シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

にごりえ

五千円札の看板娘・樋口一葉の『にごりえ』ほか2篇を収めた珠玉のオムニバス  ~ペンを走らす彼女の瞳は濁るどころか透き通っていたSP~

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1953年。今井正監督。丹阿弥谷津子、久我美子、淡島千景。

樋口一葉の短編小説『十三夜』『大つごもり』『にごりえ』の三篇をオムニバス形式で映画化。明治時代、市井の片隅に生きた苦労多き女たちの愛と哀しみを切々と描く。


ふわああ。おはよう。
2024年に刷新予定の新紙幣の3人ってさぁ…外見で選ばれてない?
千円担当と万札担当におけるメンズの禿げ具合とか、五千円担当が女性であったりとか、今の紙幣との共通点がやけに多い気がする。同じ路線にしよ思て、外見の類似性だけで選んでない?って思ったよ。
全体のデザインもなんかチャチいよねえ、新紙幣。人生ゲームで使うオモチャのお金みたいな。
あと、紙幣に使われる肖像画の人物ってさ、当然といえば当然なんだろうけど、歴代ぜんぶ、むちゃむちゃ真顔やん。Winkばりにポーカーフェイスで、何の感情も読み取れへん。そんなん、淋しい熱帯魚やん。
まあ、歯茎だして笑えとまでは言わないけど、少しは人間味ほしいとこよね。その点、夏目漱石だけはほんのり感情があって、どことなく「自分、今朝さかな食うたのにフィレオフィッシュにすん?」みたいな、そういう問いかけの視線がある。漱石版の千円札をお持ちの方はぜひ確認してみて。「すん?」言うてるから。

そんなわけで本日は『にごりえ』です。紙幣トークから始まります。

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◆五千円札は万能。ゆえに樋口一葉は最高◆

ねえ、みんな。紙幣の中でいちばん好きなの、なに。
私? 教えたろか? 私は五千円札である。
一万円札は釣銭として使えないという性質上、少額の会計時においては店員さんに申し訳がなく、また千円札は汎用性こそベリグーであるが、それだけに目にする機会も多く「またおまえか、野口」の感が否めない。
その点、五千円札はすぐれて利便的で、こっちが出す場合においては「五千円札ってレジスターの紙幣の中で一番貴重だろうから有難がられるだろうな」と謎の奉仕感があるし、釣銭として受け取る場合においても「あっ、うれしい。そこそこの高額会計をする際は心強い味方だし、少額の会計時に出しても一万円札ほど店側の負担にならないっていうか、むしろ店側も釣銭として使い回せるので願ったり叶ったりだよねえ」と、支払い/受取りの両面において大活躍するオールラウンダー紙幣なのだ。ソシャゲでいったら星4の強キャラといえる。ずいぶん強い。野球で言ったら、……野球…………野球はわからん。
それに、全体的に紫がかった紙幣の色味も好みだし。きれい。ずいぶん好み。

ォォオオオオォオオォォオオオオォォんな五千円札に描かれたポートレートでお馴染みのじんぶつが樋口一葉人物!人物!

若く、端正な顔立ちゆえに、野口英世や福沢諭吉のようなヒゲやシワのある中年モデルに比して偽造防止の製版に難儀したことでお馴染みの五千円札の看板娘、樋口一葉。
若き日の私が“一応”のことを“いちよう”と書くヤツに対して「最前から、いちよう、いちようって。樋口一葉の話してるの? 『たけくらべ』について論じるか? おい。論じるか?」と突っ掛かっていたことでお馴染みの樋口一葉! やったね!

