シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

女番長 野良猫ロック

あの鐘を鳴らすのは、もうオマエ! 芸能界のご意見番、和田アキ子が意味不明の奇曲をたっぷりと歌う  ~「ワンボーイ! イッキューゥ!」に隠された意味とは?~

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1970年。長谷部安春監督。和田アキ子、梶芽衣子、范文雀。

あいつがバイクでやってくる! ハッ! ドゥビドゥワ歌ってやってくる! ハッ!
さすらいのバイカー・アコが嵐を呼ぶ! 竜巻をおこす! スケバン同士の抗争が幕をあける! 新宿を覆う怪しい影! その影をアコがみやぶる! ハッ!


みんなおはよー!
先日、たった1曲の音源を手に入れる為だけに『石川さゆり 大全集』を購入しました。演歌歌手とかジャズミュージシャンのレコードはベスト盤ばかり流通してるので、それらを聴く際は「オリジナルアルバム至上主義」という拘りを外さねばなりません。

わたしは基本的にアンチ・ベスト派で、「早い話がベストアルバムって耳障りだけはいいメロディ・オリエンテッド(売れ線)なシングル曲の非統制かつ無節操な寄せ集め。要するに下品なガラクタ。流れも繋ぎもあったもんじゃない。ハナから音楽なんて真剣に聴く気のないミーハーどもがなんとなく聞いてなんとなく知った気になれるための便利グッズでしかない」と思っているよ!

と同時に、ベスト盤の対極に位置するコンセプト・アルバムについても「そもそもアルバムという作品形態それ自体がコンセプチュアルなモノでしかないのだから、わざわざ『コンセプト』など掲げんでよろしい。黙って“アルバム”を作れ。音楽雑誌のインタビューで『今回はチャートとか、そういうのは意識してないんで(笑) だからファン以外の人たちにどこまで届くかわかんないですけど…。このコンセプト・アルバムで僕たちのバンドの核(コア)を知ってもらえたら云々…』とか言って高尚ぶんなカス。ほざくなカス」と思っているからタチが悪いよね!

うるせえ!!!
誰がタチ悪いんだコノヤロー!
ついでに吠えるけど、ミニアルバムとライブアルバムの存在意義って何なんだよコノヤロー!!
なんでわざわざミニサイズにしたものを聴かなきゃいけねえんだよ! 6曲30分のもどかしさをどこにぶつければいいんだよチキショー! 3曲目が始まったら早くも「ああ、もうじき終わるな…」と名残惜しくなる宴もたけなわ感、なんなんだよバカ! 寂しいじゃないかよ! チクショ!
ライブアルバムも大いに謎だよ! そもそもライブをアルバムにした時点で、それはもうライブ(生)じゃねえだろコノヤロー! あとセットリスト後半にいくに従って歌も演奏も疲弊してるじゃねーかバカタレ! リズム隊が崩れかかった音源をどうしてわざわざレコードで聴かなきゃいけねーんだよコンニャロ! この疲弊によるヘロヘロ演奏は実際にライブ会場で体験してこそのモノなんだよ! それをレコードで聴いてどうすんだよコンコンチキ! バーロー岬!


はい。叫びたいことを叫びたいだけ叫ばせてもらうだけの時間を過ごさせてもらったあとは「復讐の昭和キネマ特集」第2弾。本日は『女番長 野良猫ロック』で決まりですねー。
先日、某ヘヴィ読む者から昭和キネマシリーズがずっと続けばいいのにというメッセージを頂きました。嬉しいね~。チュッチュしちゃう。

