シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

すべてが変わった日

秋の夜長に見られたい大人の映画やよ。 ~だが真の中身とは? 読む者だけが知るヒャッハー三兄弟の恐怖! ケビン・コスナーは顔真っ青~

2020年。トーマス・ベズーチャ監督。ダイアン・レイン、ケビン・コスナー、レスリー・マンヴィル。

1963年、元保安官のジョージ・ブラックリッジと妻のマーガレットは、不慮の落馬事故により息子のジェームズを失ってしまう。3年後、未亡人として幼い息子のジミーを育てていた義理の娘のローナは再婚するが、相手のドニー・ウィボーイは暴力的な男だった。ドニーは、ローナとジミーを連れてノースダコタ州の実家に転居し、そのことを知ったマーガレットは義理の娘と孫を取り戻すことを決意する。しかし、ジョージとマーガレットを待ち受けていたのは、暴力と支配欲でウィボーイ一家を仕切る異様な女家長のブランシュだった。(映画.comより)


おーきにっ! ふかづめやで。
おれは思うわけよ。
人を殺すことも厭わない極悪人を通報しようとして結局そいつに殺される脇役ってなんなん? と。
映画でよくあるじゃん。悪党に脅された正義の老人とかが「この証拠が世に出れば、おまえは破滅だ! ぜんぶバラしてやる!」とかいって警察に通報しようとした途端、口封じのために殺されちゃうような場面。
そら、そうなるやろ。
悪党サイドからしたら「殺す」の一手やろ。そうしないと悪事が露見しちゃうんだから。
たとえその悪党が「殺すのはちょっと違うな~。できれば穏便に解決したいなー」と思ってても、「この証拠が世に出れば、おまえは破滅だ! ぜんぶバラしてやる!」とか言われたら、たとえ殺す気がなくとも殺すしかないやろ。そうしないと、こっちが詰んじゃうんだから。
こういうとき私は、正義の老人に対して「もっと言い方あったやろ…」と思ってしまう。
私が老人サイドだったら、どうかな…、たぶんこう言うかなぁ?
「やめて、やめて? 暴力とかやめて? ワシはキミの悪事をマスコミに暴露するという選択肢があるけど、そしたらキミはワシを抹殺するという選択肢を取るでしょ? それでワシは死んじゃう。でも、そしたらキミは余計に警察に捕まるリスクが高まる。これって逆ウィンウィンじゃん。だからここはひとつ、ワシはキミを売らない、キミはワシを殺さないっていう条約、結ぼうや。どない? キミの悪事を知ってるワシと、いつでもワシを殺せるキミ。共存できる道はこれしかないやああああん! 呑んでええ! この条件呑まんと相互ハッピーないやああああああああん」とね。
それでも結果的に私は殺されてしまうかもしれないけど、とはいえ「この証拠が世に出れば、おまえは破滅だ! ぜんぶバラしてやる!」よりは随分かしこいでしょ?
死確定コースのワシと、相互ハッピーを訴えた私。生存率の高さは明々白々のハクビシン。ありがと。
よろしく悪党!
どうもどうも!

~今日の一句~
『キングダム』を読んでない奴が言う
「実写映画版、意外と良かったよ!」
いちばん信用でけへん

そんなわけで本日は『すべてが変わった日』です。



◆大人の映画にしっぽり浸ろう◆

 「しっぽりと浸る、大人の映画」。
たとえばこのようなキャッチフレーズとともに深夜帯の10分番組で紹介されそうな本作は、トイレ後にろくに洗ってもいない手でポップコーンを貪りながらガチャガチャとしたブロックバスター映画を見ては「おもろ」と感想するも2週間後には内容を全部忘れてるようなバカどもの目には決して触れえない、ある種の神聖領域にて凛然と屹立する。
車や建物が大破したり手から不思議な光線を出すような映画ばかりがヒットする一方で、人と人の繋がりや心の機微を描いた映画は“まどろっこしいモノ”としてメジャーシーンから敬遠されて久しい浮世にあってさえ、こないだやってた『ショーシャンクの空に』(94年) の4Kデジタルリマスター版がそこそこヒットしていたことに心を落ち着かせながらも、やはり現代人の偏食ぶりはトサカに来る。

