シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

痴人の愛

小悪魔女子とか大嫌いな私が小悪魔映画を観て案の定ぶちぎれ。

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1934年。ジョン・クロムウェル監督。レスリー・ハワード、ベティ・デイヴィス。

画家の夢を断念しロンドンの医学校に通っていたフィリップは喫茶店のウェイトレス、ミルドレッドに夢中になるが、彼女は浮気者で男出入りが絶えず、他の相手と一緒になるからと、彼の求婚を退けた。だが、やがて妊娠した彼女が彼の前に再び現われる…。(allcinemaより)


どうもおはようございます皆さん。
数字というものをリアルに考えた結果、とんでもないリロンに行きついた。
たとえば「おさななじみ」の「なな」は数字にすると「七」であるから「おさななななななななななななななじみ」と「なな」を7回唱えるべき、とするリロンである。
だが、この法則に基づくと恐ろしい問題が起こることが当局の研究により明らかとなった。
それすなわち、「五七五」の場合「ごごごごごしちしちしちしちしちしちしちごごごごご」と言わねばならず、「三三七拍子」の場合は「さんさんさんさんさんさんなななななななななななななな拍子」と発音せねばならず、満足に会話もできないという問題である。
 人名も然りで、たとえば「菜々美さん」と呼ぶときは「なな」を7回×2+「み」を3回唱えねばならないので「ななななななななななななななななななななななななななななみみみ」と発音せねばならないのだ。
これだけならまだよいが、千の位ともなると大変を極める。例えば店でのお会計時に「8900円です」と店員が言う場合、まず「8000」を8000回言わねばならず、次に「900」を900回言わねばならないわけ。さらぬだに、客が「じゃあ1万円で」と言おうもんなら「1万」を1万回言わねばならず、呂律爆発、水分枯渇、声帯イガイガ、頭グリグリの様相を呈しに呈してしまうという事態が発生。
そのうち誰も彼もが気を狂わせ、「いちいち面倒臭せぇー」と言おうとした瞬間「アッ。いちいち…! 『いち』も数字だから言わねばならないのか~」と冷や汗をかきかき、されど「でも『いちいち』は『いちいち』でいいんだよね。1を1回言うだけ×2だから」などと安堵。気ぃ狂うゥー。
しかしここで、人民の脳裏にある疑問がよぎる。「0はどうなるの? 『0』を口にする場合は『ゼロ』と0回言わねばならないが、それってつまり何も言わないってことだよね?」と。
つまり0は発音禁止。すなわち、この世の全ての言語から「ぜろ」もしくは「れい」と発音する言葉は全面的に使用を封じられ、人名に「れい」のつく人、たとえば礼子さんなんかは「れい」禁止の掟により「子」しか残らず、「どうも。子です」という挨拶を余儀なくされる、ちゅわけだ。
そう考えると数字は恐ろしいし、だからこそオレたちは数字の逆鱗に触れないように日々を慎ましく暮らさねばならないと思います。
そんなわけで本日は『痴人の愛』。レッツゴー。
…あ、レッツゴーゴーゴーゴーゴーって5回言わなあかんのか。数字の逆鱗、だる。「恐ろしい」っていうか、単にだる。

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◆小悪魔女子はお好きですか?(私は大嫌い)◆

  サマセット・モームの小説『人間の絆』を張りきって映画化。モーム原作の映画といえばナオミ・ワッツとエドワード・ノートンの『ペインテッド・ヴェール ある貴婦人の過ち』(06年) なんてモノもあったが、それ以降はとんと作られていないねぇ。
 さて、本作はレスリー・ハワードベティ・デイヴィスによる二大スター共演作だ。
レスリー・ハワードといえば『別離』(39年) でイングリッド・バーグマンと共演し、『風と共に去りぬ』(39年) ではスカーレット・オハラの初恋相手アシュレーを演じた二枚目スターだが、ハリウッド黄金期(30~40s米映画)をあまり見ていない人にとっては全く馴染みのない名前だろう。
 だが、ベティ・デイヴィスは知らぬ存ぜぬじゃあ通らない。“フィルムのファースト・レディ”の名を欲しいままにした怪物的女優にして、キャサリン・ヘップバーンと並ぶ米女優史最高の英傑。と言っても、現代ピープルに知られているのは中期以降の『イヴの総て』(50年) 『何がジェーンに起ったか?』(62年) だろうが、その認知さえあれば十分だから、どうか自信をつけてほしい。
そんなレスリーとベティの怪奇愛憎譚が綴られる、充実の83分。それが本作だが、鑑賞中の私はハラワタが煮えくり返りそうな思いでありましたので、この第1章では私のハラワタ事情を詳らかにしていこう。