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◆アッコにおまかせ◆

 スケバン映画の火付け役となった『野良猫ロック』シリーズの第1弾。
我がブログも、とうとうこんな映画にまで手を出すようになってしまった。落ちたものです。
まずはスケバン映画の小史をおさらいしておくと、1968年に東映が作った梅宮辰夫主演の『不良番長』シリーズが当たったことから「不良映画」というジャンルが確立。
これに便乗した日活と大映は、主人公を女性(ズベ公)に置き換えた不良映画――通称 女番長(スケバン)映画なる傍流を作り上げる。日活は梶芽衣子を使い『女番長 野良猫ロック』のシリーズ化に成功し、大映からは南美川洋子を起用した『高校生番長』(70年) が放たれた。先鞭をつけた東映も負けじと、大原麗子、夏純子、市地洋子の豪華トリプルキャストで『三匹の牝蜂』(70年) や、大信田礼子の『ずべ公番長』(70年) など、どうしようもない珍奇作を鋭意製作。さらには大型ポルノ女優として売り出されたばかりの池玲子が『女番長ブルース 牝蜂の逆襲』(71年) で乳をほっぽらかしエロとアクションの融合に成功!
しかしスケバンブームはわずか数年で去った。
70年代中期になると舘ひろしや岩城滉一らの暴走族映画が流行り、そうしたツッパリ精神は80年代に『ビー・バップ・ハイスクール』(85年) を始めとしたヤンキー映画へと受け継がれる。
 かくして絶滅したかに思われたスケバン映画だが、1985年に突如として息を吹き返す。TVドラマ『スケバン刑事』の大ヒットである。シリーズを通して斉藤由貴、南野陽子、浅香唯らがヨーヨーを振り回し、2006年の劇場版では松浦亜弥がヨーヨーを振り回した(スケバンとヨーヨーの融合に成功)。
『スケバン刑事』で最期の務めを果たしたあと、遂に不良映画をさんざ賑やかした「スケバン」は死語と化し、とうとう灰になった! 完。

涙なしには読めない小史であるよなー。
そんなスケバン映画の代表作『野良猫ロック』をこれから評しようというのだ。泣け。泣くがいい。

f:id:hukadume7272:20210613093807j:plainスケバン映画の数々。

映画が始まると、激走するオートバイを手ブレだらけのカメラが雑に捉え、そこに流れる「男と女のロック」。
歌っているのは和田アキ子。バイカー役も和田アキ子だ。

泣けるうちにお泣き
手放しでぇ~~

今のうちにおあげ
これが最後のキッスを~

どうにもならない男と
どうにもできない女が

わけも言ーわず 聞ーかず
唇重ねる~

わけも言ーわず 聞ーかず
唇重ーねる~♪

和製リズム・アンド・ブルースの女王にして、あの鐘鳴らし型絶唱ボーカリストにして、すぐ「ハッ!」ていうセルフ合いの手歌手にして、『笑って許して』と歌ってるのに他人には厳しく決して笑って許さないタレント、和田アキ子!
また、ブルースの殿堂NYアポロシアターで公演したことをいつまでも自慢してることでお馴染みの芸能界のご意見番、和田アキ子!
CDが登場したばかりの頃、開け方がわからずCDケースを拳で叩き割っていたハードパンチャー、和田アキ子!
「壊して開けるものだと思っていた」とは本人の言。発想が強盗。

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日本芸能界のボス、和田アキ子。

そんなアッコが映画初主演。役名はアコ。
まんま!

アコのサイドキックを演じるもう一人の主演は梶芽衣子
『女囚さそり』シリーズや『修羅雪姫』シリーズを代表作に持つだけでなく、映画好きの間ではクエンティン・タランティーノをビッグファンに持つことでも知られる、恨み節女優のほうき星! 「作品は選ばない」ことを信条に掲げながらも黒澤明のオファーを二度も断り、マーティン・スコセッシからのオファーも一撃で断ってみせた! ほうき星!
筆者が好む梶芽衣子作品は『現代任侠史』(73年) 『仁義なき戦い 広島死闘篇』(73年) 。本作では新宿のズベ公を率いる名うてのスケバン役で、役名はメイ。
まんま!

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今となっては日本よりも海外にファンの多い梶芽衣子。去年、YouTubeの公式チャンネルを開設した。

その他のキャストは、メイの恋人役に、石原裕次郎・小林旭・赤木圭一郎と並んで「日活ダイアモンドライン」と呼ばれた和田浩治。剃刀使いのズベ公役に『人間の証明』(77年) 范文雀。アコ達が立ち向かう青勇会の幹部役には『激動の昭和史 沖縄決戦』(71年) 睦五朗。青勇会のバックについたヤクザ役には北野武の『龍三と七人の子分たち』(15年) の主演で近年再ブレーク中の藤竜也など、なんとも言えない顔ぶれ。
さらには、アンドレ・カンドレ名義時代の井上陽水が奇妙なフォークソングを発表しもする! なんとも言えない。

