シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

好人好日

味変で楽しむ秋刀魚の味。

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1961年。渋谷実監督。笠智衆、淡島千景、岩下志麻。

大学教授の尾関は世界的な数学者だが、世間では変人で通っていた。妻の節子は愚痴りながらも彼を尊敬し、家計をやりくりしている。一方、尾関に拾われ育てられてきた登紀子にはフィアンセがいるが、父親が彼を気に入るかどうかが気がかりだった。(松竹株式会社より)


ハイ、おはようとしか言いようのない状況が巻き起こっていく。
顔を合わせたらニコニコしながら挨拶してくれる近所のおばさんは、いつも真っ赤なシャツを着ています。もう、むちゃむちゃ真っ赤。そして屈託のない笑顔。
挨拶するようになって5~6年経つが、赤くなかった試しがないほど、いつも赤いシャツ着てるのよね。トマトも成熟前は赤くないし、アイアンマンでさえ最初は赤いアーマーじゃなかったのに。
みんな、少しずつ赤くなっていくのに。
そういう決まりなのに…。
でもこのおばさんは、そんなもん関係ない。もう、いきなり真っ赤や。「いってまえ」みたいに一発目から真っ赤。関係あるか。パッツーン、いったったええねん。赤で。
しかも無地っていうね。
ジャスト・ア・レッドや。関係あらへんがな。つべこべ言う奴はパッツーン!いったったええねん。赤で何が悪いねん。
むちゃむちゃニッコリしながら挨拶してくれるシャツ真っ赤のおばさんがオレにどれだけ元気をくれるか。おまえ達にわかるか?
最高や、こんなもん。大好きや。

そんな赤パッツーンおばさんと、つい先日スーパーマーケットの前で半年以上ぶりにすれ違った。
こちらに気付いた赤パッツンが「はうあ! 久しぶりー」とニッコリしながら挨拶してくれたので、「どうも、ご無沙汰ぁ」と、こちらもニッコリ。少しく道端で雑談してたのだけど、不意に襲いくる強烈な違和。
青いシャツ着とる。
え。なんで!
いつも中国共産党みたいに赤いのに。赤以外のシャツ着てるとこなんて見たことないのに…。うわぁ。すーごい青い…。
そしたら赤パッツン。急に声のトーン落として、ちょっとヘンな顔しながら「最近、かなんなぁ。コロナで気ィ沈むわー…」とぽそぽそ喋った。
…………。
………あ。

ブルーなってる!

えっ? フェッ…! コロナでブルーになってるから青いシャツに着替えたん!?
今までシャツの色で精神状態表してたんか? いつも元気キャラだから基本赤みたいな。それがコロナになってブルーなって…。そういう仕組みでやってたん? 俺に黙って!? マジックカラーリングの色コロコロ変わるやつを…自分で服でやってたんか!
いや、でも深読みしすぎかな。ほな何や。どういうカラクリなん。たまたま?  訳わからん…。
訳わからんけど、むちゃむちゃおもろい。絶対ブログに書こ。

ほで、書いたわ。
そんなわけで本日は『好人好日』です。ゆっくり読みや。

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◆味変で楽しむ『秋刀魚の味』◆

 ぐふふ。とびきり楽しい映画を観てしまいました。U-NEXTに転がってた『好人好日』だよ。ずっと観たかったのであるよねー。
本作はコメディ作家・渋谷実による後期作。結婚を控えた一人娘と両親とのハートウォーミング・ホームドラマ…なんていうと小津安二郎が思い出されるが、まんまソレ。
まんま安二郎のソレ。

父役が笠智衆、娘役が岩下志麻…という時点で秋刀魚のまんま。

本作の1年後にまったく同じ配役、同じ大筋で『秋刀魚の味』(62年) を撮ったのが小津安二郎でありますから、本作はいわば『裏・秋刀魚の味』とも呼ぶべき、味変を楽しめる特別メニューとなっているんであるん。

