シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

デッド・ドント・ダイ

欲深く凡庸。ロメロ直系のゾンビ映画に悲喜ないまぜ。

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2019年。ジム・ジャームッシュ監督。ビル・マーレイ、アダム・ドライバー、ティルダ・スウィントン、クロエ・セヴィニー。

 

アメリカの田舎町センターヴィルにある警察署に勤務するロバートソン署長とピーターソン巡査、モリソン巡査は、他愛のない住人のトラブルの対応に日々追われていた。しかし、ダイナーで起こった変死事件から事態は一変。墓場から死者が次々とよみがえり、ゾンビが町にあふれかえってしまう。3人は日本刀を片手に救世主のごとく現れた葬儀屋のゼルダとともにゾンビたちと対峙していくが…。(映画.comより)


どうもおはよう。
なまじっか、不条理コントとかシュールなアニメを理解できてしまえるが故に「逆に面白さを感じない」というところまで研ぎ澄まされた俺です。
“意味”は分からなくても“意図”が透けて見えるんだよね。どんな狙いでこのセリフを発したのかとか、どういう効果を期待してこの演出になったのか…とか。映画趣味を続けておりますと、そりゃどうしたって作り手の意図に逐次反応する体質になってしまいますから、これはもう已んぬる哉としか言いようがありません。そこを汲み取っちゃうと“お客さん”ではいられなくなるわけですから、たとえば私は『ポプテピピック』とかも純粋に楽しめないわけであります。
でありますから、逆に「不条理〇〇」とか謳ってるのに“普通の返し”をされたりすると、そこで笑っちゃう。ナンシー関みたいなこと言ってごめんなさい。

そんなわけで本日は『デッド・ドント・ダイ』です。今日も文字幅キツキツで、ばりばりです。

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◆第四の壁 剥がれとんのか?◆

 ジム・ジャームッシュにしては非常に欲深く、そして凡庸な映画だ。
それもそのはずか。今度のジャームッシュは凡庸を志向することにある種の使命のようなものを感じているらしい。
本作は王道のゾンビ映画である。「王道の」というのは、つまりゾンビとは物質文明によって魂を失った現代人のメタファーである、とか何とかいって大量消費社会を風刺したジョージ・A・ロメロ閣下の『ゾンビ』(78年)のバイブスに共鳴したフォロワー作品ということね。それ以前の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(68年)では公民権運動やベトナム反戦運動のメタファーが敷き詰められているし、こうした社会論との親和性をフォーマット化したのがロメロ流の王道ゾンビ映画っちゅわけ。

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ロメロ作『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』

 そんなロメロ・フォーマットに忠実なのが今回の『デッド・ドント・ダイ』
しかもこの映画では「ゾンビが発生した原因」まで律儀に描かれている。なんとエネルギー企業が北極に穴をあけたせいで地球の自転軸がずれ、夜は朝に、朝は夜に、そして死者はゾンビになってしまったというわけ!!

無理くり環境問題からめてきた。
しかも意味まで分からん。

ロメロの風刺精神に則って利権を貪る大企業をしっかり批判していく優等生ジャームッシュ。


 物語はこうだ。田舎町の警察署に勤務する署長ビル・マーレイと巡査アダム・ドライバーは、ある日、町人の惨殺死体を発見。その日の晩、ゾンビが墓から蘇って町を襲う。おわりだ。
 映画は群像劇というのかオムニバスというのか、そんな風な構成となっており、例によって詩とレコードとコーヒーを好む慎ましやかな町人たちの日常を気だるげに切り取っている。まるでデヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』(90-91年)みてぇだ。
 この町の人々はどこか人生というものに対して戦慄したような険しい表情をしており、日常の端々に防腐剤を敷き詰めて何かに堪えているように見える。
そして町を見渡せる森には隠遁者のボブ(トム・ウェイツ)がキノコを拾って生活している。たまに森で『白鯨』を拾ったりもする。 恐らく『ツイン・ピークス』のキラー・ボブが名前の由来なのだと思うが、この隠遁者はいつも双眼鏡=神の目で町の様子を窺っている。観察者であり語り部なのだ。

