歌唱発作を起こしながらの灼熱批評でオラフを溶かしきる! 未知の旅へ~~え~~ぇええええええええ。ふかづめ緊急独占生配信ライブもいよいよ佳境! ~幻想と恍惚のシンフォニアの果てにあなたは何を見るSP~
2019年。クリス・バック、ジェニファー・リー監督。アニメーション作品。
雪と氷に覆われたアレンデール王国に陽光を取り戻し、深い絆で結ばれた姉エルサと妹アナ。氷や雪を操る魔法の力を持つ“ありのままの自分”を受け入れたエルサと、明るいキャラクターが持ち前のアナは、仲間たちに囲まれて幸せな毎日を過ごしていた。そんなある日、エルサにしか聞こえない不思議な歌声により、姉妹は未知の世界へと導かれる。それは、エルサの魔法の力の秘密を解き明かす冒険の始まりだった。姉妹は仲間のオラフやクリストフとともに、数々の試練に立ち向かっていく。(映画.comより)
おす、民衆のみんな。お久しブリトニー・スピアーズ。Toxic! Toxic!
そんなことより、まぁ聞いてくれよ。ある日、知人が何気ない会話の中で「言質」のことを「げんしつ」と言っていた。俺は訂正しなかった。「市井」のことを「いちい」と言っていた時も、俺は黙りこくっていた。容疑者のようにな。
こういう時、漢字の読み方ミスを訂正すると相手が恥ずかしい思いをするんじゃないか…とおもんぱかってしまい、なんとなく聞かなかったことにしてしまうンである。私の中の別人格、オモンパカリーノが「黙っておきな」と私に囁くンである…!
しかし、漢字の読み方ミスならともかく、そもそも意味を違えた“語の誤用”は捨て置けぬ。私の中の別人格、ズケズケ=ズッケーノが「言っちまいな、ズケズケとね」と私に囁くのね!?
たとえば「穿った見方」という言葉を「疑ってかかるような、ひねくれた見方」という意味合いで使ったり、「煮詰まる」という言葉を「行き詰まってどうにもならない」という意味合いで使ってくるソーメニーピープルたち。ぜんぶ逆だしね、意味。「穿つ」は「本質を捉える」という意味で、「煮詰まる」は「そろそろええ具合」という意味なのに。
こうした語の誤用は、知人との日常会話の中でなら訂正する/しないを決める自由がこちらにあるが、テレビやブログやYouTubeなどで誤用を連発されると訂正する術がなく、一方的に間違った言葉を聞かされ続けるハメになる。それが物凄くストレスなので、わたしは国語力の低いタレントが出ている番組は見ないようにしているし、意味ハキチガエーノが書いてるブログもすぐに閉じちゃうね。
とはいえ、かくいう私、不肖ふかづめがお送りしている文字満載ブログ『シネマ一刀両断』はどうなのかと言うと…まあ、人のことイエンティン・タランティーノだろうな。
なにしろ、予告なしに意味不明のギャグを繰り出す。ノリでオモンパカリーノとか言う。クリント・イーストウッドのことをクリンティング・イースティングと表記して読む者を怯ませていく。語の誤用どころか、語のレイプ、識字クラッシャー、文法の魔改造である。そう、オレの異名は国語をしばく者。明日からそう呼んでくれ。
そんなわけで本日は『アナと雪の女王2』です。
去年12月に書いた記事を今さらアップするという季節のうらぎり。
「冬のうちに上げられたらいいなー」と思っていたが、すっかり春が芽吹いてやがらぁ。こないだなんて、近所の小学校前で桜がぴろぴろと舞っていたし。なんかレミオロメンのPVみたいになっとったわ。
◆前作の『アナ雪』は人騒がせな女王が妹殺しかける話だったよな◆
社会現象化した『アナと雪の女王』(13年)の正統続編。その間にわけのわからない短編作品がぽこぽこ作られたが、遂にこれで完結だというのよ~。
とはいえ、有名なのに見てない映画ランキング第1位らしいので、軽く前作をおさらいするつもりでダイジェスト批評をおこなう。興味ない人は第二章からどうぞ。
まあ、大筋としては「ありのままの姿見せきるのよー」とかなんとか絶唱してありのままの姿を見せたところ人民にドン引きされてヒキコモリになった異能のお姉さんを皆がやたら心配するっていう人騒がせなストーリーね。
アレンデール王国の王女である姉エルサは氷属性の魔法使い。幼少期に自身の氷魔法で妹アナに大ダメージを負わせてしまったことに自責の念を感じ、爾来、外界との接触を断って13年間も城に引きこもる真性ガチニートと化す。女王即位パーティーの日にようやく外に出てきたかと思えばアナと姉妹喧嘩したあげく国を飛び出し「レリゴーレリゴー! 寒くないー!」と騒いで魔法を暴走させてしまい国中を絶対零度にしただけでなく、誤ってアナに凍死魔法をかけちゃった…というエラい迷惑な女王だ。
エルサの日本語吹き替え声優はヤマザキ春のパンまつり女優こと松たか子。あとエルサはオラフという害悪雪だるまを生成することにも成功しています。
オラフ…狂気のコメディリリーフ。コカインをやってるとしか思えない狂った挙動で観る者を翻弄した(声優のピエール瀧は本当にやってた)。
そんなこじらせ姫エルサを救おうとするのが妹のアナ。なぜかエルサが意図せずに出した魔法攻撃がことごとくクリティカルヒットしちゃう回避/幸運0のデッドボール受け損むすめ。満身創痍も満身創痍。姉ちゃまから二度も殺されかけたが、それでも姉妹愛と何糞精神でさまざまの困難に立ち向かうというのです!