母役には淡島千景。彼女もまた『お茶漬の味』(52年)『早春』(56年) といった小津作品に出演しているが、宝塚スターだった淡島を『てんやわんや』(50年) で銀幕デビューさせた人こそが本作を手掛けた渋谷実なのであります。実ってるな~。
そして志麻ちゃんの婚約者役は『卍』(64年) でマジ卍な悪行をはたらいた川津祐介
フオオオオオオ。松竹贔屓の私にはこたえられない布陣だ!
大物スターが次々と参加する『ワイルド・スピード』シリーズに快哉を叫ぶマイルドヤンキーの気持ちが初めてわかったよ。私にとっては本作こそが松竹ワイルド・スピードなのだからね。

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 「大仏サン。どうか私の願いを聞いてください。私の運命はいま大きく変わろうとしています…。
縁談があるんです。相手の人は二百年も続いた古い墨屋の息子さんです。みんなは佐田啓二に似てるって言いますけど、私はグレゴリー・ペックに似てると思います。
その方のお姉さんが今日、正式にお話にくることになってんです。私はその人と結婚して幸せになれるでしょうか?」


東大寺の大仏相手にコショコショと相談してるのは岩下志麻。奈良市役所に勤める恋人・川津祐介は由緒ある墨屋の次期当主だが、まかり間違っても佐田啓二やグレゴリー・ペックには似ていない。恋人バイアスがすぎるぞ、志麻ちゃん!
祐介の祖母・北林谷栄と姉の乙羽信子は、そんな二人の結婚に気を揉んでいた。志麻ちゃんのパパン笠智衆が当代きっての変人だからだ。
笠は奈良大学に勤める数学教授だが、天才ゆえに独特の思考回路を持っており一寸先の言動がまるで読めぬ。羽生に指される駒か?ってくらい読めぬ。
そんな笠パパンを甲斐甲斐しく支える賢夫人が淡島千景。
ところが、この夫婦は志麻ちゃんの本当の両親ではなかった。かつて笠パパンは戦災孤児だった志麻ちゃんを勝手に拾ってきて「今日よりこの娘をワシらの子とみなす」と堂々宣言。千景とともに育成し始めたのである。爾来、本当の娘のように養父母に育てられてきた志麻ちゃんであったが、心の片隅には「一度でいいから本当の両親に会ってみたい」という切なる願いもあるっちゃある。
そんな折、笠が文化勲章を授与されることになり、これをゲットすべく千景を連れて東京に向かったが、宿に泊まった夜、ゲットしたばかりの勲章をさっそく泥棒に盗まれてしまう。

 果たして志麻ちゃんと祐介は結婚できるのか? 志麻ちゃんは本当の両親に会えるのか? そして盗まれた勲章の行方は!?
奈良を舞台に繰り広げられる大仏相談型ホームドラマの火蓋がいま切られようとしています! ちょん。いま切られました!

◆可笑しさを忘れてはしまいか◆

 映画は大まかに二部構成となっており、物語前半は志麻ちゃんの縁談騒動にスポットを当て、後半は盗まれた文化勲章をめぐるドタバタ劇が描かれる。
そして全編を貫くのが笠智衆のピヨピヨとした浮遊感。終始とぼけた調子で画面に漂い、わずか88分の中で忙しなく動くストーリーや豪華共演者との芝居をさらりさらりと躱しながらスクリーンを生きてしまうのです。
主役なのに主役の風格がなく、かといってコメディリリーフでもなければ物語上のキーマンでもない…という絶妙な存在感におさまる笠は、もっぱら松竹的風土と小津的制度によって緻密に“操作”されてきた役者だが、本作を観て得心。

誰も操作しないとこんな感じになるのね。

f:id:hukadume7272:20210716093717j:plain今度の笠智衆は松竹的風土にも小津的制度にも操作されない。

 また、笠が演じたパパンは数式研究とコーヒーが大好きで、なぜか晴れの日でも雨靴を履くような変人だが、決してそれが設定に誂えられた変人キャラではなく、笠智衆の変人性がキャラクターに投影されているのでちゃんと“自然な変人”に見える。