  画家の道を諦めたレスリーは、自らがびっこ引きであることから軍医になるべくロンドンの医学校に通う青年。そんなレスリーがレストランで出会い、一目惚れしたベティは成金豚とデートを重ねる軽骨ガール。流し目ウッフンの腰くねらせだというのだ!
その思わせぶりな素振りに、レスリーは瞬く間にベティに入れ込むが、どうやら彼女の本命は成金豚のよう。しつこく迫ったレスリーはベティに振られてしまい、その悲しみを埋めるようにして知人のケイ・ジョンソンとの愛を育んだ。だが幾星霜を経たのち、涙はらはらのベティが「やっぱり、あんたなのよ!」と縋ってきた。妊娠がきっかけで成金豚に捨てられたらしいんだわ(その後ベイビーを出産します)。
ぐらり揺れたる男心。レスリーは優しみのケイに対して一方的な別れを突きつけ、再びベティと享楽の日々を貪った。はあ?
 
それから間もなくして、彼女がレスリーの親友レジナルド・デニーと寝たことが発覚。ええ?
ベティの男癖の悪さに堪忍袋の緒が切れたレスリーは永久の訣別を心に誓い、下町娘のフランシス・ディーとささやかな愛を育むことに成功。そこへ現れたは、またぞろベティ。赤子を連れている。今度は金を無心してきたので、いよいよもってタチの悪い女といえるが、筆者ふかづめのように“一度見限った人間に対しては徹底的に冷酷に振舞う不屈の無視力”を持たないレスリーは、ベティへの生活援助を惜しまない。なんと自分のアパルトマンにベティと赤子を住まわせるのだ(バカよね~。どこまでお人好しなんだか)。

f:id:hukadume7272:20210326011727j:plain何度裏切られてもベティを許してしまうレスリー。

 この時点で、私の堪忍袋はぶっ千切れ散らかした。
悪女の極みともいえるベティはもとより、真に救いがたきはレスリーの方だ。何度も同じ手で言い寄られて、そのたびに騙されては、いいように利用される…。
なんて愚かな男なんだ。私の爪の垢を煎じて飲ませてやりたいぜ。自慢じゃないが、私には「小悪魔封じ」というアビリティがあるのだ。この手の女への耐性には一日の長がある。思わせぶりな態度や、妙な駆け引きなど、アッという間に看破してしまうのだぞ! そしてこう言ってやるのだ。
「おまえが手練手管のカラクリ女ということは見通しだ。悪いが俺には効かない。妙な気は起こすな」とな…。圧倒的だろ?
圧倒的にして無慈悲なまでの小悪魔粉砕機。
それが俺だし、これは確かなことだ。
 だいたい俺はな、バラエティ番組で必死こいてキャラを確立しようとしてる女子アナや、若さを武器に私生活を切り売りしてるような薄っぺらいYouTuberやインフルエンサーを見ると「はいはい、かわいいね、かわいいね。そうやって他人に『かわいいね』と言われることで充足する能天気な人生、素敵だね」と思うし、近頃はそうだな、張り手一発で首がもげそうなガキどもばかりなので、まずは己の思想哲学を持って、その意思のないチワワみたいな目つきをまずやめろと言いたい。大事なのは想像力と現状認識だ。俺の言ってることがわからないか? 要するにスマホをブッ潰して肉を食えってことだ。外角低めに想像力を発射しろ。友達とクレープ食ってインスタに載せてる場合じゃねえぞ。馬鹿垂れが。


すまん、情熱的なことを書きすぎた。
なんしか、ベティは流し目ウッフンの腰くねらせ。そしてレスリーは意思フニャフニャの心だまされなのである。布施明の名曲「君は薔薇より美しい」の歌詞に「だました男がだまされる時、はじめて女を知るのか~」とあるが、そんな生易しいもんじゃねぇよ、こりゃ。

