KISSのジーン・シモンズと女優のジーン・シモンズの見分け方。
1947年。マイケル・パウエル、エメリック・プレスバーガー監督。デボラ・カー、ジーン・シモンズ、キャスリーン・バイロン。
カルカッタにある修道院のシスター・クローダは、四人のシスターと共にヒマラヤに近い高地に最年少の院長として赴任を命じられる。クローダたちはそこで、子供たちの教育、そして住民の治療を行うことになったが、僻地での慣れぬ生活から五人の修道女たちに少しづつ異変が起き始める…。(Amazonより)
皆おはよ~。
ある夜のこと、近所のスーパーマーケットにいったら、いつも総菜売り場をウロチョロしてる背虫のじじいから「この弁当うまいんけ?」と不意に話しかけられたので、反射的に「うまいですよ」とデタラメな返答をしたところ「ほな、これにするわ」と即決で購入なさった。
おい待て背虫。面識のない人間に今日の晩ごはん委ねるなよ。
俺、この界隈で弁当評論家として名を馳せてたっけ? 正気の沙汰じゃねーぞ。なんで他人の味覚に全幅の信頼を寄せられんねん。なんやその綺麗な心。…本名「信二」か?
弁当を買い物カゴに入れた背虫の信二は、シャシャーッと店員のもとに駆けていき「最近どないや! どないなっとんねん!」って、意味不明の事柄を叫んでた。
オマエがどないなっとんねん、と思いながら、僕、お会計して。
そんなわけで本日は『黒水仙』です。不満を綴りました。
◆『尼僧物語』に完敗した尼僧コンテンツの屍蝋◆
昔ぼんやり観ただけなので仔細には覚えていない白黒映画の貴重な吹替え版がアマプラにテキトー投下されてたのですわ好機とばかりに観返そうキャンペーンの一環としておもむろに鑑賞。
『黒水仙』はデボラ・カーが大変に美しい映画であります。
しかしデボラ・カーが大変に美しい映画であることを除けば特別語ることもない映画なのよね。つまり私は『黒水仙』という映画に対して何ら言葉を持ち合わせていないことを自白してしまったわけだ!
というのも、「美しかった」とか「おもしろかった」という感想は厳密には感想ですらなく、いわば感想の下位にある「印象」をいけしゃあしゃあと口にしただけの営為に過ぎず、こんな「『黒水仙』はデボラ・カーが大変に美しい映画であります」なんて何か言ってるようで何も言ってない言葉を知ったような口ぶりで唱えては「『黒水仙』を観た」みたいな顔をする私は映画の二等兵。黒水仙フェイスの浮かべ者なのである。
そんな自分が許せなかったので、改めて本作に対してちゃんとした感想を持つために鑑賞してみたのだが、これがひどい結果になった。
「デボラ・カーが美しい」という印象しか抱けなかったのである。
なんでや。なんで2回観て2回とも同じ印象を抱いてしまうんだ。
ことによると映画の側に責任があるのかもしれない。きっとそうだ。もっぱらデボラ・カーの美しさばかりを観る者に印象させる『黒水仙』。 実際わりと退屈な映画だし、映像面にも魅力を感じないし。
…わかりました。
『黒水仙』を攻撃します。
この作品はインド・ヒマラヤ山麓の女子修道院を舞台とした尼僧コンテンツの草分けである。
かつてヒマラヤの領主が愛人を囲ったハーレム・モプ宮殿を診療所つきの修道院に改築すべく、聖公会はエリート尼僧のデボラ・カーを院長に抜擢。「やってくれるカー」と言われたデボラは「ほなやろカー」と返事した。それでこそのデボラ・カー。
さっそくデボラは「いこカー!」と言って選りすぐりのシスター4人とともに山頂の修道院に赴任したが、皮膚病や水質問題などから開院は難航。領主の元で働いていたイギリス人の短パンガイド、デヴィッド・ファーラーが協力してくれたが、こいつがとんだサークルクラッシャーだった。じゃじゃ馬シスターのキャスリーン・バイロンが信仰を捨ててデヴィッドに惚れたのだ。そのうえ熟練シスターのフローラ・ロブソンが過酷な生活に耐えきれなくなり辞職を申し出るなど、日に日に内部崩壊を起こしていく女子修道院。そして遂に悲劇が起きた…!