しっぽりと浸る、大人の映画!
たまにはそういうものを観て、感性とか…なんだろう、そういう何かを磨け。


 さて。『すべてが変わった日』は心地よくも品のあるショットに始まる。若い男が厩舎で馬を撫でているのだ!
この男は妻子持ちで、両親とともに三世帯ハウスで暮らしていたが、ある日馬に跨って「ハイヤー」とか言ってたら落馬して頭をしたたか打ちつけ死亡した。ハイヤーとかするから。
妻は悲しんだが、両親はさらに悲しんだ。その親役がケビン・コスナーダイアン・レイン。DCEUの『マン・オブ・スティール』(13年) 『バットマンvsスーパーマン ジャスティスの誕生』(17年)でスーパーマンの養親を演じた二人がまたも夫婦役。うれしいな。『ランブルフィッシュ』(83年)『アンタッチャブル』(87年)のような全盛期の作品を観て「ハイヤー」と興奮していた私にとっては実に喜ばしいキャスティングとしか言いようがない状況が巻き起こっているよな~。
今やコスナー67歳、レインは57歳のお誕生日を迎え、それぞれが滋味深い大人の映画でオールドファンの心に潤いをもたらしてもいるのだし!

ダイアン・レインとケビン・コスナー。

そんな熟年夫婦も息子であるハイヤーの死を受け入れ、その悲しみを埋めるように孫ボーイに愛情を注ぐ。
しかし2年後、義理の娘ケイリー・カーターが再婚。コスナーとレインは三世帯ハウスを出て行ったケイリーを寂寞の眼差しで見送ったが、正味その瞳は孫ボーイへと向けられていた。まあ、祖父母にとっちゃ当然だがな。
だがある日、買い物中のレインが街で偶然ケイリー夫妻を見かけ、そこで再婚相手のウィル・ブリテンがケイリーと孫ボーイをしばき回す現場を目撃してしまう。
レイン「なんて所業を再婚相手はするの!」

その数日後、ケイリーと孫ボーイはウィルの意向によりノースダコタ州の実家に転居。嫌な予感にぷるっと震えたレインは、夫のコスナーに二人がDVを受けていることを激白し、二人を(特に孫ボーイを)取り戻すべくウィルの実家を訪ねる作戦を展開!
コスナーが元保安官だったこともあり、レインは最悪の事態を想定してピストゥルを持っていきました。

大人の映画…?

熟年夫婦による孫奪還ロードムービーが幕を開ける中盤で、人は思わず「そっちにハンドル切るん」と呟く。てっきりシワの数だけ名言が出るような苦み走ったシニア向けヒューマンドラマかと思いきや…わりに物騒。
チャカ持ってDV夫の実家に突撃する映画でしたわ。
いやいや。とはいえ人間関係のいざこざを描いたビターサスペンスなのかもしれない、と私は私に言い聞かせる。ピストゥルがなにさ。DV夫と対面する危険性から一応持って行っただけで、べつに撃つとは限らないじゃん。そもそも本作は息子を失った老夫婦の話なのだし、罷り間違ってもハードアクションとかするはずないじゃん。
しっぽりと浸る大人の映画に違いなんじゃん!


さて、ウィルの実家はノースダコタの辺境のさらに隅っちょにあった。
この家はレスリー・マンヴィル演じる女家長が支配しており、ウィルを含むヒャッハー3兄弟がその下で野蛮な暮らしを送っていた。ケイリーは奴隷のように扱われ、孫ボーイはヒャッハー色に染められつつあったのだ!
そんなヒャッハウスを訪問したレインは、人を馬鹿にするようなレスリー家の非礼な振舞いに怒りを覚えたが、コスナーの「おさえろ」というアイコンタクトに従い一時撤退する。翌日ケイリーと話をつけた二人は夜逃げ作戦を提案。夜中にモーテルで落ち合って三世帯ハウスに帰る手筈だったが、そこに現れたのは三兄弟を従えたレスリーだった!
「あばばばば! ケイリーと孫ボーイは私のモンだよ! 誰にも奪えやしないのさ!」
なんやこいつ…。
身の危険を感じたコスナーは咄嗟にピストゥルを突きつけたが、あっちゅう間に奪われ、三兄弟にゲボ吐くほど腹パンされた挙句、手斧で指を切断されてしまう(5本中4本も)。
レイン「きゃあああ! なんてことおおお!」
泣き叫ぶレイン! 嘲笑うヒャッハー!
コスナーは顔真っ青。
むちゃむちゃ顔真っ青。


悪夢の晩餐会。

さらぬだに、地元警察は「先に銃を抜いたのはおたくでしょう」と取り付く島もない。絶望するあまり「自分が逸ったせいで夫の指が5本中4本も…」と自己嫌悪に陥るレイン。コスナーは依然顔真っ青。なんせ1本。4本飛んで指1本。顔真っ青。
数週間が経ち、ギリいけるみたいな体調まで回復したコスナーの顔にもようやく血の気が戻った。あんだけ真っ青やったのに。
何かを決意したコスナーは、夜中に布団を抜け出し単身ヒャッハウスへと向かう。最後の大仕事をこなすため。レインに孫を抱かすため。ついでにケイリーも救うため…。

いま始まる、真夜中の狩り!

