シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ジョーカー

元気100%でお送りするまったく元気のないジョーカー談義 ~あいつが来た~

2019年。トッド・フィリップス監督。ホアキン・フェニックス、ロバート・デ・ニーロ、ザジー・ビーツ。

三流芸人のアーサーがジョーカーになって踊ったり笑ったりする中身。


あい、やるか。
えらいもんで、調子乗って記事あげまくってたら怖なってきた。
もうちょいゆっくり更新せな。すぐレビューストックなくなるわ。もうちょいゆっくり更新しよ。それに前書きのネタもない。誰か話題供給して。
そんなことを思っていた矢先、とある読む者からコメント欄で悩み相談を受けたので、その回答をもって今日の前書きとさせて頂こかな。

「相談なんですが、映画のことを語るブログを始めてみたいと思い立ったのですが、なかなか一つの記事を完成させることができず困っています。
記事を書き上げるコツなどありますか?
またブログを書く際に何か気を付けた方がいいこと、心掛けておくことなどありますか?」

困ってるんか。なんで記事を完成させられへんの。集中力の問題か? せやったら、しじみの味噌汁飲んだらええよ。人生の悩みは大体しじみで解決する。おおきに。しじみにおおきに。
それとも技術的な問題け。
私が思う「記事を書き上げるコツ」教えたろか。シネトゥは章仕立てにしていて、大体いつも3章構成で文章をまとめてる。1章は映画の概説で、2章で物語に触って、3章で批評する。こういうフォーマットを先に作っておけば、あとは文章をはめ込むだけやから、ずいぶん書きやすくなるのと違うか。
かく云う私も、記事を書き上げるまえに飽きたり、疲れたり、行き詰ったりすることも頻繁にあるけど、そういうときは諦めてボツにするんじゃなくて「疲れたから終わります」ゆうてパーン!終わったったええねん。
それでいうと俺なんか正直者やで。「泥酔しながら書いてます」とか「今日はゴミ回です」とか。まっすぐ報告していくスタイルやからな。どや、先輩の背中。かっこええやろ。これが泥酔してゴミ回をあげる先輩の背中や。
おおきに、おおきに。
「映画ブログを書く際に気をつけた方がいいこと、心掛けておくこと」は箇条書きにしたから、好きに読んだったったりーな。

(1)読者の見力設定とブログの肩肘設定をしておく。
映画ブログの読者といえども、ポップコーン勢からシネフィルまで、その見力(みりょく。映画を見る力の度合い)はさまざま。どの層に合わせた記事を書くのか…という初期設定によってブログの方向性が決まってくるで。
それこそ批評をするのか、紹介するのか、雑感を綴るのか…など、どこまで肩肘を張るのかというスタイルも決めちゃおうね!

(2)良し悪しと好き嫌いは明示する。
僕は人の映画ブログをほとんど読まないのだけど、その理由が「良し悪しと好き嫌いを履き違えた“タダの感情論”が多すぎるから」やねん。
「“良し”いうてますけど、それアンタが“好き”なだけですやん」みたいな。その証拠に、良しとした具体的な理由が一個も書かれてませんやん、みたいな。ダメなとこを指摘した上で、素直に「でも好きだから堂々と贔屓する」って書けばいいのにねぇ。「文句あるなら来い」ゆうて。そっちの方がよっぽど信用できるよ。
良し悪しが縦軸なら好き嫌いは横軸として、文章という名のグラフで可視化しちゃお!

(3)決して前書きシステムを取り入れないこと。
絶~対やったあかん。
一生縛られるぞ。
たまには映画以外のことも書きたくなるだろうけど、そういう時はそういう記事として別個に分けて書いちゃおぉ~?

そんなわけで本日は『ジョーカー』です。事を書き上げるまえに飽きて、疲れて、行詰まりました。でもしじみの味噌汁飲んだらどうにかなったわ。おおきに~。
しじみにおおきに~。



◆ジョーカーに憧れてカリスマ気取ってる時点でカリスマとは対極の馬鹿豚チャーハン520円ということに気づけカス◆

 あ~、やっと観たわー。
公開当時、友人から「バットマン好きなのに『ジョーカー』観ないの!?」とせんど言われて、そのたびに、あのね、私が好きなのは『バットマン/オリジナル・ムービー』(66年) 、およびティム・バートンとジョエル・シュマッカーによる旧4部作なんだよと説明したものです。心の職員室で。
バットマン関連の映画なら何でも好きみたいな自我薄弱の盲信野郎だとでも思ったか? つって。断じてノンだ。例えばオレはエアロスミスのビッグファンだが、ぬるいアルバムは糞味噌に貶すし、舐めたパフォーマンスにはちゃんと失望する。
大体なぁ、好きだからって理由だけでやることなすこと肯定、礼讃、万歳三唱するのはお下げ髪の明治の女学生だけだろ?
ほいで先日よ。こんだ同じ奴からこう言われました。

「バットマン好きなのに『THE BATMAN ザ・バットマン』(22年) 観ないの?」

その話、前にしたな?
もっぺん職員室で話そか?
なんですぐバットマン関連の映画なら何でも好きみたいに俺のこと思うのおおおお。
あたかもパブロフの犬みたいだと言いたげな、その瞳…!