◆ゴー!ゴー! サイケデリック◆

 あらすじは以下の通りである。
青勇会傘下のスケバンと日々抗争を続ける新宿スケバンのメイは、流れ者のバイカー・アコに助けられ、拠点のアシッド・バーで浮遊的な踊りをクネクネと踊っていた。
一方、メイの恋人・浩治は青勇会に取り入り、幼なじみのボクサーを抱き込んでボクシングの八百長を引き受けたが、そのボクサーが約束を違えてフツーに勝利したために浩治は青勇会にリンチされてしまう。アコとメイは浩治を助け出しアジトに匿うが、そこへ青勇会幹部の睦五朗と傭兵ヤクザの藤竜也の魔の手が伸びる!

 …と、非常にシンプルな筋立てだが、その実ストーリーはあって無きが如し。ジャンキーなトリップ映像とサイケなトランス音楽で観る者をグロッキー状態にする、紛うことなきアシッドムービーが無反省に垂れ流されるだけなのだ!
画面を赤や緑のネオンカラーで染め上げ、カメラをぶりんぶりんに揺らしての酩酊感はまさに60年代末サイケデリック・ムーヴメント。当時流行った幻覚剤・LSDがもたらす精神拡張アートの産物と言えすぎる!
いやぁ、好みのど真ん中だなー。サイケデリック・カルチャーっていいよねえ。ぼく大好きだよ。『白昼の幻想』(67年) 『イージー・ライダー』(69年) 、ドアーズ、ジミ・ヘンドリックス、ピンク・フロイド、中期ビートルズ、幻視芸術家アレックス・グレイ…。

f:id:hukadume7272:20210613094732j:plain極彩色のアシッド・バーで歌い散らす和田アキ子。

 イギリスと同じく、70年代初頭の日本映画も当時のアメリカのサイケデリック文化に強い影響を受けており、アート系/アングラ系/インディーズ系の映画と言えばだいたい全部サイケ。
その背景には70年代の日本映画産業が斜陽化の一途を辿った…という暗い歴史が横たわっている。天下の大映が消滅し、日活も東映もポルノ路線に移行しては細々と低予算映画を製作していたのが70年代。大衆娯楽が映画からテレビに取って代わり、学生運動やベトナム反戦運動の盛り上がりは“カネで幻想を売りつける映画の欺瞞”を暴いてしまった。映画も音楽も、既存の文化体制に懐疑的な若者が牽引するカウンター・カルチャーが主流となり、拝金主義の大作映画は見向きもされなくなったのだ。
追い詰められた大手映画会社は若年層にターゲットを絞り、若者がこじらせた反骨精神を満たしうる“前衛的な映像演出”と“反逆的なストーリー”を前面化させ、解描写を伴う不良映画または不良描写を伴う難解映画を低予算で量産した。若者たちは「とっぽいじゃん」と言った。意味は誰にもわからなかった。ちょうど米国ではアメリカン・ニューシネマが世界の映画シーンを牽引していた頃の話だ。

その結果が、たとえば本作。
劇中では、時制を表す「土旺日・午后」というキャプションがサブリミナルのようにチカチカと明滅される。「土曜日」と「午後」を略字表記する尖ったセンスはなかなかいい。
その他、先鋭的なモンタージュ、撮影ミスも気にしないふてぶてしさ、ぶっつけ本番のゲリラ撮影などは、当時の東京風俗を生々しくカメラに捉えて離さなかった! 浩治とメイを同一画面で捉えたスプリットスクリーン(画面分割)も味がある。
ヌーヴェルヴァーグの豊潤な遺産を使い込んだような“ド素人ならではの野心の映画”がそこにはありました。

嫌いじゃないんだよねっ。

嫌いじゃないよ、ぼく、こういうの。
60~70年代のカウンター・カルチャー影響下の作品ってさ、映画を正しく批評する身としては唾棄しなければならないのは重々承知しちゃいるが、個人的な思い入れから理が非でも擁護してしまうのよね。理非なんて問うていられるかい。だって、私が映画好きになったキッカケこそが『欲望』(66年) 『あの胸にもういちど』(68年) 『エル・トポ』(70年) 『ウィッカーマン』(73年) のような、いわゆる“あの辺”だからさぁ。
だから「土旺日・午后」のサブリミナル…

嫌いじゃないんだよね!

何も考えてないようなゲリラ撮影…

嫌いじゃないんだよね!!