本作は尼僧コンテンツの古典でありながら、後年オードリー・ヘップバーンの『尼僧物語』(59年)にその座を明け渡した不憫な作品だと思う(『尼僧物語』はワーナー史上空前の大ヒットを記録)。
『尼僧物語』に敗れた理由は単純明快。『黒水仙』がおそろしく凡庸だったからである。
まあ、だからこそ本作のただひとつの優位性は“イギリス映画”という点にある。『黒水仙』は途方もなく凡庸でありながら、イギリスを代表する名女優デボラ・カーとジーン・シモンズの貴重な共演作として記憶され、私のようなゲテモノ好きが向ける好奇の目によって辛うじて文化的に保存されている作品なのであります。
デボラ・カーとジーン・シモンズは典型的なイギリスの演劇俳優であり、ともにシェイクスピアやディケンズの映画で活躍したコスチュームプレイの達人。のちにデボラ・カーはハリウッドに招かれ『地上より永遠に』(53年)や『めぐり逢い』(57年)でスターとしての地位を不動のものとしたよね。ブリティッシュ・ホラーの怪作『回転』(61年)が好きな読者も多いんじゃないですか。どうですか。
「イギリスの薔薇」と称されたデボラ・カーは気品溢れる青い瞳が特徴的だが、その一方で親しみやすい鼻も印象的な貴婦人である。ちなみに私は自称デボラ・カーの鼻研究家だが、いったい何をどういう風に研究していいか分からないので実績はまだない。
デボラ・カー。顔立ちがメラニー・ロランやレベッカ・ファーガソンの系譜だよね。
ジーン・シモンズもアメリカで活躍したイギリス人俳優だ。
初のシネスコ映画『聖衣』(53年)でヒロインに抜擢されてからは、『大いなる西部』(58年)、『エルマー・ガントリー/魅せられた男』(60年)、『スパルタカス』(60年)と破竹の勢いでスターダムにのし上がった。70年代に第一線を退いてからも『ハウルの動く城』(04年)で老婆ソフィーの吹替えを担当するなど、老婆ならではの活躍を見せた。
なお、舌をぺろぺろしながら空を飛ぶKISSのベーシスト、ジーン・シモンズは同姓同名。
女優の方のジーン・シモンズはステージの上で火も吹くこともなければワイヤーで吊られることもない(舌をぺろぺろすることぐらいはあったかも)。
どちらもジーン・シモンズ。見分け方は火を吹くかどうか、飛んでるかどうか。
◆フィルムのホワイトアウト◆
何をおいても筋が退屈なんだよね、この映画。
戦々恐々とするシスターたちの深刻な表情が映し出されるばかりで、何かは起きてるようだが何が起きてるのか判然としない。数あるエピソード群はどれもブツ切り&尻切れトンボ。
シスターデボラは、純水がもたらす健康被害に「何か手を打たないといけませんね…」と考え込むが、それっきり純水問題は放置されて、忘れた頃にその水で淹れたコーヒー飲んで「不味い」とか言ってんの。
打たへんのかい、手。
「何か手を打たないといけませんね…」と言っておきながら何も手を打たないばかりか、問題の原因である純水でコーヒーすら優雅に飲んでいくスタイル。ほいで不味いんかい。
シスターデボラ…ある意味アンタは打ったよ。奇手という手をね…。
午後のひとときを楽しむシスターデボラ。
ルーマー・ゴッデンの原作小説はまったく知らないが、勘だけで言わせてもらうなら、恐らくこの映画の作り手はろくすっぽ原作を咀嚼してないのとちがいますか。千円賭けてもいいね。
取っ散らかったエピソード群に共通するのは「修道女っていろいろ大変なのよ」みたいな漠然とした苦悩だけで、そこから先…つまり打開策を実行して問題解決に至るまでのプロセスがまったく描かれていないのだ。一応“描いたフリ”だけはしているが、その“フリ”というのは忘れたころに純水で淹れたコーヒーを飲むことである。
山の仙人や謎の王子といったキャラクター達もなんら説話的役割を持たないので完全に腐ってるし、どうあっても救えない病気の赤ん坊を断腸の思いで見殺しにする場面もその場限りの苦悩が映し出されるだけなので、こちらの感想も「ああ、なんか大変そうすね」止まり。
あと一番やばいのはジーン・シモンズ自体。本作のジーンは顔をぬたぬたに塗ってインド人の村娘を演じているのだが、これが正視に耐えない代物なのよね。やってることは近ごろ流行りのホワイトウォッシングというやつだが、それ自体は別にどうでもいいし、白人偏重でも人種的優位でも好きにやってくれという感じなのだが。
ただ顔が汚いのはやめてくれと思うのだ。
