シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

悪魔の赤ちゃん

頭がブリブリに肥大した赤ちゃんが今キバを剥く! ~危険を顧みぬスタッフ有志一同が赤ちゃん本舗から緊急独占生中継SP~

f:id:hukadume7272:20210401085114j:plain

1974年。ラリー・コーエン監督。ジョン・P・ライアン、シャロン・ファレル、悪魔の赤ちゃん。

あれは何だ? 赤ちゃんだ! いや、よく見ろ! 悪魔の赤ちゃんだ!!


おはようございますねぇ。
きっと「過呼吸」という言葉は、あまりに過酷な目に遭って過呼吸を起こした百姓が「過酷ー」と言おうとして「かこきゅううう」になってしまったのを、通りすがりの言語学者が「それ、ええやん!」と思って名付けたネーミングなのだろう。そんなことを、ふと考えるに足る朝をわたしは迎えています。

さて。かれこれ14年も映画批評をしておりますと「レビューを書くコツを教えて下さい」てな質問をビュンスカビュンスカと投げつけられるのだけど、まじめに返答するのが面倒臭いので「バカだからぼくわかんない」と丁重にお返ししております。
もちろん映画評を書くコツはあります。
あるけどさぁ…、それをイチから説明するってなると、まずは修辞学の話になってしまうよね。つまり文章力。日本語の使い方。仮に質問者がそこをクリアしてたとしても、「ほな次は映画に関する知識と経験を蓄えて感性を磨いてケロ」としか言いようがないのです。この2つをバッチリ押さえた上で、はじめて「レビューを書くコツ」が実践できるわけで、これが片手落ちだと「コツ」を教えたところでそれを実践できる基礎が成ってない…という事になりますので、畢竟、教える意味がないと、こうなるわけでございます。
そもそも、他人様に教鞭垂れるほどの文章力と映画力が我が身に備わっていないことのバツの悪さも、かかる質問をつい有耶無耶にしてしまう要因になっている気がするのだけれど。
特に『シネトゥ』を始めてからは、いわゆるガチ批評を書く機会がめっきり減り、たとえば今回の『悪魔の赤ちゃん』なんかも、私に言わせれば“批評という名の単なる映画紹介”に終始しており、たいがい浅瀬でパチャパチャやってるだけの駄文であります。そうなんです。世の中には「レビュー」や「批評」の類で溢れ返っておりますが、実際はタダの「紹介文」、もしくは「感想文」、それでなくとも「コメント」に過ぎず、真に批評と呼べるものは殆ど存在しないのです!
なぜなら世の中は、あなたが思ってる以上に、バカばっかりだからであります。
そんなわけで本日は『悪魔の赤ちゃん』。バカ同士、楽しくやりましょう!

f:id:hukadume7272:20210401085816j:plain

 

◆ こんにちは赤ちゃんどころの騒ぎじゃねえ◆

 本日扱う作品は、世にもおぞましい恐怖映画『悪魔の赤ちゃん』
ジョン・P・ライアンシャロン・ファレルの間に2人目の子どもが爆誕した。しかし、医師や看護婦を殺戮した赤ちゃんは脱兎のごとく分娩室から逃走。夫婦が憔悴する中、警察隊は赤ちゃん包囲網を敷く!
 実におそろしい中身である。『ローズマリーの赤ちゃん』(68年) は自分が悪魔の子を産むのではないかという恐怖を妄想症的に描いた作品だったが、こちらは悪魔の子を本当に産んでしまう。といっても悪魔というのは比喩であって、実際のところは薬害により畸形化/凶暴化しただけの、ごく普通の赤ちゃんだ。
それにしても、この赤ちゃん! 新生児とは思えない殺傷能力は他の追随を許さず、自力でへその緒を引きちぎり、鋭く伸びた爪と牙で病院スタッフ各種を血祭りに上げる。そしてよちよち歩きで逃走ッ!
どこが普通なんだと。

だが、いかな悪魔じみた赤子といえど、情にほだされるのが親心。ママンは「私の坊や。 かわいい坊や!」と赤ちゃんの失踪を嘆き、パパンは「赤ちゃん包囲網を解けよ!」と警察に詰め寄るが、日夜各地では謎の爪攻撃を受けた死体が転がる。親の心子知らずとはよく言ったもので、殺傷能力に一層磨きのかかった赤ちゃん、よちよち歩きで各地を転々としながらパーティーギャルや牛乳配達員を血祭りに上げる…といった津々浦々の殺人股旅を堪能しては「ベリークール…」などと嘯いていたのである。
やんぬるかな。こうなれば相手が赤子といえど討伐せねばなるまい。すでに警察隊も何人かやられてる!