はーい。で『ジョーカー』でーす。
好きな人には申し訳ないけど、あまりにも語りたいことがなさ過ぎたので約2年ぶりに元気100パーセント坊ちゃんをお呼びしました。

黒字がふかづめ青字が坊ちゃんです。スマホ閲覧では適用されない吹き出しアイコンをわざわざ付けてるので、どうせ読むならPC推奨だけど…まあ何でもいいよ。

おーい、坊ちゃーん。
坊ちゃんったらー。
あ、来た来た。バカみたいな顔して走ってきた。


元気100パーセント坊ちゃん

いつも包丁を持って町内を走り回ってる男の子。

 

はい、元気です!

聞いてねーよ。

約2年ぶりの再会なのに随分じゃないですか。もしかして、僕のこと忘れてました?

ぎく。忘れてなんかいないよ。

随分じゃん!

今日は一緒に『ジョーカー』について語ってもらいます。あんまり興味ないから司会進行は任せるな。

それはまた随分ですね。
それにしても今さら『ジョーカー』ですか。あんなにもバットマンが好きだったのに。公開時に観なかったんですか?

その話はやめろ。ひねり潰すぞ。

潰されちゃ敵わねぇや。
僕もこの映画観ましたけどね、京王線刺傷事件や東大受験生刺傷事件のような社会的影響力ばかり取り沙汰されてますけど、ひとつの映画としてはよく出来てると思いますよ。

あー、そんな事件あったねぇ。
ジョーカーに憧れてカリスマ気取ってる時点でカリスマとは対極の馬鹿豚チャーハン520円ってことに気付かない奴らのなんと多いこと。「自分は特別だ」って発想自体が自らを凡人たらしめてることも知らずに。

いみじくも劇中で描かれてましたもんね。政治的不満からジョーカーに扮した一部の民衆が暴徒化し始め、やがてジョーカーに扮することが都市全体のブームになってしまう。
ブームって“凡庸化の伝播”ですからね。

そしてカリスマとは“凡人に夢を見せる人”のこと。
だからカリスマに憧れることとは、取りも直さず自らの手で「凡人」と署名する身振りにほかならないのである…。
了。


(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics

 

 

危ねえ終わらせねぇ!!
「了」じゃないのよ。危うく終わるとこでしたよ。先走って著作権のちょこちょこした英語出さないよ?
まったく、油断も隙も醤油もない。

だって特筆大書すべきことなんてあるかね、この映画に。
至って普通だったじゃん。

至って普通でしたっけ?

久しぶりにこんな普通の映画観たよ。
外連味たっぷりのキラーショット。ホアキン・フェニックスの大仰な芝居。虚実ないまぜの叙述トリックで「さあ考察してね」と言わんばかりのプロット。

でも、それって一般的に“傑作”と目されやすい三要素じゃないですか。

その三要素を律儀に揃えてくるあたりが普通だって言ってんの!
ばか~!
今どき普通の監督が「すごい映画作ったるでえ」つって普通にやることじゃない。『マシニスト』(04年) とか『シャッター アイランド』(10年) とかさ。何百回観てきたのよってくらい、実は俺たち、この手の映画は随分観てきてる。上下ともハッタリでコーディネートした虚飾のパリコレや!

そうかなぁ。うーん…。
たしかに“クールな映画と思われる記号”ってここ10年くらいで定着した感はありますけどね。スタイリッシュな映像と、過剰なまでのメソッド演技、虚を突いたストーリーテリング。そのツギハギだけで粗製乱造された映画も随分見てきましたし。クールな映画というよりはクールと呼ばれる確度をマーケティングした映画というか。

や。べつに『ジョーカー』がクールと呼ばれる確度をマーケティングした映画とまでは思わないけどな。
『ジョーカー』はフツーにクールな映画ですよ。

そっちの意見に寄り添ったらすぐこれだもん。
とはいえ、近頃はこういうのがカッコイイとされてるみたいですよ。

おーん。だから「こういうのが流行ってるのかー」って思いながら見てた。特に刺激を受けることなく、かと言って退屈するでもなく。「せやな。ほな次はそうなるわな」って定石通りの棋譜を読んでる感覚というか。

もう“鑑賞”というか“確認作業”じゃん。
すーごい虚しい映画の見方してる…。

度を越して映画を観ることは“虚しさと向き合うこと”やで、坊ちゃん。
まあ、監督/撮影/編集/製作の布陣を見た段階でわかりきってたことだけどさ(だからこそ今の今までスルーしてたわけだし)。

でもおもしろいストーリーでしたけどね。
いや、おもしろかったのはストーリーテリングかな。ツイストもよく利いてて。あぶれ者の道化師がいかにしてジョーカーになるのか…という過程が自己カウンセリングの要領で描かれてゆくのです。

せやね。おもしろいストーリーではあったよね。
あと「カウンセリング」ってワードで思い出したけど、映画全体の構造や演出がちょっとウディ・アレンっぽくなかった?