これに比して、昨今の日本のコメディ映画…というか、ほとんどコント番組(宮藤官九郎や福田雄一など)に近い低俗映像の集合体的商業製品の出演者がことごとく“わざとらしい変人”に映るのは「変人の設定」をそのまま演じているためである。とにかく漫画じみたビジュアルでエキセントリックなことをさせれば変人になる、といったコントの発想から抜け出せていない。
これが“設定に支配されたコント”と“設定を支配する映画”の違いだ。
宮藤、福田、よく覚えとけ。あほんだらァ。

 巷では「日本のお笑いは世界一」なんてことが言われとるが、なるほど、微妙なりき日本文化や日本語の複雑さは多種多様な笑いの感覚を刺激し、昨今ではつまらない事さえ笑いに転じる「すべり芸」なるものがテレビショーを賑わせるなど、日本の笑いは日々進化しているが、反面、この点は退化したナァ…と感じるのは、あまねく諧謔味を「面白い」なる語で形容する我ら現代人から、それを「可笑しい」と形容する感覚が抜け落ちてしまったことである。

 そも、「面白い」というのは主観ありきの“我がの感覚”に過ぎぬが、「可笑しい」というのは客観的視座に基づいた“他の有様”の描写である。
元来、喜劇というのは「可笑しい」ことをするのが信条、モットゥー、スローガンだが、昨今のコメディ映画は「面白い」ことをするのに躍起で、宮藤も福田も、みな好き好きに“我がの感覚”をスクリーンに塗りたくっているが、本来的に「面白さ」を追究するのはお笑い芸人の仕事である(芸人という言葉の前に「お笑い」が付くことからして主観性は明白だよね)。
 畢竟、お笑い芸人の真似事ばかりしているのが今の日本映画のコメディ村。まだまだ稚気の内としか言えまい。そして基地の外でもある。
アメリカさんなんかはバスター・キートンの時代からアパトー一派の現代に至るまで、どれも「可笑しい」ぞ。ビル・マーレイなんて、まさに本作の笠智衆みたいだし。

まあ、何が言いたいかというと…今の日本には「面白い人」は沢山いるけど「可笑しい人」は滅多にいないよねっていう。
道理で変人が現れないわけである(あるいは変人を自称する凡人が多いわけである)。

f:id:hukadume7272:20210716093137j:plain笠のようす(かけがえのない笠)。

 本作の笠智衆は、度し難く、そして愛おしいまでに、おかしい。
ある夜、大好きなコーヒーのおかわりを求めた笠が、妻の千景から「2杯も飲んだので、今日はもう駄目ですョ」と言われて憮然としていると、3杯目のコーヒーにありつけるビッグチャンスが到来した。大学事務員の織田政雄が、笠がプリンストン大学から招聘されているという報せを持ってきたのだ。
「これ、おまえ。お客さんだ。コーヒーでも淹れなさい」
渋々2人分のコーヒーを用意する妻。来客にかこつけてコーヒーチャンスをモノにすな。
さて織田は、プリンストン大学に笠を送れば奈良大学に箔がつくので渡米をしつこく勧めたが、これにまったく興味がない笠、食い下がる織田に業を煮やし「僕は行きません。やめます。さよなら!」と言いきり、折好く2人分のコーヒーを運んできた妻からお盆を取り上げ、あろうことか織田に「君、いらないね? ありがとう」と礼を言ってお盆ごと自室に持っていってしまいました。
客のコーヒーまでせしめんな。
この日は都合4杯のコーヒーにありついた笠。いっぱい飲んだね。

この、他人様に対して飄々と無礼を働く笠のナチュラルボーン失礼ぶりは物語が進むにしたがってブイブイ加速する。
そんな珍奇エピソードを、今宵はランキング形式で発表してあげる。

