シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

その手に触れるまで

ダルデンヌ兄弟の“やさしさ”と“意地の悪さ”は表裏一体。

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2019年。ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督。イディル・ベン・アディ、オリヴィエ・ボノー、ミリエム・アケディウ。

 

13歳のアメッドはどこにでもいるゲーム好きな普通の少年だったが、尊敬するイスラム指導者に感化され、次第に過激な思想にのめりこんでいく。やがて学校の先生をイスラムの敵だと考えはじめたアメッドは、先生を抹殺しようと企むが…。(映画.comより)


おはようございます、としか言いようのない朝が訪れております。これほどの朝に、あえて「どうも」だけで済ませる神経の持ち主を私は信じられないし、一緒に縁側とかでカステラを食べることはできないだろう。
同じマンションの住人とすれ違ったときに会釈のひとつもしない奴とも、俺はカステラを食べることはできない。信じられないことだ。
特に男。男はだいたい会釈をしない。女はよく会釈してくれるし、お互い「おはようございます」と気持ちのよい挨拶を交わして、心ハッピネスだけれども、なぜか男は皆一様に仏頂面で、挨拶も会釈もなく私の前をテケテケのように素通りしていく。「挨拶をしたら殴りかかられるかもしれない」とでも思っているというのか? 何の生存本能なのか。カステラの底についたザラメのような気持ちが、すごくする。

そんなわけで本日は『その手に触れるまで』です。読めそうなら読んだらいいと思う。

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◆イディル少年のジハードチャレンジ◆

ダルデンヌ兄弟の最新作ということで、去年評した『午後8時の訪問者』(16年)同様に小難しい話をしてやろうというつもりで鑑賞に臨んだのだが、どうやらその必要はなさそうだ。以前、この兄弟は「技巧をべつの言葉で、演出をそれと知られず、意図を無言のうちに語ってみせる一流のシネアスト」だと述べたが、その透明性は本作に至って極限の域に達し、ミニマリズムのひとつの最終形として無事に結晶化されたからである。したがって本作には因数分解を加えうるような込み入った映像技法や、ふてぶてしい筆致による絵解きを必要とするような意味論的説話はない。
それに、技巧を解説することに最近飽き始めている自分までいるのだ!
本来、批評における技巧解説というのはその映画のすごさを伝えるための説得材料のひとつに過ぎないが、こちらが説得的な文章を書けば書くほど、また読み手がその解説に関心すればするほど「技巧そのものがすごい」と思わしめ、あたかも知恵の輪が解けたときのようなスッキリとした面持ちでその映画を消化―いわばハンパに“わかった気”にさせてしまう。そこを調整するために胡散臭いことを書いたりもしてるのだけど、いずれにせよ批評/解説という行為にはその功罪が絶えずついて回るのです。
もちろん映画とは理論体系の知的な操作だけで成り立ってしまうような単純構造ではない。もしそんなに単純であればダルデンヌ兄弟はミニマムな映画なんて撮らないし、イーストウッドなんて大バカである。韓国は今ごろハリウッドを蹴散らして世界の映画産業を牛耳る映画大帝国になっていただろう。
映画とはもっと危うくて、微妙なものです。それなのに私は、かれこれ15年間も映画にまつわる言葉を無反省に紡ぎまくっている。けしからん生き様だ。ノット・ビューティフル・デイだ。
大体において映画を言葉で説明すること自体が大いなる傲慢であるし、それを読んで「なるほど」と膝を打つことも思い上がりである。批評活動に与した人間はもれなく地獄行きだし、それを承知の上で私はみなさんにお話をしています!

「小難しい話はしない」といった端からギア大爆発で小難しい話をしていく男。
『シネマ一刀両断』です。

さて、本作の舞台はイスラム教徒が人口の半分を占めるベルギー・モレンベーク。2015年に起きたパリ同時テロの実行犯が潜伏していたことから「テロの巣窟」というキャッチコピーが付いてしまった散々な街だ。
そこに暮らす12歳のイディル・ベン・アディは、つい1ヶ月前までコンピュータゲームにうつつを抜かすオタ少年だったが、近所のいかがわしい導師と知り合ったことでムスリムになり、次第に過激思想に取り憑かれていく。敬虔なイディル坊は、暇さえあれば聖典コーランを鬼の形相で暗記し、所構わず特製マットを敷いて礼拝に明け暮れた。出し抜けに「アラーは偉大なり」とも叫んだ。かかるイディルのオーバー信仰をママンはひどく心配した。
ある日、学校の担任教師(ミリエム・アケディウ)が習慣付けていた“さよならの握手”を「大人のムスリムは女性に触らない」と拒否したイディルは、わけを聞こうと話し合いを求めてきたミリエム先生を敵視するように。
そんな折、日常会話のアラビア語を歌で学ぼう、という最高に楽しい教育カリキュラムをミリエム先生が提案したところ、イディルからその話を聞かされた導師は「聖なる言葉を歌で学ぶなど言語道断! その女教師は背教者だ。ジハード(聖戦)の標的にしてしまえ!」と彼をそそのかし、ほなジハード1発いっとこかという話になってミリエム先生抹殺計画を実行する…。