すみません、それは分かりかねます。

それは分かりかねた。

ウディ・アレン、あまり観てないんですよ。
どういう意味ですか?

いちど分かりかねたオマエに説明しても仕方あるまいが、多くのコメディ作品で監督/主演を務めるウディ・アレンの映画って、“恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲームと思いつつも不気味なくらいまた恋に落ちていく自分”というものを客観的に精神分析しながらも、やっぱりどこかで「恋にうつつを抜かしてる格好悪い自分なんて見られたくない恥ずかしい」という願望から、ヤケに達観した恋愛論や斜に構えた演出で“虚飾のパリコレ”をしよるのよ(だから余計に滑稽なんだけど)。
要は恣意的な精神分析。本当のこと語ってるようで虚偽だらけ。口から出まかせの私小説。『ジョーカー』も同じ手口でしょ?

そう言われると似てますね。ウディ・アレンの場合は恋愛劇でしたけど、それが悲喜劇になったのが『ジョーカー』じゃないですか。悲しい出来事ほど喜劇風に撮って、可笑しい出来事ほど悲劇風に撮るという異化が徹底されてましたしね。
ねえ、等身大の喜劇で挑んでるのに、世間は暗い話題。
まさに「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇である」というチャップリンの名言それ自体が本作のストラクチャーになっていたのですね。

(ストラクチャーってどういう意味やろ…あとで調べよ…)
それで言うと一つ文句をつけますけどね。劇中で『モダン・タイムス』(36年) を借景したのは無粋でしたな。まんま劇中劇として流してるんだもん。小っ恥ずかしい。
そんな事せずとも、誰がどう見ても『ジョーカー』に通底してるのはチャップリンなのに。とにかく引用がへたっぴ。

あっ。おえおえ…。

その流れで追撃しますけど、一番ダサいと思ったのはロバート・デ・ニーロを起用することで『キング・オブ・コメディ』(82年) の間テクスト性に自ら答えを出しちゃったあたり。
巷で「この映画『キング・オブ・コメディ』っぽいよね」と噂されてりゃあいいものを、「まさにそうです!」とばかりにデニーロを出して先制攻撃してくる行儀の悪さというか。下品よねぇ。出題と同時に答え出しちゃうみたいな興のなさよ。

『モダン・タイムス』『キング・オブ・コメディ』…。たしかにオマージュと呼ぶにはいささか野暮ったいし、テクストの隠し味と呼ぶには露出過多だったかもしれませんが、だからこそ! そんな新設設計が、語りやすい(=考察しやすい)映画として広くウケたのもまた事実だと思うのです。
友人の評価はイマイチでも She So Cute。

いつまでミスチル歌っとんねん。おもんない。
やめさせてもらうわ。

(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics

 

 

終わりなき旅!!!
すぐそうやって終わりのポイントを見極めようとするー!
まだ終わりませんよ!

坊ちゃんよぉ。もう十分だろ。
俺たち十分ジョーカーしたぜ。

そうでショーカー?

そういうギャグは思いついても言ったらあかんねん。

なんだかまだ、ふかづめ映画論のタガが外しきれてないっていうか、ふかづめ残尿感にモヤモヤしてるので続行します!

いよいよ人のこと尿よばわりするの?

 

◆もうウンザリだ! 『ジョーカー』談義延長戦!◆

 

主演のホアキン・フェニックスについてはどうでしたか。

ぽきぽきじゃん、って。

ぽきぽきじゃんって思ったの?
確かに24キロ減量したのでぽきぽきでしたけど。
僕は『ザ・マスター』(12年)『her/世界でひとつの彼女』(13年) と並ぶ怪演だと思いましたけどね。

そうかねぇ。
ホアキン、芝居ヘタになった?

ホア!!

映画好きほど「怪演」とか「鬼気迫る~」って言葉に弱いよな。それこそ“役作り”と称した肉体改造は視覚的にも分かりやすいから脊髄反射で「すごい」となる。斯くしてメソッドアクターが祭り上げられるんだわ。やだやだ。

やだの?