~笠パパンの奇行ランキングTOP3~

3位 笠、ウサギを愛でる

 ある夜、家に帰ってきた笠は、何か白いものを抱えていた。

「珈琲屋でウサギ貰ってきた」

珈琲屋でウサギ貰ってこないよ。
ウサギをだっこしたまま居間に上がった笠に、妻の千景は「ダメですよ、そんなの貰ってきちゃア。面倒見切れないじゃありませんか」とこぼす。真っ当な対応だ。一撃で拒否された笠は、寂しそうにうなだれました。

「可愛いのになぁ…」

声を大にしては突っ込めないが…おまえの方が可愛いわ。
そもそも、なんで珈琲屋がウサギくれんねん。糞を珈琲豆に見立てて挽いている?
結局、笠が飼育係に就いたことで千景の許可はおりた模様。
ここで私、ピピッと映画好きの勘が働きました。

ことによると笠が貰ってきたウサギは“志麻ちゃんのメタファー”なのかもしれない…って!

思い返せば、戦災孤児だった志麻ちゃんは血の繋がってない娘。奇妙な巡り合わせから笠が拾い、こんにちまで育ててきた子である。しかも映画中盤では笠のウサギが脱走して行方知らずになってしまうンである!
かずかずの映画を観てきた私からすれば、いよいよ「あーんハハーン」てなもんや。なるほどねえ。ハイ。大体読めました。

映画中盤でウサちゃん(=志麻ちゃん)が逃げ出したってことは、きっとこのあと祐介との縁談をめぐって父と娘がすれ違う、みたいな一悶着があるのだろう。だけどラストシーンで親子は和解。そのタイミングで行方不明だったウサちゃんが笠のもとに帰ってきて真の大団円=メタファー成立と、そういう算段なのでしょう?

これは勝手な推測とかではなく、映画脚本における物語類型の理論なんだよね。理論に従えばこそ、こういう読みが通るわけです。逃げたものは必ず帰ってくるし、なくしたものはいずれ見つかる。それが説話理論、ザッツオール。
なんてことを思ってたら、このウサギ…
逃げたっきり一生戻ってこん。
なんとなく逃げ出して、なんとなく忘れられて、なんとなく最後まで出てこないままだった。
うーわぁ…。
「ウサちゃんは志麻ちゃんのメタファー!」とか言ってた私の立場が危ぶまれています。
結局メタファーでも何でもなかった。
読むんじゃなかった、こんな筋。
じゃあ逆に聞くけど、何だったのさ、ウサギは。何のために出して何のために逃げさせたのよ。セオリー殺しにも程があるよ。
赤っ恥こいた。青っ尻みせた。

f:id:hukadume7272:20210716081808j:plain笠「可愛いのになぁ…」

 

2位 笠、犬にエサ与える

 ある週末。フィアンセの祐介が手土産を持って志麻ちゃんの家に遊びにきた。そこで初めて笠パパンと顔を合わせたので、祐介はやや緊張しながら挨拶した。なにしろ祐介にとって笠パパンは未来のお義父さん濃厚者。

祐介「僕、川津祐介って言います。あの…。志麻さん、いらっしゃいますか?」

笠 「パァマに行った」

祐介「お言葉通り、遊びにきたんですが…」

笠 「ほう。何して遊ぶの?」

祐介「いや、ただ遊びに来るようにって、志麻さんから…」

笠 「そう。じゃ、遊んでごらん」

比喩通じへんのか?
なんやこのおっさん。比喩としての「遊び」を具体的に捉えすぎや。思わずたじろぐ祐介。未来のお義父さん濃厚者に思わずたじろく祐介。
そのあと、さっさと自部屋に戻ろうとした笠に、祐介は手土産を渡します。

「これ、羊羹です。お口に合うかどうか…」

笠が「ありがとう」といって羊羹を受け取ると、アラかわいい。庭の方からご近所さんの犬がワンワン吠えながら駆け寄ってきました。元気の子です。
すると笠、貰ったばかりの羊羹の包みをベリベリ剥きながら「あの犬、羊羹食うよ」とあらぬことを言う。
おまえ、まさか…。
やめとけよ?

犬に羊羹を与えた。

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やめとけて。

なん……犬っ…!

