シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ナイチンゲール

「映画祭で途中退席者続出!」みたいな売込み口上、サムいからそろそろやめんけ?

f:id:hukadume7272:20210105050929j:plain

2018年。ジェニファー・ケント監督。アイスリング・フランシオシ、サム・クラフリン、バイカリ・ガナンバル。

 

19世紀のオーストラリア。アイルランド人の若い女囚クレアは、英国軍の将校たちから暴行を受けた上に、夫と子供を殺されてしまう。復讐を決意した彼女は、逃亡した将校らを追うために、植民政策により虐げられている先住民アボリジニの青年ビリーに道案内を依頼する。理不尽に全てを奪われた二人はタスマニアの過酷な森をさまよい、加害者たちを追い詰める。(Yahoo!映画より)


おはようごぜェます。
こないだ四条歩いててね、ビャーッてコンビニエンスに入ったの。
ぼくお茶コーナー行こ思たらね、DQNと思しき店員さんがレジスターの前でJK店員とお喋りしてたの。DQN店員が「おれUFOキャッチャーとか超得意だよ」言うと、JK店員が「あっ、へぇ~~!!!」言うの。レジスターの前で。
ぼくお茶見よ思たけどね、ずっとDQNが「欲しいぬいぐるみとかあったら今度とってやるぜ。コツは引っかけ方と傾け方にあり」言うて、そのたびにJKが「あっへー!!!」言うの。レジスターの前で。
どけや。
さいぜんから2人してレジスターの前でベチャクソお喋りしやがってからによォ――ッ!
DQN店員はUFOキャッチャーでの引っかけ方を力説していたが、オレの目には女を引っかけてるようにしか見えなかった。そして女も女で「あっへー!」ばっか言うな。「とりあえず共感すること」が「話の聞き方」だと思う、その合コンあがりの安い思想を正せ。
店員2人分の邪悪な体積によってわれわれ買う者がお茶コーナーへと続くレジ前通路を通ることができず満足に伊右衛門を買うことが叶わないという珍奇・店員ジャマ現象をなんで巻き起こすのってぇええええええええええええ。
私だけでなく、ほかのお客さんも「やだ。店員さんがジャマでお茶コーナーへと続く通路が歩かれない。困った私が入口付近でまごまごしている。それはもう、まごまごと」みたいな困窮フェイスを浮かべていたが、尚もDQN店員とJK店員は、われわれ買う者の困窮フェイスも一顧だにせず「開口部に近い商品はよう取れる。ハナから傾いてるぬいぐるみもよう取れる」とか「あっ……あっ…へええええ!!」などとベチャクソに喋り散らかしていた。
そりゃあ多少は苛立ちを覚えもしたけれど、基本的にわたくしは聖母マリアのような優しさと広い心の持ち主なので、なるべく角が立たず、且つエデン&ヘブンに丸くおさまって皆がハッピーになれるような言葉を選んで店員さんに注意を促しました。

「どけ」

「アアアアッ、怖い!」みたいな顔したDQNとJK、蜘蛛の子散らしたように逃げてった。奇しくも前回のエピソードの翌日に起こった出来事である。なんで2日続けて店員さんが通路遮って私のお買い物のジャマすんの。

そんなわけで本日は『ナイチンゲール』です。暇やったら読み。

f:id:hukadume7272:20210105051053j:plain

 

◆映画祭で途中退席する奴はゴールデンスライム◆

 今から批評する『ナイチンゲール』はシドニー映画祭で約30人もの途中退席者を出したらしい。
もうええわ。飽きたわ。
このさぁ~、「残酷すぎて途中退席者続出!」みたいな売込み口上を誇らしげに掲げて好奇心を煽る作戦…低俗だからそろそろやめんけぇ?
元々はミヒャエル・ハネケとラース・フォン・トリアーの専売特許みたいなモノだったのに、近ごろの観客ときたらちょっとした暴力描写ですぐ席を立つもんだから、もうそういうパフォーマンス込みでポップ化してしまって、物議醸し系映画がヘンに市民権を得ちゃったのよね。もはや途中退席エンターテイメントだよ。
途中退席のほかにも、たとえば失神したり心臓麻痺で死亡するなどすればさらに箔が付くわけでしょう。そんなやり方でしか客を誘えない宣伝マンが「昨今の映画業界キビしいすわ~」とボヤいても「どのツラ下げて憂いとんねん」って話だよ。しょうもない顔しやがってよ。

いっそ映画祭の客は途中退席できないように全員縛っとけ!