やだよ!
80キロの役者がヒィヒィいいながら60キロに減量するくらいなら、もとより60キロの役者を使えばいいじゃない。
それに、減量による外見変化を是とするならば多様な役者がいる必要なんてないよね。この世に。極論、芝居ができて自在にメーキャップ可能なロボットがいれば事足りるじゃない。
要は「映画のために20キロ痩せた」という美談が芝居の評価に直結してること自体がクソってことだ。
妻夫木聡のことは好きだが、彼が『悪人』(10年) で土木作業員の役作りをするために実際に土木作業のアルバイトを3日間していたというエピソードは訳がわからん。そこまでしないと土木作業員を演じられないならいっそ本当に土木作業員に転職すればいいのにとすら思ってしまうし、逆に「たった3日でいいんだ?」とも思う。ごめんな妻夫木。でも好きだよ。ちゅ。
何が言いたいかというと、少なくともオレは『Uターン』(97年)『裏切り者』(00年) の頃のホアキンの方が好きだったってことだ。これと似たようなことはティム・バートンとつるんでバカ殿みたいにされちゃう前のジョニー・デップにも言えるし、クリスチャン・ベールは『プレステージ』(06年)『3時10分、決断のとき』(07年) の頃が最高によかった。
つまりそういうことだ。強く生きていこう。

あっ。おえおえ…。

困ったときにそれ言うの、やめな?

はぅあ!
ふかづめさんの演技論、分かるようで……訳がわからん…。
ムチャ言ってる!

ムチャでもクチャでもいいよ。
ま、感性の相違ってやつだ。俺がムチャなのか、それとも俺がムチャと思うオマエの感性がクチャなのか。
答えは風の中だな。吹かれるまえに掴み出せ。

なにをいってるかよくわからない。
さて、ここからは一歩踏み込んだ技術論についてお喋りしていきたいと思います。
まず僕が印象深かったのはシャロウ・フォーカスですね。うんにゃ。正確を期して“シャロウ寸前でピント止めちゃうフォーカス”とでも言いましょうか!?

言わねえよ。誰も。

若干ネタバレに抵触するかもしれませんが、淡くぼやけたホアキンのアップショットが虚像にも見えるような浮遊感を醸していて、観る者が知らず知らずのうちに“お伽噺の世界”に足を踏み入れたかのような錯覚を抱かせるのですよね。

うん。シャロウ・フォーカスは俺も印象的だった。ピン送りの感覚がトッド・ヘインズを思わせるね。

シャロウのように見えてシャロウじゃないようなフォーカスが随所で炸裂してましたし、それが単なる“綺麗な画”だけでなく後のストーリーの考察に関わるような重要な役割を担ってました。
さらにはバスの窓越し、公衆電話のガラス越しなど“隔てたショット”の活用がさり気なくもうまい。ただでさえ幻想的なショットなのに、窓やガラスを隔てている。ってことはつまり…? という面白さですよね!

わかりかねる。

わかりかねた。

俺がハッとしたのは“走って逃げる”という主題でさ。
ホアキンって、最初から最後まで“走り続ける”んだよな。看板を盗んだチンピラーズを追う冒頭から、列車内で殺人を犯して駆ける、カルテを奪って走る、刑事に追われて逃げる。その反復運動だけで全編を貫いた点こそ真に評価されるべきじゃねーの。

全力疾走するほど、そこにある種の滑稽味が滲むんですよ。滑って転ぼうがフォームが可笑しかろうが、恥も外聞もなく逃げまくるという。そこも計算ずくで演じてたと思いますよ。

キャスト陣では『キャットウーマン』(04年) のフランセス・コンロイがジョーカーの母親役だったのが嬉しかったな。入浴シーンもあるし。

因みにふかづめさん、キャットウーマンはミシェル・ファイファー派ですか、ハル・バリー派ですか。それともアン・ハサウェイ派? 最新作ではゾーイ・クラヴィッツも演じてましたよ。

やれやれだ。66年版のリー・メリウェザーを選択肢から外してる時点で答える価値すらない愚問といえる。これが俺の回答だ。

ではリー・メリウェザー派ということで?

ごめん違う。ミシェル・ファイファー派。

ミシェル・ファイファーが猫娘を演じた『バットマン リターンズ』(92年)。過去記事の『アメコミ映画十選』で堂々の1位を射止めてみせた。

そんなわけで長々と語って参りましたが、宴もたけなわですし、締めにかかりたいと思います。

どこが宴もたけなわやねん。
ずっ~とさざ波ひとつ立たへん凪トークしてただけや。

最後に本作の感想を頂いてもよろしいでしょうか。

ベロまで塗るん!!?
これに尽きる。

まあまあ、たしかに絵筆で白く塗ってましたけどね。ホアキンさん。
もうちょっとマシな感想ください。

マレー・フランクリン・ショー全然おもんない。
これにも尽きる。

尽きたようなので今日はここまで。
そろそろ終わりまショーカー。

あ~あ、言っちゃったよ。


(C)2019 Warner Bros. Ent. All Rights Reserved TM & (C) DC Comics