なんそんすーん!!?
※なんでそんなことするん

「うま。うま!」

ムシャムシャ食うてる!
笠やば。他人様から貰った手土産をノータイムで犬に食わしてる!
あた…頭おかしいんか?
でも犬はモリモリ羊羹を食べました。「この経験がぼくの糧となる」と言わんばかりに、うまうま言いながらムシャムシャ食うた。羊羹、糧にしていく。
祐介はただ唖然としながら犬に羊羹を与える笠を見守っていた。否。見守ることしかできなかった。なんそんすーん顔で。
途端、何かを思い出したように、笠!

「気長にやれば二本や三本ペロリだよ。じゃ頼む。僕はちょっと珈琲屋に行ってくるから」

そう言って、なんと残りの羊羹を祐介に渡して立ち去ったのです。
あぜんっ。
ぽかんっ。
せっかく娘の彼氏が持ってきた手土産が犬のエサになったうえ、残りの羊羹(エサ)を彼氏に押し付けて風のように去っていく父。
なんやこいつ…。
かくして祐介の手土産は処理されました。

ぜんぶ犬にいった。

「うま!」

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あぜんの祐介。そりゃこんな顔にもなる。

 

1位 笠、ガードに重きを置く

 笠はたびたび近所の珈琲屋の小僧に数学を教えに行っていたが、その目的は野球中継を見ながらコーヒーをタダ飲みすることだった。
ある日、女主人から「あの子の家庭教師になって、もっと本格的に教えてやって下さいョ」と頼まれた笠は「教えたところで見込みはありません。あの子は、ただのバカです」と断言。すっかり女主人を怒らせてしまう。そら怒るわ。
 後日、その珈琲小僧は学業の道をすっぱり諦めてボクサーになると言い張り、笠にデビュー戦を申し込んだ。もちろん遊びの域である。
これを快諾した笠、拳を構えて「こういうのはガードだ。ガードが大事なんだ」とかなんとかブツブツ言いながら阿呆のように左右にゆらゆら揺曳していたが、次の瞬間には珈琲小僧の右フックがモロに入り、アゴを打ち抜かれて地べたにひっくり返った。

大事なガードすぐ突破されとる。

珈琲「おじちゃん、参ったかい?」
笠 「参った」

1ラウンドTKO負け。

f:id:hukadume7272:20210716082807j:plain開始6秒、珈琲小僧が笠のアゴを打ち抜いた。

時は進んで映画後半。
東京で文化勲章を盗まれすごすごと帰ってきた笠は、受章を書き立てようとするマスコミの質問責めに辟易し、身内の祝賀会もドタキャンして失踪します。
行き先に目星をつけた志麻ちゃんが東大寺に向かうとドンピシャ!

静寂を求めた笠は、ひとり境内でボクシングの練習に励んでいた。

「しゅ。しゅ」

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懲りずにガード鍛えとる。

「こういうのはガードだ。ガードが大事なんだ」つって秒でガードを突破された笠だが、今でもガード主義は変わらない様子。
だが、そんな経緯を知らない志麻ちゃんの目には、ただ父が両腕をあげて阿呆のように左右に揺曳してるようにしか映らなかっただろう。

その後、ガードを鍛えきった笠は「文化勲章を見せろ! 見せられんのなら、お前は非国民だ!」としつこく付き纏ってくる文化勲章マニアの変態に「ワシは非国民じゃない!」と抗弁。なぜか「こうなったら勝負だ」とか言い出して果敢に挑みかかるも…小外刈で軽々と投げ飛ばされてしまいました。
しかも丘の上で。


「参った」
1ラウンドTKO負け。

f:id:hukadume7272:20210716093825j:plain笠「痛いー!」

コテンパンやないか。

ディフェンスに重きを置いた結果がこれか? 小僧にはアゴいかれるわ、変態には投げ飛ばされるわ。なんぼほど弱いねん。
すぐ「痛いー」ってなるし。
しかも見晴らしのいい丘で。
なんで絶景スポットでぶん投げられてんねん…。