f:id:hukadume7272:20210401085145j:plain
悪魔の赤ちゃんのようす。

 と言ってしかし、『悪魔の赤ちゃん』は八面六臂の殺傷劇を楽しむ映画ではない。
ホラー映画が本来そうであるように、意外と社会派っつーか、現代風刺たりうるタフなシナリオが基底にはあるのだ。
たとえば病院での惨劇を受けた警察は、パパンとの約束を破って夫婦の実名を公表する。ママンが病床に伏せたことでパパンは家政婦を雇ったが、その家政婦はマスコミの回し者で夫婦宅に盗聴器を仕掛けるというクズっぷり。挙句、凶暴化した赤ちゃんが薬害の落し子という真実を隠蔽すべく、製薬会社は警察組織に金を積み“赤ちゃん狩り”を依頼する。
いいね~。この“これじゃあどっちが悪魔かわからないイズムというか、“結局一番怖いのは人間なんだ論”に収斂されゆく鮮やかな手並み。

 更におもしろいのはストーリーラインの主旋律を夫婦が奏でている…という点。広義にはモンスター映画に含まれる本作において“親の視点”から紡がれてゆく物語。真の主役は赤ちゃんではなくジョン・P・ライアン&シャロン・ファレルの夫婦なのである。
世間から“悪魔の親”というレッテルを貼られ、そのために仕事もクビになったパパンは、次なる犠牲者が出るたびに「自分は怪物を生んでしまった」という後悔に苛まれ、ついに警察と結託、自らの手で終止符を打たんとするわけだが、これと見解を異にするはママン。倫理で割り切ろうとするほどに母性は疼く。たとえ悪魔だとしても、お腹を痛めて産んだ子。どうしてそれを殺せよう!
だがパパンの意思は固く、「あの子はおれの手で屠る。これは決定事項です」なんて言うもんだから、ママンはすっかり気狂いになり、夫婦の絆はげしゃげしゃに崩壊してしまうのです。
そう。この映画、気軽に観ると意外に重いパンチがあなたの胃を打ちますぞ!

f:id:hukadume7272:20210401085236j:plain
崩壊する夫婦。

◆理解不能な投擲行為  ~一か八かの謎ゲーム~◆

 映画終盤では赤ちゃんと警察隊のハードチェイスin下水道が描かれ、これに同行していたパパンがついに我が子を暗渠に追い詰めるも、その醜くも哀れな姿に父性を発露させ、悪魔の赤ちゃんをコートにくるんで手厚く保護。

「寒いよな。痛いよな…」

そう。この赤ちゃんは、なにも望んで人を殺傷しているわけではない。むしろ製薬会社の被害者なのだ。されど親の心、人知らず。浮世の人民からすれば反社会分子。仕事帰りに不意に眼前に現れ、爪や牙で殺傷されては堪らぬ。だがこの赤ちゃん、決してパパンには牙を剥かなかった。思い返せば、出産時にもママンにだけは手を上げなかった。そのことがパパンを保護欲求へと駆り立てたのである。
なんだ、けっこう、ジンワリしちゃうじゃん…。
パパン役のジョン・P・ライアンだけ芝居がやたら達者ということもあって、このクライマックスはなかなか物悲しいです。


…と、そんな親子愛に浸っていたのも束の間。
追手の警察隊に銃を突きつけられ「赤ちゃんを渡しなさい!」と警告されたパパン…。
急に「一か八かだ」みたいな顔をして、後生大事に抱えていた赤ちゃんを近くの警官めがけてラグビーボールみたいに放り投げた。
刹那、周囲の警察隊は脊髄反射で銃を発砲。ぱきゅーん! ぱきゅきゅーん!
赤ちゃんと、それを投げられて思わずキャッチした警官……もろとも死亡。
なんで投げたん。