あれからもう6年かぁ。白馬の王子様が出てこないディズニー初のWヒロインで、愛の多様性を描いた内容から同性愛のテーマが通底しているのでは…との解釈が広がり、さらには同時期にLGBTQが社会運動化したことでエルサがレズビアンの象徴として祭り上げられちゃって。
ディズニーがポリコレ街道をレリゴーし出したのもコレきっかけよね。
もっとも、いささか鈍感な日本では某鬼滅の某刃よろしく「レット・イット・ゴー」ありきの社会現象化というか、完全に音楽先行、つまりプロモーションの勝利なので、欧米でのアナ雪ブームとは熱の質がやや異なっていて。どっちも「アナ雪さいこ~」って言ってるんだけど盛り上がってるポイントが全く違うのよね。
何はさておき、前作は囚われの姫が元気よく外界に飛びだす『塔の上のラプンツェル』(10年)の変奏曲なのですよ。現にラプ子と不倫ライダーもカメオ出演してるし。
前作では、ドア一枚隔てて廊下に立つアナと、部屋にこもるエルサを対比するシンメトリカルな“断絶”のメタファーを始め、劇中歌「レット・イット・ゴー」の最後にエルサのドヤ顔で勢いよく閉ざされる扉だったりと、とにかくドア開閉のイメージがしつこいほど反復されてました。そして牢獄に監禁されていたエルサは、ついに魔法で城壁をぶち壊す。つまり無理やり「ドア」を作って表に飛び出してゆく。そして王国の城門が厳かに開かれたところで映画は終わったんだっけ。
この“ドアの開閉”は映画演出としても正しいし、異能(人とは異なる個性)を隠すために籠城していたエルサがドアを開けて世界と向き合ったことをカミングアウトの表象と捉えて、そこに同性愛のコノテーションを読み込む楽しさもあった。もちろん「ミュージカル最高!」の一点でヘラヘラ浮かれてもいい。
いずれにせよ、そんな複眼的な鑑賞に耐えながらも次代の風に先乗りしたという意味においては2010年代のエポックメイキングだったことは確かだろうな。
まあ、好みの話をするなら色々言いたいこともあるけど…それは後ほどメインの評にうまく絡めていくわ。
エルサ(左)とアナ子(右)。
◆続編映画にありがちなルーツ辿る系の話やめろ◆
ほい、そいでようやく『アナと雪の女王2』。
公開前の第一印象は「今さら?」
第二印象は「何すーん?」
トドメの印象は「瀧どうすーん!!?」
※代役立てました。
時系列としては前作の3年後から始まります。平和なアレンデール王国が精霊たちによる災害に見舞われ、エルサは「ああーああー!」という不思議な絶叫に導かれるままアナを従えて原因究明の旅に出る…。
ま、ストーリーの要点としてはエルサの魔法の起源および出生の秘密、それとアレンデール王国の歴史と両親の死の真相に迫る…といった感じね。
んんんんんんんんんんんん…
どうでもよ~~~~!