スプリットスクリーンも嫌いじゃn……よね!!!

f:id:hukadume7272:20210613085014j:plain上から順に、①サブリミナル、②ゲリラ撮影、③スプリットスクリーン。

◆奇々怪々ソングが観る者を魅了する  ~ショットガンが全てを解決しもする~◆

 とはいえ、あくまで映画はデタラメ。
観る者はただ、和田アキ子のやたらな格好よさと、梶芽衣子と范文雀の美しさ、それに藤竜也の高笑いの不快さにわななくだけの無益な80分を過ごすことになるわけだが、かかる無益性に拍車をかけるのが劇中頻出する妙にむかつくバンド演奏。
アコとメイの拠点であるアシッド・バーのシーンでは、当時人気だったザ・モップスオリーブオックスアンドレ・カンドレ(現:井上陽水)がゲスト出演しており、ストーリーとは全く関係のない演奏シーンがバシバシ挿入されるのだが、その曲がいちいちうざい。
開幕はザ・モップスによる不思議な演奏が聴く者を魅了します(曲名不明)。

エーィ!
ギブンチェケフォー エッゲベンチー
ソッリルンシー ビッシィーン!
ワンケンスィー ソッベルンッスィー
チェケンファロー
ジャアアアアアアアア!!

すぐやめろ。
殴るぞ。腹立たしい。オレが英語に暗いのか、それともこのボーカルが英語に暗いのか…何を歌ってるのかぜんぜんわからなかった。しかもこのボーカル、バンダナ巻いた眼鏡のデブだし。
バンダナ巻いた眼鏡のデブが洋楽歌うな。
観る者が「ギブンチェケフォー、エッゲベンチーって何?」って思っていると、次に曲を披露したのが和田アキ子。ステージに乱入し、ザ・モップスのデブボーカルからマイクを取り上げて謎のR&B(曲名不明)をソウルフルに歌い上げ、聴く者を魅了した!

ワンボーイ! イッキューゥ!
アンボーイ! アーングゥー!
イッボーイ! アーナグーッ!
オ~~イェイイェイイェーイ!
ワンボーイ! エングー! ワナワナチュー
ワワワワ~!
ワワワワ~~~!!
ワワワワ~~~~~!!!

いみはわからんが胸をうたれました。
歌唱のすばらしさが意味を上回った。とりわけ「ワンボーイ イッキューゥ!」が心に残りました。「一人の坊主、それは一休」という意味なのだろうか?
さすがは和製リズム・アンド・ブルースの女王にして、あの鐘鳴らし型絶唱ボーカリストにして、すぐ「ハッ!」ていうセルフ合いの手歌手にして、『笑って許して』と歌ってるのに他人には厳しく決して笑って許さないタレント、和田アキ子! 「ワンボーイ イッキューゥ!」すら歌いこなしていく。すごく格好よかった。
次にステージに上がったのはオリーブ。曲は「君は白い花のように」(がんばって曲名を調べました)。

寂しかったんだね
ごめんね(ごめんね~?)

キミが泣いてた 雨の朝
僕がいなくて(ごーめーんね~)
どんなに短い命でも
愛のこの光 まだ消えはしない
白い花だよ~ 好きだったね!?

うるせえ。
コーラス隊の「ごめんね~」が腹立つわ。「ごめんね~」の波状攻撃やめろ。腹立つから。
「僕がいなくて(ごーめーんね~)」というフレーズにある種の厚かましさを感じてしまうのはオレだけだろうか。なんでオマエが恋のアドバンテージ握ってるの?
まあいいや。その後はオックスによる「僕をあげます」が火をふく(がんばって曲名を調べました)。

あのひとを どうぞ苦しめないで
そのかわり 僕をあげますゥー
いのちでも 愛の魂さえも
惜しまずに捧げましょう~

おねがい 僕に残された
すべてを捨てさせておくれ

あなたの 幸せのために
いつでもこの僕 あげます~

あげますゥ~

いらねぇわカス。
何が「僕をあげますゥ~」や。いらねぇよ。気色の悪いよ。
1曲前のオリーブの「僕がいなくて(ごーめーんね~)」にも通じるが、こいつらの歌詞ってさ…なんで基本、自分に価値があること前提になってんの? なんでオトコ側がアドバンテージ握ってるの?
「僕をあげます」だの「僕がいなくてごめんね」だのよォ。
基本「僕」に絶対的な価値があることが前提になってるのよね。あたかも「キミ」なる女性が「僕」なしでは生きられないような。僕あってのキミ、みたいな。
ド厚かましいぞ、糞っ垂れラブソングが。
そこへ、アンドレ・カンドレ(井上陽水)がヒョッコリと現れて「カンドレ・マンドレ」なるずいぶんヤバそうな曲を弾き語ります(がんばって曲名調べた)。