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隠遁者のトム・ウェイツ。


 まるでジャームッシュ映画のキャラクターたちがゾンビ映画の世界にワープしちゃったような奇妙な居心地を覚える作品だが、全編を貫く“ロメロ的普遍性”のなかにも悪戯心が盛んに跳ねています。
スタージル・シンプソンThe Dead Don't Dieと共に幕があがるパトロールシーンでは、カーラジオを通してその曲を聴いていたビル・マーレイが「どこかで聞いたことある曲だな…」と呟けば、部下のアダムが「この映画のテーマ曲ですからね」と第四の壁を突破してしまう。
また、アダムは惨殺事件や気候変動が起こるたび、まるでこの後ゾンビが現れる展開を予期していたように「まずい結末になりますよ」と呟く。第四の壁を突破すな。
さらには、野生動物が町人を殺したのではと推測するビルに対して、いろいろ面倒臭くなったのか「ゾンビの仕業でしょう」と即答してさっさと物語を進めようとする司会進行ぶり。だから壁突破すなよ。
極めつけは映画終盤。これまでのアダムの発言がすべて的中したことを不審がるビルは「何故こうなることが分かったんだ? おまえは預言者か?」と訊ねると、答えにくそうに、アダム。

「台本を読んだから」

ああもう言っちゃったよ。

あなた、映画の登場人物なんだから「台本読んだ」とか言わないよ?

「ジムがくれた」

ジム・ジャームッシュの名前出しちゃったよ。
あなた、映画の登場人物なんだから「ジムがくれた」とか言わないよ?
すると突然ビル・マーレイが怒り出す。

「俺にはくれなかったぞ。出演シーンだけ指示されて、その場で演じた。あいつの映画には随分出てやったのに!」

第四の壁 剥がれとんのか?

ちょっとその壁の施工計画書を僕に見して。
彼らは、これは映画で自分はその中のキャラクターだということを認識してるのよね。すなよ。アダムは『スター・ウォーズ』のキーホルダーまで付けてたし(アダム・ドライバーは続三部作のカイロ・レン役)
もう、どうしようもねえよ。

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ビル・マーレイ(左)とアダム・ドライバー(右)。


ティルティルは、今日も、ティルティルだ

 映画は、町の日常が描かれる前半60分とゾンビが押し寄せる後半40分に分けられているが、ジャームッシュ好きならダンゼン前半部の方が楽しめるだろう。気だるげな空気が循環するジャームッシュ・ビートが観る者の前頭葉を刻む、刻む。
町人がたむろするダイナーでは、人種差別主義者のスティーヴ・ブシェミがコーヒーに対して「ブラックすぎる」と感想したあと、隣の席にいた黒人のダニー・グローヴァーと目が合い「濃すぎるって意味だ…」と弁明した。『ミステリー・トレイン』(89年)でもキャーキャー騒いでいたスティーヴ・ブシェミはハリウッドきってのへなちょこ俳優だから、ロスの犯罪組織や某宇宙戦闘民族を相手取ってきたダニー・グローヴァーには歯向かえないのである。
 そんな平和なダイナーで惨殺事件が起こる。被害者は『ストレンジャー・ザン・パラダイス』(84年)エスター・バリントだ。やったのはコーヒーを好むゾンビで、これをパンクの帝王イギー・ポップが演じている。森の隠遁者ボブを演じたロックの詩人トム・ウェイツとは『コーヒー&シガレッツ』(03年)で語り合った仲だな。かかる凄惨な事件を伝えるニュースキャスターは『ナイト・オン・ザ・プラネット』91年)ロージー・ペレス
翌朝、アダムと同僚の巡査クロエ・セヴィニーが事件現場に駆けつけ、遺体を見て吐いた。いつもは彼女が出ている映画で観客が吐くことが多いが、今回ばかりは吐く側に回ったらしい。

 一方、男友達に囲まれて都会からやってきたセレーナ・ゴメスはタランティーノ映画よろしくホットパンツを見せつけるビッチ枠だが、意外に礼儀正しく、『吸血鬼ノスフェラトゥ』(22年)のシャツを着たホラー映画オタクの雑貨屋ケイレブ・ランドリー・ジョーンズにも親切だ(ジャームッシュの性格がよく出た二人)。ビッチと決めつけてゴメス。
そんなケイレブに毎回名言を聞かせる配達員はラッパーのRZA。今回は「この世は完璧だ。細部まで味わえ」という名言を放ったが、翌日ゾンビに食べられて自分自身が味わわれるハメになった。胸が痛むよな。
警察署に安置されていた酒臭い遺体は『狼たちの午後』(75年)キャロル・ケイン。ゾンビとして蘇ることに成功したが、「頭を落とせば倒せるはずだ」といったアダムの検証対象にされ、鉈で頭部を叩き斬られた。なんてザマだ。