非常にスリリングな中身だが、果物ナイフを使ったイディル主催のジハードは呆気なく失敗に終わり、翌日ふん捕まって少年院にぶち込まれます。ムスリム化する前のイディルはオタであったから、大人を殺害できるほどの身体能力を有してなかったのだ(ミリエム先生も意外と俊敏で、イディルの攻撃を鮮やかにかわしてた)

そんなわけで、物語中盤からは少年院での更生プログラムを通してイディルの日常が描かれてゆく。果たしてこのガキは反省するのだろうか。それとも―…。

f:id:hukadume7272:20210124091905j:plain親切なミリエム先生を逆恨みするイディル(くそがき)。

 主演のイディル・ベン・アディは実に朴訥とした少年で、マリモのようなヘアースタイルに固執していた。そのボサッとした佇まいがダルデンヌ兄弟の目に留まり、100人のオーディションから見事主演を射止めた新人俳優なのだが、本作では芝居らしい芝居はしていない。ダルデンヌ作品の子役はすべからくそうであるように、常に無表情でセリフも少なく、身体も発育途上なので走り方がガチャガチャしている。
だからこそ、そんな子供でさえ過激思想に染まるほど信仰心は時として恐ろしいんだよ、ということを本作は説く!
 また、『午後8時の訪問者』でヒロインに叱られ通しだった研修医役のオリヴィエ・ボノーが少年院の教育官を演じているが、ほかのキャストは軒並み本作が映画初出演かな。役者経験のない素人を好むダルデンヌイズムにぶっ貫かれた『その手に触れるまで』。この邦題の意味はラストシーンで分かります。

 

ヴィクちゃんは風に乗る◆

 カメラは絶えずイディルに密着している。この機動性豊かなステディカムを使ったドキュメンタリー映像のごときフォロー・ショットはしばしばダルデンヌ兄弟の代名詞的技法として紹介されるが、今回はそれが特に顕著だ。
観る者はしばしば少年の宗教儀式に立ち会うことになるのだが、カメラの中立的な眼差しは、しかし少年とわれわれの線分の真ん中で音もなく寸断されており、ついてはこの少年が礼拝前に手と顔を水で清める儀式(ウドゥ)がノーカットで何度も映されるさまや、YouTubeで聖戦運動を声高に叫ぶ動画に心酔する姿…というものを絶えず留保し続けながら観察しなければならない。

これこそがダルデンヌ兄弟の“やさしさ”であり“意地の悪さ”だ。

彼らは決して判断を下さないし、誰も裁かない。カメラはそこに捉えた一切の事柄を留保しながら次の画面に進んでいく。そこには結論もメッセージもない。したがってダルデンヌ作品に出てくる罪人は他者から自首するよう促され、自らの意思で罪を告白するのだ。実際、ミリエム先生を仕留めそこなったイディル少年は「ばか、本当にジハードする奴があるか」と導師に叱られ「私と関わっていたことは決して口外してはならない。自首するんだ」と見捨てられてしまう。

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怪しい導師に洗脳されたイディル。

 かくして少年院にぶち込まれたイディルは、更生プログラムの一環として牧場のアシスタント・ボーイとなるのだが、ムスリムとしての生き方は変わらない。手を舐めようとしてきた牧羊犬を咄嗟に避け、牧場娘のヴィクトリア・ブルックとの握手も断固拒否。清らかな身体を保つために日々の身体的接触から距離を置くのである。
 だが少年院での生活態度はまずまずといったところで、多少なりと改心したかに見えたイディル少年。ママンからの電話を通じて「反省している」、「先生に謝りたい」とミリエム先生との面会を希望したが、なんと収容部屋では夜な夜な歯ブラシの柄を削って特製グングニルを作ってた。

このガキ!!!