この世の悪意をバルミューダで炊いたような邪悪な魂

 この映画はベティ・デイヴィスを一躍スターへと押し上げた出世作である。
何といってもベティの怪演の見事。映画前半では擦れた感じが可愛らしくもあり、白と黒のウェイトレスの制服が“少女と女の線分”として危うげな魅力を撹拌しもしているが、やがてそのバランスも崩れ始める。レスリーとデートを重ねていたころは白のドレスを纏っていた彼女も、成金豚やデニーとの不貞を働くうちに黒のドレスへと衣装チェンジしてゆくのだ(魂の邪悪化)。
また、レスリーとのデートを儚げに彩っていたシャローフォーカスもすっかり鳴りを潜め、映画後半の被写界深度に至ってはバキバキの極み。つまりパンフォーカス。そして観る者は慄くのだ。
「ベティ・デイヴィスは瞳の奥に天使と悪魔を飼ってるゥー」
今宵はどちらの顔で微笑みかけるのでしょうかねえ。

 そんなベティが、心身の憔悴から見る見るうちに老けていく。物語内時間はさほど経過していないのに、後半など完全に老婆だ。
ついにレスリーにも見捨てられたあと、幼子は死に、自身も結核に侵され、最期はじつに哀れなものでした。その痛々しさたるや正視に堪えないものがあるけれども、一切は自業自得。身から出たワサビ。ようやくベティの呪縛から解放されたレスリーは、身重のフランシスとともに第二の人生の門出に立つのであるるん。

f:id:hukadume7272:20210326011816j:plain病気により全身ポキポキに。悪女の哀れな最期。

 あ~。非常にべっとりとしたファム・ファタールものであったよなぁー。嫌いじゃない。嫌いじゃないよ!
『嘆きの天使』(30年) 『情婦マノン(49年) のように、ざらりとした苦い余韻を残しながらも、この手の映画で男を手玉にとるヴァンプ(妖婦)特有の魅力はベティにはなく、最後まで性根の腐った女としてヒールを全うした。本当にすごいのよ。レスリーが生活援助を拒むと逆恨みして、半狂乱となり罵詈雑言、彼の描いた絵をナイフで切り裂き、医大卒業のための公債投書をマッチで燃やす。そんなことをしておきながら、体調が悪くなりゃレスリーを頼って命乞い。
この世の悪意をバルミューダで炊いたような、邪悪な魂やでぇ…!!

f:id:hukadume7272:20210623054224j:plain小悪魔ロリ映画の『嘆きの天使』(左) と『情婦マノン(右) 。

 他方、ベティ以外の女たちは実にすばらしい女たちでした。
第一の恋人ケイ・ジョンソンは、昔からレスリーを慕っていた片思いガールだ。ゆえにレスリーにしてみれば…言い方は悪いが、イこうと思えばいつでもいける女なのである。ボトルキープしたワイン。事実レスリーは、ベティにふられた悲しみを紛らわせるようにケイを頼り、かりそめの愛を3Dサラウンドで囁くのである!
このばか!
やはりレスリーは処刑しておかねばなりません。ケイの優しさにつけ込み、心から好いてもいないくせに、かりそめの愛を3Dサラウンドで囁きやがって。まるでケイを旅の途中のダイナーみたいに思いやがって! 「小腹すいたし、ちょっと寄ってこか」やあらへんで。
 だけど、ケイはケイで「オッケイよ」なんて言うし、性格的にも包容の人でありますから、レスリーの本命がよその女(ベティ)にあると知りながらも、彼が医者になれるよう健気に支え続けるんである。母性の大樹だねっ!
だがそんなケイも、レスリーがベティとよりを戻したことで呆気なく捨てられてしまうのです。

ケイ「私の気持ちの方が大きいのは知ってたわ…」
レスリー「恋というのは、愛する者と愛される者で成り立つ」
うるさいよ、ヒドい振り方をしたうえに含蓄あるでしょみたいな顔で恋の何たるかを語んな。
しかしケイはあくまで落ち着いている。レスリーの含蓄恋愛論を聞き、“惚れたが負け”を悟ります。
ケイ「いつもそうね。優しくされたいなら噛みつけばいい。忠実になった方が負けるのよ…」

そしてレスリーの前から姿を消したのであります。
それはそうと、本作の監督ジョン・クロムウェルとケイ・ジョンソンはリアルガチ夫婦で、二人の間に生まれた子がジェームズ・クロムウェル(『ベイブ』のお爺ちゃん)なんだよね。

f:id:hukadume7272:20210326012253j:plainケイ・ジョンソン。

 で、そんなあかんたれのレスリーが次に出会ったのがフランシス・ディー。
彼女とはベティと喧嘩別れしたあとに出会ったのだが、私としては「どうせこのコも恋の噛ませ犬なんでしょ? 結局またベティとよりを戻して、フランシスのこと捨てちゃうんでしょ!」と全身から湯気を発さぬわけにはいかなかった。これぞ怒りの前借り。先の展開を勝手に決めつけて全集中で怒っていくという…一か八かの振舞い。
フランシスは、どえらい別嬪であった。永らく実家でパパンの言いなりになっていたが、レスリーと出会ったことで自由意思をゲットしていくのだ。それにしても彼女のパパンがまたひどい。差別と偏見にまみれた家父長制の遺骸みたいな男なのだ。