まちがえずに二人で言うの
カンドレ・マンドレ
サンタリ・ワンタリ
アラホレ・ミロホレ
ワン ツー スリー フォー 
A B C D E F G
アーアーアーアー
ほら着いた

オマエはこの頃から大麻をやっていたの?

ちょっと教えてほしいんだけどさ。「カンドレ・マンドレ、サンタリ・ワンタリ、アラホレ・ミロホレ、ワン ツー スリー フォー、A B C D E F G、アーアーアーアー、ほら着いた」って何?
歌詞がムズすぎる。それ、なんていうカテゴリーの自己表現のやつ?
あかん。おかしな曲ばかり聴かされすぎて気分悪くなってきたわ。三半規管がクネクネしてきた…。

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奇曲を奏でるアンドレ・カンドレ(井上陽水)。

それにしてもアコと藤竜也のカーチェイスは凄かったな。なにしろ新宿西口の地下をバイクとバギーで走るんだもの。地下へと続く駅階段をバイクとバギーで駆け下りたり駆け上ったり。人の多い地下街も猛スピードでぶっ飛ばして…。よく撮影許可が下りたなと。
そも、カーチェイスの意義とは、時代の空気(文化/風俗/地域性)を真空パックしうるドキュメンタリーたり得ているか否かだと思っているので、スピルバーグの『続・激突!/カージャック』(74年) やウォルター・ヒルの『ザ・ドライバー』(78年) と同じく、本作のチェイスシーンには目を見張るものがあるのです。1970年の新宿西口駅がビビッドに記録されていることに興奮を覚えながらの祝福!

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地下鉄や歩道橋の階段をボコボコ駆けのぼるハードチェイス!


ただ、そのほかの描写はかなり雑です。
浩治が青勇会幹部の睦五郎にショットガンで吹き飛ばされる死亡展開を経たのち、メイが宿敵・睦に凶刃の一撃を加えるも、瀕死の睦からショットガンで吹き飛ばされて終わり。
なにこのショットガンに特化した決着方法の映画。

ちなみに睦は部下の藤竜也もショットガンで吹き飛ばしている。

なにこの吹き飛ばしたり吹き飛ばされたりの目くるめくショットガン・キネマ。
何でもかんでもショットガンで吹き飛ばそうとばかりしてるやん。その事だけを考えてるやん。
そもそも睦は地元の有権者でもあるから、いくら悪役とはいえ人殺しをするのはマズいだろうと思うのだが、のべ3人もショットガンで吹き飛ばしてるからね。どうしてこうもショットガンで吹き飛ばすかねえ。人を。
しかもようやく睦を倒したと思いきや、死に際に放ったショットガンがたまたまメイに命中して、もろとも死ぬからね。
もう風呂敷の畳み方がショットガン一択やん。
なにこのショットガンを前提とした作劇のキネマ。監督もスタッフもショットガンの事だけを考えてるやん。ショットガンと共にあろうとしてるやん。
一方、アコはと言うと、相棒メイの死を悼みながらもバイクに跨り、次なる街をめざすという。
そしてラストシーンで流れるのは和田アキ子による曲名不明のドゥビドゥバ!

ドゥッドゥドゥドゥ
ドゥドゥ ドゥビドゥバ

ドゥッドゥッ ドゥビドゥバ~♪
ディッディディディ ディディ
シュルルル ドゥビドゥバ~~♬
シャラララ ドゥビ ドゥビドゥバ~
チャラララ ドゥビ ドゥビドゥバ~
ドゥドゥドゥ ララ ドゥビドゥバ~♬

もうええわい。

f:id:hukadume7272:20210613090900j:plain夜明けの新宿をかっ飛ばす和田アキ子。
あの鐘を鳴らすのは、もうオマエだろ。