もうやめな、ガードの練習。
意味ないから。

◆志麻い線とUVカット◆

 狂騒的な前半とは打って変わって、映画後半にはしみじみとした趣きがある。
親授式に出席すべく東京に向かった笠と千景は、夫婦水入らずで汽車の旅を楽しむ。
千景が「アッ、こんど浜松よ。うな弁買いましょうか!?」と浮かれていると「よく食うねえ。名古屋で弁当食ったばかりでしょ? 遠足じゃありませんよ」と笠がたしなめた。千景が膨れていると、今度は笠が「富士山! おい、おまえ。富士山だよ! いいなア。雄大だなァ」と無邪気に浮かれれば、意趣返しとばかりに千景、「富士山くらい分かってますよ。おいくつです、あなた」と笠にチクリ。
そんな可愛らしき風景にカットバックされるのが、奈良市内でデート中の祐介と志麻ちゃん!

志麻「もう浜松あたり行ったかしら。お父さんとお母さん」

祐介「よく二人で出かけたね。仲よく」

志麻「新婚旅行やもん!」

祐介「……?」

わからんやろな~~わからんやろな~~。
しょせんアカの他人には、ここで志麻ちゃんが言った「新婚旅行」の意味は分からんやろな~~。

f:id:hukadume7272:20210716083345j:plainまぁ、かく言う私もアカの他人ね。

フム、よいです!
“結婚を控えた若きカップル”“ツーカーの熟年夫婦”の対比がよく効いたカットバックと言えすぎるですね。

 おもしろいことに二組のコントラストから見てくるのは、規範や伝統に捉われず独自の価値感の中で生きる笠に対して、祐介の方は役所勤めでおまけに旧家の息子(伝統的規範意識の申し子)という世代間の断絶であり、この対照的な男二人の新旧の価値観を越境することで志麻ちゃんは“娘”から“妻”へと変わってゆくのである。
高度成長への助走期の中で萌芽した新価値を引っ提げて彼女の手を取った祐介は、だから二度目の手土産に「これがあればいつでも野球中継が見れますよ」と言ってカラーテレビを笠のもとに届けたが、「野球は珈琲屋で見るから要らん」と突っぱねた笠は、そのあと女店主の息子をバカ呼ばわりしたことで珈琲屋を出禁になり「こんなことならテレビ貰っておくんだったなア。惜しいことをしたなア」と臍を噛む。
いまを生きる祐介と、時代に適応できない笠。

 されど本作は高度成長期を線分とした世代間の断絶ばかりを描いた作品ではない。
権威などにいっさい興味のなかった笠が文化勲章をゲットすべくいそいそと汽車に乗り込んだのは、勲章のオマケに付いてくる年金50万で妻に楽をさせ、娘にバッグのひとつでも買ってやろうとしたためなのだ!
年金狙い。
オマケ目当てで文化勲章を頂戴するって…発想がグリコやん。口の中でキャラメル転がしてるけど心の中ではオモチャ転がしてる、みたいな子供の心理やん。のちのビックリマンやん。
まあ、なかなか怪しからん話だが、ここはマァ、“金に頓着しなかった天才数学者が家族孝行のために年金狙った”と理解されたい。
この辺が実に気持ちのいいところで、戦後日本映画にありがちな“ヘンコな父親像”に比べれば本作の笠はよっぽど素直というか、ステレオタイプに凝結しない、柔軟なキャラクターなんである。

 まあ、宿屋に押し入った泥棒(三木のり平)に向かって「この文化勲章は年金50万のオマケが付くんだ」と余計な説明をしてしまったり、暗がりの中で勲章を探す泥棒に「見えるかね。ほれ」とライトを向けて協力してやったり…など理解に苦しむ言動は相変わらずなんだけど。
柔軟すぎ。