 さて。町の葬儀屋を営んでいるのは我らがティルダ・スウィントン
「我らが」というよりも「私の」と言っていきたいところだが、まあ、どーでもこーでも、ティルティルだ。
ティルティルときたら、夜な夜な遺体に語りかけながら死者冒涜としか思えないメイクを施したり、仏像の前で日本刀を振って「阿弥陀仏」と唱えるなど、もはやこれしきの事では驚かないエキセントリック・キャラクター像におさまっていた。

ティルティルは、今日も、ティルティルだ(朗らかな面持ちで首肯)

f:id:hukadume7272:20210208024004j:plain今日も今日とてティルティルです。

 そしてこのティルティル。後のパンデミックシーケンスではゾンビの首を日本刀でシュンシュン刎ねていく一騎当千のゾンビキラーとして大活躍するし、実は〇〇だったという馬鹿げたオチもつくが、一応映画評として言及せねばならないのは“歩き方”ね。
まるで昔のポケモンみたいに「道にマス目でもあるの?」と思うような直角歩きで規則正しく移動するティルティル。無論、そのさまは横移動のドリー撮影で撮られているが、これは処女作の『パーマネント・バケーション』(80年)から前作の『パターソン』(16年)まで通底するジャームッシュ・メソッドだ。この映像スタイルは、同じくニューヨーク・インディーズの後輩として知られるウェス・アンダーソンやノア・バームバックにも影響を与えている。今となっては「ウェス・アンダーソンの十八番」と認識されているが、なめないでよォー! ジャームッシュあってのアンダーソンだよーッ!
そしてここが最も重要なのだが、ウェス・アンダーソンの横移動が“街の背景化”に徹しているのに対して、ジャームッシュは環境化のための手段として横移動をおこなう。カメラが追っているのは歩く人物ではなく、歩く人物によって自動的にフレーム内に映り込み、そのつど物語世界を築く環境として拡張されゆく街そのもの。たとえばジャームッシュ作品を思い出せるだけ思い出してみたとき、われわれの脳裏に想起されるイメージといえば、人物の顔でも物語の筋でもなく、あの殺風景でいささか不機嫌そうな街、森、道路といったロケーションではないのか! ええ、おい! どうなんだ!?

実際、『ブロークン・フラワーズ』(05年)以降のジャームッシュは人よりも街に興味を持ち、デトロイトやスペインの街並みなど、環境としてのロケーションを拡張するためにこそ人物を歩かせている。前作の『パターソン』に至っては、文字通りニュージャージーの都市パターソンを見せまくるためだけにアダム・ドライバー演じる主人公をバス運転手として市内をぐるぐる徘徊させていたではないか。
そんな観光フェチぶりは今作『デッド・ドント・ダイ』でも健在。ビル・マーレイとアダム・ドライバーを運ぶ一台のパトカーは、町内パトロールという名目で街案内に奔走する。しかも横移動で。警察署、モーテル、雑貨屋、ガソリンスタンド、ダイナー、孤児院、葬儀場…。律儀にも一つずつ紹介されゆく施設たち。
「ああ、これが撮りたかったんだろうな」ということが、もう丸分かり。フィルムが欲望している。

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 最初に「ジム・ジャームッシュにしては非常に欲深く、そして凡庸な映画だ」と言ったのはこういう事で。開幕5分で欲を満たしきったわけだから、そのあとのゾンビ彼是はロメロ・メソッドをなぞるだけで十分だったのだろう。
実際、ボブが「これぞ資本主義の末路。ゾンビとは彼ら自身だったのじゃ!」としたり顔で語っちゃうラストシーンなんてズッコケのコケコケで。

何を今さら…? って。

むしろこっちはその前提で全てのゾンビ映画を観ているのだけれどもねー!って。


 ジャンルムービーを脱臼させる妙味はなく、全編ケレンに満ちているようでも実は手垢のついたハッタリの連発で、一応ファンのために最低限のことだけはやった…という微温的なサービス精神が透けて見えちゃって、「やってくれた!」というよりも「やってもらった」と感じちゃったな。
本当にジャームッシュがやりたかったことは冒頭5分の街案内だということは大体のファンが察してるので、そのあとの衒い展開は観客に対する情け。しかしそんな情けを素直に受けるほど、人は『ナイト・オン・ザ・プラネット』『コーヒー&シガレッツ』に退屈したわけではないのです。
煙草とコーヒーとお喋りだけで映画が撮れる稀有な才能をこそ、もう一度見たい。

f:id:hukadume7272:20210208023420j:plainえらい格好いいな。もうそういうバンドかよ。

 

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