そんな樋口一葉の短編小説『十三夜』『大つごもり』『にごりえ』の三篇をバチバチに映像化したオムニバス映画が本作『にごりえ』である。
以下、大雑把な筋紹介。

『十三夜』
夫の仕打ちに耐えかねて出戻りした女。同情した母は「これからは親子三人で暮らそう」と言ったが、父は「これまで耐えられたのなら、これからも耐えられぬ道理はない」と言い、車屋を呼んで娘を追い返した。
その車屋は遠き日の幼馴染み。互いに想い合っていたが、女は士族で、男は平民。やがて男は生活に窮乏。ガッツを失い、生きる屍と化していた。ともに辛い境遇にありながらも互いを励まし合った二人は、短い再開を惜しむように別れる…。
主演は丹阿弥谷津子。車屋役には芥川比呂志(芥川龍之介の長男)。

『大つごもり』
ある女中が、育ててくれた養父母の借金2円を工面すべく奉公先の女主人に給金の前借りを頼んだが、2円渡すとプロミスした大晦日の午後、女主人は「そんなプロミスしてない」とシラを切る。
意を決した女中は、茶の間の引出しにある20円の札束から2円盗んで養父母に渡した。この日は放蕩息子の若旦那が金を無心するため実家に戻っており、これを煙たく思った女主人は50円を歳暮がわりに息子を追い出した。その夜、茶の間で金勘定をしている女主人に「引出しの20円を出しておくれ」と頼まれた女中は、罪を告白しようと決意して引出しをあけると「ここの金も貰っていく」と記された若旦那の書置きだけが残されていた。
主演は久我美子。女主人役を長岡輝子

『にごりえ』
銘酒屋「菊乃井」の人気酌婦は、裕福な常連客の懐に入って玉の輿を目論んでいたが、その影にはかつて酌婦に入れ込み身を崩した一人の男。妻と息子との貧しい長屋暮らしに甘んじる男は未だ酌婦に未練がある。妻は酌婦のために無気力になった男をなじり続けた。
ある日、男の息子が町で酌婦からカステラをもらい、これに激怒した妻は息子を連れて家を出た。幾日後、菊乃井では酌婦が無断欠勤しており、また男も行方不明になっていた。果たして捜索中の警官が見つけたものは山奥で無理心中したと思われる男女の遺体であった。
主演は淡島千景。長屋の夫婦役には宮口精二杉村春子。常連客を山村聡


そんな三篇が天衣無縫にぺろぺろと紡がれてます。
一抹の救いがあるとすればペテンを隠し通せた『十三夜』だが、マァ、いずれも暗い話であるよなー。
また、全話にわたって“貧困”というテエマが通底していることがよく分かるね。貧苦に喘ぎながら生きる市井の人々―、まさにのた打ち回るような地べた的生活を根源とした諦念や執着を生々しく活写した、珠玉の三篇、もとい泥まみれの三篇といえるのです。

そして、これらの説話体系は樋口一葉の生涯と符合する。

士族の出でありながら大変に貧しい家庭に生まれた樋口一葉は、21歳のときに吉原近郊で雑貨屋を開き、生活費を稼ぎながら原稿料目当てで執筆活動をしていた。
女性の職業作家など滅多に存在しなかった当時、彼女の文才に一早く感応したのが森鴎外と幸田露伴。しかし、樋口が作家として筆を揮っていたのは僅か14ヶ月だけだった。ようやく『文学界』や『文藝倶楽部』にチラホラと作品が掲載されるようになり、さぁここから作家人生の第一章だという1896年に肺結核により24歳の若さで没したのである。石川啄木や梶井基次郎を超える夭折ぶり。最期まで生活苦と戦いながらの作家人生であった。
そんな樋口一葉が五千円札の肖像として登用されたのが2004年。終生カネに苦労した彼女を100年後に紙幣にするというのも皮肉な話だが、現在もなお日本国民の心とサイフの中に息づいています。一葉さいこー。

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◆寂寞の十三夜◆

 本作は極めて美しく繊細なオムニバス映画のため、私の批評握力ではウッカリ握り潰しかねないので、できるだけ一篇ずつ丁寧に論じてみたい。

批評握力…映画評における“映画を握り潰す握力”のこと。いわば文章の攻撃力と理解されたい。この値が高いほどゴミ映画をひねり潰しやすくなるが、反して繊細な芸術映画の批評には向かない。いわば空き缶やペットボトルのようなゴミを容易にクラッシュできても、卵やハムスターのようなデリケートなものまで握り潰してしまうので諸刃の拳と言えすぎるわけである。