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大事な勲章を盗もうとする泥棒を思わず手伝っちゃう笠。

 笠の話ばかりしてしまっているので、最後は女性陣への賛辞で締め括りたい。
フオオオオ。淡島千景と岩下志麻は、不肖よろしく助平ふかづめが発表する「顔だけで選ぶ日本人女優ランキング」において堂々の1位 2位であり、端的に言って好き
なんならこの2人だけで記事5本分くらい書くなど造作もねえこっちゃが、それをさせぬほど『好人好日』は笠智衆の一人勝ちだった。
でも“勝たせた”のは両佳人である。


まずは志麻ちゃん。
キャリア最初期の本作では、スクリーンをも赤面せしむる可憐さで観る者を魅了しました。
わかるか。われわれが目を奪われる前に、スクリーンの側が志麻ちゃんに目を奪われているわけだ。わかるか。人はスクリーンを媒介することでしか映画を観れないからな。
仮にスクリーンを「オヤジ」に例えるとして、いわばわれわれは志麻ちゃんに見惚れるオヤジに見惚れているわけである。志麻ちゃんの美しさがオヤジを貫通してこちらにまで伝わってるわけ。
これをさして美の貫通と呼ぶ。
や。別に呼ばんが、便宜上ここでは呼ぶ。

無論、美を貫通せしむるのは“ショットの純度”である。当然だ。アタボーだ。ショットが汚いと、いかな被写体が輝けど光は屈折してしまうのだからな。
岩下志麻は危険なまでに可憐な光を放っており、そんな「岩下志麻を見る」という行為は、だから直射日光ならぬ直射可憐光を浴びることと同義といえるが、かように人体への有害性すら認めうる危険行為だとわかっていても、人は好むと好まざるとに関わらず直射可憐光を浴びてしまう…つまり岩下志麻を見てしまう。

否。見て志麻うのである。

いわば、ある意味において、岩下志麻とは“紫外線”なのだ。

否! 志麻い線とすら言えるのではないか?

そこへ追い打ちをかけるごとく「当時20歳」という甘美な響きが悦なる余韻を残す!
人は、ただ「美の貫通」に胸を押さえ、危険とわかっていながら「志麻い線」を浴び、「甘美な響き」によろめいたのちに膝から崩れ落ちての頓死を本望とするほかあるまいのだ。

ちなみに「本当の両親に会いたい」という志麻ちゃんの本懐は最後まで遂げられません。
そのくだり…なんか知らんうちにフルスイングでぶん投げられてた。
会わせたれよ。

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 一方の淡島千景。
うんにゃ。皆まで言うな、皆まで言うでない。オレが言う。

さすがとも言える爛熟の芝居!
笠がさんざ暴れ回ったあとをサッと掃除する助演の妙。自分勝手の独壇場を演じてきた笠と、無方向的に「志麻い線」を放ち続けた岩下志麻の迷惑親子劇にあって、甲斐甲斐しく場の調子を整えていたのが淡島千景でした。

まさに賢夫人、賢役者といえるが、このキャラクター、見た目によらず酒好きというギャップが愛嬌となる。
 映画中盤では、志麻ちゃんとの語らいのなかで娘の気遣いに涙し、そのあと戸を開け放った居間で夜風に涼みながら娘のお酌を受ける。同じく映画後半では、笠との語らいのなかで柄にもなく夫が発した「ありがとう。よくやってくれた。ありがとう」という言葉に涙し、娘のときと同じく居間でお酌を受けるのだ。
いいなァ。母情の機微だなァ。

一度として妻の苦労を顧みた事などなかった夫から(おそらく初めて)面と向かって礼を言われた千景が、「今日は好い日だ。こんな好い日って二度とありませんよ…」といって笑った直後に涙が溢れそうになり、それを隠そうと両手に握っていたコップを机に置いてパッと顔を覆うと、妻の心情を察した笠が照れたように俯くショット。
人がこのショットに貰い泣きしてしまうのは、一つひとつの所作が実に美しいテンポで運ばれているためである。