続編映画にありがちなルーツ辿る系の話…だいぶどうでもいいわ~~。
「真実はこうじゃあ!」ってことを今さら言われてもなー。「あ、せやったん!?」と食いつくには6年の月日はあまりに長すぎたんだよなー。
ほいで6年越しに明かされた割には大した真実でもないっちゅー…。
ルーツ辿る系の話って、えてして作り手が自作の設定と戯れてるだけの公開オナニーショーに終始しがちなのよね。われわれ観客は、ひたすら設定を見つめ直す作業に付き合わされるわけ。まあ、そこを作り込めば世界観は深く豊かになるのだろうが、結局はもともとの設定が上書き保存されていくだけの事なので「へえ。…で?」っていう。べつに映画としてのおもしろさには繋がらないよね。だって広がりがないもの。続編と銘打つからには過去より未来が見たいのにさ。情熱の、その先をね…。
しかしまあ、エルサがビックリするくらい美人になってたので ゆるす。
オレは全てをゆるしていくよ(瀧とて許していく)。
今度のエルサはハチャメチャに可愛い。
物語はほぼ理解できなかった。
おまけに横文字だらけの専門用語。ファンタジー映画の悪い癖だわぁ~。
災害を止めるためには声の主を探さなきゃいけなくて、その為に魔法の森に行くんだけど、今度はそこでノーサルドラという民族と出会って死んだ両親の秘密を知り、それを解き明かすためにエルサが一人でアートハランに向かっちゃう。
まだるっこしいRPGゲームみたいね。最終目標Aを達成するためにはアイテムBが必要で、それを入手するには人物Cに会いに行ってクエストDをクリアしなきゃいけない…みたいな。
そうこうしてる内に当初の目的を見失って「そういえばエルサたちって声の主を探してるんだよね? ノーサルドラとかアートハランとか関係なくない? あれ? でも関係あるのか? ないよね? そもそもエルサ達は今なにをしてる状態? いま何の時間?」って。
おれパニックになって、勝手に迷宮入り。勝手に道しるべを見失って「ママーッ! ココどこーッ!?」って精神錯乱キメてたわ。
前作もこの気があったのよ。『アナ雪』ってストーリーラインが薄ぼんやりしていて、何となく話は進んでいくんだけど、いまいち足元が見えないというか、「局所的には理解できるけど、大局的な意味でおまえら何してるの?」の感が爆裂していた。単に私のアタマが悪いだけなのかもしらんが。
あまつさえ本作はテリングが悠長で、やけにエッチラオッチラ進む。特にノーサルドラとの交流と、クリストフが失恋バラードを歌う80年代MV風ミュージカルパートの中弛みがえぐい。子ども退屈しただろ、これ。
ちゃきちゃき娘のアナと、イカレだるまのオラフ。
◆垂直運動の前作、水平構図の今作◆
とはいえ今回はストーリーよりも完全イメージ優位のミュージカル・ロードムービー。
6年間で磨き上げたCG技術の粋。その満艦飾の画面には他の追随を許さないディズニーの矜持…いや執念すら漂っており、いよいよもって現代CGアニメーションの天井を打ったオーバーエンターテイメントが咲き乱れております。そのエンタメも、お客さんの為というよりはディズニー自身に向けられていて、「だってファミリー層を楽しませる為だけならそこまでしなくていいもんね?」ってくらい映像設計が狂気じみてるの。
なんといってもビジュアルの幅が広すぎて……いや、幅が広いなんてもんじゃないな。もはやメビウスの帯みたいになっとる。
「タイムラプス撮影ですか?」ってくらい天気や季節はビュンビュン変わるわ、旅の道中で出会う精霊たちも火、水、岩、風…とバリエーションに富んどるわ。だって、よく考えてみてほしいの。風という“不可視の現象”をキャラクター化して、あたかもそこに居るかのように描き上げるって…まあまあ気ィ狂ってるからね。
風の精霊は姿カタチがないんですよ。風だから。にィィィィィィィィィィィィィィィィも関わらず愛らしいキャラクターに仕上がっているゥッ! 見えねェけど! 見えねェけど!
物語の舞台も充実しており、海、山、森、街…と片っ端から網羅。挙句の果てには過去や精神世界にすら迷い込んじゃうんだから。
あと、やっぱりイマジネーションの洪水化な。圧巻だったわぁ。
過去の記憶が雪の彫刻としてヴィジョン化されたり、光のページェントに包まれながらエルサが絶唱する「イントゥ・ジ・アンノウン」や「みせて、あなたを」などなど、魅力的なシーンは沢山あるけど、わけても素晴らしいのはエルサが身ひとつで夜の荒海を渡ろうとするシーンよ。ひとつ前のシーンで、エルサはアナのために氷の小舟を生成したばかりなので、てっきりそれが渡航方法なのかと思いきや……なんと海に向かって韋駄天のように駆けだすエルサ。
手から放った申し訳程度のアイスビームで足元の海面をつどつど凍らせながらダッシュで海を渡ろうとする非効率の身振り!
おまえ、舟作れんちゃうんけ?
なんでわざわざSASUKEみたいなチャレンジすーん?
だが、そのあとが見もの! 突如水中から現れた液体状の馬(水の精霊)と『アクアマン』(18年)ばりの海中バトルを経たあと、見事アクアホースを乗りこなして海面を優雅に疾駆するショットの失禁に値する美しさ!
“夜の海を駆ける馬”という鮮烈なイメージ! このアイデアを閃くだけでも大した想像力なのに、ワォ! この映像! 幻想と恍惚のシンフォニアや!