一気に冷めたわ。なんで「一か八かだ」みたいな顔して赤ちゃん投げたん。そんなことしたら、そりゃそうなるでしょうよ。投げた警官にキャッチされて赤ちゃん奪われるエンドor周囲の警察隊が脊髄反射でもろとも射殺エンドのどちらかでしょ。なんで悪手と悪手を天秤にかけて悪手を選ぶん。頭脳が愚かなの?
そのあと、悲嘆に暮れたパパンは、さめざめ泣きながらママンと抱き合い「なんでこんなことになったんだ」みたいなムードを醸し出すんだけど…
や、投げたからですやん。
急に一か八かの謎ゲームに全額ベットしたからですやん。
ていうか、むしろパパン的にはどうなる想定だったのよ? 赤ちゃんを警官に投げて…何がどうなったら上手くいく算段だったの。その勝算の内訳を僕に教えて。
まぁ、そのあとパトカーに乗せられた夫婦に、無線で何かを知った刑事が重々しく口を開くラストシーンはよかったけどね。

「シアトルでまた生まれた…」

f:id:hukadume7272:20210401085257j:plain

 

◆虚空へ向けたノスタルジアへの形骸的愛撫◆

 監督は低予算ホラーの帝王、ラリー・コーエン『空の大怪獣Q』(82年) 『アンビュランス』(90年) を監督したり、『殺しのベストセラー』(87年) 『フォーン・ブース』(02年) の脚本を手掛けたりと、ホラー/スリラーを中心に節操なく活躍した男である(2019年に永眠)。
スタッフも今にして思えばすごく豪華だ。劇中のスコアは『市民ケーン』(41年) 『めまい』(58年) で知られる映画音楽の巨人バーナード・ハーマンが手掛けた。本作でも低音管楽器の「おーん」みたいな音楽が禍々しさを演出していたような、していなかったような。
他方、やはり本作といえばチープながらも鮮烈なイメージを発した赤ちゃんだが、このキャラクターを造形したのは『スター・ウォーズ』(77年) 『メン・イン・ブラック』(97年) の特殊メイクアーティストとして知られるリック・ベイカー。肥大した頭とくりくりのお目々はこのキャラクターのチャームポイントとなり、のちに映画は3作までシリーズ化された(続編未見。観る意味あるか?)。


 撮影/演出に関しては良くも悪くもB級。赤ちゃんの露出はサブリミナル程度に留められており、殺傷シーンの直接表現もなし。いくら“パペットを使った殺人描写”が困難だった時代とはいえカッティング・イン・アクションすら無いのは監督側の手落ちと言わざるを得ないが、それにも増して不満なのは画面の暗さであります。
パパンと警察隊の追跡劇を描く下水道のクライマックスなんて、あまり暗すぎて黒つぶれを起こしている。アクションシーンをごまかす為にあえてローキーの漆黒地獄にする…という色調加工は『バットマン』(89年) のような80~90年代映画に沢山あったけれど、本作のそれは“そういう演出”ではなく、単にレンズと照明のミス。
 もっとも、今となっては「逆に雰囲気があっていい」と評価する向きもあろうが、「逆に」とか「雰囲気」などという非論理的な言葉を繕って擁護する批評などタカが知れているのです。70年代のアメリカ映画をこよなく愛する身としては自戒せねばならぬよなーと己自身を鑑みてもいるのだが、正味の話、「70'sムービーは逆にこの雑な感じがいい」などという物言いは虚空へ向けたノスタルジアへの形骸的愛撫に過ぎないのである。
だってそうだろ? 誰がどう見ても“ただ見づらい画面”を「見づらいのが逆にいい」、「見づらいからこそ味がある」などとのたまうのはアッホーの妄言。いかなそれっぽいロジックで理論武装しようが、見づらいものは見づらい。無駄な抵抗はやめろ。俺は『悪魔の赤ちゃん』が好きだけど、好きだからこそノスタルジアへの形骸的愛撫はやめる。正々堂々と発表する!

『悪魔の赤ちゃん』は結構ザツな映画です。

特に「なんで投げたん」という疑問は、人種や国境を越え、すべての観客が抱くであろうし。
ま~~、でもさぁ。別にこちとら、質の高い映画だけを愛してるわけじゃないんだよね。むしろ質の高い映画は愛想がない。だからこそ、B級映画はその間隙に滑り込み、くだらなくも面白い見世物を披露してくれる。でも、だからといって「逆に雰囲気があっていい」と褒めるのは愚劣の脳みそ。
ほなもう、どないせえゆうね。

f:id:hukadume7272:20210401085624j:plain監督ラリー・コーエンと妻役シャロン・ファレル(と赤ちゃん)。