(1)千景のセリフ
(2)コップを置く
(3)顔を覆う
(4)笠が俯く

えらいもんで、僅かでもテンポを外すと「良いシーン」にはなれど「完璧なショット」にはならない。映画とはそんなもんで、1秒間の中にさまざまな感覚が生まれては死んでいくから、然るべき感覚が生起した一瞬を、演者やカメラや照明や録音がバチッと捉えねばならん。
だから私は1秒を見逃したくないし、“1秒が見れない映画好き”がのさばっている浮世にあって『シネマ一刀両断』などという説教ブログを日々更新しては読む者を挑発するような小うるさい事ばかり書いてます。


 また千景。東京に住む級友・高峰三枝子との久々の再会であけすけにも笠の奇態を発表したのち二人でゲラゲラ笑い合うが、そこには夫を小ばかにした素振りはなく、むしろ「うちの人、ああ見えて結構かわいいのよ」てな調子で笠の生態を愛おしそうに描写していた。まるで我が子の失敗談を嬉々として喧伝せし母のように。
大変にいい芝居だ。大変にいい芝居だ!
愛をもって夫の失敗談を語るという難芝居。
出そうと思っても、この調子はなかなか出ない。なんとなれば、そのあとに発される下品なゲラゲラ笑いが、どうしても夫を小ばかにしているような印象を与えるからである。だが、そうは聞こえない。
それは淡島千景がゲラゲラ笑いに聞こえるような普通の笑い方をしている為であろう。
これすなわち、観客の耳目には人を嘲るようなゲラゲラとした下品な笑い方に感じもする彼女の哄笑は、その実、声を発しながらの肩の揺れや上半身の前後運動によってあたかも激烈に大笑いしているように見せかけたものであり、その証左として試しに目をつむってこのシーンを流してみると、なるほど、聴こえてくるのはもっぱら高峰三枝子のゲラゲラ笑いであり、千景の方はというと、大袈裟に笑っている風を装いながらも随分控えめのクスクス笑い。

畢竟、笑い方ひとつ取っても、それが夫への“愛おしさ”と映るか“嘲り”と映るかは芝居ひとつ。その芝居によって夫婦(キャラクター)の見え方が変わってくるのだとしたら、淡島千景は全くもって大した女優だ、と言わざるをえないわけであります。
尚、このショットは約3分の長回し。
こんにちの日本映画に半ば見切りをつけた人間からすれば、微かな期待も込めつつ現代映画の女優陣を挑発してみたいという好奇心に駆られるのも無理はないと、ぜひご理解頂きたい。
「やれるもんならやってみな」と。

f:id:hukadume7272:20210716091036j:plain夫のエピソードトークで大盛り上がりする淡島千景(右)。左は高峰三枝子。

 で結局、今しがた発表した淡島千景のうまさはすべてハンシャによる芝居である。
自らがスクリーンの中央に躍り出るための大芝居ではなく、現場の状況を注意深く読みながらの場を整えるための芝居であったり、ドラマを立てるための、いわば蝶々結びの最後の「キュッ」的芝居なのだ。溝口健二が言うところの「ハンシャ(反射)」よね。
自らは前に出ず、周囲の雑味を取り除きながら、それでいてドラマを際立たせ、映画を成立せしむるための立ち回り。
志麻ちゃんが美の紫外線なら、さしずめ淡島千景はUVカットとも呼べる芝居をしました。
そこへ追い打ちをかける如く「当時37歳」という落ち着いた響きが悦なる余韻を残す。夫役の笠智衆が当時57歳なので、その老け役ぶりに端倪すべからざるものがあるのは余りに明白ゥ。

人は、ただ「ハンシャ」に安らぎを覚え、知らず知らずのうちに「UVカット」の恩恵を受け、「落ち着いた響き」に心を癒されたのちに膝から崩れ落ちての昇天を本望とするほかあるまいのだ。


結論。
どっちにしろ死ぬ。
岩下志麻で頓死するか、淡島千景で昇天するか。
戦後日本映画の女優に魅せられた者は、どっちにしろ死ぬ。えらいことや。

f:id:hukadume7272:20210716094953j:plain本作の淡島千景が左、5年前の『日本橋』(56年) が右。