抹殺計画は依然継続中。面会の場で先生を仕留める気満々なのである。
それにしても、果物ナイフ→柄の尖った歯ブラシ…と明らかに武器ランクが落ちていってるにも関わらず、それでも執拗にミリエム先生を仕留めようとする、そのファイト。こわい子。末恐ろしい子。
 ところが面会予定日、ミリエム先生はイディルを見るや否や先日のトラウマを思い出し「まだ心の準備ができてません…」と泣き崩れ、幸いにも面会は中止となった。靴下の中にデンタル・グングニルを忍ばせたイディルは舌打ちをした。

 そんな先生抹殺計画と並行して描かれるのは牧場娘ヴィクトリアとのボーイ・ミーツ・ガール。
同じ年頃の男子と接する機会があまりなかったためか、ヴィクちゃんはイディルに並々ならぬ関心を示し、ついに畑でキッスを迫った。実にエンダーイヤーといえる。しかし彼女にファーストキッスを奪われたイディルは、イスラム教の「婚前交渉あかん」という教義に反してヴィクちゃんと思いっきりチューしてしまった事と、それによって清廉たらんとしてきた我が身が穢れてしまった事をひどく後悔。これでは死後天国に行けぬ。
煩悶の末にイディルが導きだした解決法は、ヴィクちゃんを改宗させてムスリムになってもらうという、実に身勝手なものだった。

「僕のことが好きならムスリムになって」
「なんで」
「君とキッスをした罪で、ぼくの地獄行きが決定してしまったからです」
「私がムスリムになったら、そこはチャラになるの?」
「チャラにはならないけど、多少は罪が軽減されます」
「改宗を断ったら私とはこれっきり…?」
「そうだよ」
「じゃバイバイ!」

改宗要求を一撃拒否したヴィクちゃんは風に乗ってピューッと立ち去った。
そのサバサバした身振りがえらく格好よい。観る者は立ちどころにヴィクちゃんファンになるだろう。ヴィクちゃんファンクラブの年会費4500円を入金するだろう。そして会報をゲットするだろう。ヴィクちゃんからの特別メッセージも読むだろう。
「ばーか! 男のために宗教まで変えてたまるかよっ」とばかりに一瞬で見切りをつけ、次なる恋を求めて風に乗るヴィクトリア嬢。ベリークールだわ~。風の申し子だわ~~。

f:id:hukadume7272:20210124092130j:plainすぐ風に乗るヴィクちゃん。

しかし、この手痛い失恋は、束の間とはいえ先生抹殺計画を忘れかけていたイディルを再び邪悪な宿命へと引き戻した。
少年院を脱走したイディルは『走れメロス』みたいに山野を越えて休日の学校に赴き、花壇からひん曲がった錆びた釘をぶっこ抜いて武器を現地調達。おまえはメタルギアソリッドか?
それにしても武器のグレードダウンがすごい。
果物ナイフ、柄の尖った歯ブラシときて、遂におまえ…ひん曲がった錆びた釘て。もはやそれは別名ゴミやん。よっぽどテクニカルなことしないとダメージ入らんぞ?
 だが今日は休日。ミリエム先生が出勤しているという保証はない。困ったイディルは、先生が休日出勤してる方に運を全振りして校内への侵入を図ったが、ドアや窓はどこも閉まっており、仕方なく屋根によじ登って上階の開いた窓から侵入を試みたが、途端、足元の瓦礫がぶっ壊れて「るるおー」と叫びながら転落。だめな楽器みたいに鈍い音がした。背中と後頭部をしたたか打ちつけたイディルは、ぴくぴくしながら「ママン…」と呟き、ちょっぴり泣いた。
このシーンは私にとって2021年の初笑いになりました。
もう、めちゃめちゃ笑ったわ。勝手に脱走して、勝手によじ登って、勝手に落っこちて……挙句ぴくぴくしてるやん。あほやん。

 そのあと、手足が動かせないイディルはイモムシの要領で身をくねらせて鉄柵の所まで這っていき、先ほど調達した釘でカンカンカンカン! 柵を打ち付けSOSのサイン。あほやん。
幸いにも校舎から現れたミリエム先生によって手厚く保護され、イディルが「先生、ごめん…」と泣きながら差し出した手をミリエム先生が温かく握りしめたところで映画は終わります。
軽くまとめると、ジハードのための釘は“SOSの釘”となり、女性に触れてはならないという教義によって“握手を拒んでいた手”は、やがて“救いと許しを求める手”となり、“その手”に触れるまでのムスリム少年の心的変化を描いたものが本作『その手に触れるまで』ってことよね。
それにしても、某レビューサイトで誰かが書いていた「イディル少年のジハード失敗、3連発集」というパワーワードが言い得て妙すぎて。うん。全体的に笑いながら観てました。

