シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

Mr.ノーバディ

近年流行りの「撮り急ぎ映画」の中では白眉だとおもった。

2020年。イリヤ・ナイシュラー監督。ボブ・オデンカーク、コニー・ニールセン、クリストファー・ロイド。

ゴミ収集車に絶対間に合わない男が最後までゴミを出せずにいる物語。果たして彼の家はゴミ屋敷となってしまうのか…?


僕はふかづめです。
それはそうと、オリビア・ニュートン=ジョンが好きなのさ。むちゃむちゃ聴いてる。
今月の頭、久しぶりに会った知人と80'sポップスの話でギャルみたいに大盛り上がりしていた最中、だしぬけに知人が「オリビア・ニュートン=ジョンってまだ生きてるん」と言うので「もりもり生きとるがな。たしか、もう70ぐらいやけど元気満点や」と返事したあと、正確な歳を調べようとスマーホを開いたら、Yahoo!ニュースのトップに「オリビア・ニュートン=ジョンさん死去」の速報が。
「…訂正する。たったいま死んだ」
知人は愕然とした。俺は唖然とした。
なんちゅうタイミングだ。その訃報が入ったのは、我々がオリビア・ニュートークをしていた僅か20分前だった。
まあ、時差があるから亡くなったのは数日前だけど
俺は有名人が死ぬたびに大してファンでもなかったくせに「好きでした」とか「青春でした」とかSNSで白々しい言葉を並べてご冥福をお祈りするようなタイプではないし、実際エドワード・ヴァン・ヘイレンが死んだときだって普段通り振舞いながらも調子ババ狂い回となった『花くらべ狸道中』(61年)評をすんとした顔でアップしたが…オリビア・ニュートン=ジョンはあかんねん。
悲しすぎいいいいいいいい!
悲しすぎて、せっかくの休みだったけど、日がな一日コンピューターの前でぽくぽくしてたわ。当ブログでは過去に『グリース』(78年)評のなかでオリビア・ニュートークをしたので、これをもって弔辞とさせてくれよ。

ダウナートークは続く。先月中旬には、3年前に書いたゴミ回『6デイズ/7ナイツ』(98年)のアクセスが急に爆上がりするという珍現象が発生した。「ゴミ回なのになんで」と思いながら原因を調べてみて、そこで初めてアン・ヘッシュの訃報を知ったわけ。オリビアに続いて…。心がヘッシュ折られたよ。
そのあと友人らと飲みに行った際、いつも俺たちはそのとき不祥事を起こして世間を騒がせてる芸能人の魂のために乾杯するんだけど、この時ばかりはアン・ヘッシュに献杯しました。友人らは「誰?」ってなってたけど。
心をこめて詠みました。聞いてください。

~今日の一句~
悲しいニュース
Yahooに入ってくんな

そんなわけで今回は『Mr.ノーバディ』
当くそブログにしては珍しくすでに見た人だけに向けて書いてるので、のっけから本論に触ってくで。
すなわち「すぐ終わるよ」の合図やで。


◆家も車も自分さえも使い潰して明日へGO◆

 最近、撮り急いでる映画が多いよなぁ。
本作もそうだったが、まるで何かに急き立てられるようにカチャカチャと画面を繋いでいくさまは豪速モンタージュ。新たなショットを重ね描きするたびに一つ前のショットが掻き消されていく(だからショットが無い)。
ぷよぷよやん。
モンタージュっていうか、モンタージュ寄りのぷよぷよやん。
あと…恋やん。
新たな恋をするたびに一つ前の恋を掻き消して!
モンタージュ寄りの恋でもあるやん。
まあ、現代映画が現代に撮られるべき最たる理由である“記憶の廃棄”は今に始まったことじゃないが、それにしても凄まじい速度でショットが棄てられていくよな~。
おっさん、怖なったわ。