第一話『十三夜』は僅か30分ほどの内容であり、その全てがキラーショットによって貫かれた、すぐれて緊密なフィルムの連続体だ。
出戻りの女が父に追い返され、その帰路で幼馴染みの男と出会い、しばし夜道を供にして再び別れる…というだけの筋立てなので、説話的にも主題的にも展開性には乏しく、ごく限られた文芸記号の範疇だけで語りきらねばならないという難度の高さ。
これは“短編映画そのものの難しさ”とも呼べるが、元来、映画にとって説話や主題といったものは副次的な要素(不可視の産物)であるからして、映画本来の在り方を勘案するに、それらを際限なく付与しうる長編映画こそ却って不自然なのだ。
すなわち、昨今の映画のように140分、160分、180分…と長尺化するにしたがって映画は惰性へと滑り落ち、観る者は午睡感覚へと誘われるため、これは“映画的画面=緊張の持続”が寸断する危険性へと自ずから身を埋めるに等しい行為。ならば30分1本勝負の短編映画の方が不可視の説話/主題に翻弄されることなく純粋映画を追究できる…という道理のもとにこそ、今昔のオムニバス作品は“映画の原初”を指し示している。

さてさて。『十三夜』のファーストシーンは、駿河台に遥けきニコライ堂を臨む橋。人力車に揺るる夫人は丹阿弥谷津子。
ガス灯で構図を取ったショットの巧みと、マルセル・カルネばりのセットの素晴らしさに、先ずは酔う。

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出戻りの彼女を迎え入れるか否かで、口論とは言わぬまでも意見をぶつけ合う母・田村秋子と父・三津田健のやり取りは、両者ともに文学座の創立メンバーということもあり、さすがに見応えがある。
この約10分間のシーケンスは単なる会話劇に終始しておらず、たとえばそうネ、構図がおもしろい。
出戻り賛成派のママンは娘・谷津子と同じフォルムで泣き、反対派のパッパは、しかし同方向からの切り返しショットで「旦那のもとに帰れ」と諭す。
この「同方向」という点に“家族の連帯”“娘を思ってこその提言”といったパッパの真意が見え隠れしまいか。ここを見逃すと、パッパは単に「非情なファッキンおやじ」として映るから注意深く観られたい。

f:id:hukadume7272:20210711212236j:plain本当に反対していたらパッパは左向き(妻娘とは逆向き)に撮ります。

時は進んで、谷津子が車屋の芥川比呂志と出会う場面。
下の画像に注目してほしいのだが、ちょうど人力車の幌骨がスプリットスクリーンのように画面を分割し、右側に丹阿弥谷津子、左側に芥川比呂志が配されていることがお判りいただけるだろう。二人は幼馴染みだが、その関係性は幌骨によって断絶されている。
この直後、二人は幼少期から互いに恋慕していたことが微かに示唆されるが、士族の谷津子と平民の比呂志。その身分差ゆえにすれ違った二人が“光を浴びる女”と“闇に隠れた男”として照明の上でも対照化されており、さらには“正面を向いた女”と“背を向けた男”という構図の上でさえ、この二人がまるっきり正反対の道を進んでしまったことが表象されている。
これは余談…というか愚痴だが、ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』(19年) が浮世を賑わせていた折、ちらと覘きしツイッターでは「さまざまなモチーフの“線”で画面分割することにより格差社会を表しているゥゥ!」といったツイートに馬鹿も杓子もイイネを押し狂っていたが、その程度のこと、否、それ以上のことを50年以上前から日本映画はやっていたので「今さら騒ぐな」としか思いませんでした(当ブログが『パラサイト』評を見送った理由でもある)

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◆ドキドキ大つごもり◆

 第二話『大つごもり』は、年の瀬に女中(久我美子)が養父母の借金を工面せんと悪戦苦闘する一日が描かれる。ちなみに「大つごもり」とは大晦日の意。
奥行き豊かなアオリの構図に楚々とした久我美子がよく映える、これまた僅か30分ほどのエピソードだ!