顔をぬたぬたに塗ったことでジーン・シモンズからジーン・シモンズ性が奪われているし、冒頭で彼女のクレジットを見逃した観客に至っては、鑑賞中不断に「この、むやみに顔ぬたぬたの不思議な女優だれぇぇぇぇ」と嘆き続けるはめになるのだ。
しかし、ジーンは『エジプト人』(54年)という映画でも無茶メイクでエジプト人を演じているので、ことによると顔をぬたぬたにすることが好きなのかもしれない。
ジーン・シモンズ(わかるかあ!)。
個人的に最も退屈感を覚えたのは画面の白味です。
修道院も僧服も白で統一されてるので、必然的に画面はボヤッとした白味で埋め尽くされ、非立体的かつ無背景的なファッキン・ホワイト・スペースに擬態したシスターたちを“吹雪く白味”の中へと掻き消してしまう。まさにフィルムのホワイトアウト。
ちなみに「個人的に」と枕詞を添えたのは、現代のカラー映画に馴致した反動からテクニカラー(総天然色)という郷愁に甘美な響きを感じるあまり「映像美」という語をむやみに濫用する人間が間違いなく一定数いるからであり、そうした連中は“白味の退屈さ”を感じることなく、むしろ条件反射で「映像美!」なる呪文を唱えることで自らが映画好きであることを肯定する幸せな術師なので、その幸せを奪わないためにも“白味の退屈さ”は私個人の所感として処理させて頂きたい。
それにしてもひどい撮影だ。プリントはいいが、撮影がひどいのよ。
本作は全編スタジオ撮影だが、書割りとスクリーンプロセスに依存したことで照明と影の辻褄が合わないショットが散見される。スタジオ撮影のテクニカラー作品は大体どれもそうだけど、陰影に乏しくて色調が平坦だよね。見ていてすごく退屈なのよ、それが。
しかしまあ、とかく色の批評は困難だ。どうしても感覚的にしか伝えられないし、かと言って色彩論を振りかざしてもしょうがないので、やはりこれまた“個人的な所感”という次元の話に矮小化せざるを得ないのよね。
このショットがいかにつまらないか、という話はまた今度するわ。
◆シスターバイロンが全部もっていきよった◆
『黒水仙』で唯一おもしろいと言えるのは終盤20分です。
何かにつけてシスターデボラに楯突く反逆尼僧キャスリーン・バイロンの憎悪がむき出しになっちゃうんである。
二人はともにイギリス人ガイドのデヴィッドに想いを寄せているが、禁欲的なデボラに対してシスターバイロンは欲動的。「愛してんのよ!」と告白してデヴィッドに抱きついたはいいが「何をする、ばか!」と振りほどかれ、Shock!
デヴィッドの本命がデボラだと察したシスターバイロンは完全に正気を失ってしまった。アブない目つきでデボラを追い回し、彼女を睨みつけながら紅を引き「りゃぶぶぶぶ」と奇怪に哄笑。断崖絶壁の鐘楼に追い詰めてデボラを突き落とそうとしたが、それが叶わないと知るや否や、ヒョイと崖から身投げしてしまうのであります。
自らの死と引き換えにデボラに終生おろせぬ十字架を背負わせることが彼女を苦しめる最良にして最悪の方法だと考えたわけ!
この終盤はほとんどサイコスリラーだ。キャスリーン・バイロンの怪演がすごい。ほかにどんな映画に出てるんだろうと思って調べてみたら特に何の映画にも出てなかったのが尚のことすごい。
何者なんだ、キャスリーン・バイロンって…。
クライマックスを支配したキャスリーン・バイロン。このモダンホラーぶり。
監督を務めたのは『赤い靴』(48年)や『血を吸うカメラ』(60年)で知られるマイケル・パウエル。ヒッチコック、デヴィッド・リーンと並んでイギリス映画の古典を築いた巨匠と目される存在だ。
共同監督にはパウエル専属プロデューサーのエメリック・プレスバーガー。気の合うパウエルとプレスバーガーは映画会社を設立して数多くの共同作品を世に送ったが、そもそもなぜ映画作家とプロデューサーが共同監督などしているのだろう。恐らく「仲がいいから」とか、その程度の理由なんだと思う。まったく、友達と一緒じゃないとトイレにも行けない女子中学生じゃあるまいし。巨匠だが何だか知らんが、仲良しこよしはプライベートでやれっていうの!
撮影はジャック・カーディフ御大が受け持った。こちらもイギリス映画の古典を築いたカメラマンと目される存在だが、生涯最後に手掛けたのは『ランボー/怒りの脱出』(85年)っていう。この味わい。
そんなわけで私は『黒水仙』がどうしても好きになれないのだが、僧服によって際立つデボラ・カーの相貌を永遠のものとしただけでも値打ち物なのかもしれない。
もちろん今のは皮肉だが、それはそれとしてデボラ・カーの相貌は最高だ。皮肉の中にも本音はある。そういうもんだろ?
顔面聖夜、デボラ・カー。