さて、映画が始まるとボブ・オデンカークの日常が豪速モンタージュされる(ぷよ)。
毎朝ゴミ収集車に間に合わず出勤、バスの待合所で懸垂をしたあと、交通カードでバスに乗り、金型工場の事務所で数字を打ち込む。家に帰れば妻と息子がまるで他人。それぞれが別々に暮らしてるみたいだ。そんな毎日がYouTubeのジェットカットみたいに編集されていくのだ。それも繰り返し、何度も何度も。
つまり、ここではボブが変わり映えのしない日常を送っていることを、それを説明するショットの廃棄によって演出化してるわけね。絶えず一瞬前の過去を捨て続けることで、いわば“映画的記憶の抹消”とも呼びうる禁忌を侵し、それ自体の反制度によって本作は駆動している。
つまりどういう事か…?
まあ、ぷよぷよDXって事なんだろな。

妻とは倦怠期。

実際、廃棄のモチーフは気持ちいいほどに全編を貫いている。
観る者は、ボブが押入り強盗を見逃したことで家族に軽蔑された翌朝、自分のために作った目玉焼きを忌々しそうにゴミ箱に捨てるシーンを頭の片隅に留めておこうと思う。それでなくとも印象に残っていたり、そこに何らかの違和感を覚えた観客は多いはずだ(…と願う)。それほど眼に引っかかる場面なのね。
その“引っかかり”の理由は、ボブがバスの中で遭遇したチンピラーズを半殺しにしたことに端を発するロシアンマフィアとのいざこざが描かれる物語後半にて氷解する。
「やはりこれは廃棄の映画なのだ」と。
まずボブは、返り討ちにした瀕死の暗殺部隊もろとも愛する家族と長年過ごしてきたマイホームを木端微塵にするし、次にいけ好かない隣人から盗んだ72年型ダッジ・チャレンジャーを『バニシング・ポイント』(71年) さながらのメチャメチャなチェイスの果てに使い潰す。そして物語終盤では日々鬱々と事務作業をこなしてきた工場をまるっと買い取り、宿敵アレクセイ・セレブリャコフ率いる精鋭部隊を待ち受ける“罠だらけの城”として使い捨ててしまう。
そもそもこの物語自体、過去を脱ぎ捨てることで何者でもない男(Mr.ノーバディ)となったボブが自らを使い捨てるように自己破滅的な戦いに身を投じ、再び人生をリスタートさせるために(家族にドン引きされながらも)全てを爆破炎上させちゃう人生を描いた苦く厳しいハードボイルドではなかったか。
うおおおお!

これはテマティックな話じゃないよ。
何度も言うけど、映画それ自体が“廃棄”を演出化した構造になっており、すぐれて戦略的にわざとショットを棄てている。
サンデー、マンデー、あー次はなんだ、チューズデー。そんな毎日がすさまじい速さで廃棄され、その勢いはフィルムの編集にも伝播し、ショットがショットとして定着する前の“映像の断片らしきもの”は撮られた端から映画的記憶のクレバスへと埋没してしまう。
先述の通り、近年そういう映画は多いが、ここまで先鋭化させた作品は類を見ない。ぜひともマイケル・ベイやマックGに煎じて飲ませたい、ボブの垢。
よろしい、続編を待ちましょう。
了。

「俺はMr.ノーバディ。なんだってやっていく」
(C)2021 Universal Pictures

~うれしい追記~

 あ、そうそう。音楽が印象的だったわ。
物騒なアクションシーンほどチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」だのルイ・アームストロングの「What a Wonderful World」を使うことで分かりやすく異化効果を狙っていて、正直「スカしてるなー。こういうのはわざと外したりせず、素直にハードロックをかけときゃあいいんだぜ。ヤンチャにな」と鼻白んだものだが、1秒ごとにチャレンジャーが廃車と化していくチェイスシーンで突如パット・ベネターの「Heartbreaker」が爆音で流れたときは、はうあう顔をしながら「やるじゃあないか…!」と敬意を表した僕がいたよね。
この野郎…ツボを心得てやがる。お行儀のいい音楽ばかり使っていたのはこの為の“外し”だったとでも言うつもりなのかっ!


パット・ベネター「Heartbreaker」

はうあう顔…驚きのあまり言葉が出ず「はうあう…!」しか発せないときの人の相貌(下記添付の画像を参考にして各自いつでもできるように訓練しておくこと)。