なんといっても、水汲みしていた久我美子が「水くみ子!」と叫びながら派手に転んで桶をひっくり返すショットがすばらしい。私が映画好きになったのは『狼たちの午後』(75年) で銀行に押し入ったアル・パチーノがプレゼント箱からライフルを取り出すまでの0.6秒の挙措に衝撃を受けたのがきっかけだったけど、ここでの久我美子もそれに値する奇跡的な身体性をフィルムに刻みつけていたように思う。
とどのつまり、映画好きになる人間とならない人間とを分かつ分岐点には、思わずハッとしてしまう瞬間にどれだけ恵まれ、また自身の感性でそこに立ち会ったかという経験の問題が横たわっているので、映画を観るうえで「数をこなす」という意識は端的に尊い。

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奇跡のぶちまけを見せた久我美子。

されど、この一篇の精髄はショット云々ではなく、むしろ作劇の妙。
女主人に給金の前借りを断られた美子は、申し訳ないと思いながらも茶の間の引出しから2円盗むわけであるが、茶の間には昼から深酒していた若旦那・仲谷昇が酔い潰れており、これを背に盗みを働くというのだから映像的には極めてスリリン。ハードサスペンスといえる。たとえばの話だが、原作小説を知らない観客であれば「実はこのとき、若旦那はとうに目覚めており、寝たふりをしながら女中の盗みを目撃していた」という可能性が脳裏をよぎるだろうし、そのために罪が露見するのでは…という不安を最後まで抱えながら物語の結末に固唾を呑むだろう。
この盗みのシーンは、庭でむじゃきに追羽子に興ずる娘たちのクロスカッティングも相俟ってものすごい緊張感だ。茶の間から出てきた美子を庭の笹から捉えた窃視のショットもいい。

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久我美子といえばガチ公家「久我家」のご令嬢だが、敗戦後の華族制度廃止により没落。家計を支える為に映画界に飛び込んだ。今年90歳です。

ちなみに、この盗みの場面。樋口一葉の原作版では、もっぱら女中が内なる背徳感に逡巡する“葛藤のシーン”として叙述されているが、ひとたびこれが映像になると、葛藤(文学表現)はサスペンス(映画表現)に変わる。
すなわち、この短いシーンには ①近くで寝ている若旦那=露見の危険性、②庭でむじゃきに遊ぶ娘たちとのクロスカッティング=純心と邪心のコントラスト、③笹の間からの窃視=秘密の共有という3つのサスペンスが乗っかってるわけ。
カメラおよび人物の配置が説話装置となり、室内劇でありながら単調さを回避した見事な映画術。
ちなみに原作はこんな感じ

「(略)内外を見廻せば、孃さまがたは庭に出て追羽子に餘念なく、小僧どのはまだお使ひより歸らず、お針は二階にてしかも聾なれば子細なし、若旦那はと見ればお居間の炬燵に今ぞ夢の眞最中、拜みまする神さま佛さま、私は惡人になりまする、成りたうは無けれど成らねば成りませぬ、罰をお當てなさらば私一人、遣ふても伯父や伯母は知らぬ事なればお免しなさりませ、勿躰なけれど此金ぬすまして下されと、かねて見置きし硯の引出しより、束のうちを唯二枚、つかみし後は夢とも現とも知らず、三之助に渡して歸したる始終を、見し人なしと思へるは愚かや。」
樋口一葉『大つごもり』より


◆にごりえ ~心までは濁らぬ~◆

 最後の『にごりえ』だけは約60分に及ぶ中篇サイズの遊郭ストーリーである。
素性不明だがヤケに羽振りのいい色男・山村聡を狙う酌婦・淡島千景と、彼女に全財産を貢ぎ込んだことで廃人となった宮口精二。そんな廃人男と仕方なく一緒にいる妻・杉村春子の四者を描いた群像絵巻だ。