ドア前の訪問者と、ドアの解放者

 前章のネタバレ紹介を踏まえた上で、この最終章ではチィとばかり堅苦しい“映画の話”をするね。ごめんな。
やはりどうしても語らざるを得ないのは“扉の開閉”ね。
世の映画好きを自称する人々が“扉の開閉”に関してどこまで意識しながら映画を観てるかは知らんが、サスペンスの入り口にはいつも扉があるし、扉が開閉されるときは是非とも気を引き締めて画面を注視して頂きたいと思います(扉は最上にして最古典のサスペンス装置。扉を開けて、そこに誰が立っているか、あるいはどんな景色が広がっているか。それは開けるまで分からないし、開けた途端に予告もなく飛び込んでくる情報だ。これはロシアンルーレットを超えるサスペンスである。ロシアンルーレットでは、引き金を引いた瞬間に弾丸が頭蓋骨を貫いて脳を破壊するか、はたまた不発に終わって生き永らえるかの二択しかないが、“扉の向こう側”にはそれ以上の未来があるるるるるるrr)。

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ミリエム先生。

 本作における扉の開閉者はミリエム先生だ。
ファースト・ジハードでは、彼女のアパルトマンのインターホンを押したイディルがドア前で果物ナイフを構えて待ち構えている。先述の通り、カメラはイディルに寄り添っているから、もちろん観る者はドアが開かれないことを祈り、「先生不在願望」というありもしない六文字熟語を心で唱えるわけだ。まあ、われわれの六文字熟語の唱和も虚しくドアは開かれてしまうのだが、このシーンはミリエム先生の驚異的な回避率によりイディルの斬りつけ攻撃は失敗に終わる。
セカンド・ジハードも同様。面会室の扉を開けたミリエム先生はファースト・ジハードのトラウマが甦ったことでイディルが攻撃を仕掛ける前に退席する。相変わらず危機回避率の高いキャラクターと言えちゃう。

 その後もさまざまな開閉劇が観る者の心をざわつかせるが、とりわけ印象的だったのは、少年院に叩き込まれて牧場アシスタントに就いたイディルが柵開け係として働く、ごく短いシーンだ。
イディルが牛小屋の柵を開け、牧羊犬がバカな牛どもを外に出し、イディルが柵を閉じる。オーライ。少年院では担当の教育官が収容部屋の開閉を任されているのでイディルが自らドアを開閉する機会は極端に少ないが、この牧場では段取りにしたがってイディルが率先して柵を開閉するわけだ。扉を開けさせることでサスペンスを生成していた側が、自らの意思で扉を開ける側に回ったわけだから、イディルの心的変化(反省や改心など)を見て取るには十分な演出だといえる。
それでも彼は日々の礼拝をやめないので、ことによると牧場での真面目な生活態度はミリエム先生との面会の機会を得るための模範生の装いなのでは…と勘繰る余地が残されているわけで、そこも一つの忖度サスペンスになっているのよねぇ(こっちが勝手に慮ってそこにスリルを見出す…という自動生成サスペンス)。

 そしてラストシーンの母校襲撃シーケンス。
ここでは職員室に繋がるインターホンを鳴らすことはなく、イディルが一方的に校内に侵入しようと試みるわけだが、あえなく失敗、屋根から落下したイディルは耳から血を流し、全身ぴくぴくの瀕死状態となって観る者の失笑を誘うわけだが、ここで先生抹殺のための釘を柵に打ち付けたことで、たまたま休日出勤していたミリエム先生が校舎の扉を開けて救助に駆けつける…という終幕だ。
事ここに至って、“死をもたらすドア前の訪問者”は自らが死に瀕し、“死ぬかもしれないドアの解放者”はそれを救うために扉を開ける…というパースの逆転が物語を然るべき終局へと運ぶ。
ここでは、あれほどファースト・ジハードで「開けるな、開けるな…」と先生不在願望の六文字を念じていた観客の多くは、掌を返したように「開けろ。誰か扉を開けて助けてやってくれ」と念じただろう。
それにしても、このラストシーンで「先生、ごめん…」と言いながら流したイディルの涙は真実かウソか。ひょっとすると助かりたい一心から思ってもいない言葉を述べただけなのかもしれないし、あるいは本当に反省したのかもしれない。いずれにせよ、彼が改心したかどうかは依然留保されている。
ただ、彼が助けを呼ぶために釘を打ちつけた“柵”は、牧場での作業を通して改心の兆しを見せた“牛小屋の柵”と符合するのだ。
あとはお察し。

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