第一、自分から映画祭に足を運んで途中退席するような連中は忍耐力が足りないと思います。自分が見たいモノの範囲でしかモノを見れない視野狭窄野郎だ。だってさ、途中退席って見たくないものを見せられたから逃げるってことだからね。ゴールデンスライムかよ。エンカウントして来たのはオマエら(客)の方でしょ、っていう。

初っ端からキレてすまん。オレは聖母マリア。オレは聖母マリア…。「途中退席者はゴールデンスライム論」はまた今度話すとして、本作『ナイチンゲール』であるよなー。
 この映画は、1820年代に起きたイギリス植民者によるタスマニアン・アボリジニの民族浄化作戦「ブラック・ウォー」を背景とした壮絶な復讐劇だ。
罪人の流刑地であるタスマニア島に連れてこられた女囚アイスリング・フランシオシは、駐屯部隊を指揮するイギリス陸軍中尉サム・クラフリンに強姦された挙句、目の前で夫と赤子を惨殺されてしまう。翌朝、査察官から昇進の道を閉ざされたサムは逆上し、陸軍幹部に直訴するべく部下を率いてローンセストンを目指す。一方そのころ、復讐を誓ったアイスリングはアボリジニの道案内人バイカリ・ガナンバルを雇ってタスマニアの険しい森林地帯へと足を踏み入れ、サムを追跡するのであった…といった中身なの。
『裸のジャングル』(66年)と『美しき冒険旅行』(71年)と『死の追跡』(73年)を足してタスマニアデビルで割ってみた、みたいな冒険活劇だったわ。最近の映画だとメル・ギブソン監督作の『アポカリプト』(06年)も彷彿したり、しなかったり。

f:id:hukadume7272:20210105051127j:plain 復讐を誓ったアイスリング(右)と道案内人のバイカリ(左)。

 19世紀オーストラリアの虐殺とレイプの歴史をえぐった痛恨の一作だが、まず、なんといっても人種差別の構造がおもしろくて。
イギリス植民地下にあった当時のオーストラリアでは、イギリス軍はアボリジニに対して“人間狩り”をする権利が認められており、黒人駆除という名目で大量虐殺をおこなっていた。つまり原住民のバイカリ君はイギリス軍とエンカウントしたら即終了なので、森に身を隠しながら原始的な生活を送っている。
 一方、家族を殺されたアイスリングは生粋のアイルランド人であり、同じ白人でもイングランド側からは差別の対象なのだが、同じ白人であるがゆえに(サム中尉と同じく)アボリジニに対しては偏見を持っている。いわば差別の中間管理職。
そしてカースト最下層がバイカリのようなアボリジニだ。彼らにとってはイングランド人もアイルランド人も同じようなもので、“自分たちを目の敵にする白人”であることには変わりないのだ。
また、彼らの一部は白人に雇われて「ボーイ」と呼ばれる道案内業をしているが、白人からすれば目的地に着いたあとに案内人を殺害すればギャラを踏み倒せるので、バイカリ達にとっては道案内といえども命がけの大仕事なのである。

 この後のストーリーは至極単純。案内人のバイカリを奴隷のように扱うアイスリングが鼻息を荒くしてサム中尉を追いまくる…というジャングル追跡劇が描かれるわけだが、なにぶん凄惨な暴力描写ゆえにゲボ吐いちゃう人はゲボ吐いちゃうかも。特にアイスリングがむちゃくちゃな目に遭う第一幕。夫の目の前で集団レイプされ、それに憤慨した夫が射殺されて、生まれたばかりの赤子まで…っていう。
イギリス製の難病ロマコメ『世界一キライなあなたに』(16年)では儚げな好青年を演じて涙を誘ったサム・クラフリンの鬼畜将校ぶりが見物であります。

f:id:hukadume7272:20210105051144j:plain役立たずの部下を殺そうとするサム中尉。

◆窮屈! 苦痛! 余計なお世話! 視線の強制ガイドツアー◆

 まぁなんだ、「性差別」と「人種差別」の双輪を「暴力描写」という名のボディに付けて疾走するも運転はやたら荒々しい…みたいな出来栄えね。
まず、映画としては非常にダメです。
本作の画面サイズは昔懐かしのスタンダードなのだが、やたらと人物の顔が中心化されていて、まるで「ココを見ろ!」、「次はコレを見ろ!」って脅しつけられてるような窮屈さと横柄さを感じる。
スタンダードサイズ…4:3のほぼ真四角の画面。

 なにしろ視線が強制されてるから“観る”という瞳の運動にまったく自由がないのよね。
「客に見せたいものを画面の中心に持ってきて、そこにしかピント合わせない」という、およそ映画とは程遠い視線の強制ガイドツアーがこの上なく苦痛で、腹立たしく、この新人監督の想像力の欠如ぶりには一驚に値するものがあったわ。カットも下手くそだし。
このスタンダード事件について、監督のジェニファー・ケントは「タスマニアの旅記録みたいにはしたくなかった」「風景の中心に人物を置きたかった」などと制作意図をぺらぺら喋っている。この声明により、観る者の視線を意図的に強制/誘導したいが為にスタンダードを採用したことが立証されました。語るに落ちたッ。