季節は夏。騒がしき座敷での集団享楽と、二階での静かな接待とを忙しなく行き来する酌婦たちの夜が涼やかに描かれる。階下から漏れてくる笑い声をよそに秘密の時間を過ごす山村聡と淡島千景の甘美なこと! だがその水面下では、貧困からの脱出を図るべく山村に取り入ろうとする女の打算と、そもそもカタギなのかさえ疑わしい男の飄然たる身振りによって緊迫の駆け引きが演じられていた。

それと並行するのが宮口精二・杉村春子の極貧夫婦生活。いっさいは千景に惚れこんだ宮口が菊乃井に通いつめ散財したのが原因である。がために宮口は、のべつ幕なしに小言を吐く春子に何ら反論できぬまま悶々たる日々を送っている。

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淡島千景と山村聡のようす。

明治中期の遊郭のセットがすばらしい。
単にリアル、単に豪奢というだけでなく、想像でしか得られぬ当時の空気感が皮膚感覚に伝わるような“地域の触覚性”とも呼ぶべきものがスクリーンを覆うことの甘美な幻! この幻に酔うですね~。

また、美しきは酌婦の寂しさ。
二階から下りてきた淡島千景が、一階の個室客をみとめて「まあ、旦那サン。好いお月様ね」と言いながら開け放たれた入り口から月夜を見上げ、「ウン。ご機嫌だね」という返事を受けた途端、店の入り口から宮口がジトーッとこちらを覘いてることに気付いて慌てて二階に駆け上がる…という、別にどうということのない場面。しかし、個室客はすだれ越しから千景に一瞥くれ、宮口は暖簾越しに千景を凝視する。
この“なにか越し”の言葉や視線の交流が意味するところこそ、しょせんは売春婦、金で繋げし人間関係。いかな懇意な仲なれど、生きる世界は隔絶さるる男と女…という水商売の業なのだ。

当時の日本映画に頻出する“簾”あるいは“帳”とは、いわばその内側の人間と外側の人間とを隔てる“壁”としての説話装置を担っており、例えばこれがアメリカ映画になると『或る夜の出来事』(34年) で同じ部屋で寝なければならなくなったクラーク・ゲーブルがクローデット・コルベールとの間にロープを張って毛布を吊るした「ジェリコの壁」がそうであるように、洋邦問わず壁の説話装置は遍在しているのである(と同時に、壁の説話装置を妨害したのがジャン・リュック・ゴダールだったことも忘れずにおきたい)。

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すだれ、暖簾…。なにか越しに千景を見やる男たち。

 この第三話は「悲しい」を通り越して悲惨きわまりない。
なかでも千景が山村に過去を打ち明ける回想シーンが鮮烈な印象を残す。裏道ですっ転んだ幼少期の千景が泥の中にぶちまけてしまった米を泥ごと手ですくって竹笊に戻すが、ふと我に返って己がブザマに号泣する…という一幕だ。このシーンは惨憺たる貧苦を体現しただけでなく、桶の水を派手にぶちまけた『大つごもり』の久我美子と同じく“転ぶ”という身体性によって人生の隘路に立たされるサマがよく描かれてます。
そんな千景だからこそ、観る者は“壁”なき座敷で山村にしなだれかかる身振りに“現状から這い上がろうとする遊女の気概”を見るのだが、あたら、その夢は無理心中を強いる宮口によって奪われてしまうのだ…。

 以上三篇。すべてがネオレアリズモの影響下にあり、それらを淀みなき映像話法で樋口一葉のロマン主義文学へと照射せしめた、じつに松竹らしい作品といえます。文学への映画的回答というかね。なんだか泣けちゃった。
 また、同一監督によるオムニバス映画…という構成が作風の一貫性を保証してもいるので、開幕一発目の駿河台のショットでの「はい。既にいいよね」という確信は最後まで持続し、第二話を終えた時点で「やっぱりいいよね」に変わり、第三話を終えたころには「結局いいよね」になるなど、各自「いいよね」の成長過程を楽しむのが吉。
「いいよね」がドンドン育っていくから。

久しぶりに語り甲斐のある作品でした。

f:id:hukadume7272:20210711213005j:plain千景ちゃん!