ヒャッハーVS片腕保安官!
指と孫返せ! 荒野の果ては地獄の一丁目!
後部座席に積んだショットガンで悪に立ち向かう還暦英雄譚『すべてが変わった日』!

どこが大人の映画やねん。

もぉ~~~~~~~~~~~~~~~~~。
「しっぽりと浸る大人の映画」はぁ~~?



◆芝居を語るとき、みんな目力、目力と言うけれど、“目力”なんて存在しねえっつーの

はい、そんなわけで本作…
西部劇やったわ。
なかんずくイーストウッド。
イーストウッドの代表作『夕陽のガンマン』(65年) 『許されざる者』(92年) などに通底する一回死んで甦る話ね。リンチされて大怪我(聖痕)を負ったあとに全快(復活)して復讐する…というアンチキリストのような説話的主題を引き継いだ作品となっており、物語の舞台も1960年代のアメリカ北部。またレインたちに協力する先住民の青年や、馬のモチーフも頻繁に出てきます(レインはかつて馬の調教師としてヒヒンヒヒン言わせていた経歴あり)。
老夫婦が孫を取り戻すべく云々…というメインストーリーは体のいい方便で、実際は「イーストウッドやりたくてたまんなーい」というフィルム的性欲から作られた純西部劇でした~。
丁度ジェレミー・レナー主演の『ウインド・リバー』(17年) がジョン・ウェインをやったようにな。


乗馬を楽しむダイアン・レインちゃん。

とはいえ決闘や復讐ばかりに主眼を置かないあたりが本作の妙味。どちらかといえば私はレインとコスナーの熟年夫婦物語として楽しみましたョ。
レインの軽口に対してコスナーが寡黙にもにっこり笑ってみたり、その昔コスナーがレインの愛馬を病苦から救ってやるために一思いに射殺したりと、短いながらも様々なエピソードを通じて幾星霜もの夫婦の歩みが脳内に立ち上がってくるわけですよ。だからこそ、レスリー家と対峙した際の“状況を察して目で話す”といった言外のコミュニケーションを観客が共有できる。二人にしか受信できないチャンネルに観客が招かれ、言葉なき瞳の交感を一言一句違えず解し、それに伴って一層サスペンスが盛り上がる…というカラクリ。
ちなみに視線劇に大事なのは鋭いカットによって瞳を結ぶ編集技術だけれども、こと被写体に関していえば“役者の目力”…と思いがちだが、実は“目力”なんてものは存在せず、もっぱらその“相貌”によってのみ視線劇は成立している。
その点、ダイアン・レインとケビン・コスナーは貌がいい。昔から貌だけはいい役者として、ほとんどそれだけを武器に役者たりえてきた役者でしょ。とびきり美人というわけでもないダイアン・レインと、とくべつ表情が豊かでもないケビン・コスナーがなぜ40年以上もスクリーンを輝かしえたのか、考えてみるがいい!
考えても分からなければ、この映画を観ることだ。
多分もっと分からなくなるだろう。


他方、レスリー率いるキチガイ一家。
凄まじいインパクトなのは言うに及ばず、観客が想定していた物語類型を覆すとっておきの不意打ちとして存在それ自体がギミックになっている。
『悪魔のいけにえ』(74年) っていうか…
ジョー・ペシ感?
どこにぶち切れトリガーがあるのか分からん怖さと、何かあったらすぐ手を出してきそうな怖さ。…そんなスリルが不断にスクリーンをヒリつかせているゥー!
ジョー・ペシが4人に分裂したような悪魔的一家。是非そのスリルを体験されたいよねぇ。

ヒャッハー兄弟を束ねる女家長レスリー・マンヴィル。

もっと色々語りたいことはあるけれど、疲れてきたからそろそろやめるわ。
それにしても『すべてが変わった日』とかいう何か言ってるようで何も言ってねえゴミ邦題、漠然とし過ぎててドコのダレのナニに刺さると思って付けたのでしょうね。
映画、売る気あんのか?
おん、コラ?(ジョー・ペシ感)

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