…でもそれって余計なお世話なのよねぇ。

どこを見るかなんて観客の自由だし、だから映画は楽しいんじゃん。タスマニアの旅記録みたいにはしたくないから背景にはピントも合わせず人物中央にボーン!って……それは演出という名の押し付けですから。
 そういう意味でこの映画…“開かれてない”。エゴという名の重い扉でガチガチに閉じちゃってるわ。

f:id:hukadume7272:20210105051239j:plain瞳の自由を奪う、人物中心の窮屈ショット。

 次に「残酷すぎる」と話題の暴力描写。これもまあまあダメです。
仇の胸にナイフを突き立てる動作、射殺された少年のスローモーション、サム中尉に犯されてる女性の表情などを執拗に見せ続ける…といった直接描写の反復なので、残酷というよりは単に露悪的なだけ。持続化された暴力。要は「オバケの顔をずーっと映しとけば怖さが増すじゃん?」とか、しょせんはその次元の発想ね。
ついでに言うと、暴力を持続化するためか、人がなかなか死なない(槍で片足を射抜かれようが銃で胸を撃ち抜かれようが平然とテクテク歩く)。
 あるいは、アイスリングが悪夢にうなされるシーンのしつっこさ。優しい感じで現れた亡き夫が急に悪鬼の形相で「おぼぼぼぼ!」と叫ぶ…のワンパターン。超笑う。
 あと、この映画は『ランボー ラスト・ブラッド』(19年)と同じく西部劇の構造を持っているのだけど、ちょっとビックリするくらい馬が撮れてない(今となっては色や体格すら思い出せないよ)。いわんや、亡き夫の愛馬として終始アイスリングと行動を共にしているだけに、この手落ちはさすがに痛い。
ローキーな映像とか寡黙な雰囲気はとても好みなのだけど、それだけに作り手のポンコツぶりが悔やまれます。

“相手を理解しようとすること”ほど傲慢な身振りはない

 物語に関しても強大な違和を覚えた。
まずもって、人種差別を受けるバイカリが“家族を皆殺しにされた”という共通点だけで性差別を受けるアイスリングの復讐に無償で協力する…といった異人種間連帯や意思疎通がけっこう単純なパースで描かれてるのよね。
ゆえに「お互い家族を失った被差別者だしね」の一点だけで協力し合えるほどアイリッシュとアボリジニの溝って浅かったっけ? っていう疑問に終始つきまとわれて、主要キャラクターのバイカリが“欧米人にとってのこうあって欲しいアボリジニ”の中に小さくまとまっていた印象だなぁ。アイスリング(白人)と同じ価値観を持ってて、人情に厚く、クライマックスに至っては彼女のためにヒロイズムまで炸裂させちゃうわけ。だからこそ、この物語ってバイカリがお人好しであるという前提の上に成り立ってない? って。
そこに、先住民族文化に対して“ハリウッドナイズされた価値観”でコミットしようとする作り手の厚かましさすら感じちゃうの。もっと得体の知れない民族としてストレートに描いてもよかったんじゃねーの。
 そういえばよ、近ごろ「差別や偏見をなくすために相手のことをよく理解しよう」みたいなマインドが流行ってっけど、とかく“理解しようとすること”ほど傲慢な身振りはないからね。何事によらず、私自身も「いやいや、理解した“気になってるだけ”だ」って自分に言い聞かせるようにしてるわ。
 そして大悪党のサム中尉。性差別者であり人種差別者でもあり、おまけに子供も老人も無条件で殺害する全方位的な大悪党で、それゆえに“都合のいい悪役像”に行儀よくおさまってるんだよね。こいつさえブッ殺せばすべてのカタがつくってキャラ。
だけどこの男は、人種・性別・年齢問わず、かなり無作為に人を殺すので、その意味では逆に公平性の高いキャラとも言えるのではなかろうか。ムチャ言ってるかしら、俺。

…なんて、自分の感想を書いてみたけど、事程左様に“考える上ではおもしろい映画だと思うのよね。観終わった後にあれこれ考えてる時間が楽しい映画。
あーだこーだと悪し様に貶してきたが、なぜか嫌いになれきれない作品で、ややもすると私はこの監督の物議醸し力一石ぶっこみ力に少し惹かれているのかもしれない。次作では更に過激に、かつ“観る楽しさ”が備わってればいいなって思うよ。あとやっぱり…映画理論の基礎くらいは身につけて頂きたい。甘すぎます。

f:id:hukadume7272:20210105051632j:plainバイカリ、いいやつ。

(C)2018 Nightingale Films Holdings Pty Ltd, Screen Australia, Screen Tasmania.