パパン「食事は男女別の方がいい。女は男同士の会話に興味を持つべきではないのだ。妙な気を起こすからな。考え方も古風なのだし。女は料理と子育てができればそれでいい」

この映画…なんで胸糞悪いキャラクターしか出てこやんの。
考え方が古風なのはテメェだろうがよ、パッパ、おいこらパッパ。その土手っ腹に風穴あけて、悪いものすべて取り出してやるぜ!
しかもレスリーは、ニコニコしながらパッパの話を聞いてた。
オッメェーは本当そういうとこなんだよなぁ~、レスリーよォ。そんな腰巾着なことでいいのか、この先。ただでさえフランシスがパッパの顔色を窺ってビクビクしてんだから、ここはおまえがガツンと「この家父長制の遺骸めェー!」言うていかんと。彼女守っていかんと。何をパッパに気に入られようとして追従笑い浮かべとんねん。ええか、癖になった追従笑いは顔に張っ付くぞ?
剥がそ思ても、もう剥がれへんのやぞ!
大変にむかつきました。
ちなみに、フランシス・ディーは『アメリカの悲劇』(31年) 『私はゾンビと歩いた!』(43年) で知られるアメリカの女優。どえらい別嬪やでなぁ、しかし。

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フランシス・ディー。

◆おまえはどの手の類かな◆

 そんなわけで、終始レスリーにむかつき通しの83分を本作はわたしに提供してくれたな。
結句、フランシス登場後、ほどなくしてベティが病死したのでレスリーの心は解放。ベティの呪縛を断ち切って無事フランシスと結ばれたのであるが、それを差っ引いて、なお私の心は晴れなかった。
単純に、感情論として、むかつく。
そういうことってあるよな。なあ!?
それとも、おまえはアレか、あの手の類か? 「曲がりなりにも映画批評を書いてる以上、個人的な感情をまき散らすべきではない。ひとつの作品として公平に批評するのが映画ブロガーの金科玉条ではなかったか」とでも言うつもりの類か?
どの手の類だ!?
もしくはアレか、別の類か? 「たとえむかついたとしても、感情を動かされたという点においては本作の勝ち。それがこの映画のパワーなのと違うか?」っていう切り口の類か!?
どの手の類か教えてよ!!
なるほど確かに、感情を動かされたのは事実だ。でも、だからといって「久々にむかつけてラッキーだぜー」とでも私に書けと? そんな映画ブロガーって、どんな映画ブロガーなんだ。イカれてるだろ。全身が。もうやめさせて貰うわ。

【嬉しいこぼれ話】
 当時、ワーナー・ブラザースと契約していたベティ・デイヴィスは、会社の猛反対を押し切ってRKOの本作『痴人の愛』に出演(契約違反すら辞さないパッショーネ)。
ベティは本作で「映画史上最も醜悪なヒロイン」を怪演し、その衝撃的な芝居はセンセーションを巻き起こした。しかし本作はベティが専属契約しているワーナーの作品ではなくRKOの作品。これによりワーナー4兄弟の1人、ジャック・ワーナーの怒りを買った彼女は陰湿ないじめに遭い、第7回アカデミー賞にノミネートされなかった。これに対してファンと批評家は一丸となりワーナーに猛抗議。大乱闘ワーナー・ブラザーズにまで発展した結果「ノミネートはしないが投票は認める」という前代未聞の措置がとられた。
しかし、主演女優賞は『或る夜の出来事』(34年) のクローデット・コルベールの手に。コルベールの軽妙洒脱なラブコメ芝居もすばらしかったが、ベティの妖気溢れる悪女ぶりはまさに圧巻だった。この受賞結果は「オスカー史上最大の過ち」と語り継がれ、却ってベティ・デイヴィスの名を知らしめる形となった。

“映画女優”を語るうえで避けては通れないのがベティ・デイヴィスとキャサリン・ヘプバーン。この二人の活躍により1930年代のハリウッドに“女性映画”の礎が築かれたのであります。

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ベイビーフェイス、ベティ・デイヴィス。