これやで!
『アナ雪2』は、これや!
前作は映像こそキレイだったものの、その一瞬が強烈に焼き付くようなショットの強度には乏しかったので、その対策としてイマジネーション幻想ショットを充実させたのだろうか。
あと、前作ではこじらせ姫だったエルサがめたくそに可愛いのね。表情もえらく豊かになって。旅を通じて本当の自分を見つけていくのだけど、そのたびに衣装や髪型が少しずつ明るさを増して解放的になってくのよ。
こんな素敵なアハ体験ないぞ!
死闘の末にアクアホースを制御するエルサ。
それはそうと、1作目の『アナと雪の女王』が“高層化されゆく映画”だったことを人は忘れてはいけません。
大サビに向かってバカ野郎みたいにキーが上がっていく「レット・イット・ゴー」に合わせてエルサの造る氷城がガン! ガン!! ガン!!!と天高くそびえ立っていく、画面の高層化。
もちろん、その逆の“落下”も重要なモチーフになっていた。
もともとこのシリーズは、主舞台となるアレンデール王国が雪まみれの極寒地という設定上、映像的にはイマイチ画が持たず、ひいては“白に埋没する宿命”を背負っている。ゆえに1作目では、それをカバーするようにキャラクターたちが不断に動きまわることで失われた画面の強度を取り戻そうとしていた。それがエルサを除いたほぼ全てのキャラクターが最低1人1回は落下するというイメージに繋がるわけ。覚えてるかなぁ。とにかく落ちて落ちて落ちまくるの。この落下のイメージが偶然だと言い難いのは、エルサのトラウマを作ったきっかけこそがアナの落下だったからに他ならないのよね。
で、今回の完結編では、前作の垂直運動を補完するように左右の水平構図が全編を支配しています。お前らはスーパーマリオブラザーズか?ってくらい、ほぼ全編にわたって横スクロールの構図が物語世界を包み込んでいる。
アレンデール王国は絶対的に画面上手(右側)に固定されているので、旅を決意したエルサは必然的に画面下手(左側)に向かって突き進むのだけど、これ自体は別に珍しいことではない。視覚印象の原則だな。
冒険の契機となる「イントゥ・ジ・アンノウン」の歌唱シーンをご覧になれば一目瞭然だろうが、進むべき道を迷っているエルサが夜間にベッドを抜け出て廊下を歩くシーンでは真上からの俯瞰構図。鏡と向き合ってなすべきことに気付いた彼女は「未知の旅へ~!」とかなんとか絶叫しながら城を飛び出し、画面の下手下手へと走り出すのです。
未知の旅へ~え~ぇえ~~!
ヘヴィメタルシンガー・松たか子による吹替え版「イントゥ・ジ・アンノウン」。YouTubeからパクってきた。
だけど、おもしろいのはアナの方なんだよ。
上手…つまり←に向かって旅をするエルサと、それを止めようと→に引っ張っていくアナの押し相撲がしばらく描かれたあと、まるでエルサと袂を分かつように、アナは画面上手(→)に向かって歩き出すんだ。川に流されたときも、オラフと洞窟探検するときも、彼女の旅は決まって上手をめざす。で、上手には何があったかって思い出すと、故郷のアレンデール王国なのよね。
最終的に、実は〇〇だったエルサは魔法の森に残り、アナはアレンデール王国の新王女に即位する。本当の生き方を見つけた姉妹は、それぞれにとって守るべき土地に落ち着くわけ!
うわぁ~、その為の構図対比だったというのかぁ~~~~って。
ラストシーンでアナの手紙を預かった伝書鳩が王国を発って魔法の森までひとっ飛びする主観のロングテイクが、二人の精神的な繋がりを表しています。
姉さん、元気にしてる? って!
住む世界は違えど私たちは姉妹だわよ、って!!
ずっとずっと一緒なのだわよ、って!!!
ああ――ああ――♪
松たか子による吹替え版「みせて、あなたを」。この曲も一貫して上手から下手への横移動ね(YouTubeからパクってきたよ~)。
『アナ雪2』を観た人間は2種類に分けられる。
前作を楽しんだがゆえに今回の続編を蛇足と捉える連中と、前作にはまったく思い入れはなかったが今作で一気に『アナ雪』を好きになった連中だ(正確にはあと7種類の人間がいるが、2種類と言った手前、秘密とする)。
私は後者だった。内省的なエルサが股旅の果てに“本当の自分”を見つけ出してアイデンティファイする、ささやかな物語。本当の意味でレット・イット・ゴーしていたのは前作ではなくこの完結編だったのだ!
ナイス、ありのままの姿の見せきり!
【邪悪な追記】
オラフはしんでほしかった。
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