おばちゃんが悪かったよ。これ食って元気だしなよォ…」

 

ところが翌朝、放屁が消えた。

またぞろ寝小便を垂れ散らかした放屁は、かかる不義理にけじめを付けようとして蝶子の前から姿を消したのだ。責任の取り方が“間違った武士道”に基づいているという。

失踪を知った黎吉は「おっ、却ってせいせいしたじゃねえか」と笑ったが、顔面蒼白の蝶子は一日かけてほうぼう探し回った。いつしか芽生えた放屁への愛が蝶子を走らせたのである!

その夜、霧散したはずの放屁が笠に連れられて帰ってきた。

そう、千代田区・九段で屁のように漂っていたところを笠が発見したのである。

おまえは何かあるとすぐ千代田区・九段だな。

九段の申し子やないか。

この日を境に二人の関係性に大きな変化が訪れた。蝶子は実の子のように放屁を可愛がるようになり、放屁の方も少しずつ蝶子になつき始めたのだ。なんと肩叩きまでしてくれるというのだっ。

そんな折、蝶子の家にひとりの男がやってきた。そうとも。何を隠そう放屁のパパンである。はぐれたパパンと再会した放屁を、蝶子は笑顔で送り出してやるのだった。もちろんその笑顔は惜別の情を悟られまいとするささやかな抵抗だった…。

f:id:hukadume7272:20200928054450j:plain肩たたきに従事する放屁。

 

◆カメラを凝視してはいけない ~Don't Look At Me~◆

『長屋紳士録』、これすごく面白かったよ。

小津が会社に催促されて渋々撮り上げたにしては、その消極的な態度は71分という上映時間にしか顕れてないように感じられるし。

現に作品性の面でも、敗戦直後の東京の焼け跡、とりわけ上野公園に建つ西郷隆盛像のまえに集う戦災孤児たちにカメラを向ける真摯さがかろうじて残存した本作は、笠智衆の唄う「からくり節」のほかにも、築地本願寺や上野動物園の情景をわりに豊かに記録しており、なにより仏頂面の青木放屁へと浴びせられる飯田蝶子のマシンガン毒づきが快調。

いいシーンはたくさんあるが、わけても蝶子が「干し柿冤罪事件」のことを友人・満子に話すシーンがお気に入りだ。小津調の細切れで淡泊なセリフ回しがいい。

 

満子「あんた、またガミガミやったんでしょう」

蝶子「そうなんだよ。とっても強情でね、涙ポロポロこぼして言わないんだよ」

満子「だって本人食べないんだもの。言えないじゃないの」

蝶子「そうなんだよ。でも、とってもしぶといんだよ。そのツラ魂が。まるでコチコチの握り飯みたいな顔してね、睨むんだよ私を。あんまり強情なんでね、負けるもんかと思って、私も睨み返してやったんだよ」

満子「かわいそうに」

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そのツラ魂。

 

蝶子「そしたら犯人が向かいのオヤジだろう? 少しやり過ぎちゃったんだよ。可哀そうなことしちゃったねぇ」

満子「大体あんた、カーッとなると昔からそんなとこあるわよ。それにまたあんたの怒った顔。怖いからねえ。特別だよ。子供には薬が効きすぎるよ。睨み利かせただけ余計よ」

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特別怖い顔。

 

蝶子「…でも、あんなのが案外大きくなったらデカブツになるのかもしれないねぇ」

満子「そうねぇ」

蝶子「偉い人って、たいてい子どもの時分は目から鼻へ抜ける方じゃなくて、少し気の利かないポーッとしたのが多いってんじゃないか。それに心根の優しいところもあったしねぇ。ちょっとした大物だったよ、あの子は

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ちょっとした大物。

 

ブスッとした放屁の味わい深さと蝶子の毒づき口調が楽しい疑似親子のヒューマン・コメデイ。

次第に異形化していく後期小津の奇相性はなく、立食い蕎麦みたいにツルリと楽しめる気安い小品ではあるが、一ヶ所だけ寒気を感じるような演出の急襲あり。それは蝶子・放屁・満子の三人が上野動物園の帰りに写真屋で記念写真を撮るシーンだ。

同伴の満子が「あんたもお入りよ」という蝶子の誘いを体よく断り、まさに母子として心を通わせた蝶子と放屁がカメラの前に並んで座るさまを見守るという構図。ここは非常にコミカルなシーンで、蝶子がレンズを凝視しながら「おい放屁、動いちゃいけないよ。静かにね。口結んで。洟出さないね。いいかい、あの玉見んだよ!」と放屁に話しかけていると「お母さま、お静かに…」と写真師から注意され、その瞬間にポカンと口を開けたまま静止した蝶子が「お母さま。お口、お結びになって…」と二度も注意されるところなんて実に傑作。

ところがこのシーンで奇妙なのは、シャッターの開閉運動のあとに二人の反転した倒像が映し出され、途端、暗転した画面から蝶子と満子の撮影後の会話が聞こえてくる…という前衛演出だ。思わずギョッとしたな。撮影の撮影とでも言えばいいのか。シャッターの開閉→被写体の反転倒像→フィルム現像までのプロセスを完全カメラ視点で映画にするというド変態演出の極み。

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映画って…こんなことやっていいんだっけ?

わけがわからないので少しカラカラと笑ってみたが、笑ったら余計にわけがわからなくなった。なんなんだよこれ。どういう種類のアレなのよ。

 

ところがそう呑気に笑ってもいられないのは、小津映画にあって記念撮影というのはそこに映った者たちの死別か、しからずんば離別の儀式として制度化されていることが脳裏をよぎるからにほかならない。

『戸田家の兄妹』(41年)では屋敷の前で家族写真を撮った直後に父が急死し、『父ありき』(42年)でも修学旅行先の鎌倉大仏の前で記念撮影したあとにボートが転覆して教え子が溺死する。

また『麦秋』51年)でもラストシーンの集合写真は家族離散の儀式となったが、ここで死者が出ていないのは、家族写真を撮り終えたあとに娘の原節子が「二枚目はお父さんとお母さんだけで」と提言し、フレームアウトした子供たちが写真師の後ろに回ってレンズを見つめる父と母を見守るという構図、いわば凝視する者を凝視するという視線の構図が“老いた両親を生前にして葬送する”という儀式の儀式たりえているからだ。

現に、葬送とはカメラを凝視する故人の笑顔を残されたものたちが全員で見据える儀式であり、最後のショットで麦畑の向こうに見える嫁入りの一行は、それを縁側から眺める父と母にとって“自分たちの葬送の幻視”以外の何物でもない…という暗示を仄かに湛えて映画は終わる。その傍証が、遺作『秋刀魚の味』(62年)で娘を嫁にやった笠智衆が「今日はどちらのお帰り? お葬式ですか?」とバーのマダムに訊かれて「まぁ、そんなもんだよ…」と返した言葉。

結婚式と葬式は同義であり、「集合」写真を撮った者たちはその直後に「離散」する。

これが小津映画の制度だ。

 

したがって蝶子と放屁は並んでレンズを凝視してしまったがために次のシーンでは離れ離れになってしまうわけだが、それでもこの物語が一応のハッピーエンドに帰結したのは、二人の隣に並ぶことを拒否した満子が写真師の側からその宿命に立ち会うことで死別の制度を回避したからであります。

最後のショットを占める上野公園の戦災孤児には飢餓や闇市といった死のイメージは張り付いておらず、むしろそのまなざしは力強いほどに生を希求していた。がんばれ放屁。たくましく育て。

f:id:hukadume7272:20200928060436j:plain上野動物園で放屁を見守る蝶子と満子。